蝉時雨

小宮雪末

第1話 ある夏の日

 ある夏の日の事である。

 中学二年生だったわたしは、受験に向けて勉強に勤しんでいた。

 勤しんでいた、と言っても、まだその時のわたしには受験を迎えるにあたっての心構えだとか、焦りだとかが、全くもって存在しておらず、学校から渡された受験対策のテキストを、ただただ事務的に片付けるような、なんとも危機感に欠ける勉強をしていた。


 頭の中には長い夏休みを、いかに長く楽しむか。

 そのことしかない。

 夏休みを目前にしたその日も、テキストの学習範囲を早く教えて貰えていたのをいいことに、休日を利用して着々と宿題を消化していた。


 ……地元の小さな、図書館で。

 家だと親の目がなにかとうるさくて、集中ができない。

 万が一この適当極まりない作業が見つかってしまったら、何を言われるかも分からない。

 そんな、理由からだった。


「うわあ……」


 けどわたしは、今この瞬間だけ、己の行動を後悔した。

 ドが付く田舎の小さな図書館。

 そこは全館、年中冷暖房が完備されていて、夏場は親の目からも太陽の日差しからも守ってくれる、言わばオアシスのような存在だった。

 だけどどうだろう。

 正午過ぎ。

 ひんやりと涼しい学習室と廊下を通って、館内で唯一飲食ができる憩いの部屋のドアには、来館者の名簿の裏紙のようなもので、『クーラー故障中』と一言、無造作にマジックで書かれ、貼られていたのだ。


「うちも年期が入ってるから」


 もうすっかり顔なじみになってしまった図書館のおじさんが、管理人室からひょっこりと、その仏頂面を突き出してきた。


「クーラーが熱を吹きはじめた。買い換えにはしばらく時間がかかるから、扇風機とうちわで我慢だな」


 言いながらスリッパをパスンパスン鳴らして近寄ってくると、おじさんは無表情で顔二つ分はあるうちわをわたしに握らせる。

 しわしわで、日焼けした細い手からそれを呆然とわたしが受け取ると、退屈さからくる疲れを吐き出した時のような、億劫なため息をつき、またスリッパを鳴らして去って行った。


「……無理」


 音を立てて閉められた、管理人室の引き戸をしばらく見つめて、わたしは思わずぼやいた。

 天気予報でも言っていた。

 今日は猛暑日。40度前後。

 それこそ地獄に飛び込んだかのような思いで、ひーひー言いながらここまで来たというのに、扉が閉め切られたこの部屋の中だなんて……。

 想像するだけで空気が火を噴いたような気がした。


 けど、家に戻るとなると、時間も体力も削れる。

 削れた分で課題もなにも片付く。

 その分早く帰ることも出来る。

 考えた末、わたしは引き戸に手を掛けることにした。

 急いで食べよう。

 どうせおにぎりと飲み物だけだし、詰め込んだらそんなに時間もかからない。

 地獄を味わうのも少しで済むのだ。

 そう、言い聞かせて。


 ゴトリと鳴って、途中突っ掛かりながら引き戸は開いた。

 途端倉庫のような篭ったにおいと、むわりとした熱気が廊下になだれ込んで、わたしの足を、体を一瞬で包み込む。

 冷えに慣れたわたしの体はそれだけでぶわりと汗が湧き、掛けた手に後悔した。



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