第4話Honesty

羽毛の、柔らかい感触が背中全体に広がる。頭部に心地よい安らぎが与えられ、考えることを忘れる。


朝日を受け、しばらく目を細めて周囲を見渡す。どうやらずっと保健室で寝ていたらしい。私は、野太いあくび声のする方向へ向かった。


「先生、話が。」


担任の高島は、まるで全てを悟ったような顔で私を見つめる。私が投げかける問いを全て予想していたように。彼は、白衣を纏っていた。その姿は、幾度の手術経験をしてきた、熟練の医者のような風貌であった。


「何から話したらいいだろうか。まず、何故入学初日、俺が急に転校することになり、それが即時全て承認されるのか。それと、なぜ遠野は、自分が死ぬ時刻まで把握していたのか。お尋ねしたい。」


彼は言葉を選んでいた。神妙な面持ちで、彼の瞳に映る世界は、何百もの人々の悲壮的な運命の数々が映っていた。


「君は、最初からここに入学することが決まっていた。なぜわざわざ斎川さんが君に入学することを伝えなかったのかはわからない。遠野くんの話は、すると長くなる。いずれにせよ。話さなければならないことだ。準備はいいかね。」


今まで彼の見せていた穏やかな形相とは裏腹に、彼の抱えてきた人生の全てを発散するような、厳粛たる空気が流れていた。


「私は103歳だ。と言ったら驚くか。」


彼は平然とした顔で、冗談に聞こえる数字を放った。日常会話では、出てこない数詞でろう。彼の風貌は如何にも30歳半ばの中年男性のようであった。当然、「冗談だろう」と言葉を返す。


「紛れもない事実である。”自分がこの世界に生きることは、一回目ではない”と思ったことは人生で一度も無いだろう。しかし、それが事実なのである。この世界は、死後の世界であるのだ。加えて、生前の世界との運命が反転する世界だ。」


彼の語る内容は、まるで物語のようであった。現実として受け止めきれなかった。しかし、彼の厳粛な顔つきから放つその言葉は、嘘一つない、まっすぐな事実であることを察するしかなかった。


「私は、生前、平凡な医者として生涯を送ってきた。しかし、病院で接する患者の人生は、決して平凡なものではなく、苦しみ、もがき続ける人々に幾度も接してきた。そしてこの世界にやってきて、この世界を知った時に決めた。死の運命を待つ少年少女たちの青春の場を作れるようにと。楽しいことだけすればいいと。そして、私は知り合いの医者を集めた。」


私は、この校舎の重みを知った。幾度もの死を見つめ、沈鬱な運命を知り、この世界を受け止める。私はこの3か月間、それらを感じることはなかった。感じさせなかったのである。僕らの賑やかな校舎は、その沈鬱さの向こうにある、かけがえのない時間そのものであった。


しかし、その言葉を聞いて、自然と矛盾を感じるようになった。


「運命が反転するならば、死の運命だって反転するだろ。そこは変わらないのか。」


彼の視界に映っていた世界は、悩み、考え、世界の真理を追究した経験から抽出した諦観の世界だった。


「絶対的真理というものを知っているか。例えば、地球が宇宙に存在するとか、生物が、死ぬことだとか。永遠不変の事実である事柄である。もし、人が死ぬことが反転したらどうなるのだろう、死なないだろう。だが、周りを見なさい。人は溢れかえっていない。この世界も生前の世界と同様に、大昔の書物があるだろう。よって、この世界でも人は死ぬ。不変の事実は不変のままなのだ。病名など無い。生前に死んだ者は、死んだ時間に自然と衰弱していくのだ。」


私は、その時、この世の全てを知った気がした。彼らがなぜ、悟り、楽観的に生きるのか。彼らは、2回目の高校生なりの、強さを知っているかだ。彼らの目の奥にある世界を、理解した気になった。


「彼らが、君に感謝する理由がわかるか。」


まだ解消していない疑問であった。疑問の表情を浮かべると、彼は真剣に語る。


「君が、彼らの救世主であったからだ。」


それは、私には身に覚えのない世界の話だった。ここまで、この会話で、私の身に信じられないような事実の数々が飛び込んできた。これから先、まだ私の知らない事実を受け止めることとなることを考えると同時に、恐怖心が湧きあげてくる。しかし、救世主という言葉を聞いて、驚きと安堵の感情も同時に湧きあげてくる。


「君は、中学生時代、病床にあったと聞いている。そして、中学を卒業した春、病状が回復した。君は、3年間もの苦痛を知り、小学生時代に介抱してきた斎川さん以外にも、同様に助け回ったと聞く。遠野君は、筋肉萎縮の病に侵され、また運動をすることに憧れていた。綾瀬さんは、癌の抗がん剤治療により、髪が抜け落ち、また、着飾ることに憧れていた。生駒君は、記憶障害を負い、度重なる会話を君は何度もしただろう。芦田君は、院内で一番重い病気を負っていた。苦痛により、心身ともに蝕み、君に強く当たることもあった。斎川さんは、君との幼馴染、また、君と同じ心臓病であった。痛みや時間を共に分かち合って君だけには心を許していた。君はそれ以上の患者を助けた。君は、献身的に人々を助け続けた結果、この校舎は賑やかで暖かい環境にある。だから、みんな感謝しているのだ。」


少しずつ。少しずつだが、忘れていた記憶を取り戻していく。今までの経験が上書きされるような感覚であった。感性の異なるかつての言動に対し、まるで他人の夢を見ているようであった。


2002年 7月1日


引き戸を開ける。がらがらとした音とは、周囲の静寂とした空気とは、対照的に、目立つ。


喧噪の向こうには、バット片手に虚ろな表情の少年が佇んでた。彼の視界には、代表戦、甲子園、ウィンターカップ等の賑やかな世界が映っていた。


音に気付き、こちらを仰望の眼で見つめていた。


「遠野大地君だね。遊びに来たよ。」


満点の笑顔のこちらに対し、あちらは煙たそうな表情で見つめる。


「子供じゃないんだから。同い年でしょう?「織部おじさん」とでも言えばいい?」


私は、リュックサックを下し、看護師から受け取ったお菓子をいくつか取り出した。冷たく、紫色の膜に覆われて、蛍光灯の光を反射するゼリーは、満月の夜空のように妖艶で、綺麗だった。は、午後三時の暑い光の差す空間には、対照的に、こちらの食欲もそそられた。ゼリー片手に、少年に近づく。それを頬に当てると、彼は、微笑みを浮かべ、反射的に私の胸をそっと押した。ゼリーをベットテーブルに置くと、彼は頬に手を当て、目を細めて言う。


「だから、本当にやめてくれよ。子供扱いしないでくれ。本当、いつもちょっかいだから。今日も外で運動させてくれるのか?」


「ああ、もちろん。病室じゃ、窮屈だろう?」


彼ら、スプーン片手に、ゼリー片手に物をいう。顎の筋肉を上下させ、もごもごとさせているので、言葉が聞き取りずらい。彼は、ゼリーを飲み込み、私に話しかけた。


「なあ。いつもキャッチボールばかりしてる。たまには、サッカーとかしてみたい。」


彼は、2年ほど前から、歩行障害に冒されていて、現在は下半身がほとんど動かない。彼は、もちろん、自身の力の限界がわかっていた。しかしながら、それ以上の憧れがあった。私は考えた。私は医者ではない。しかし、私も以前は病に侵されていた人間の一人である。彼の考えることは、全て理解できる。


「わかった。だけどまずは、キャッチボールから始めないか。」


私は恐れていた。彼が傷つくことを。私は恐れていた。彼が彼自身を嫌いにならないかと。


彼は、笑顔で言葉を返す。「いいよ」と。


私が、彼を車いすに移乗する準備を始めると、彼は枕元から起き上がり、腕の力で反時計回り90°の位置に全身を動かした。彼は私の動きに視線を合わせると同時に、いつもより、少し表情に後ろめたさが出ていた。私は、一通りの準備を終えると、彼を前かがみにして、ももを持ち上げた。そしてゆっくりと車いすに移動させ、私たちはゆっくりと病室を出た。


 私たちは病院の広間に出た。私は、リュックからグローブを二個取り出し、彼に渡す。私は彼から少し離れた位置に立った。私は、彼の腕の可動域の範囲内に、収まるように、彼にも取れるよう、弱くボールを投げる。彼は、自身の精一杯の力で私に向かってボールを放つ。その動作が繰り返された。


「ねえ、みんなでやるスポーツって楽しい?」


彼とこう遊ぶ時は、いつも初めにこの問いが繰り出される。


「ああ。楽しいよ。此間は、バスケを授業でやったんだ。ルールが意外と難しくて、皆に迷惑かけてしまったよ。俺は運動神経が鈍い方だからさ、同級生に教えてられてばかりで。かっこわるいよね。」


彼は、私の眼を見つめ、微笑んだ。暫く、ボールをグローブの中に入れ、にこやかに宇宙そらを向いた。


「そういう楽しみ方もあるよ。スポーツを通じて、人と触れ合う。僕の憧れなんだ。皆とね、試合をして汗を流す。終わった後には、タオルを借りて、部室で褒めあうんだ。」


私は、彼の眼を見つめ、彼を想う。そして、にこやかに宇宙そらを見た。


「その友達とは何がしたい?」


私は、彼のボールを受け取り、彼は再び宇宙そらを見る。


「みんなで横一列に並んで、自転車を漕ぐんだ。みんなで坂道を登りながら青空を見つめる。街を降りて、皆で買い物をするんだ。みんなでお揃いのスポーツバックを手に取りながら、ありきたりな会話をするんだ。練習の調子はどう?とか、勉強は間に合ってる?とか、好きな子とかいる?とか。最近のニュースとか、ネットで流行ってることを話すんだ。」


彼は、空を見ていた。彼の潤んだ瞳の奥には、午後4時30分の雲の合間から、夕日が差す、黄色かかった空は映っていなかった。幻想的な世界が映っていた。空想の友達による、空想の青春に輝く、暖かい世界だった。学校で授業を聞き、放課後部活で汗を流し、疲れながら、家に帰る。そんな感覚を、彼は、もう思い出すことが出来ない。


彼は、腕で目をかざし、重い口を開いた。


「サッカーをやりたい。」


私は、その間、しばらく静止していた。どのような答えが正しいのか、わからなかった。そこで、私は、正答を模索するのを止めた。世間的に、どう思われても構わない。時間の価値は、病人と健常者を比べたとしても、変わらない。しかし、余命が僅かである彼にとって、時間の価値を見つめる時間は、健常者よりははるかに長いことだろう。私はその意志を慮った。私は無言で頷いた。


彼は、ゆっくりと、車椅子から、上体を前のめりにして、離れた。彼の胸に、強い衝撃がかかった。私は即座に彼のもとに寄る。


「大丈夫か?やっぱキャッチボールでやめておかないか。」


つい、弱音が自分の中で出た。彼の意志は、諦めさせないだろう。彼の眼つきは、強かった。彼の足は、脆弱ながらも立ち上がろうとする。


「僕、サッカーできないのかな。このまま、物を蹴り感覚を、走る感覚を忘れたまま、死ぬのかな。私は、この病院に囚われたまま。パスでもいいから。蹴りたい。だから、僕から離れて。」


私は、彼の言う通りに、5mほど、彼から離れた。


サッカーボールは彼の目の前にあった。しかし、そのボールはまだ1mmもずれることはなかった。彼は、脚の筋肉を少しずつ動かして、立ち上がろうとする。彼は、体勢のバランスを整えた。ほんの少しの間のことだった。彼はボールを蹴ろうと、右足を動かそうとしたが、体勢を崩した。ボールは、彼が、背中から倒れた衝撃によって、無慈悲にボールが揺れる。彼は、上体を起こし、私を見つめる。


「僕って、みっともないかな。今の時間、私と同い年の、高校生は何をやっているだろうか。日が暮れる。もうみんな部活を終えているだろう。試合や大会を経験してて、凄い彼らは、僕を見てどう思うだろうか。同情するだろうか。憐れむだろうか。出来ないような、敢えて苦痛を与えるような行動を見て、馬鹿馬鹿しいと思うだろうか。」


悲観する彼の姿を見て、私はこれまでの人生経験で、考えたことを言った。


「他人の視線をわざわざ気にすることなんてないんだ。自分がどう楽しむかが、最も重要なんだ。意外とあたりまえのことに聞こえるかもしれない。しかし、この本質を見抜いていない人は多い。君は、余命が短い。同時にこの世には、社会の重荷に耐えられず、命を絶つする人だっている。そういう人は、”楽しむ”とか、そういう余裕がない。こんな競争で溢れる社会がどこか間違っている。幸せな人がいる反面、そういう不幸な人もいる。だから、間違ってる人も多いんだ。健常者の僕、病人の君、時間の価値は等しい。君にとって、楽しめる要領から始めればいいのさ。僕は、それをいくらでも手伝う。」


彼は彼の瞳を見つめた。彼の滲んだ視界には、この景色はどう映っているだろうか。何か、彼にとって、価値観は変えられただろうか。私は、彼に影響を与えられただろうか。この時間を、彼にとって有意義なものに変えられただろうか。


彼は、再び立ち上がった。小鹿のように震えた膝は、どこか心を痛ませるものがあった。


彼は私に向かってボールを蹴った。


「僕、僕、出来たよ。ちっぽけだけど、成し遂げられたよ。ずっと、憧れていたもの、少し、近づけたかな。今、凄く楽しい。」


「近づけたよ。大いに進んださ。」


彼の意志は、羨望の念を新たに塗り替えた。


この宇宙そらは、どこかちっぽけに見えた。


2018年 7月6日


校庭にいる遠野の後ろ姿を追う。


「遠野!」


私は強く叫んだ。


「徹!もうすぐだよ。俺。」


淋しく、子猫のように純粋な目で俺を見つめていた。


「俺は、感謝されることなど、してない。言ってない。お前が、努力してる姿を傍で見届けただけだ。」


呆れた表情で彼は、口にする。


「本当、わかってないなぁ。徹がいたから、成し遂げられた。俺は、一人では何もできなかった。俺の惨めな雑念を全部払拭してくれたのも君だった。君はずっと僕の、僕らの救世主だ。」


「皆で遊ぼう。」


私たちは、サッカーを行った。汗で、涙が紛れる。彼には、まだまだ時間が足りなかった。だけど、私たちは、今この時間に全て尽くした。何も、考えることはなかった。彼は笑っていた。脚がとても汚れてた。


夕日がこちらを強く差す。私たちの汚れた制服に対し、対照的に、白く照り付ける。楽しい。楽しい。この時間が終わらなければいいと思った。彼は、衰弱していった。周囲は、彼を囲い、宇宙(そら)を見た。


「ありがとう」


宇宙(そら)を考えた。

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