第6話 勝正③
お父さんは僕が小学生の頃、死んでしまった。
あの頃の雄太はまだ学校にも行ってなかったから、お父さんが死んだとき涙は流していなかった。
ただそれでも僕と母方の従兄、コウの前でお父さんが死んでしまったことを理解している言葉を言ってきたのは覚えている。
お父さんの血筋は心臓が小さくなりやすく、僕と雄太も心臓は普通の人よりも小さい。だけど日常生活には全く影響は無くて、この体質を意識した事は無かった。
でも、雄太はこれが原因でこの世から消えた。
雄太はストレスを溜めやすい性格だった。
優しい弟、だけど優しすぎて、雄太は自分に振りかかる不満や不幸を、体に溜め込む癖があった。
心のストレスは体にも現れる。解剖室での調査の結果、雄太の体内には大量の排泄物が溜まっていたらしい。
未だに僕も信じられないけど、その量は心臓を圧迫させるほど。
普通ならここまで来れば、苦痛に耐えかねて何かしらのアクションを起こしていたハズだと医者は言っていた。だけど雄太はギリギリまで溜め込んだ。そういう人間だった。
運が悪かった。悪すぎた。
雄太の溜め込んでしまいやすい性格、心臓に難のある血筋、唯一の同居人であるお母さんが眠っている早朝での異変。
どれか一つでも違っていれば、雄太が少しでも自分の痛みを、苦しみを他人に伝えようとする人間だったら。お父さんの血筋を受け継いでいなかったら。
――僕が一緒に住んでいれば。
僕の朝は早い、もし僕が一人暮らしの選択を取らないで、お母さんと雄太と一緒に住んでいたら。
葬儀が終わって数日、僕は悔いる事しかできていない。
このままどうしようもない後悔に対しての思いが消えるまで、時間の流れが止まった世界に逃げ出したかった。
だけどこの世界の時間が止まるなんて有り得なくて、抜け出す事は許されていない。
「おはようございます」
雄太が居なくなってから、初めての出勤。
すれ違う職員、利用者に対して挨拶をしていく。何人かに労いの言葉をかけられながらロッカールームに入り、1人になった所で深いため息を吐いた。
介護施設『うららか』が僕の職場だ。
中規模の介護施設だけど、この田舎では一番大きい介護施設。
二十四時間運営なので、出勤時間はバラバラ。当たり前に休日もランダム。労働基準法に引っかかりそうな事案も、僕が経験しただけで数多くあった。
だけど介護職の中では、それなりに待遇の良い職場ではある。他の現場で働いている人の話を聞いても、『うららか』はまだマシだと感じる。
ブラックに近いグレー企業って所だろうか。
介護用の服に着替えて、ロッカールームを出ると、
「あっ、おはようございます、南篠さん」
彼女は分厚いファイルを重そうに抱えて言った。名前は立花さん。
僕の同期で、それなりの交流をしている知人だ。
髪はミドルカットのボブで、身長は女性の中でも低い方。特徴的なのは、笑った時に浮かぶ大きなえくぼ。
いつも挨拶の時はその特徴が見えるのだけど、僕の事を気にしてか、表れることは無かった。
「おはよう、それ持つよ、どこまで運べばいいかな」
女の人が持つにはキツイ重量だと一目でわかる。
彼女は一回断る素振りをしたけど、僕がもう一度協力すると言うとえくぼを見せて、
「ありがとうございます! なら、C棟の職員室までお願いできますか?」
言って、彼女は体を僕に向けファイル達を見せた。
半分より少し多いくらいを手に取ろうとすると、彼女はまた遠慮する素振りをする。
「大丈夫ですよ! 少し持って貰えれば! あの、はい!」
少しオーバーなリアクションをするのも彼女の特徴だ。彼女は塞がっている両手を振れない代わりに、顔をぶんぶんと横に振る。
「僕も男なんだから、少しくらい見栄はらせてよっ……と」
僕は遠慮を聞き入れず、予定通りの量を抱えた。
彼女は僅かに不満げな表情をしたけど、すぐに表情を柔和に変え、
「ありがとうございます、えっと、お礼はするので、缶コーヒーとか」
そんなの構わないんだけど、立花さんはこういう時引いてくれない。
「ありがとう、覚えてたら奢って貰う」
「はい! コンビニとかの高いのでも大丈夫ですよ」
「はは……」
苦笑いで返す。小林市は結構な田舎だ。コンビニは『うららか』から車で十分以上、休憩時間なり一緒に帰ったりしない限りは自販機が限界だ。
C棟に着くと、入居者さんの一人に声をかけられた。
「おお、おお、おはようさん」
塩崎さん、軽度の痴呆症がある男の患者さんだ。
挨拶を返すのは立花さん。
「おはようございます、塩崎さん」
「おはようございます」
僕も続いて挨拶をするが、塩崎さんは僕を無視して立花さんだけを見ている。
まぁいつもの事だから、そこまで気にしてはいないのだけれど。
僕は軽く会釈をして、そのまま職員室へ行くつもりだった。立花さんも動き的にはそうだったと思う、でも。
「きゃっ」
塩崎さんがそれを阻んだ。
いや、塩崎さんがこんな可愛らしい悲鳴をあげたわけじゃない、声の主は立花さんだ。
でもこの声の原因は塩崎さん。
「おっと、すんませんなぁ、手が不自由なモンでして」
塩崎さんがグヒヒと下品な笑みをしながら言う。塩崎さんが、立花さんのお尻を触ったのだ。
塩崎さんはさも事故だったように振舞っているけども、僕の経験から言うと、間違いなくワザとだ。
塩崎さんはセクハラの常習犯で、いつも若い介護士にちょっかいをかけている。
立花さんはC棟の職員だから、塩崎さんの担当も経験があるはず、きっと今までもこんなセクハラを受けていたに違いない。
「はぁ……ちょっと塩崎さん、やめて下さいって言ってるじゃないですかー」
立花さんの呆れたような口調からも、僕の予想が当たっている事への裏付けだ。
「すまんの、ほれ、手が勝手にな?」
……。あんたは手の病気なんてかかえてないだろ。
「行こう、立花さん。では塩崎さん、また」
まだ話そうとする塩崎さんを無視し、無理矢理塩崎さんとの会話を断ち切る。僕はこの人が苦手だ。だから早く切り上げたかった。
それにしても、今日は特に塩崎さんのセクハラ行為が癇に障った。相手が立花さんだから? いや、違うと思う。特に彼女に対して恋愛的な感情は持ってないし、少なくとも現状は。
だったら何だろうな。
まぁ、色々あったから、うん、きっと単純に僕の虫の居所が悪かっただけだろう。
後ろから立花さんが小声で言う。
「南篠さん、もしかして、庇ってくれました?」
少し考える。
「どうだろ、そうかもしれない」
一応立花さんから見れば、僕の行動は塩崎さんから守ってくれたと映る。
実際は僕個人の感情から出た行動なんだけど、それを言ってもしょうがない。
「見た目通り優しいんですね」
「はは……」
僕は愛想笑いをして、その言葉から逃げた。
優しいという言葉を聞くと、どうしても雄太の存在が僕の頭に現れてしまうから。
数日後、初七日が終わって次の日、いつものように仕事を終わらせて、正面入り口から帰ろうとすると声を掛けられた。
「南篠さーん、今帰りですか?」
立花さんだ。あの日以降、何かと彼女とは会話をするようになった。もしかすると、僕、雄太に振りかかった不幸を案じてくれているのかもしれない。
「うん、定時……とまでは行かなかったけど、早く帰れる」
ここ数日、殆ど残業をしていない。結構大変な部署だけど他の職員が気を使ってくれて、早く帰らせてくれているんだ。
「B棟大変じゃないですか? 利用者さんの平均年齢一番高いですし、緊急案件多いんじゃないんです……あっ、これ中で言っちゃいけない話だったかもです?」
「はは、どうだろうね。ところで僕に用事があったんじゃないのかな? なにか問題とか?」
立花さんは手をモジモジと動かし、照れた様に斜め下を向きながら言った。
「あの、コンビニのコーヒー奢る約束してたじゃないですか、今日もし良ければと」
ああ、確かにそんな約束をしていた。大抵こういうのは口約束だと思ってたけど、立花さんは違うらしい。
「覚えてたんだ、えっと、じゃあ自販――」
「じゃなくて! コンビニです、コンビニ!」
気を利かして自販機にグレードダウンさせたのだけど、彼女はどうしてもコンビニのコーヒーを奢りたいらしい。
「わかったよ、じゃあ遠慮なく。一番近くのコンビニわかる?」
「はい、わかります! わかるんですけど、ちょっとですね、実はここ最近新しいコンビニが出来たらしくて、そこに行っても良いですか? ちょっと遠いですけど」
立花さんは声のトーンを上げて言った。
「へぇ、そうなんだ。セブン? ファミマ?」
「行ってからのお楽しみです」
コンビニの種類を楽しみに取っておくなんて、なんとも庶民的な楽しみである。
「わかった。道案内、よろしくね」
僕も新しいコンビニには興味があった、距離があると言っても、通勤途中で寄れるならあまり関係ない、出来ればセブンが良いな、小林全然セブン無いし。
二十分くらい、経っただろうか。
立花さんの赤い軽自動車の後を付いてしばらくが経った。
残念ながらコンビニが出来たらしい場所は、僕の通勤経路とはまったくの逆方向、まぁそこはしょうがない。
ただ問題は時間だ。立花さんが止まる素振りは一切見られない。このまま行くと、小林の街の方に着いてしまう。
というか立花さん。既に二件、コンビニを過ぎているのですが。
もしかして僕の存在を忘れて、自宅にただ向かっているだけなんじゃないだろうか。
エアコンの利いた温かい車内。だけど少し空気が悪い気がして、換気をする。
煙草を吸ったからとかじゃなくて、単純に空気が悪いんだ。
僕が煙草を吸う事は、生涯無いだろう。お父さんが死んだのは心臓が弱い体質だったからだけど、死ぬ前から肺癌が見つかっていたとお母さんから聞いている。
癌は遺伝でなりやすさが変わることは知っている。きっと僕も癌になりやすい体質だろうから、吸わない。
雄太も亡くなった今、僕まで死んでしまったらお母さんが可哀想すぎる。
それに安っぽい言葉だけど、雄太の分まで僕は生きなきゃいけないから。
換気をし終わってまた窓を閉めようとした所で、やっと立花さんの車が止まった。
「あれ?」
立花さんが車を停めた場所は、明らかにコンビじゃなかった。
おかしいな、立花さんは新しく出来たコンビニに行くと言っていたハズなのだけれど。
屋根と壁にはまばらにツタと苔が生えていて、日本では滅多に見ない煙突が備えられているレンガ造りの建物。
看板にはこう書かれてあった。
「喫茶店・スモウル」
うん、やっぱりコンビニじゃない。大体今のコンビニって統一感を重視してるから、こんな奇抜なコンビニをオープンさせるハズが無いんだ。
もしかして迷ったんだろうか。僕も車を停めて、先に建物の入り口へ向かった彼女に呼びかける。
「立花さん、ここコンビニじゃないよ」
「みたいですね」
立花さんは振り返らず言った。
って、みたいですねって……。
「さっきコンビニあったから、そこで良いよ、時間かけちゃ迷惑だし」
コーヒー程度で彼女の時間を奪ってしまうのは心が痛む。
僕は「じゃあ行こうか」と言って、車のオートロックを解除しようとした、のだけれど。
「折角ですし、ここのコーヒーでも飲みましょうよ! あ、もちろん私が払うので、はい!」
「え?」
「いやですね? 車も駐車しちゃいましたし、それにえっと……あ! あと何だか私、このお店気になってしまって!」
彼女は声を大きくして言う。立花さんはリアクションが大きいのだけれど、今回は特別だ。
お店の中にいる人達にも聞こえそうな音量で喋る立花さんを宥めるように僕は言った。
「でも悪いよそんな。喫茶店のコーヒーって五百円とかするし、時間だって――」
「あっ、ごめんなさい、用事あったんですか?」
「いや、そういうわけじゃないけど、立花さんの予定もあるだろうし」
「じゃあ入りましょう! 大丈夫です、私独り身で暇な時間持て余してるので!」
言うと、彼女は僕の返答を待たずに喫茶店の扉を開けた。
気のせいかなんだか流されてしまっているような気がする。いや、実際そうなんだろう。
でもまぁ、彼女の僕を引っ張ってくれるような行動が、雄太の死以降、すっかり意欲を無くしてしまった自分にとっては、心地よい気もした。
「はぁ」
やれやれと、溜め息を吐いて僕も店の中に入る。
「いらっしゃいませ」
気品のありそうな老齢の男性の声が、静かな店内で僅かに響く。
「お二人さまでしょうか、テーブル席も空いておりますので、どうぞお好きな場所に」
薄く温もりのある笑顔を浮かべて言う老人。多分店長、マスターだろうな。
「そうですね……あ、あそこ座りましょうか」
立花さんは周りに人が座っていない隅の空いているテーブルを指差して向かっていく。
僕も後ろから付いて行った。特に座りたい席は無いし。
注文はホットコーヒー二つとサンドウィッチ。コーヒーだけで良いと言ったのだけど、コーヒー単品だと五百円、サンドウィッチ有だと七百円で、実質サンドウィッチが二百円になるからと、言いくるめられた。
コーヒーが来るまで、適当にメニューを眺めていると立花さんが口を開ける。
「良いですね、ここ。コーヒー美味しかったらまた来ようかな」
周りを見回しながら言う立花さん。
「コーヒー好きなの?」
僕は自慢じゃないが、結構コーヒーには拘りがある。といっても缶コーヒーでも美味しいと思うし、安上がりな舌ではあるけど。
社会人になったばかりの頃、一人暮らしを始めたは良いものの、休日は天井を眺める時間が殆どだった。自分が無趣味な人間だと気付いた僕は、社会人っぽい趣味としてコーヒー通を選択したのだ。元々お母さんがコーヒーを好んでいて、僕も自然と日常的に飲んでいた。
「えっと、はい! 好きですよ、こういうお店に来たのは数回ですけど、眠っちゃいけない時とかよく飲みます」
「そうなんだ、じゃあドリップとかしたり?」
もしかしたら趣味の合う人を見つけたかもしれない。自然と体を前のめりにして立花さんに問う。
「いえ、そこまでは。それに朝飲むと、お腹痛くなっちゃうんですよね」
そうですか……。
「あっ! でもやってみたいなー! とは思いますよ!」
気を使わせてしまったらしく、立花さんは慌てて弁明する。よっぽど分かり易く、残念そうな顔を僕はしていたんだろうな。
僕の表情は顔に出るんだ、これが少しでも雄太にあれば、きっと今でも雄太は。
「――あの、大丈夫ですか?」
「ああ、ごめん、ちょっと考え事」
どうやらまた顔に出てしまっていた様だ。
この店のコーヒーはなかなか美味しかった。
オリジナルブレンドらしく、ここ最近では嫌われがちな酸味が利いたタイプ。だけど嫌な酸味じゃなくて、ちゃんとコーヒーの味として酸味が加わっており、新しい味だった。
また来ようかな、家からはちょっと遠いけど、街に行ったら寄ろう。
「コーヒーどうでした?」
「美味しいね、サンドウィッチも具が一杯入ってたし、パンも市販のじゃなさそうだった」
僕の顔が余程満足そうだったのか、彼女も笑い、エクボが浮かんだ。
「どうしました? 何かついてます?」
「いやなんでも、考え事」
その笑顔に、少しだけ心が動きそうになった。間近で見てみると、立花さんは特別容姿が優れているわけではない。けれど何所か安心感の様なモノを、見ているだけで感じられる愛嬌のある顔立ちだ。
いや待て何を考えているんだ僕は……。
気を紛らわせるために半分より更に少なくなったコーヒーを口に運ぶ。
「えっと、南篠さん、今機嫌良いですか?」
「良いと思う」
もちろん雄太の事が頭を離れる事はないけれど、それを除くと気分は良好だ。
「良かったです、あの、南篠さんあれからずっと元気が無かったですから」
あれから、というのは雄太が亡くなって仕事を休んでからだろう。ただ以前はそこまで彼女と交流が無かったので、そんな風に心配してくれていたのは意外だった。
ただ僕は彼女の心配に対して、何も言えなかった。同情して貰う為に、雄太の事を話すのは気が引けるし、話す程仲が良い訳でも無い。
「はは、まぁ、あんまり元気が無かったのは認めるよ」
だから僕は愛想笑いを交えてそつのない返事をした。
僕はこれで、この会話は終わると思っていた。
だけどそれは違って、
「弟さん、亡くなられたんですよね」
彼女の方は、終わらせるつもりはなかった様だ。
僕は怪訝な表情をしたと思う、顔に出るから。
「ごめん、わるいけどその話は」
僕は雄太の話を、よほど特別な人でない限り話したくなかった。そんな心の余裕が無かったんだ。
「わかってます、でも、話して下さい。きっと少しは楽になれますから」
一体何の考えで、彼女は僕のトラウマとも言える出来事を聞こうとしているのか。
意味がわからない。衝動的に席を立つ――。
「待って!」
立花さんが、立ち上がろうとする僕を手と声で引き留めた。
それなりに大きい声だったので、静かな音楽が流れているだけの喫茶店では、かなり目立ったに違いない。
僕は周りにすいませんとの意を込めて、頭を下げながら再び座る。
どうやら、彼女は僕を帰らせる気は無いようだ。
そうなると多分、もともとココに来る予定で僕を誘ったのだろう。
コンビニの話はウソで、僕とこの話をする時間が欲しかったのだ。
だけどどうして?
少しの沈黙が流れ、一組のカップルが店を出たのを機に、立花さんが口を開いた。
「ごめんなさい、大声出しちゃって。……そうですね、まず、私の話をしましょうか」
頭に疑問符を浮かべる僕を他所に、彼女は続ける。
「私、双子の妹が居たんです。私は楓で、立花楓。妹は立花椿。喧嘩もたくさんしましたが、仲の良い姉妹だと、学校や近所でも思われていたはずです」
温くなったコーヒーに口を付けながら、彼女の声に耳を傾ける。
「高校二年生の頃でした、丁度今の時期、冬休みですね。私の家族は東北が実家で、正月には毎年帰省していました。そして、帰省した際は必ずスキーをして遊ぶのが恒例だったんです」
話している内容の意図が全くわからない。露骨に首を傾げると、立花さんは「まぁ」と言って、
「最後まで聞いてください、そしたらわかります。……こほん、ある年いつものように私達はスキーをして遊んでいました。その日の雪は例年より少なくて、風はとても強かった」
彼女は口を一度止めて、僕の顔を見る。そして、少し息を吐いて、
「運が悪かったんです、本当に。妹と私は一緒にスキーをしていて、競争をしました。二人とも負けず嫌いで、かなりのスピードを出したと思います。私は夢中で滑って、妹との競争に勝ったんですけれど、後ろを向いても妹は居なかったんです」
僕は珍しく勘が冴え、口を出す。
「コースアウト、とか」
彼女は頷いた。
「はい、妹はもう、この世には居ません」
いやいやいや。
「立花さん、流石に作り話でしょ? スキーのコースアウトくらいで、人が死ぬはずが……スキー場の設営者だって、そんな危険な場所にコースを作るワケ無い」
でも、彼女の顔は崩れなかった。
「運が悪かったんです。妹はたまたま頭から落ちてしまって、たまたま雪が少なかったからコース外の地面がむき出しになっていて、たまたまスピードが出ていたから、勢いが付いて」
空になったコーヒーマグに思わず手をかける。
立花さんも辛くなったのか、話すのをやめてコーヒーを飲み切る。
彼女の話が本当ならば、立花さんは僕と似た様な経験をしたということだ。
だから僕が苦しんでいる現状に気付いて、話をしようとここに連れて来た。
立花さんは同じトラウマを抱えている僕を、助けてくれようとしてくれているんだ。
「そんなことがあったなんて、えっと、何て言えばいいのか……とりあえずコーヒー、おかわりする?」
このコーヒー代は僕が出そう、彼女の気持ちへのお礼だ。
立花さんは遠慮したけど、お構いなしに頼んだ。
「大丈夫、これは僕が奢るよ」
僕はマスターを呼び、コーヒーを頼む。
マスターは注文を聞き次第、足早に去って行く。気を利かせてくれているのだろうか。
「実は僕の弟、雄太も運が悪かった。もともと心臓が小さい家系だったんだけどね、お医者さんもまさかって具合に、一日で。ホントにちょっとの不運が重なってさ」
僕は言葉を出し続けた。一度口を止めると、また告別式の日みたいに泣いてしまう気がしたから。
「正直、今でも雄太が居るような気がするんだ。どこかで生きてるような、声が聞こえてくるような気がしてならない」
いや、理解はしてる。雄太の死はあの日、告別式で認めた。そして思いっきり泣いた。
鼻で大きなため息を吐く。
「僕は思うんだ。もし僕が一人暮らしをせず、あのまま家族と暮らして居たらってずっと考えてる、僕があの場所に居たら、雄太は生きてたかもしれない、いや、間違いなく救えてたって」
自然と声に熱が籠もる。場所を構わず次第にエスカレートしていく自分の感情を、またも良いタイミングでコーヒーを持ってきたマスターの存在で治める。
「ありがとうございます」
「いえいえ、どうぞ、ごゆっくり」
粛々と礼をしてカウンターに戻っていくマスター、また来なければ。
「落ち着きました?」
「うん、ありがとう、気を使ってくれて」
彼女が笑い、エクボも浮かんだ。
彼女はアツアツのコーヒーに、据え置きの角砂糖を三個入れふーと息を吐き、
「あの、さっきのお話で少し気になった部分があったんですけど、言っても良いですか?」
僕は頷く。
「では……こほん。南篠さん、自分のせいで雄太君が亡くなったって、そう思ってませんか?」
彼女の質問に、僕はすぐに答えられなかった。もし僕が雄太のそばにいたなら、と後悔している部分はある。だけどそれが自責なのか、僕にはわからなかった。
「どうだろう、自分じゃわからないや、でもそうじゃない、とは言えない」
奥にある窓を見ると、日は完全に暮れていた。時計を見る、いい時間だ。
でも、僕は帰りたくなかった。
彼女は少し笑って、
「大丈夫です、自分じゃわからない事ですから。私の話に戻りますけど、私と競争してる最中の事故って言いましたよね。南篠さんと同じように、私も自分が競争しようなんて言わなければって、思ってました。他にも、私の行動が違えば妹は死ぬことは無かったって」
「そんなことないよ、しょうがない。どうしようもない事だって――あ」
僕ははっとした。
「そうなんです、しょうがない、どうしようも無いんです。時間が戻るなら別ですけど、残念ながら私達が生きてるウチは、夢物語でしょうし」
でも。
「わかってる、わかってるんだ。だけど何か自分の責任、自分にできた事を考える事を止められないんだ」
しょうがない、それで割り切れればどれだけ楽な事か。だけど無理だ、弟の死。あまりにも大きすぎる惨事。
「立花さんはどうだったの。妹さんの死を、どうやって乗り越えられた?」
立ち入った質問をしたことにちょっとだけ後悔する。下手したら彼女を傷付けてしまう言葉。
だけど彼女の表情は変わらなくて、僅かにエクボを浮かばせていた。
「私は時間が解決してくれました。一年くらい経って、前を向いて生きていけるようになりました。それが駄目な事なのかもって最初は思っていましたけど、それも無くなって」
彼女の口角が、大きく上がった。
「今では妹の死は、私の力になっています」
「……」
呆気にとられるってこういう事を言うんだろうな。
力になる? 人の死が?
とてもじゃないが、僕にはそうは思えない。むしろ僕にとって、雄太の死は鎖。僕の足に突如繋がれた、一生外れる事のない枷。
「立花さんは凄いね、僕はとてもじゃないけど、肉親の死を力には変えられないよ」
彼女は依然として余裕を保って、
「大丈夫です、きっと時間が解決してくれますよ。ゆっくり、前を向いていければ良い」
彼女は笑う。
僕もいつか、彼女のように笑うことが出来るようになるんだろうか。
「なるべく早い方がいいな」
「お手伝いしますよ、私に妹が居た事、滅多に話さないんですから。だからもう只の仕事仲間じゃありません」
それは立花さんにとって、僕が特別な存在になった、という意味なんだろうか。
「ありがとう立花さん。また何かあったら、よろしくね」
少しだけ、自分の口角を上げた。作り笑いだけど、笑いたかったから。
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