サイバーエデン・アポカリプス
kinomi
Prologue
Innocent Disaster
超密度に集積した電脳街を前にして溜め息が一つ。何というか美意識が足りない。まるで悪戯に描き始めた3D設計図が自動生成アルゴリズムに乗っ取られて暴走したみたいだ。粗末なフィルタで騒がしい視界から建物の輪郭と緑色以外の情報を抜き取ってみるが、淡いグラデーションで描かれた過剰な建造物群が尚も残ってしまう。
『エスティー、ターゲットの座標は変わっていないか』
『元のままだ。まぁ、これが残像でも錯覚でもお手上げだろうがな』
『……竜巻がアリンコに気付くかね』
『アリンコ? なんじゃそりゃ』
竜巻と自分で言ってはみたものの、文字通りそれは厄災だ。電子の海に突如現れる人知を超えた事象――“無罪の厄災”。それらに意思と呼べるようなものは無く、だからこそ民間のネット空間に明確に甚大な被害を生んでからようやく凄腕のハッカー様たちが調査対処の先兵に駆り出されたのだ。
「俺みたいなアリンコがね」
当時の人間たちが何を考えていたのか理解しようとも思わないが、最初に巨大企業がネット空間に現実のそれと似たような商用ビルを造ったらしい。電子の海に潜った人間たちは喜んでそこに飛び込む。個々のコミュニティが集落を作る程度の文化は既に彼らにあった。それが一気に加速して街ができ都市ができた。懲りずに積み上がる情報塊。別軸で太古の昔から観測されてきた電子の海の生き物たち――つまりは旧称ボットやらバグやらウイルスやらが集まって群がり始める。ここまでは当然の成り行きだろう。だが次は? 挙げ句の果てに都市はまたも“災害”に直面したのだ。自然の産物を人間様が弄んだ罰ならば話は分かるが、ここは自作の海ではなかったのか。あるいはここを、何か別の世界と繋げてしまったのか。
空の代わりにべたりと貼られた背景テクスチャ見上げた。広告主が言い負けたせいで一時的に真っ黒になった密構造の隙間が無数の沈黙を語る。
『エスティー、直通信は切っていい。念のため防壁はもう三枚ほど増やすんだ』
『俺もお前も人形だろ? 構いやしないさ。一枚でもフィルタが少ない方が面白いものが見れそうだしな』
そう、立ち向かう脅威へのせめてもの抵抗として、天才ハッカーでありストームチェイサーである俺たちはカメラを持たせた分身人形を竜巻に向かわせる。人形の頭には中継用のカメラが付いていて、やはり天才ハッカーのエスティーの、これまた分身人形が個室で優雅に観察している。人形が粉々にされても俺たちは痛くも痒くもないはずだ。はずなのだが、困ったことに俺は何一つ安心できていない。厄災の前評判はとんでもない上に、“凡才”ハッカーはあまりにも矮小に思えてしまう。
『そうだな……。商用ビルに向かうよ』
『了解。まだ影響圏の外だ、気楽に行こう』
地下を含めて五階層を超えた通路が空間を埋め尽くして建物にまで巻き付いている。仮想の街とは言えもう少し綺麗に造れなかったのだろうか。ターミナル地点ではその密度も増してヒト起因の流動データも多くなるが、だからこそ公に放たれた『厄災警報』がある程度目に見える形となっていた。空間一帯が明らかに閑散としていて人型のオブジェクトは姿が見えないのだ。
「こっちの方が趣とやらがあって良い」
敢えて転送を使わずに、電子の舗装道路に再現した人形の自分を歩かせる。ゴーストタウンの散歩だ。何の意味があるのかと聞かれたこともあるけれど、覚えのある一歩は見慣れた距離だけ視界を動かして目的地のビルへと俺を近付ける。それが呼吸か何かを整えるような気がする。
富を重ねたブランドを詰め込んだ仮想商用ビルは見た目よりずっと巨大な空間を圧縮内包していた。緑一色に変えてやったのに。まあ入り口に手招きする煌びやかな有象無象には何の用もない。つかつか歩いてビル角を曲がって、と。俺は屋上を使わせてもらいたいだけで、
「……ん?」
まだ一般アバターが残っていたのか、何かのラグで側だけ残ったのか――と判断しかけた思考が弾かれた。それには“色”が残っている。フィルタに設定ミスでもあったか? かなり写実的な女性の映像、目立つ赤色をした衣装は“和服”とか言うタイプだ。緑色の明度と彩度だけを許したはずの視界に妙に紅く美しく映っている。
「物好きなやつもいるもんだ」
ひとつ深呼吸してから恐る恐る近寄って、ピタリと1ミリも動かないそれを観察した。白い肌に映える薄青い瞳は大きめに描かれており、透き通った黒髪を控えめな髪飾りで丁寧にまとめている。背筋をすっと伸ばし、両手を身体の前で自然に重ねて佇む姿はまさに人形のようだ。真っ直ぐ虚空を見つめる瞳はこちらの身振り手振りに何の反応も示さない。相手も自分もデータ、相手に至っては中身が人間である確率が何割もないのだから、彼女の顔の前で腕を振る行為が如何に無意味なことか。凡才ハッカーにもそれくらいは分かっている。こいつはその“美しさ”を歪な欲のために与えられたのだろうと、それも分かってしまう。
「なあキミ、これから厄災が来るから避難した方が良いよ。……なんてな」
大きな帯を綺麗に結んだ人形の後ろ姿にそう言って、ビルの入り口を目指すことにした。
「幸」
何の偶然か、きっと和服を見たからだろう、気まぐれに一度だけ声に出してみた。電子の構造群にどうせ自分自身にしか解釈されないノイズデータが生じる。めでたく "Innocent Disaster" の烙印を押された今回のターゲット『HAPPINESS』をある言語にすると、2バイト文字一つでその意味を表すことができる。「サチ」と、そう読むらしい。
「 」
返事が聞こえた気がして振り返った。
和服の女がこちらを向いていた。目を閉じているが、いや、ゆっくりと、今一度開いた。それから重ねていた白く細い両手をゆっくりと左右に、手のひらは地に向けたまま、優美に……。虚ろだった大きな瞳に光が入っている、何だか――
『――ぃ! 応答しろ!』
エスティーの声で我に返る。女の頭上に突如赤い色味の……傘が生成された。描線の多い珍しい形だ。この程度の芸当は娯楽ゲームでも見せるが、――そうじゃない、そもそも何故こいつはフィルタ越しでも色を維持している?
『悪いエスティー、大丈夫だ。何か妙なモノがあってさ。そっちから見えるか?』
宙に浮いた傘がゆっくりと回転し始める。何かキラキラした粉のような、花びらのようなものがそこから零れ始めた。真下の女と周囲にひらひらと降り始める。エスティーの返事が無い。
「……え?」
『逃げろ』
声の代わりにテキストメッセージが顔の前に浮かんだ。メタル調の角丸枠に螺子マークのアクセント、エスティーのメッセージボックス、最短の警告。
けれど間に合わなかった。ひとつ俺の認識が間違っていた点を挙げるなら、厄災の容姿に先入観があったことだろうか。同時に俺は“こっちへおいで”と、そう言われた。
* * * *
「ハブボット、強制認証で2分以上かかるなら生体認証でもいい、待機系の王妃たちを全て叩き起こせ」
『承知しましたマスター』
ハッカーの顔には明らかな焦りが見える。観測していた友人の前に妙なデータの塊が現れたと思ったら暗号トンネルの直通信が3系統とも突如断絶し、気付いた頃には彼の目の前の座標空間が参照できないリンク先と繋がっていた。それだけではない、異国『京都』の町風景を思わせる超精緻な空間が展開され始めたのだ。表面だけのテクスチャを重ね貼りするんじゃなく過密電脳街の空間構成情報そのものを書き換えている。ハッカーは悪寒と共に浮かんだ仮説を暫定/確定とした。
――立ったまま突然動かなくなった友人の操る人形の前に現れたのは、“無罪の厄災” - 『HAPPINESS』である。
「おい……」
友人の姿を模した人形の前に、人形と同じ姿をしたデータが現れた。ハッカーは以前、異国京都の誇っていた街並みを気に入って調べていたことがある。だから今電子の街を上書きしていくその光景に強く惹きつけられ見入った。矢来の京町家や控え目飾りの茶屋が砂地に並ぶ、あまりにも情緒質感を持った小道。やっと謁見を許したHAPPINESSは絶世の着物女性の姿を使って――友人に片手を差し出した? 同じ姿で二人並んだ友人のうち、その白い手を取ろうとしている方は。並行表示している多数のグラフと数字がふざけた値を叩き出している。密度容量負荷座標危険度影響度論理レベル全てだ。迷う時間は1ミリ秒も無い。
「悪いな」
電子街を書き換えながら出現拡大していく古都の一角に、緻密な機械構造の表面をした小さな球体が一つ落ちた。淡いベージュの砂利道を僅かに転がり、それから一回り直径を増した。すぐにもう一回り、またもう一回り、加速度的に。球体とHAPPINESSとの距離は換算数十メートル。間もなく球体型兵器『無限増殖ボム - エリザベス』が電子空間を埋め尽くす。
「無視できるもんじゃないだろ、次だ」
観測モニタに映るHAPPINESSと友人二人の間に今度は真四角の機械が浮かび上がった。ヒトの頭くらいの立方体はそのまま周囲の空間に干渉し始める。立方体の真下の地面だけが元の電脳街のタイルテクスチャに戻った。和服の女は僅かに顔を上げて視線でそれを捉える。“本物の”友人の前に防壁が3枚貼られて、意識が希薄化した友人の伸ばした手が壁に当たって止まった。すぐに女の周囲四方を同じ防壁が囲い始める。此れに続くは電脳兵器『即時置換バグ - クリスティーナ』。彼はハッカーとして、中でも“作り手”として超一流だった。
『レンタル屋、俺だ。ボットの言った通りこれまでの積み立てを全額吐き出す。足りなきゃ借金でもいい、特権キーもくれてやる。だから……個人の使える最大多重で繋いでくれ』
赤く染まった紅葉の葉が女の手のひらから無数に噴出した。クリスティーナの展開する多重防壁にでたらめな速度で干渉していくのが分かる。クリスティーナ側の処理速度は論理値上限まで作り込んであるのに。
「8多重ぽっちか、足りな……は?」
女は、彼の立方体に白い手を触れていた。女と立方体の周りを無傷の最上防壁が覆っている。――すり抜けた? いや、電子演算の世界はそんな超自然的な話ではない。アラート系のエフェクトを赤に設定したのは何故だったか、3体の人形と無罪の厄災を観察する部屋は警告音とモニタの赤い光に覆われ始める。
「ハブボット、……非常オーダー。“ラストラブレター”だ」
『承知しましたマスター。念のため連携デバイスによる生体認証を。それから、命令に反しますが、貴方に謝辞とお別れを』
ハッカーは武器と資産の制御をやめた。観測はその目で、より近いところで行うことにした。電子の海にダイブした友人を助けに行かなければならない。ハッカーには相手が何であるのか殆ど分からなかった。ただ、桁外れに予想以上だった。自分の本体がそこへ向かっても何もできないことは分かっていた。友人が連れていかれて消されることは、どうしてだか分かっていた。ならば彼について行ってやろうと、そう思った。
小さく広がって展開を止めた異国京都の石畳の上に何かが転がり出た。直前に抜け殻となった人形から。曰く、『連続自己定義組込式超硬度多重防壁搭載中継カメラ』。天才である友人にはとても及ばない“凡才”ハッカーの、しかし生涯最高傑作だ。カメラがこれから映すのは“無罪の厄災”『HAPPINESS』――その甚大な被害の一部始終である。
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