(10)喧嘩
母親のヒステリックな声が私の脳に響く。丁度鳥居の真下あたりに立って喚く女、それが母親だと思うとなんとも情けない気持ちになってくる。後ろを振り返ると、らのさんは既に臨戦態勢、胸元に手を入れている。やっぱり、谷間にくないでも仕込んでるんじゃなかろうか。いやでも、峰不二子じゃあるまいし、幾ら胸がでかいといえども流石に重力に負けるのでは……。
母親は誰も聞いていないのにまだまだ喚く。どうしてここまでポンポンとわけの分からない文章が思い浮かぶのか、正直私には分からない。いろいろな人に告白しまくって、あるとき誰でもいいんでしょ、と他の人に告白しているLINEの画像を送りつけられ追求されても違う、覚えていないと白を切る人というのはこんな感じなんじゃなかろうか。私は恋愛はおろか告白したことも告白されたこともありませんけど。
「あのね、零奈。アナタ、きっとだまされてるのよ。こんなクソみたいな神社に――」
「クソみたいな神社!? 家の百倍は居心地がいい!!」
「零奈! 母親の私にまだ逆らうっていうの!?」
「母親!? じゃあアナタは私に金以外の何をくれたっていうの!?」
次第に喧嘩はヒートアップしていく。
「愛情をあげたでしょう!?」
「愛情なんて貰ってない!」
チラと後ろを見るとらのさんはまだ胸元に手を入れていた。どうやら時機を窺っているらしい。
「ッ!」
母親の腕が振りあがる。私のすぐ横を銀色の物体が通り過ぎて、母親に飛び掛った。後ろを見ると、らのさんは着物に手を入れたまま固まっていた。
母親は銀色の、毛でふさふさした動物に顔面に圧し掛かられて倒れていた。その動物はもちろんのこと、あのギンギツネ。そして母親は低い声で呻いている。
そして、どこからか声が聞こえる。それは今までに聞いたことのない声、でも、それが誰の声なのかは、なんとなく分かった。分かったけれどその声はやっぱり不明瞭で、もしかしたら私の聞き違いなのかもしれないとも思える。そもそもその声はどうやら音声ではないらしい。よくある、「脳内に直接!?」とかいう奴らしい。
「汝にとっての愛とはなんだ」
その声は低く響く。
「愛とは……愛とは――」
母親が答えようとする。
「答えられないであろう。愛が分からぬ者が愛情をあげたなどと言うものではないぞ」
声はまた、低く響いた。頭に響くその声は、私に安心感を与えてくれた。らのさんはとても驚いたような顔をしている。
「……零奈、ごめんなさい――」
母親が小さく呟いた。先ほどの声の主、おそらく主であるギンギツネは母親の上から漸く動いて私の横にちょこんと座った。
私はギンギツネを撫でやる。ギンギツネは気持ちよさそうな顔をして、私の顔を見ていた。
母親はその後泣き崩れ、らのさんに連れられて家に帰っていったようである。
「ねえ、ギンギツネ、もう一回しゃべらない?」
私がギンギツネにそう語りかけてみるも、ギンギツネはうんともすんとも言わず、私のほうを澄んだ目で見つめてくる。
「ねえ、ギンギツネ、ありがとう」
私はギンギツネにそう言った。らのさんにも、お礼を言わなくちゃ。
暫くしてらのさんは戻ってきた。
「そのギンギツネ……」
らのさんは私の横に座ってくつろいでいるギンギツネを指差した。
「たぶん、神様だね」
どうやら、神様らしい。神様なら、ギンギツネなんて呼び捨てにしてはいけないのだろうか。うーん、狐様?
「らのさんっ! ……ありがとうございました!」
自分でも、言うタイミングというものがあるだろうとは思うのだけれど、早いうちに言わないと大体あやふやになってしまって結局言えなくなってしまうのがオチだ。だから敢えて私はすぐにらのさんにお礼を言った。
「いいんですよ、友達を助けるのも、友達の義務ですから。」
「……そうですね。あ、そうそう、らのさん、『弱キャラ友崎くん』、読みましたよ!」
「えっ、本当ですか! 自分の薦めた本を読んでもらえるのって、うれしいですね」
重い足を引き摺りながら帰って、漸く家の前に到着した。普段の何倍も重く感じる玄関の扉を引いて、家の中に足を踏み入れる。自宅に入るだけだというのに、あたかも敵の本丸にこっそりと進入するような、そんな心持だった。
「お帰りなさい、零奈」
リビングから小さな声がする。
「カレー、食べる?」
またリビングから小さな声がした。カレーのようなもののにおいが鼻を突く。
「じゃあ、食べようかな」
私は椅子に座った。母親はキッチンにあったカレーを炊飯ジャーで炊いたらしいご飯の上にかけた。そしてカレーは私の前にそっと置かれた。
――カレーは、あまりおいしくなかった。
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