第5話Beautiful
少女は、自慢げに、そして、私に対して、頼りなさそうな表情を浮かべていた。
「デートしよっ」
2002年 7月13日
重い。雑誌が大量に入った紙袋両手に、引き戸の前に立つ。一旦、紙袋を床に置き、引き戸を開けた。
癌を患っている女子高生である。彼女はいつも、自分というものを疑っていた。
少女は、窓の向こうを見つめていた。光が、病室に照り付ける。その光景は、まるで、空から舞い降りてきた女神のようであった。
「悠里ちゃん、元気?」
彼女は、不機嫌そうな顔をする。
「元気な訳ないじゃん。そっちはいいよね。健康で。」
彼女は、華奢な上体を起こした。ニット帽のポンポンが左右に揺れる。彼女は、白く綺麗な指をまっすぐに本棚の方向へと差した。幾つもの雑誌が並んだ本棚であった。本棚には、2カ月前のものから、最新のものまである。全て私が入れ替えているのだ。
「また、新しいの入れといて。」
私は、一番下の、古い雑誌を取り出し、新品の雑誌と入れ替える。古い雑誌には、沢山の折り目がついていた。それを開くと、来栖由香里というモデルのページが真っ先に出てくる。一番深い折り目がついていた。悠里と同様、同い年で、長身のモデルであった。
「じゃ、もう帰っていいよ。」
「まだ、いたいなー。」
私は、病室のソファーに座り、くつろぎながら言うと、彼女は煙たそうな表情を重ねる。
「彼氏じゃあるまいし、そんな居座らないでよ。もしかして私のこと好きなの?」
冷やかすような表情で、目を細めながら、彼女は放つ。私に、そのような気は一切ないのに。年頃の女子は全く、といいたいものだ。しかしながら、恋愛感情はないものの、守りたいという感情は確かに存在する。そして、私も流れに沿ってからかってみる。
「好きだよ。君を守りたい。」
彼女は、面食らった顔をする。私から、遠ざけていき、窓際まで寄る。
「本気で言ってる....?とても気持ち悪いです。」
「半分本気、半分冗談ってところかな。君の辛い気持ちもわかるから、君
の力になりたいと思うよ。」
反応しずらい、返答だなあ。はっきりしない。なんか、むずむずする。」
少しの間、沈黙が続くと、彼女は壁に置いていた背中を離し、先ほどまでの位置に戻る。
「学校楽しい?なんか、面白い授業とか、ある?」
「面白い授業ねぇ。俺、勉強はあまり得意じゃないからさ、あまり勉強は楽しめないんだけど。そうだなあ。昨日、英語の時間、外国人の先生が初めて来たんだ。最初は、英語の先生も、応対できていたんだけど、途中から、会話がぎくしゃくしてて、授業が混乱したんだよ。そうしたら、帰国子女の生徒が、外国人の人と応対して、一件落着したのだけれど、英語の先生が、恥ずかしくなって、顔真っ赤にしたんだ。面白かったよ。」
「ELTってやつ?そっか。そんなことがあったのね。その英語の先生って、かわいい?きれい?」
彼女のかわいらしい、子猫のような純粋な目を見ると、思わず笑みを浮かべてしまった。彼女の外界の、女性に対する、関心は、高く、日常会話でも、このように、女性と関連をつけてくる。
「その先生は、女性じゃない。男性だ。」
彼女は、然知ったりという顔で、微笑む。
「そっか。クラスには可愛い子とかいるの?」
「え~。まあ、いるにはいるかな。」
「えっ。その子のこと好き?」
「好きじゃないよ。ほら、あまりタイプでもないし、話す機会も少ない。というか、無いかな。」
彼女は、納得のいかない表情をする。いいじゃないか。恋愛など、大人になってからするもんだ。学生のうちから、そんなませたことは、あまり考えられないという、健全な私の価値観と、彼女との価値観に差異が生じる。
少しの間、沈黙が続き、彼女は、本棚に向かって指を指す。
「あそこの棚の雑誌の中から、好きな子選らんで!」
また、面倒なことをする。100冊は軽く超えるだろう。それらの沢山の雑誌から、何十人もの女子を見るなんて、疲れそうである。しかしながら、今の、彼女の楽しそうな笑顔は、先ほどの煙たそうな顔とは、違った。彼女にとって、憧れの人気者の女子高生らを見る時間が、至福のひと時なのであろう。
私は、先ほど買った、新品の雑誌を手に取る。RUNRUNという雑誌であった。女子高生には、一番人気の高い。この雑誌を購読しているクラスメイトの姿をよく見る。
彼女は、枕もとで寝ていた位置から、90°私のほうへ動かした。彼女のスラッと長く、細く伸びた脚が、今まで隠れていた姿と対比して、とても目立つ。彼女は、となりを手で叩く。「ここに座れ」という意味であろう。私は、椅子から立ち上がり、彼女の隣へ移動する。とてもいい匂いがした。石鹸の香りだろうか。私の嗅覚を彼女は独占した。ぼーっとした表情を浮かべている私に対し、彼女は、疑問の表情を浮かべていた。
私の肩が、彼女に触れる位置まで、1cm、2cmと、徐々に詰め寄る。彼女の香りが、さらに、広がっていく。控え目な私には、その行為は、とても緊張する行為であり、心臓の鼓動がどくどくと、騒がしいほど、体に響き渡る。加えて、この音が、彼女の耳まで伝わっていないか、多少の不安感もあった。そして、雑誌の背を彼女と僕の膝と膝の間に挟んだ。
初めのページを開けると、彼女が好きなモデル、来栖由香里が登場する。彼女は、肩をビクッとさせ、そして、とても嬉しそうな表情を浮かべている。
「驚いたなぁ。由香里ちゃんがトップを飾るなんて。私、この子が、モデル始めた頃から知ってるの。最初はね、自信無さげだったんだけど、最近になって、自信つけはじめて、表情も豊かになってきたの。」
「君に結構似てるよね。この子」
彼女は、頬を赤らめ、照れている様子をする。
「そんなことないよ。私なんかが、由香里ちゃんに似ているなんてありえない。明るくて、髪も長くて、綺麗で。もしかして、私のこと褒めてるの?やめてよ。」
彼女は、私に強く当たる癖に、このようなところは、自己否定が強く、すぐに弱気になるのである。
「褒めているさ。顔も整ってて、美人だし、長身で、スラっとしてて、足も長いだろ。君は十分綺麗さ。」
「な、何言ってるの。き、きもいよ。そういうところ。」
彼女は動揺していた。そんな言葉が、自分に贈られるとは、微塵も思っていなかったのだろう。
「なんで、そんな自信がないのかなぁ。綺麗なのにねえ。」
「もういいよ。ほら、雑誌読むよ。」
彼女は、逸れていた話の軌道を戻し、ページをペラペラとめくる。彼女は、少し急かしながら、私に言う。先ほど動揺していた影響があってか、早口気味である。
「どんな子がタイプなの。そっちは。」
「タイプかぁ。あまり考えたことないなぁ。」
「さっき言っていたじゃない。クラスの子はタイプじゃないって。」
「そういえば、言っていたな。長身で、綺麗で、いい匂いがして、自分に自信はなくて、雑誌の来栖由香里って子に憧れてる子。」
彼女は、ふてくされた顔で、私を見つめる。
「からかってるの?さっきから。私、そういうノリは嫌いよ。それにいい匂いって何よ。」
「いや、本当にいい匂いがするんだ。石鹸の香りかな、好き。」
「もう。気持ち悪いことしか言わないよね。で、タイプは?本当のこと言って。」
「じゃ、本当のこと言うね。中学時代の話だ。俺は、昔から心臓病を患っているんだけど、中学時代、とても悪化してしまってね。そのころ、院内で知り合ったんだ。」
「もうタイプの話じゃなくて、好きな子の話じゃない。」
「続けるよ。根暗で、院内でも、ずっと暗くて、一日中一人ぼっちの時もあったけど、ある日、彼女と知り合ったんだ。とても明るくて、気さくな少女だった。彼女は、僕に他愛もない話をしたり、学校生活をしていた時の楽しさを思い出させてくれた。今思い返すと、彼女も、私と同じ病で、苦しんでいるはずなのに、明るく振舞ってくれて、尊敬もしているんだ。僕も”彼女みたいになりたい”と思ってる。」
「そんなことがあったのね。今はどうしてるの。その子。」
「今は元気だよ。仮退院して、元気に暮らしてる。」
彼女は、どこか悟ったような顔をする。
「大切にしなさいよ。君が”恋する人”」
思わず、動揺してしまった。
「ち、違うから。そんな、そんなんじゃない。突拍子のないこと、言わないでくれ。」
「私の気持ちわかったでしょう。これで私の気持ち、わかったでしょう。だいたい、タイプだって言ったのは、そっちで、まんざらでもない表情してたよ。」
彼女をからかっていた自分を反省する。私は、”恋する人”を思い浮かべ、少しにやついた表情する。彼女は、まるで蝿でも見るような表情で僕を見つめる。
「なんか、きもい顔してるよ。ゾッコンのようね。思い出した?恋するひ」
私は即座に、言葉を遮る。
「違うから。なんでもない。ほら、雑誌読むよ。」
ページの半ばにまで読み進めると、”渋谷のJKオシャレコーデ”という特集が大々的に組まれていた。彼女は、来栖由香里の時と同様、キラキラとした目でページを見つめる。少し沈黙が続くと、彼女は言う。
「いいなあ。渋谷。おしゃれした子がたくさん歩いてるんだよね。」
「憧れるのか?渋谷。俺はあまり行ったことないけれど、人がとにかく多くて、ここと比べるとちょっと暑苦しいかも。」
「それでも行きたいのよ。ファッションに恋する乙女にとっては、憧れの地なんだから。何が何でも行くのよ。」
しばらく沈黙が続いた。彼女の癌は、ステージ4。5年生存率が10%を切ることも多い。つまり90%以上が死に至る。彼女の余命は、さほど残されていなかった。私は考えた。今、私は考えた。彼女にとって、一番何が幸せか。彼女の夢は、すべて叶えてあげるべきだと。渋谷に行く。オシャレをする。それが彼女にとって、最高の幸福なら、それを実現するべきだと。しかしながら、命に関わることである。容易に口に出せるようなことではない。
彼女は、私に手を振り、またねという。私も仕方なく、またねというしかなかった。
私は、一日中、最後の会話の返答を考え続け、気が付いたら朝日が昇っていた。高校生である私は、登校という規則に則って生活を送っているため、中断を強いられる。ぼーっと授業を聞き、友人と戯れ、午後三時、下校の時刻を回る。私は、駅のホームでも、会話の返答を考え続ける。そんなまた、煮え切らないまま、生活をしていると、電車のレールの歯軋りが、またも、私に中断を強いる。景色が移り行くまま、場所も、時も曖昧に過ぎていく。この時、私は自身の幼さを認めた。賢者はこんな時、どのような選択をするのだろうと考える。
気が付くと、私は見知らぬ地に足を踏み入れていた。渋谷であった。私は、その人の多さに驚いた。こんな、何百人もの人々がいる中で、私のような悩み抱えている人は、一人や二人はいるだろうに。もしいたら、名乗り出てほしいものだ。悩みを打ち明けたい。
私は、おもむくままに、周囲を散策した。いわゆるスクランブル交差点という場所にたどり着く。人の流れが途絶えることのないのこの交差点といえば、もはや渋谷を象徴する場所だ。気が付けば、みるみると私の目の前に人が通り過ぎていく。私は、勇気を出し、1歩、2歩と足を踏み出していく。気が付くと、私は、この都会の感覚に慣れていった。交差点の中心に立ち、周囲を眺める。その時私は、世界の中心に立った気分になった。
私は、SHIBUYA105という堂々とこのシブヤという世界に構えている姿は、どこか逞しく、私は、安心感をもって、この建物にはいる。先ほどまでは、なんとなく、何も考えずに散策をしていたが、この建物に入った瞬間に目的は決まっていた。
私は、ウィッグの専門店に足を踏み入れた。この店は、主に女性専用のものを扱っているため、少し入るのをためらったが、彼女の為に、と思い、私は、入店する。店員は、私と目を合わせると、事情を察したような表情を浮かべていた。
「女装、いやコスプレをされるのでしょうか。」
私は、思わず突っ込みを入れたくなった。ハロウィンの季節ではないし、ましてや、女装癖もない。この店の利用層を疑いたくなる。私は、冷静に事情を話す。
「知り合いの女子の、ウィッグを買いに来ました。」
「し、失礼しました。なにせ、そのような客が多く来られるので。」
やっぱりか。
私は、以前、悠里と撮影した自撮り写真を店員に見せる。彼女の煙たそうな表情は、まるで私が強制しているようで、彼女に嫌われているようで恥ずかしかった。以前、彼女の母親が病室に訪れた時、仲睦まじい姿を見せようと思った咄嗟の行動であった。
「仲良さそうですね。」
嘘つけ。
「なるほど、サイズ感は、貴方と比較して、なんとなくわかりました。彼女さん、頭小さいですね。しばらくお待ちください。」
店員は、彼女の頭にピッタリな、見た雰囲気でもちょうどいいサイズのウィッグを持ってくる。言動はアレだが、腕は確かなようであった。ロングヘアであった。彼女に相応しい。彼女がそれをつけている姿を想像すると、ワクワクする。私は、会計をしに、レジに向かった。
「医療用になりますので、5万円になります。」
私は幼い財布をバックから取り出し、唾を飲み込む。かなり大きい額であった。私はなけなしのお金を震えた手で差し出した。ありがとうございましたと、店員は手を振り、見送った。
私は紙袋両手に、建物から出た。日は既に暮れていた。その束の間な時間であったものの、この時には、もう答えが出ていた。私は、脳内で計画を立てる。自信のあったその足取りは、成長を感じさせ、世界の中心へ向かうにあって、申し分のないものであった。
部屋一面に、新しい光が差す。そういえば、昨日はカーテンを閉じていて、その感覚は久しぶりだった。昨日は迷いなく眠ることができた。
休日である土曜日、私を縛るものは何もない。私は、昨日の紙袋を、リュックに入れ、出発した。病室のドアを開けると、悠里と、その母が佇んでいた。彼女の母がここに来るのはわかっていた。そのうえで私は訪れる。
「悠里のお母さん、少し、話があります。」
私は彼女とともに、病室を出る。少し何かを察したような表情は、私を安心させるものがった。
「話とは、何かしら。」
私は、大きく息を呑み、重たい口を開いた。
「悠里さんと、外出。渋谷に行きたいです。」
「それは、彼女の本望なのかしら。」
私は、自信を持って言う。
「はい。ご存知の通りでしょうが、彼女は、ファッションに憧れています。だから、どうか、思い出を作りたいのです。」
「悠里がそんなことをいうのね。ふふっ。そんな憧れを持ってたなんて、初めて知ったわ。でも、それもそうね。憧れてなきゃ、あんな多くの雑誌、読まないかな。彼女はね、無欲で、何も欲しがらない。旅行へ行こうとかいっても、遠慮をし、彼女自身から、何かを望みたがるような言動は、一切見せなかったの。私たちにも心残りがあった。是非、連れて行って差し上げてほしい。」
私は、驚いた。あんなに親しんでいる両親には、そんな遠慮ばかりしていたなんて。実際、私にも何かを欲しがるという行為あまりはしなかったが、私に対して、彼女は、あまり遠慮しない、自由気ままな振る舞いをしていた気がする。私は、彼女の言葉を聞くと、どこか嬉しくなった。
「はい。彼女を守ります。」
彼女は、安堵した表情を浮かべる。冷静に話を進める。
「電車は、彼女にとって、少しきついかもしれない。だから、駅前までは、車で送るわ。日程は明日でいいかしら。」
彼女には確認をとっていないものの、彼女は、絶対、行きたいというだろう。私は、了承の意を伝えた。
悠里の母は、そのまま、病院を出て行った。私たちに気を遣ったのであろう。
私は、息を呑み、引き戸を開けた。
「明日、渋谷でデートをしよう。」
僕は、はっきりと、その言葉を言うと、彼女は、手で顔下半分を隠す。嬉しいのか、驚いているのか、それとも、私とデートをするということが嫌なのか。言葉の選択を間違えたか。あとから後悔をする。
「渋谷に行けるの・・・・?お母さんの許可は?本当に私が?君と、デートするの...?」
全部のようだ。
「ああ、親御さんの許可は取ってある。俺とのデートが不満だったら、代理を立ててもいいが。」
「ありがとう。でも、私が、あの渋谷なんて、行っていいのかな。みんな、キラキラしてるのに、私だけ。髪も生えていないのに。ウィッグだって、何年も使ってないから、もうあまり状態も良くないし。こんな、肌も病的に白くて。相応しくないよ。」
彼女は、不安の表情を浮かべている。必要以上に、不安がっていた。私の脳裏には、彼女を励ますための誉め言葉があ幾つも浮かんでいた。いくつも、羅列するのは、わざとらしい。私は、彼女の印象をありのままに、簡潔に抽出した。
「君は、美しい。まるで女神のようだ。せっかくの機会だ。神が地上へ舞い降りてみるのもどうだ。誰もが羨むような、価値を秘めているのだから。」
私は、リュックから取り出した紙袋から、ウィッグを取り出す。
「どうだ。悠里に似合いそうだろう。」
彼女は、ウィッグを手に取り、輝いた瞳で、それを見つめた。
「凄い。私の頭にそっくり。いつから作ったの。」
「プロだからね。渋谷に行くことを思いついたも最近だから、実は昨日だったりする。」
彼女は嬉しそうな表情を浮かべて、私を見つめる。
「ありがとう。」
私は、咄嗟に彼女を気遣い、言った。
「試着したら、どうだ。装着の仕方は、冊子が同封されてるはず。俺、病室出るからさ。」
私は、病室を出て、彼女が試着し終えるのを待った。彼女は、どのような表情を浮かべるだろうか。楽しみで仕方なかった。ワクワクしながら、彼女がいいよという合図を聞き、引き戸を開ける。
私は、彼女の姿を見て、しばらくの間、見とれてしまった。ニット帽を外し、クラスメイトと同じように髪を下した姿は、女神、それ以上のものといえるだろう。美しかった。少し独占したくなるようにもなった。
「どう...かな....?」
彼女は、これでも、不安げな表情を浮かべる。だから、私は、腹の底から、思ったことを伝える。
「きれいだっ!ぎゅっと抱きしめたくなるような...ごめん、言いすぎた。」
彼女は、少し顔を赤らめる。
「い、いいよ。」
彼女は、慣れない動作で手を広げる。言葉の通り言いすぎた。控え目な僕には、そんな行為、小便が出そうで、出来なかった。
「い、いや、冗談だから。ごめん。」
「あっ、そっかぁ。嬉しいよ。徹。」
彼女は、今までとは、違うような穏やかな口調で物を言う。彼女の風貌と、その秘めていた優しさは、僕を包み込みそうになった。
「い、今までの口調はどうしたのさ。あっちいけとか、きもいとかいっただろ。」
「きもくないよ。なんか、何言われてもうれしい。」
なんだよ。それ。惚れてしまいそうだ。惚れているのか。わからないけど。それと、もうひとつ紙袋を取り出す。昨日、ウィッグを買うついでに、ショップに寄ったのだ。というのも、一体のマネキンを見て、彼女が見ている雑誌で、そのようなコーデが掲載されているのを思い出したからである。衝動買いであった。
「これ、RUNRUNで載ってたやつに似てて、つい買ってしまった。サイズは合うはず。」
彼女は、その洋服を見て、目をまた、膨らます。
「橘楓さんコーデだっ!ありがとう!オシャレで素敵だと思ってた。ありがとう。
「明日、着てみてよ。」
「うん。絶対着る。」
私は、そのように、一通り済ませ、リュックの中身を軽くする。彼女は、私が病室を出る際、手を振った。いつもは、少しぎこちなかったが、真っ直ぐに手を伸ばして、手を振った。ウィッグを付けて、病室に佇む彼女の姿も、また、今までとは違う風情があった。
私は、病院から出た後、真っ直ぐと自宅に帰り、枕に頭を置き、明日のこと、悠里のこと、待ち合わせの8時30分のことを考えた。少し寝付けなかった。体感で1時間ほど経って、ようやく、眠りについた。
朝日の光が目に染みる。いつもとは、早い、6時ちょうどに目が覚める。デートには、ちょうどいい天気であった。いつも通り、歯を磨き、顔を洗い、朝食を食べ、歯を磨く。べランダに顔を出し、屈伸をする。少し、空気に少し、湿気を帯びているのがわかった。おそらく、夜間、雨が降ったのであろう。私は、なるべく、着飾りすぎないように、Tシャツにパーカーを羽織り、チノパンを穿いた。なにせ、今回の主役は、悠里である。存分に彼女を目立たせたい。私は、ショルダーバッグを身に着け、身支度を一通り済ませた後、日光に出迎えられた。”今日”が始まる。そんな当たり前のことを考えながら、私は腕時計の時刻、7:30を確認し、自宅を出発した。
病院の駐車場で待ち合わせということであった。シルバーの車の前には、悠里が、左腕を見つめながら、ソワソワとしていた。美しかった。天界への帰り道を忘れた天使のようであった。長く伸びた黒髪は、日光を反射する。全身が、スラッと細長く伸び、抹茶色のブラウスと、紺色のガウチョパンツを穿いていた。モデル顔負けであった。今すぐ、ランウェイを歩かせたい気分であった。彼女は、私の姿を見つけると、安堵の表情を浮かべる。
「徹!待ってたよー!」
彼女のいつもと増して甲高い声は、駐車場内に響き渡る。青春のにおいがした。私は、彼女の手招きに導かれ、車に乗車する。またもや、彼女の接見にいい香りがする。彼女は、こちらに、1cm、2cmと徐々に近づいていく。彼女は、自身の頭を私の首に乗せる。ほのかな香水の香りが、私の嗅覚を独占する。車のルームミラー越しに、悠里の母の顔が写る。にやついているのがわかった。
景色は、移りすぎてゆき、車内での時間も束の間に終わる。時計の10:03を確認する。ほぼ計画通りである。悠里の母に、感謝の意を伝えると、すぐに過ぎ去っていった。
私たちは、渋谷スクランブル交差点を中心に散策をする。ちょうどいいブティック、渋谷シャドーシンクという建物に入る。そこで私たちは、悠里に似合う服を探す。とはいっても、なんでも似合うのだが。
建物内に入ると、悠里のほうに、一点視線が集まっていた。男性は、私のほうに嫉妬の表情を浮かべる。ごめんな。男子諸君。彼女は不安げな表情を浮かべる。
「なんか、私のほうに視線が集まっている気がする。」
「それは、悠里が綺麗だからだよ」
不安げな表情は、照れの表情に変わる。彼女は、咄嗟に私の腕を組む。
「もうっ。」
彼女は、ブライトホープスという店に立ち寄った。彼女は、向こうのマネキンに指を指す。
「あれ、来栖由香里が来てたコーデ一式!やっぱ、人気者になったなぁ」
彼女は、颯爽と近づいていった。マネキンの来ている服に触れる。私は、気前よく彼女にいう。
「それ、全部買っていいよ。」
彼女は、不安げな表情を浮かべる。
「でも、全部となると高いし、それに、徹からもらった服もある。これも好きだし。」
「俺のことは、気にしなくていいよ。憧れの由香里ちゃんのコーデ、着てみたいでしょう。」
「私なんかの為に、本当に悪いね。ごめんね。」
「これまで無駄にバイトで貯めてきた貯金がある。それに、ごめんって言うな。俺は君の笑顔のために、やってるんだから。」
「ありがとう。」
彼女の暗く霧がかかっていた表情が晴れる。どこか、挙動が私に遠慮しがちだったが、少しずつ彼女も慣れていく。
「じゃ、これ、とりあいず試着してくるね。」
彼女は、試着室のカーテンを閉じ、暫く私は待った。私は、昨日、彼女にウィッグを試着させたときと、いや、それ以上に、ワクワクしていた。なにせ、彼女は、彼女の憧れていた、来栖由香里とお揃いの服を着られるのである。彼女は、どんな笑みを浮かべるだろうか。にやけが止まらなかった。
彼女は、ゆっくりと、試着室のカーテンを開けた。徐々に左から、彼女の風貌が見えてくる。カーテンを全開した時、彼女のモデルのような美しい姿が見えた。来栖由香里以上だった。私も、彼女とともに何度も来栖の姿は、見たことがあるので、この意見は、絶対に正しい。私が、こんな美しい人と共にしていて、いいのか。そんな気分だって憶えた。デースブラウス、デニムスカートを纏った彼女の姿は、大人らしい、風貌であったが、彼女特有の自信の無さは、まだ幼い印象にあった。
「どうかな...?」
「素晴らしいよ。来栖ちゃん以上だよ。」
「そ、そんなことないよ。絶対。」
「自信もっていいよ。君らしい美しさがある。」
彼女は、少し疑った表情を浮かべるが、それも暫くしたら晴れる。腕時計を確認すると、12:07とあった。もうお昼時かもしれない。私たちは、ブティックを出て、予定していた公園近くのカフェへと足を運んだ。
ガーデンハウス渋谷というカフェであった。とても洒落た店内であった。机には、個別に大きな電球が構えており、壁の大部分はガラス張りになっていて、正午の穏やかな光が全体を軽く包んでいた。私は、予約していた予約席をとり、彼女は、バジルソースのパスタ、私は、カレーライスを注文する。彼女は、もうシブヤに慣れていたようだ。笑みを浮かべる。
「徹は、女子とこういう店来るの?」
「実は初めてだったりする。クラスの女子ともあまり話す機会もないしさ。」
彼女は、自慢げな表情を浮かべる。
「じゃ、私は特別ね。なぜ私とは話せるのよ。」
なぜだろう。私は、少し考えた。私は、曖昧な答えを浮かべる。
「なぜだろうな。やっぱ、なんとなく気持ちがわかるからかもな。」
「そっか。頼もしいね。」
「全然だ。頼りない性格だよ。」
そんな他愛もない会話を繰り返しているうちに、注文していた品が届く。
「お待たせしました。バジルソースのパスタ、カレーライスでございます。ごゆっくりどうぞ。」
楕円形の皿に盛り付けたられた、カレーをすくう。私は、カレーが好きだ。今日のように、暑くて食欲の薄い時でも、辛いカレーなら食べられる。辛味が消化器の粘膜を刺激して、中枢神経の働きが高まる。消化器へ送られる血液の量は増え、消化液や唾液の分泌も促進し、食欲を増大させる。
私は、彼女のバジルパスタが気になった。
「俺も、パスタ食べてみたいな。」
「私もカレー食べてみたい。」
「でも、辛いぞ?」
「うん。大丈夫。」
しかしながら、彼女はパスタ、私はカレー。あいにく、手持ちのスプーンでは、彼女のパスタを食べることは出来ず、彼女もフォークでは、カレーを食べることは出来ない。
彼女は、何か思いついた顔をした。
「交換する?関節キスになっちゃうけど。」
私は、動揺した。テーブルには、もちろん、フォークやスプーン、ナイフなどのカトラリーは全て揃っていた。しかし私は、せっかくだと、その場の調子に合わせる。
「してみようか。」
私と彼女は、お互いのスプーン、フォークを交換する。テーブルの小皿を取り、少しパスタを頂戴する。バジルの爽やかな臭みが私の嗅覚を包み込む。そして、同時に、彼女の甘酸っぱい味もする。何か、不思議な感覚であった。
彼女は、顔を赤らめながらいう。
「なんか、恥ずかしいね。」
「ああ。女子とこんなことするなんて、思っていなかったよ。」
私たちは、料理を綺麗に食べ、会計を済ませ、外に出た。腕時計を確認すると、13:00とあり、晴れた天気でもあったため、近隣に公園へと足を運んだ。
沢山の樹木がジャングルのように植えられていた公園であった。子供たちが賑やかに遊ぶ。きいっ、きいっ、きいっと、ブランコの金属のこすれあう規則正しい音に誘われ、私たちは、ブランコへと足を運んだ。
彼女は、子供たちを広く眺め、微笑む。
「悠里は、子供、好きなのか?」
「好きかもね。なんか、懐かしいんだ。私の元気だったころを思い出す。」
彼女が、今、脳裏に映している世界と、私に映している世界は、少し似たようなものだろう。私は、小学生時代、元気であった。
「俺も、小学生のころ、元気だったからさ。思い出に浸る気持ちもわかるよ。」
「でも、思い出に浸かっていると、少し寂しくなるよね。」
「ああ。でも、そういう時は、楽しい思い出をまた、こうやって作ればいいさ。」
彼女は、空を見つめる。
「みんな、綺麗だったな。オシャレしてて、多くの友達引き連れて。」
「君も十分綺麗さ。僕一人じゃ、物足りないかもしれないけれど。」
「私は、もう余命僅かだ。他人からも、評価されることはなく、ずっと病床で暮らしてきて、ちっぽけな人生だった。」
「そんなことないさ。他人から評価されるなんてことは、人生の目的ではない。余命僅かな人生かもしれないけれど、俺が傍にいる。頼りないかもしれないが。」
少し、沈黙が続く。彼女は、この沈黙を切り出した。
「ねえ。私って綺麗かな。」
彼女は、今までになく、不安げな表情を浮かべる。そして、自ら綺麗かとと尋ねるのは、初めてだった。
「十分綺麗さ。醜いところなんて、ないよ。」
「嘘よ。私は、髪も生えていないし、ありのままの姿は、醜い。私の本当の姿を100人の人が見たら、100人とも、醜いと答えるはずよ。」
彼女の潤んだ視界には、何が見えているだろう。他人、個性、そんな他己評価について視線が集まっていた。
「なぜ、そんな他人を気にするんだ。」
「私は、ファッションモデルになりたかった。だけど、こんな姿を良く評価する人なんていないでしょう。私のことを見たら、みんな憐れむでしょう。私の人生なんて、そんなもん。私のことを本当に美しく、思う人なんて」
私は、言葉を遮った。
「いる!ここにいる。君には、君らしい美しさがある。他人がどうとか、うらやましいとか、そういう気持ちはあるかもしれない。他人の個性を認めるということは、その人との人間関係が含まるほど、強くなる。若い君は、まだ多くの人と出会っていないだろ?だから、そんな人生とか、広い範囲で自分をせめなくていい。私は君という人を認める。私じゃ頼りないかもしれないけれど。君を支えていきたい。」
「君だけを、見つめてもいいかな。」
「ああ。たいそうな人間ではないけれど。」
彼女は、空を広く見つめていた。彼女の晴れた視界には、自分というものを映せているだろうか。映せていたら、嬉しいものだ。私と彼女は、渋谷を歩いた。彼女はもう、涙をこぼすことはなかった。
私たちは、公園を出た。最後のコースである。彼女には、言っていない。サプライズである。私たちは、SHIBUYA105に立ち寄る。もうちょうどいい時間だろう。先行チケットも用意している。
エスカレータを登り、3階で降りた。様々なショップが構えている中、左を真っ直ぐ進んで、一つ目の門で足を留めた。
「どうしたの。」
私は、にやけた顔をしているだろう。
「ここからは、目隠しをしてもらう。少しの間だ。辛抱してくれ。」
「えー。何?気になるじゃん。」
私は、横暴に、彼女の眼を両手で隠した。周囲の人間を確認しながら、歩く。一転、空気が変わった場所で、手を離した。
彼女は、驚きを隠さなかった。
「来栖由香里の握手会!凄い。凄いよ徹!」
私は、先行チケットを彼女に渡す。
「16時になるまでだ。あと一分。一分経ったら、彼女と握手ができる。一番目だ。」
私は、彼女の手を握った。震えていた。時計の針は4時を回り、悠里は、由香里のもとへ寄った。震えた手を、由香里はそっと手を取る。由香里は、微笑んだ。由香里は、言った。
「私とお揃いのコーデだね。これ、お気に入りなんだ。貴女も好き?」
「はい。大好きです。ずっと、憧れてます。」
「そっか。綺麗だよ。お名前は?」
「悠里です。」
「悠里さん、貴女、ちょっと自信ないでしょう。わかるよ。私も貴女と似た雰囲気持ってるから。でも、大丈夫。貴女の隣の彼は、君を守ってあげるよ。ね?」
私は、咄嗟の振りに動揺した。
「はい。守ります。」
「なら、よかった。じゃ、またね。君は、強くなれるよ。」
由香里は手を振った。一瞬の間だった。だけど、そこには、彼女を強くさせる愛があった。
SIBUYA105を出る。時計の針は、14:12を指していた。由香里は言った。
「ありがとう。」
「こちらこそ。ありがとう。悠里。」
「強くなれる気がするよ。」
彼女の綺麗な瞳には、照り輝く夕日の姿が映っていた。
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