第2話 

 開けなきゃよかった。

 一瞬頭を掠めた思いを、うう、と呻きながら押し込め、引き戸にさらに力を掛けて、開き切る。

 あとは窓を全開にして風通しを良くして……そうそう。

 誰もいないんだから、今の内に扇風機の前に陣取って食べ物を詰めるだけ詰めればいい。


「そこ閉めろよ」


 そんな計画を汗だくになりながら立てていたのは、開き切った後のほんの数秒。

 その数秒後に、室内から地を這うような低い声にそう言い放たれた。

 おどろおどろしさすら感じられるそれに飛び上がって、勢いよく私は部屋の隅に視線を走らせた。

 するとどうだろう。

 備え付けのカーテンすら引いていないガラス窓の側に、わたしと差ほど歳が変わらないような男の人が、パイプ椅子を一つ置いて、こちらを半ば睨みつけるようにして凝視していた。


「閉めろって」


 もう一度繰り返されて、ようやくわたしは自分が彼を見つめたまま硬直していたことに気がついた。

 弾けるようにその手を後ろ手に動かして、閉める。

 その重くがたついた音に、閉め方が悪かったんだろう。黒板を引っ掻いた時のようなキイキイした音が混ざって、一瞬だけ男の人が眉を寄せた。

 閉め終わる寸前にそれに気づいてぎくりとしてしまったけど、いざ最後の軽い音が立つと、彼は何も言わないまま、そして、何事もなかったかのように、飲食スペースのテーブルに突っ伏す体勢で書き物を始めた。

 鉛筆が紙を滑る音が、こちらまで聞こえる。

 彼の静かな息遣いも、微かだけど耳に届いていた。

 なんとも、重たい沈黙だった。


「……窓」


 意を決して一言、喉をからからにしながら口にしてみると、鉛筆の芯のさらさら動く音が、ぴたりと止まった。


「開けない、んですか? 反対側も」


 この飲食スペースには、彼が腰掛けている側とは反対の方にも、小さな窓があった。

 そこを開ければ、今のように空気も停滞しない。

 熱による圧迫感も少しは薄れるはずだった。

 けれど、彼は出入口の引き戸を開くどころか、対の窓も開けず、更には彼の目の前にある大きな扇風機はコンセントを差し込むことすらしていなかった。

 そして、本人は滲む汗を首から掛けたタオルに軽く吸わせるきりで、涼もうとはしない。

 全く理解ができなかった。


「暑くないですか?」

「アチイよ」


 そんな気持ちを隠さずに言葉にして問うと、すっぱりと彼はそう答えた。

 その声音に、わたしは思わずかちんときた。

 暑さから気が短くなっていたのかもしれないけど、彼のその明らかな嘲りぶりに、腹が立ったのだ。


「じゃあ、開けましょうよ。そこ」

「無理」

「どうしてですか」

「うるせえんだよ。そこも開けると」

「は?」


 うるさいって、何が?

 聞く前に彼は、面倒臭そうに今の今まで向き合っていた紙を、わたしに見えるように広げてくれた。

 その紙は、B5サイズ程の画用紙だった。

 そしてその一面に描かれたもの。


「なんですかそれ」


 それが全く、わたしには理解できなかった。

 だって、丸しかない。

 それぞれに形も大きさも、個々の範囲も違うけれど、いびつな丸が十数と描かれている。

 それだけ。

 椅子なら椅子、車なら車でそれらしい形があってもいいものだけど、それすらない。

 背景らしきものも存在しているのかいないのかも、見た感じでは確認ができないし、丸の中に違う形の丸が描かれているものもあるけど、それが何を意味するのかもわたしには分からなかった。


「絵」


 彼はぶすっとした語調で吐き捨てた。


「こいつを描くのに、あっちこっちから音がしたら邪魔だから」

「それ、なんの絵なんですか?」

「知らない」

「……」


 埒が、あかない。

 それよりもなんだろう、面倒臭い。

 わたしは自ずと口から出そうになったため息を、すんでのところで漏らすのを止めた。

 そして苛立ちを込めて、じゃあ、と言葉を吐く。


「なんで描いてるんですか」


 彼はしばらく、答えなかった。



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