第3話
止めた鉛筆の芯の先を見つめているようで、息を殺しているようにも見えた。
それが、言葉と共にまた動き出す。
「ただ描きてえもの探すのに理由とかいるのかよ。描きてえから描いてんのによ」
サリサリと乾いた音が静やかに流れる。
その音のように彼が返した答えには、ぶれがなかった。
「……。でもそれで描いて、進みます?」
「……」
「わたしは絵のことはよく知らないですけど、いくら描きたいから描いてるって言っても、それで先に進めないなら、意味ないじゃないですか。他の描きたいものが、いつまでも描けなくなりません?」
男の人は口を利かない。
わたしが話している間も、ずっと鉛筆の先を紙に擦らせ、一心不乱に丸と向き合っている。
いや、勝手にわたしが話し始めたことだ。
だから、蔑ろにされたと言うのは間違っているのかもしれないし、それで腹を立てるのはおかしいかもしれない。
けどわたしはその時、なかなか帰ってこない返答に、確かにいらついていた。
……もう、いい。
いくらかの沈黙の時が経った頃、わたしは痺れを切らせて、わざと側の椅子をがたつかせて腰を落とした。
教材が入ったかばんも、チャックの開閉音を控えめにすることなく荒く開けたし、おにぎりを包んでいたラップもなるべくうるさく開いた。
そして、飲み物が入った水筒もガツンと置こうとして――そこでふと勢いを弱めた。
なんだか急に、自分がしていることが子どもじみていて、恥ずかしく思えてきたからだった。
そっと水筒をテーブルに下ろして、わたしは男の人をちらりと盗み見る。
彼は変わらず、絵と対峙していた。
それを見た僅か一瞬の内に、ぐるんと頭が回るような感覚に自分が包まれて。
それの正体が、凄まじい静寂だということに気がつくと同時に、わたしが今の今まで、音の中で孤立していたことを思い知らされた。
それほどまでの静けさ。
蒸すような暑さの中で、わたしはその大きさに途方に暮れた。
蝉が一匹、この部屋の近くにとまったらしい。
けたたましい鳴き声が、じわじわと聞こえ始める。
わたしの目線は、男の人に向けたまま。
何故かわたしは、彼を見るとも無しに見ていた。
「そのくらいがちょうどいいよな」
唐突に、彼が口を利いた。
まるで今まで会話をしていたかのような出だしだったものだから、わたしの反応も遅れて、返した言葉も言葉にならず、ただの意味を成さない声になってしまった。
けど彼は言う。
「一時だけ、うるせえのがいい。静かすぎるのは気が滅入るし、だからって四六時中だれかがうごめいてる音がするのも好かねえんだよな、俺」
その調子で静かにしていてくれ、と言われているのか、それともわたしの恥を悟ってフォローしてくれているのか。
わたしにはもう解らない。
首を捻っていると、彼は相変わらず一瞥をくれないまま、こう続けた。
「人ってなんかごみごみしてんだろ? 群れる事自体は別に、俺もするから文句はねえけど、それのせいで目的見失なって、軸足ぶれたまんま歩いてるの見てると、それは好きじゃねえんだよ。見た目にもそれが目についてくるし、そうなると声や発言にも滲んでくる。だから、この時期はここでカンヅメしてるわけなんだな」
「お兄さんは」
言いかけて、言葉を少し止める。
いい加減なことを今、言ってはいけない気がしたのかもしれない。
「他人が嫌いなんですか?」
「……覚束ねえ人が嫌い。あとは好き」
「基準は?」
「さっき進む進まないの話してただろ」
聞かれて、ちょっとだけ複雑な気持ちになって頷いた。
「自分がないのに、ただせかせかしてるだけの人って、嫌じゃねえ? 頼りもねえし、それで勝手にこけて泣かれてもシラケねえか?」
「まあ、はい」
「解りづらいか。クラスの奴と比べてみろよ。自分でもいい。誰かと合わせようとして、合わなくて、それでも笑ってまだ合わせようとしてる。誰かと一緒にいることって、そういうことかもしれねえけど、そういうことじゃねえよ。俺は、自分のペースも出して初めて成り立つし、決めた軸を流されながらでもしっかり留めるのが『自分がある』って事だと思うし、見苦しくもない、煩くもない群れだと思ってる」
そこで一呼吸おいて、
「進む進まないも似たようなもんで、それよりも先に何が残るかが俺には大事。何かが残るっていうのは、それだけ自分が留まることができたってわけだろ」
その言葉に、ぐさりと胸が痛んだ気がした。
「そうですね」
自分の心の中で、足と手が生えてばたつく。
それを押さえながら、わたしは少しだけ彼の画用紙を覗くそぶりをした。
「そういえば、お兄さんその絵はどのくらい前から描いてるんですか?」
「あ? ああ、夏休み入ってから。部活の課題なんだよ。婆ちゃん家がここで、毎年ここで描いてる。外は、うるせえから」
「じゃあ期限が……」
「まあな。けど、いくらなんでも期限は守るよ、俺」
それに少し、二人して笑う。
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