第13話 勝正④-1

 南篠勝正と書かれた名札を下げて、ロッカールームを出る。

 時間は午後十時、健康的な生活をしている人ならベットに入っている時間だ。

 この時間に出勤するのは介護職なら珍しくない。二十四時間運営しているこの施設の労働形態はシフト制。早番、中番、遅番の三交替で、今日が遅番というだけだ。

 遅番の仕事量はそこまで多くなくて、書類作業がメイン。緊急時以外で利用者さんと関わることが無いから気は楽なのだけども、睡魔との戦いが遅番には付き物だった。



 職員室に入り、自分の机に座って今日やらなければならない書類と、後回しにしても大丈夫だと判断した書類に分ける。整理が終わったと同時に、通勤中に買ったエナジードリンクのプルトップを開けた。

 炭酸はあまり好きじゃないけれど、睡魔と戦うにはうってつけだ。

 僕は雄太の事を引きずりながらも、日常へと戻りつつあった。



 立花さんとは雄太、彼女の妹の死について話して以降、同じシフトの日にはその時使った喫茶店でコーヒーを飲むようになった。

 雄太のことを話すことも多かったけど、仕事のグチや学生時代の話、つまるところ雑談がメイン。

 思い返しても有意義な時間とはとても言えない。だけども立花さんとコーヒーを飲みながら他愛もない話をするだけで、少しづつ心の穴が埋まって行くような気がしていた。



 隣の机とのしきりに貼ってあるシフト表を見て、次いつ立花さんと会えるかを確認する。

 何度か繰り返した行為なので、次会えるのは三日後だと分かっているのだけれど、それでも確認せずにはいられなかった。

 エナジードリンクの後味が無くなった所で、書類作業に入る。

 緊急事態、つまり利用者さんからのコールさえ無ければ遅番はそう辛くない。あまり大きな声では言えないが、スマホゲームだって出来る。なんせ一棟に一人しか、職員が居ないのだから。



 三時間くらい経っただろうか、今日の最低限のノルマを終わらせたあたりでコールが鳴る。だけどそれは隣の棟でのコールだった、もしもの為に、別の棟にも聞こえる様にしてあるのだ。

 場所は立花さんが担当している棟。今日は早番で普通出勤のハズだから、このコールに対応するのは別の職員だろう。



 多分、コールをしたのは塩崎さん。塩崎さんには元々痴呆の傾向があったのだけれど、ここ最近になって悪化してきている。

 立花さんからも、この人のセクハラがエスカレートしてきていると聞いたし、何より棟を超えての問題ジジイとして、職員内では有名になっていた。

 僕の棟は幸いにも、問題のある利用者さんは居ない。だからこそ、雄太が死んだ今でも、僕はこの仕事を続けていられているんだろう。



 ――僕は塩崎さんや、他の問題の多い利用者さんに、介護職としてあるまじき考えをする様になっていた。

 誰にも言えない、僕の心に封印して、風化させなければならない考え。

 それが何かのキッカケで爆発しまったことを考える度に、慌てて頭を振る。

 コールが鳴り続ける深夜、暖房で温くなったエナジードリンクを飲み干し、僕は作業に戻った。



「おはようございます、南篠さん」

 陽が顔を出し、利用者さん達が朝食を済ませた所で、立花さんが声をかけて来た。

「おはよう」と言って、何を話そうか少し考える。睡魔も限界で、このまま「じゃあ」と言ってロッカールームに入っていくのは簡単だ。けど彼女ともう少しだけ話をしたかった。例えそれが仕事の話であったとしても。



「今日の夜、立花さんの棟でコールが鳴ってたよ、結構長い間鳴ってた」

 もっともらしい内容だ、そもそも利用者さん達が居る手前で、世間話をするのはマズい。

 立花さんは顔を渋る。

「あぁ、多分塩崎さんですね。今度息子さんと面会をする予定なんです、話次第では……」

 彼女は僕を手招きし小声で、

「別の施設へ移動、になるかもしれません」



 言う彼女の声色は、少なくとも負の感情は乗っていなかった。むしろ、厄介払いが出来るかもしれないと、喜んでいる気さえする。

「まぁ、しょうがないね」

 適当な相槌で返す。彼女が塩崎さんからセクハラを受けている場面を見たこともあるし、昨日のコールといい、塩崎さんが職員にとって厄介な存在だと言うのは明白だったから、彼女の気持ちを僕は否定しない。



 第一、僕自身にとって塩崎さんが居なくなるかもしれないのは朗報だった。

 塩崎さんが一番僕の感情、考えを爆発させる存在だ。居なくなってくれた方が都合がいい。

 立花さんは僕の相槌の後、何も話してこなかった、何か話したいことが有る様な素振りだったけど、利用者さん達の目を気にしているんだろう。耳は聞こえなくても話している姿は見えるのだから、サボリの噂はスグに広まってしまう。

 まぁ余程の話したい事ならラインを使えば良いし、僕の睡魔も限界だった。



「じゃあ僕はこれで上がるよ、また明後日、かな」

 彼女は明日も出勤だけど、僕は休みだ。用事もある、雄太の親友だった賢治君がムラサキについて調べていて、それの情報収集だ。

 以前幼稚園に行って調べた名前の人も来るらしい。

 僕は雄太の言い間違えだと思っているのだけれど、賢治君はそうは思っていない。

 あと驚いたのが、無言無実行主義のコウが率先してムラサキについて調べている事だ。



 止めようかとも思ったけど、コウが能動的なのが珍しく、気のすむまでムラサキを調べさせている。

 立花さんはまだ何かを言いたそうだったけど、僕の眠気がピークに達している事に気付いたのか、

「はい、お疲れさまです!」

 えくぼの目立つ笑顔をして、手を振ってくれる。

 立花さんに見送られた後、自販機で眠気覚まし用のブラックコーヒーを買って車に乗った。



 昨日は文字通り、丸一日寝ていた。もともと夜勤が苦手なので、シフト的には殆ど入っていないのだけれど、入っていない分、夜勤はキツい。

 毎回仕事自体は楽と言いつつも、翌日を丸々潰す自分にはため息が出る。

 結局昨日の大半は睡眠で消費してしまい、起きた時間も日が変わる間近だったので、スマホゲームをして適当に時間を潰しただけだ。



 貴重な一日の休みを無駄にしてしまったことへの罪悪感が僕を襲う。実質二連休なのがせめてもの救いだけど、残りの休日も有意義とは行かないだろう。

 ムラサキの正体を突き止める、なんてのが有意義なのかと聞かれると、僕は首を横に振りたくなる。

 でももしかしたら、賢治君とコウにとっては、雄太の死を乗り越える為の大切な行為なのかもしれない。

 いつもの流れでコーヒーを淹れ、ミルクチョコレートと一緒に飲む。時間は七時、集合時間までにはかなり余裕があった。



 スマホゲームで暇を潰そうと思ったけど、昨日散々やったし、熱心にこの手のゲームをするタイプじゃない。二度寝も昨日の長時間睡眠と、今飲んでいるコーヒーによるカフェインが邪魔をするだろう。

 結局何も思い浮ばず、一足先に集合場所近くまで行って時間を潰そうと決め車の中に入った所で、

「やば」

 そう声に出した。



 目線の先にあるのは、当たり前の様に助手席に置いてある書類。だけどそれは本来僕の机に置いてあるべきもので、今日出勤する上司が受け取る予定のモノだった。

 大きく溜め息を吐く。時間的には充分間に合うけど、休日に職場へ行くのは誰だっていやだ。

 でも、この書類を上司に渡さなかった後を考えると遥かに今から行く方がマシだ。

 そうだ、ついでに立花さんに缶コーヒーでも奢ってあげようか。きっと彼女はどれだけコーヒーが好きなんですか、とか言ってくるだろうけど、それも面白そうだ。



 僕は無理矢理職場へ行くことの楽しみを作り、本来向かうべきだった場所と反対の道へ、アクセルを踏んだ。

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