最終章 当日・本番

「なんじゃコリャァァァァアアアアーーーーッ!」


 大会当日の朝、洗顔しようと洗面所で鏡を見た下呂は絶叫した。その叫びは廊下を走る間も途切れることなく、頭から飛び込む勢いで居間への扉を開け放つ。


「朝から騒がしいな」

「これ! 見てよ! 頭! モヒカンになってる!」


 下呂が自分の頭を指し示す通り、なぜか彼の頭は立派なモヒカンになっていた。だが、更田は下呂のバンキッシュスタイルを見ても動じず、せせら笑う余裕さえある。


「新手の脱毛症か?」

「言ってる場合か! もし病気なら大会よりも病院を優先するよ! 川北さーん!」


 下呂の呼びかけに応え、台所から川北がエプロン姿で現れた。


「お? 男前やん」

「やっぱり川北さんの仕業か! なんでモヒカンにしたの⁉」

「刺青よりはマシやろ」

「まぁ、確かに刺青と比べればモヒカンの方が無難かもね。って、ならねぇよ! 今世紀最大のバカか!」

「綺麗なノリツッコミも、モヒカン効果やな。これでアガリ症も克服したやろ」

「何の根拠があってモヒカンが治療法になるんだよ⁉」

「後で分かるわ。楽しみにしとき」

「既に後の祭りだわ!」


  * *


「宣誓! 我々、選手一同は! 正々堂々と競技を行い、全力を尽くすことを誓います!」


 競技場に並んだ選手達の前に立ち、代表として廟が清々しく選手宣誓を行った。その開会式が終わるとアナウンスが鳴り、選手達は散り散りになって最後の準備を始める。


『以上をもちまして、サッシュメントステーション全国大会の開会式を終了します。選手の皆さんは係員の案内に従ってバスに乗り、それぞれのコースへと移動してください』


 アナウンスが鳴り終るのを待ち、更田は仲間と向き合う。


「ここで一旦お別れだな」

「離れていても心は一つや」


 それ以上の言葉は交わさず、更田、半谷、川北、下呂、原、神崎の六人は円陣を組んで別れた。それぞれコース指定のバスへと向かう。

 唯一、アンカーを担う更田だけが、第一コースを走る原の付き添いをしていた。


「手伝わせてしまって申し訳ない」

「気にすることじゃない。おれも自分が走る前に緊張を解したいだけだ」


 とりあえず原をリラックスさせようと気遣う更田の視界の隅に、後輩である入巣の姿が映る。競技場に入れるのは選手だけなので、思わず更田は振り返ってしまった。


「どうしたマコ?」

「いや、さっき母校の後輩を見かけたんだが、気のせいか……?」

「会いに行ったらどうだ?」

「大丈夫だ。今はレースに集中しよう」


 逆に気遣われてどうする、と更田は自分を戒める。入巣のことは忘れて第一コースの待機場所まで行くと、同じく仲間の付き添いであろう廟が話しかけてきた。


「やぁ、更田君。ご機嫌いかがかな?」

「自分でも不思議なほど穏やかだぜ」

「見たところ色々と試行錯誤しているようだけれど、大会の品位を下げるような真似は控えてくれないか?」

「テメーらこそ、そのガンツみてーな特殊スーツはなんだよ? 何が正々堂々だ」


 廟の姿を見ると、首から足まで真っ黒のタイツに覆われていた。他の選手達は普通のランニングシャツとパンツなのに対し、費用の高い特殊性であることが窺い知れる。


「従来の駅伝ユニフォームだと大きな動きに対応できなくてね、これがダイナレッグの性能を最大に引き出す正装なんだ。君達の奇抜な格好が何を引き出すのか知らないが、無駄な足掻きはみっともないよ」

「もう最初から情けない姿は見せている」

「君達は失うものが無いんだったね」

「失われただけだ。絶対に取り返す」


 更田は廟の挑発を受け流しつつ、明らかな敵意を剥き出しにする。互いの視線が真っ向から衝突する中で、それを遮るように木城町が身を乗り出す。


「ちょっとー、第一走者の主役たるアタシを無視して、勝手に盛り上がらないでくれる?」

「ひぃ!」


 突然の木城町の登場により、今まで落ち着き払っていた様子の原が恐怖の表情を浮かべ、素早く更田の背後に隠れた。


「何よ怯えちゃって。失礼しちゃう」

「おっと、これは戦う前から優勢かな?」

「んなわけねーだろ。ほら、何か言ってやれ」


 とにかく廟の笑い顔が気にくわない更田は、原の背中を叩いて前に押し出す。すると原も戦わなければいけない宿命を受け入れ、毅然とした態度で木城町と対峙した。


「残念だが、己のアナルバージンはマコにあげると決めているんだ」

「いらねーよ!」


 更田のツッコミも空しく、原と木城町は会話を進める。


「じゃあ、ワタシが勝ったらマコちゃんのアナルバージンを捧げなさい!」

「いいだろう」

「よくねーよ! しれっと巻き込むな!」

「分かっている。その代わり己が勝ったら、アパレル系のサバサバお姉さんを紹介してくれ」

「いいでしょう。これで取引成立ね」

「成立しねーよ! おれに何の得があるんだ⁉」

「そろそろスタートの時間だね。早めに開始位置へ向かおう」

「まだ話は終わってねーぞ! おい!」


 廟の言葉を皮切りに、二人はスタート位置へと移動して行った。制止する更田の声も届かず悪態をついていると、それを見かねて廟が提案する。


「よかったら僕の車に乗って移動しないかい?」


  * *


「それにしても、どうしてアナタが第一走者なわけ?」


 更田の抗議する声が聞こえなくなったところで、木城町は原に対し疑問を投げかけた。


「どういう意味かな?」

「だってねー、第一コースは地味に見えるけど、上り坂と下り坂が続く険しいコースよ。アナタのような無駄に筋肉がついた体だと不向きじゃない?」

「この肉体美の良さが理解できないとはな」

「一流デザイナーであるアタシの美的センスを疑ったことを、戦場で後悔させてやるわ」

「貴君にこそ、本当の芸術を教えてやろう」

「言ってなさい。もう、やんなっちゃう!」


 価値観の相違により機嫌を悪くし、その場から木城町は離れて行った。彼にとっては興味本位の質問だったのかもしれないが、原にとっては重大な機密事項である。まともに取り合わず、はぐらかすしかなかった。


 ちなみに、選抜チームの走る順序はコースの下見で発現した個人の適性を踏まえ、水天宮が故意に漏らした情報が決め手となった。それぞれに因縁のある相手が、たまたま都合よく得意コースに配置されているのである。その情報は彼女が意図的に流したものだと分かった上で、選抜チームは喧嘩を買う道を選んだ。


 しかし、今の態度から察するに、木城町はオーダーの件を知らされていない。そのことに違和感を覚えて思案していると、また別の選手に声をかけられた。


「おう、原じゃないか。ここで会ったが百年目だな」

「貴君は、予選大会で競い合った斎藤君か。また走ることができて嬉しいよ」

「俺もだブラザー。前回は不幸な事故が起こったが、今回は互いに全力を出し尽くしたい」

「己も同感だ。体調管理は万全を期する」

「OK。ダイナレッグも装備しているな。だが、流石は全国大会だけあって、選りすぐりの猛者が集っている。油断ならんぞ」

「ああ、確かに……そう……だな」


 辺りを見回すと、確かに屈強そうな男達ばかりだ。目の前の斉藤も含め、原に負けず劣らずの筋肉に鍛え上げている。


「どうした? 煮え切らんな」

「いや、何でもない。時に斉藤君、予選ではアンカーだった君が、なぜ今回は第一走者を務めているんだ?」


「なーに、これも作戦の内さ。熱い血潮が滾るぜ」


 原にとっては興味本位の質問だったのかもしれないが、斉藤にとっては重大な機密事項だったのかもしれない。原は盛大に嫌な予感がして、口数が少なくなってしまう。


「おっと、つい口が滑っちまった。これ以上は危険なんで、雑談は切り上げるぞ。次に会う時は戦場だ」


 斉藤と拳を合わせて別れる。暑苦しい笑顔を向ける斉藤とは対照的に、原は最後まで苦笑いしかできない。これからの展開を思い描く原の思考を遮るように、会場のスピーカーからアナウンスが鳴り響いた。


『さぁ、待ちに待ったサッシュメントステーション全国大会! 他の敵チームを薙ぎ払い、人生の栄光を手にするのは、果たして一体どのチームなのか⁉ 実況は私こと毛利と、解説は不破博士が務めさせて頂きます!』

『よろしくお願いします』

『よろしくお願いします! いやー、ついに始まりますね……』


 声に聞き入ってしまう直前、インカムで川北から連絡が来た。この機械は耳の裏に装着すると、骨振動で相手と通信できる優れものである。


『えー、マイクテス、マイクテス。ウチや。聞こえとるか? オーバー』

『大丈夫。聞こえてるよ。オーバー』


 誰よりも先に下呂が反応し、遅れて原も返事をする。


「己にも聞こえている」

『正常に動作しとるようやな。最終確認やけど、このマイクは常に全員が聞こえるようにしとくこと。何か思念体絡みのトラブルとか、ダイナレッグの操作不良があれば、すぐ報告するように。ええな?』

「了解だ」

『うし、原君なら安心やな。他の奴らも作戦通りに頼むで。ほな、さいなら』


 結局、原が感じていた不審点を相談することはできなかった。いや、例え相談できても手遅れだ。せめて自分の予想が外れていることに賭け、原は大人しくスタート位置に並ぶ。


『長かった、長かったぞー! 泣いても笑ってもこれが最後! 学生生活の全てを懸けて、ついに戦いの火蓋が落とされようとしている!』


 最初からクライマックスに陥る実況者の外連味に押され、大会関係者の誰もが今か今かと、固唾を呑んでスタートが切られるのを待っていた。


「位置について、よーい……」


パァンッ! という空の銃声が轟く。


『始まったぁ! 次々と選手達が我先にとスタートしてい……かない⁉』


 堰切ったように捲し立てる実況者に反し、辺りが静寂に包まれる。まるで世界の時間が止まったと錯覚しそうな中で、原だけは冷静に状況を把握した。


「えー、作戦失敗。どうやら情報が外部に漏れていたようだ。オーバー?」


  * *


「なんやてぇ⁉」

『おーっと、開始直後から乱闘勃発だぁーッ! どのチームも身近な選手から手当たり次第に殴り倒して行くーッ! 一体、何が起こっているんだ⁉』


 実況者の状況説明を聞き、第3コースで待機していた川北はディスプレイを確認する。そして全く予期していなかった展開を目の当たりにし、為す術も無く唖然とした。


(アカン、もう既に事が起こってしまった後で、呑気に原因を考えている暇は無い。ここで必要なのは判断力や。迷っている間に死ぬ)


 そう自分に言い聞かせても、混乱して思考が整理できない。何が最善手となるか決めあぐねている内に、原が指示を仰いだ。


『とりあえず今は余計に体力を消耗しないよう、敵の攻撃を受け流している。それとも、こいつらを無視して作戦通りに強行突破するか?』


 当の本人が至って冷静でいると、こんなことで取り乱している自分がバカらしくなってくる。そう悟った川北は落ち着きを取り戻し、急激に冷めた視点で決断を下す。


「いや、そのまま守りに徹した方が得策やろ。好機を待つんや」

『了解した』

「それにしても、なんで誰もスタートしないんや……?」


 順序立てて推理しようとしたところ、今度は更田から通信が入る。


『やはり皆、崖の上を登った方が効率的だと気づいた、と思うのが自然じゃないか?』

「ドアホ。そんな姑息な手ぇ思いついても、本気で実行に移せるんはマコだけや。普通は良心の呵責に耐え切れず、無意識にシャッターが降りるもんやで」

『だけどよ、実際に現実で起こっていることだろうが』

「まだ全員が崖を登ろうとしていると決まったわけやない。もしも登ろうとしているのであれば、その情報を信じ得る何かがあったはずや。つまり、情報の流し方に特徴がある」

『その特徴って何だよ?』

「知らん。ただ一つ言えることは、その情報を流したアホが外野から混乱する状況を見て、ケタケタ薄汚く笑っとるということだけや!」


  * *


『スタート直後から大混戦! この展開を誰が予想できたであろうかァ⁉』

『儂には予想できたぞい』

『本当ですか不破博士! これは頼りになる! では、さっそく解説お願いします!』

『これは最初にライバルを蹴落とし、数を減らす作戦じゃな。本当は背後から奇襲……』

『おおーっと! なんと崖を登ろうとする選手が現れた! しかし、あえなく失敗! 投石されてバランスを崩した選手は下に落ち、無情にもライバル達にボコボコにされるぅ!』


 毛利が実況する通り、スタート地点の会場は選手達が入り乱れて攻防を繰り広げている。突然のバトルロワイヤルが発生し、観客席は大いに盛り上がっていた。


 まさに阿鼻叫喚の地獄絵図と化している中で、平常心を保つ原は自分達の作戦が外部に流されていたことに確信を持つ。


「覚悟しろォ!」


 背後からの強襲を受け、咄嗟に身を屈め後頭部の直撃を免れる。そのまま振り返りざま右ストレートを顔面に当て、相手を昏倒させた。


 今回は相手が攻撃する前に叫ぶバカだったから対処できたものの、この混戦の最中で全方位に意識を向けることはできない。いくら体が頑丈でも限度があると感じ始めた矢先、真正面から斉藤と遭遇してしまう。


 彼の戦闘力は前回の予選で、嫌というほど体が覚えている。ここで敵に回すのは厄介だと考えた原は、ある選択を相手に迫るしかなかった。


「斎藤君! ここは一時的に手を組んで戦線を切り抜けないか?」

「奇遇だな。俺も同じことを考えていた! お前なら安心して背中を預けられる!」


 互いの生存率を上げるため、即席でタッグを組む。背中合わせで目の前の敵にだけ意識を集中させながら、原は斉藤に質問をする。


「つかぬ事を伺うが、もしかして斎藤君も崖を登る作戦だったりするだろうか?」

「その通りだ! どうして分かった? まさか……」


 斉藤が全てを理解した時、実況席のマイクからハウリングがした。


『もう、いい加減に誰か走り出してくれぇ! なぜ、こうも頑なに誰も走りたがらない⁉』

『それはやはり、背後からの奇襲を警戒……』

『……いや、乱闘を避けるなら普通は崖を登るよりも、先に走り出した方が得策なはず! それでも危険を冒して崖を登ることを選択したということは、こいつら最初から崖を登るつもりでいたのかぁ⁉』

『序盤から自己完結やめて。これ解説役いる?』


 誰も彼もが博士の抗議を無視し、スタッフが毛利に一枚の原稿を渡す。


『……ただいま地形を調べましたところ、あの崖を登れば最短距離でゴールに着くことが判明しました! なんというピーナッツ戦法だぁ! お前らに全国まで勝ち上がってきたプライドは無いのかぁ⁉』


 毛利の煽りに対して選手達は聞く耳を持たず、依然としてスタート地点では暴動が続いている。この状況を打破し得るアクションを起こさなければいけないと考え始めた矢先、原の腹部から強烈な鈍い痛みが発生した。


「うぬぐぅ!」

「どうした原⁉」


 膝が地面に着くのを意地で堪え、斉藤に容体が変化したことを気づかれないようにする。


「なん……でも……ない!」


 大会前に最終チェックしたというのに、なぜか急に腹痛の波が覆いかかってきた。もしかしたら精神的なものが原因かもしれない。それ以外に心当たりがあるとすれば、川北が作った朝食くらいなものだ。


 とにかく今は目の前の事に集中しよう。この波が治まってから打開策を考えればいい。そう判断した時、頭上から甲高い笑い声が聞こえた。


「オーッホッホッホ!」

『この声は? 崖の上に人影が見えるぞーッ!』


 毛利が指摘した通り、この場にいた選手達が登ろうとしてた崖の上に、得意顔で構える木城町の姿があった。


「酷い有様ね。醜いったらありゃしない」

『彼は中央高校の木城町来現選手です! いつのまに崖を登り切ったんだ⁉』

「ノンノン。そんな野蛮な真似するわけないじゃない。ワタシは優雅に正規のコースを通っただけよ」

『実況者である私と会話できる余裕を見せつける! これが新時代の兎と亀だぁ!』

「アンタ達みたいな野蛮人は、そうやって汚く争っているのがお似合いよ!」


 どうやら彼は崖の上から、争う選手達の姿を見下ろす腹積もりらしい。その余裕綽々とした態度が気に入らなかった原は、斉藤から離れて崖の壁面に突進した。


「どうした原⁉ 血迷ったか⁉」

「己を踏み台にして崖を登ってくれ!」

「お前に何の得がある⁉」

「損得勘定で説明できん! 何も聞かずに登れ!」


 もう自分は駄目だ。さっきから腹痛の波が治まらない。仲間達には申し訳ないが、せめて自分を犠牲にすることで逆境を打ち破る。


 これは原の覚悟だ。無論、リタイアするつもりも無く、皆が登り切ってから自分も崖を登るつもりだった。斉藤さえ自分を踏み台にしてくれれば、他の選手も後を追って崖を登ろうとするはずだ。


「……全く、おかしな奴だ」


 しかし、斉藤は驚くべき行動に出る。原の肩に乗ったかと思えば、なんと自分も崖の壁面に手を着いたのだ。


「何をしている⁉」

「説明できんから何も聞くな」


 なんとも男らしい斉藤の台詞に、原は頭が上がらない。


「おい、お前らァ! 俺の屍を超えて行けェ!」


 斉藤の呼びかけに対し、どの選手も自分の事に精一杯で耳を貸さない。それでも斉藤はめげずに、今一度だけ喝を入れた。


「ここで互いの足を引っ張ったところで何も状況は打開せんぞ!」


 戦場を劈く怒号が響き渡り、ちらほらと動きを止める選手が現れる。原の身長分だけ高い位置にいる斉藤に視線が集まると、彼は待っていたように腕を天に掲げた。


「悩んでいる時間は無い! そんなもん、あの見下すオカマを殴るだけで充分だろ!」


 まるで扇動者のように選手を導く斉藤に対し、共通の敵として上手く利用させられた木城町は怒りに打ち震える。


「生意気ね……。二度と歯向かえないように叩き落としてあげるわ!」


  * *


「ダイナレッグを履いての調子は?」

「良い感じだよ。全く違和感が無い」

「そう」


 下呂は第二コースの待機場所にて、神崎から最後のメンテナンスを受けていた。それも完了して手持ち無沙汰になった彼は、現場の映像が流れるディスプレイに目をやる。


『鶴の一声で選手達が一致団結し、果敢にもピラミッドを形成して崖を攻略し始めたぁ!』

「……なんか凄いことになってる」


 ほのぼのと準備をしている自分達とは雲泥の差だ。これから自分も戦況の渦に巻き込まれる現実に、まだイメージが追いつけないでいる下呂だったが、それは起爆剤となり得る人物の登場によって杞憂となる。


「君、束ちゃんだよね。まさかエンジニアだなんて思わなかったよ。いい腕してるね」


 医王山灯籠である。もう既に化けの皮は剥がれているというのに、性懲りも無く神崎の手を取って口説こうとしていた。


「とても綺麗な手だ。肌も白くてスベスベしてるし、どことなく良い香りがする」


 その紳士を通り越して変態じみた行為に対し、下呂の憤怒メーターは瞬時に振り切った。


「おい、セクハラ魔。その手を離せ」

「誰だテメー? 男は邪魔だ。殺されたくねーなら帰れ」

「試合前に劣情してんじゃねーぞ。犬かコラ」


「あー? 誰かと思ったら、あの時の雑魚野郎か。おもしれー頭してっから分かんなかったぜ。やっぱ地味な奴はこうでもしねーと顔覚えてもらえねーもんなぁ」

「次からモヒカンを見る度に俺を思い出せるよう教育してやるよ。俺は物覚えが悪いバカに対しても親切なんだ」

「……大会が終わった後も、無事に島から出られると思うなよ」

「脅しか? 犬はよく吠えるなぁ。あ、犬に失礼か」

「例え帰れたとしても、住所と家族構成を調査して徹底的に追い詰めて潰す」

「そればっかだな。二度と吠えられないように去勢してやる」


 説明しよう。下呂はモヒカンにされたことで気性が荒っぽくなるが、その反動で自分がモヒカンだという事実を客観的に見つめることが可能なのだ。

 ゆえに、その場から医王山が立ち去った後で、ゆっくり神崎に振り返り呟く。


「どうしよ?」


  * *


「怯むな! ドンドン突っ込め!」

『選手達が己の身を犠牲にして、そそり立つ肉ぼ……いや肉壁を形成するぅ! 見ているだけで暑苦しいぞぉ!』

「無駄な足掻きよ!」

『その肉壁を伝って崖上を目指すも、木城町選手が侵入を許さない! 一寸の狂いも無く、的確に選手達を撃墜していく!』


 毛利の正確な実況によって、現場の状況が分かりやすく把握できる。だが、観察眼に優れている彼女であっても、不可解な現象は説明できない。


『ところで博士。木城町選手のダイナレッグから出ている、鞭のような物体は何ですか?』


 待ってましたと言わんばかりに、不破博士は咳払いをしてから答えた。


『おそらく植物の蔓じゃろう。ダイナレッグに種を仕込んでおけば不可能ではない』

『いや、当たり前のように言われても知らないですし。ちゃんと解説してくださいよ』

『あれは活性化の能力じゃな。もとい、彼は成長として……』

『ちょっと待ってください。その話、長いですか?』

『まぁ、そこそこ……』

『おおーっと⁉ 試合展開に動きが見えた!』

『誰じゃ! この小娘を呼んだのは⁉』


 膠着状態だった戦場に兆しが差したのは、毛利が着目する少し前のことだ。


「なん、なの、よ! しつ、こい!」


 木城町来現はダイナレッグから伸び出る鞭で、崖を登る選手達を次々と叩き落とす。最初に廟から聞いた時は半信半疑だったが、今ではダイナレッグの秘めたる可能性を実感していた。


 彼にとって勝利の美学とは、圧倒的な大差を広げることにある。幼い頃から同世代や年上を相手にしても、運動・勉学・美的センスで上回る彼は勝つことが当たり前だった。そして、いつしか勝ち方に美しさを求めるようになる。


 だからこそ、木城町はダイナレッグの力に酔い痴れていた。この特別な能力で、何も持たない凡人達を蹂躙することが可能だ。


 しかし、彼は見下していた選手達に追い詰められようとしていた。どれだけ蹴落としても這い上がってくる相手に、焦りと恐怖を感じて視野が狭まる。


「いい加減に諦めなさい!」

「諦めるなんて死ぬまでない」


 横の死角から原が飛び出す。そのまま木城町にタックルし、一緒に崖から飛び降りた。


「何をッ……⁉」

『これは、もしかして、かの有名な……』


 空中にいながらも原は木城町の足をホールドさせ、着地の衝撃がダイレクトに伝わる必殺技を繰り出す。


『決まったぁーーッ! 禁断の筋肉バスターが炸裂したぞぉーーッ! なんて美しいんだ!』


 白目を剥いて失神する木城町を地面に放り投げ、原は我先にと崖を登る選手達を眺める。便意の波が治まるのを待ち、そっと肉壁から離脱して意表を突くのは成功したものの、失った代償は大きかった。


(……血? 泥……)


 ぶり返す便意に悩まされ、人知れず野グソを覚悟していた原は、地面に横たわる木城町の意識が戻ったことに気づいた。


「様子がおかしい! 崖を登るなら急げ!」

「そうはさせるかァァアアアアーーーーッ!」


 木城町が叫びながら立ち上がると、崖の壁面から一斉に蔓が生え出し、逃げ遅れた選手達を薙ぎ払うように一掃した。


『あの、崖から蔓が生えてきたんですけど。あれも選手の力なんて言わないですよね?』

『ご名答。ダイナレッグを通して成長を促し、木の根っこを伸ばしたのじゃろう』

『次、意味の分からない解説をしたら、残り寿命もぎ取って、年金を取り上げますからね』

『どっちかにしてぇ! ツッコミが定まらないのぉ!』


 役に立たない実況席を無視し、木城町は一目散に崖を登り切った。


「最初からアンタ達を相手にする必要ない! アタシがゴールしてから、ゆっくり料理してあげるわ!」


 そう言い切るや否や、彼は脇目も振らずにゴールへと走り出す。圧倒的な大差を見せつけるはずが、泥を塗るような醜態を晒しては仲間に会す顔が無い。


 この大会で彼が望むものは、海外への留学である。持ち前の美的センスを磨き、将来は服飾デザイナーになることが目標だ。もはや夢を掴むのは時間の問題だというのに、その背後からは死神のように追いかけてくる原の姿があった。


「どうして追って来れるのよ⁉」

「迂闊だったな! 蔓のおかげで登りやすかったぞ!」


 普通なら木城町との距離を詰められるほど、原の足は速くない。だが、原は便意を催すと俊敏になる特性があり、それが不可能を可能にしていた。


「これでもくらいなさい!」

「うおっ⁉」


 木城町はダイナレッグから伸び出た蔓を切り離し、それを器用に原の足に巻きつける。バランスを崩した原は頭から派手に転倒し、腹部を強く地面に打ち付けた。


(しまった、今ので便意の波が押し寄せて……)


 肛門括約筋を引き締める。野グソをする一刻の猶予も無い。

 この状態でゴールした後の木城町と戦うのは無謀だ。なんとしてでもゴール前に決着をつけようと足に手を伸ばした時、なぜか蔓が捻じ切れていることに気づく。


「原! 何を惚けている⁉ 早く木城町を追いかけろ!」


 同じく足を蔓に絡め取られた斉藤の言葉で、思考に耽りかけた原が我に返る。今は理由を考えている場合じゃない。すぐに立ち上がり、再び木城町を追う。


「待てぇい!」

「またアナタ? 待てと言われて待つバカはいないのよ!」


 先程と同じように、木城町は足を狙って蔓を切り離す。だが、今度は原の足に巻きついた途端、その蔓が捻じ切れる現象が起こる。


「どうしてアタシの能力が通用しないの⁉」


 何も無かったかのように猪突猛進する原に対し、木城町は驚愕を隠し切れない。もしかしたら能力を使いこなしつつあると考えた彼は、アドバンテージを失ったことで原と直接対決する道を選ぶ。


「ええい、能力を使うまでもない! ここで始末してあげるわ!」


 木城町は走りながら裏拳、回し蹴りの連続攻撃を繰り出す。だが、原は亀のように身を丸めて防戦する一方である。


「あれだけ威勢が良かったくせに、まるで反撃しないのね! 醜い、醜いわよ!」


 反撃しないのではなく、反撃できないのが正しい。少しでも腹部のガードを降ろしてしまい、万が一にもボディブローを受けてしまったが最後、その場で原は戦闘不能に陥るだろう。


 予選の暑い夏でも、原は同じ状況に追い込まれた。周囲からの重い期待と、それを脱ぎ捨てた時の快感は忘れられない。だが、過去と現在とでは大きく異なる点がある。それは自分がクソを漏らしたとして、何も変わることのない仲間の信頼だ。


 ならば、いっそのこと、全力を出し尽くそう。


「フンっ!」

「気張ったところで何が……え?」


 異変を感じ取った木城町は硬直する。その隙を原は見逃さず、あらん限りの力を腹部に集中させた。


 怪物が産声を上げる。


「うおおおおおおおおおおおおおおおーーーーッ!」


 原の咆哮が一頻り止んで森が静寂に包まれた後、辺りに漂う臭気で何が起こったか理解した木城町は恐れ戦く。


「しょ、正気なのアナタ? ここで脱糞するなんて、美醜の問題以前に、人間としての品性が下劣よ!」


 身の毛を弥立たせる木城町とは対照的に、原は穏やかで堂々とした態度を見せる。


「ああ、確かに己はウンコを漏らした。だが、この場で己より清廉な奴はいない」

「意味が分からない! 矛盾してるわ!」

「説明が必要か? なら証明してやる。かかってこい」

「いやぁ! 近寄らないで!」


 咄嗟に鞭を放つも、原の前では無力と化す。原は迫り来る鞭を物ともせず、木城町のボディに渾身の正拳を放った。


(なんで? どうして太刀打ちできないの……?)


 体をくの字に折り曲げながら、木城町の精神に絶望が訪れる。そんな彼に原は耳打ちした。


「どうだ? 真実を知るのは死ぬほど怖いだろ?」


 認めるわけにはいかない。自分が自分でなくなってしまいそうな虚無感に抗い、木城町は倒れるのを踏み止まった。


「ふざけないで! 洗練された技術こそが人間の叡智よ! アナタのような野蛮人に、この美しいワタシが負けるはずがないわ! いいえ、負けることは許されないのよ!」

「美しさや、綺麗さや、潔白さしか見えないような奴は、醜さや、汚さや、不快さを忘れたいだけだ! それを乗り越えてこそ人は生命力に溢れる!」

「わけが分からない!」

「わけが分かって生きている人間などいない!」


 もはや言葉は不要だった。決別した二人は拳を交わす。

 木城町が繰り出す右フックを、原は絶対に避けないし後ろにも引かない。そして原は返す刀のアッパーで木城町の顎を打ち砕き、ガラ空きになった脇腹に膝蹴りを当てる。

 地面に転がった木城町は起き上がる気力も失せ、恨めしそうに原を見上げた。


「……どうしてワタシを陰鬱にさせるの?」

「それも分からん。ただ己が生きている内に、生きてて良かった気持ちを誰かと一緒に味わいたかっただけだ」

「ワタシの価値観を崩壊させといて言う台詞……?」


 仰向けになった木城町は青い空を見る。思えば運動では水天宮と千光寺に敵わず、勉学では廟と医王山に敵わない。だから自分は消去法でデザイナーの道を選んだ。戦って負けるのが怖かった。


 しかし、絵だけは譲れない。その譲れない物を自覚した時、戦って負けることの恐怖よりも、戦って勝つことの欲望が優先された。非常に浅ましい感情だと思いながらも、それこそ人間として当然の尊厳だと納得したのも事実だ。


「……やられた。抜け目ないな」


 原は溜息を吐く。木城町が襷をかけていない事に遅まきながら気づいたのだ。どうやら既に植物の能力を使い、襷だけ次に繋げたらしい。


「また会った時は覚悟しやがれ」

「受けて立とう」


 木城町の捨て台詞に応え、原はゴールを目指し走り出す。すると川北から通信が入った。


『原君、ごめんなぁ……。実はウチ、半谷のアホに唆されてなぁ……』

「安心しろ川北! ぴっちりブリーフだから走って実が溢れることはない! オーバー!」

『そんな心配はしてなかったけど、細心の注意を払え!』

「マコは心配性だな! オーバー!」


 笑いながら走るなんて初めての経験かもしれない。きっと、その先には仲間が待っているからだろうと思いながら、原は次の走者に襷を託す。


「一郎! 後は任せた!」


  * *


「日朗だボケぇ!」


 原から襷を受け取り、下呂は威勢よく第二コースをスタートする。しかし、走り出してから一分もかからない内に、医王山灯籠が待ち構えていた。


「よう、約束通り殺してやるぜ」


 相対する強者と弱者。もはや激突が避けられない状況で下呂が取った行動は、まさかの素通りである。勿論、医王山が見逃すはずもない。


「俺から逃げられると思ったか?」

「思うね!」


 下呂は元気よく答え、後方へ向けてローリングソバットを繰り出す。相手の油断を突こうとする作戦だったが、医王山は下呂の蹴りを片手で受け止めた。


「大法螺吹き野郎の考えてることなんざ、お見通しなんだよ!」


 そのまま医王山は下呂の足首を掴み、地面に強く何度も叩きつける。下呂は受け身を取ることもできず、なすがまま空中に投げ飛ばされた。


(ヤバい、身動きがとれ……)


 側頭部に閃光のような回し蹴りがヒットし、下呂の思考が強制的に遮断される。その代わりに走馬灯が流れ、幼い頃に海で波に呑まれた記憶が甦った。


「けっ、口先だけのクズ野郎が。そのまま死んでろ」


 医王山は地に伏せた下呂に見向きもせず、唾を吐き捨てて先に進む。その際にダイナレッグが変形し、なんと足元から火を噴いて空を飛んで行く。


 さも当たり前のように飛ぶ様子を見て、実況の毛利はポカーンと開いた口が塞がらない。


『え、不破博士。ダイナレッグって空を飛べるんですか?』

『飛べるぞい。修練すればのう。元からホバリング機能は付いとったが、彼は自分の能力を上手く使いこなしているようじゃ』

『火とか出てますもんね。……もしかして、あれダイナレッグじゃないでしょ?』

『いきなり何を言い出すんじゃ⁉』


 実況席が騒いでいる一方、選抜チームは倒れている下呂へエールを送っていた。


『立て! 立つんやジョーっ!』

『出落ち! 当て馬! 噛ませ犬!』

『起きろモヒカン!』

「あんたらがモヒカンにしたんだろ!」


  * *


「大丈夫?」


 ゴールしたものの近寄りがたい原に対しても、神崎は毅然として労わる。


「このくらい屁でもない。それより次郎は?」

「……誰?」

「おいおい勘弁してくれ。下呂だ。下呂次郎」


 この場にツッコミ役はいない。本当に屁以上の物が出ていたとしても、それには触れないでスムーズに話が進む。


「なんとか起き上って走り出したみたい」

「流石だな。さて、サーバの鍵となる思念体を探すという話だったが、第一と第二走者の中で発見できたか?」

「いいえ」


 神崎の目的は全ての思念体を抹消すること。彼女によれば思念体はデータベースサーバに保存されているため、博士達が大会に気を取られている隙に破壊するのが作戦だと言う。


 また、データベースサーバはコンテナの中にあり、それを開けるにはアクセス権限を持つ思念体が鍵になるとのこと。なぜわざわざ思念体を鍵にしたのか、面倒な仕様になった理由は彼女も知らないらしい。


「ふむ。よければ鍵の特徴を教えてくれると助かる」

「思念体である鍵に視覚から得られる情報は無い」

「それでは、どうやって他の思念体と見分ける?」

「ダイナレッグの使用者がマヌカンであれば、自然と思念体の力を引き出せるようになっている。その浮上した力の源を辿っていけば、いずれマヌカン同士の繋がりで感知できるはず」

「だが、木城町や医王山のように力を引き出し、使いこなしている選手は稀だ。中には実力を発揮する前にリタイアするチームも出てくるだろう。後手に回っていては難しいぞ」

「考えはある。あなたは引き続き思念体のデータベースサーバを探して」


  * *


『死の淵から生還した下呂選手! 今ようやく第二ステージへ辿り着きました!』

「……なんて実況者が言うから、血眼になって探してるよ」


 仲間からの不本意な罵倒で奮い立った下呂は、ダメージを引き摺りながらも工場ポイントまで辿り着く。だが、まだ下呂が生存していることを知った医王山が、能力で空を飛びながら索敵しているのだ。


 幸いにも旧市街地は隠れやすい場所が多いものの、おかげで誰も工場地帯を脱出することができない。無策で先へ進もうと飛び出せば、たちまち医王山の餌食になってしまう。


 真正面から戦うことも、逃げることもできない板挟みの状態で、第二コースは互いに出し抜こうと隙を窺う冷戦へと突入した。そんな時、下呂の背後から忍び寄る影が現れる。


「おい、話がある。そのまま聞いてくれ」

「確か……予選で戦った中村君?」

「そうだ。医王山がいるせいで下手に動けない。ここは一つ共闘しないか?」

「魅力的な提案だけど、どうして自分なの?」

「たまたまいたのと、面識あった方が話がスムーズだろ?」

「分かった。具体的な作戦はある?」

「ああ。だが、ここで内緒話をしていては目立つ。まずは建物の中に隠れよう」


 隠れて移動するなら抜き足差し足が普通だが、中村の狙いを先読みした下呂は全力でダッシュしていた。そう、彼は基本的に人間不信で、目を見ただけで嘘を見抜くことができる。


「下呂がいたぞ!」


 背後から中村の密告する声が聞こえた頃には、もう既に下呂は建物の配管に滑り込んで地下へと移動していた。


「ここはどこだ?」


 頭上から響く悲鳴を無視し、下呂は状況の把握に努める。地下室には光が差し込まず、数台のパソコンと大きなモニターの光源があるだけだった。


「……通信が途切れてる」


 仲間の指示も仰げない。とりあえず自分だけで探索しようとしたところ、そもそもパソコンが起動していること自体が不自然な事に気づく。


「誰か使ってたのかな?」

「あのー?」

「うわっ! 誰⁉」

「あ、敵ですけど、敵意は無いっす。どうか警戒心を解いてください」


 現れたのは下呂の全く知らない人物だ。どことなく人懐っこい顔をしているためか、するっと下呂のパーソナルスペースに入り込んできた。


「申し遅れました。俺は総武高校の茨っす」

「……大江戸高校の下呂です」

「あー、もしかして医王山選手に追いかけられてる、あの下呂さんっすか?」

「その下呂です」

「ということは、更田先輩と同じチームなんすね! よければ手を貸しますよ!」

「君に何のメリットが?」

「ここで更田先輩に恩を売っときたいだけっす。他意は無いっす」


 他意はバリバリありまくりだろう。だが、自分に不利益は被らないと考え、下呂は茨の助力を快く了承する。


「じゃあ、お願いしようかな……」

「お任せあれ! いやー、ここにダイナレッグの秘密がありそうなんすけど、機械音痴なもんで困ったてたとこなんすよねー」

「どうしてダイナレッグを調べる必要があるの?」

「やだなー。中央高校のプレイを見て変に思いません? 植物が生えたり、火が出たり普通じゃないっすよ。でも、そもそもステーション自体が普通じゃないんすよね。わざわざ第二コースを御誂え向きな旧市街地にするってことは、もう主催者側から調べてくれって言ってるようなもんじゃないっすか。つまり情報戦っす」

「なるへそー……。あ、このファイルかな?」

「すげぇ! 簡単に開いた!」


 そりゃあダブルクリックすれば誰でも開くだろう。頭が良いのか悪いのか分からない茨に首を捻りつつも、下呂は目ぼしいアプリケーションを起動する。


「そのタッチパネルに手を翳すと能力が判明するらしいよ。やってみて」

「はい! どうっすか?」

「空圧だって。じゃ、次は自分が」

「エラー測定不能です! すげぇ、なんて計り知れないんだ……」


 おそらく体内のプロテクターが機械のセンサーを阻害しているのだろう。だが、茨は勝手に敬っているようなので、あえて下呂は種明かしをしなかった。


「で、どうやって使うんです?」

「イメージさえ掴めれば能力が使えるそうだよ」

「空圧のイメージって、なんか微妙っす……」

「じゃあ、あの道具を……いいこと思いついた」


  * *


「なんや? 誰か下呂と通信できとるか?」

『いや、全く通じん』


 原との通信は問題ない。なら下呂に何かアクシデントが発生したのか? 仲間らしく川北が彼の身を案じていると、同じく第三走者の水天宮が話しかけてきた。


「何か困ってる?」

「ああ、アンタんとこのボス猿がええ気になっとるさかい、レースが展開せんで退屈してたとこや」

「これからだよ、これから」

「ウチの下呂に執心しとるけど、アンタ等からボス猿に先進めって命令せんのかい?」

「それこそ退屈さ。ただ第二コースが終わるだけになってしまう。廟からも自分のコースは好きにやれと言われているし、オレ自身も大会は面白い方が良い」

「第一コースの情報をリークしたのもアンタか?」

「ご名答。いやー、あれは傑作だった。実に盛り上がったろう」


 全く悪びれていない態度に、川北は腸が煮え繰り返る想いをするも堪える。一時の感情に流されず、相手から情報を引き出す方が優先だ。


「……何が目的や」

「ただ面白くしたいだけさ。オレ達は勝ちに拘るのではなく、勝ち方に拘る。それだけで難易度はグッと上がる。昔のキサマや、更田真虎のようにね」

「アンタと一緒にすんな。他人を何やと思っとんねん」

「別に何とも。強いて言うなら……玩具?」


  * *


「これ下手したら死にますって。ってか空圧って、こういう使い方じゃないと思います」

「他に方法は無いよ。いいからやってくれ。余計な事は受賞してから編集者が考えるんだ」

「……了解っす。どうなっても知りません、よ!」


 茨が工場の廃材を掻き集めて作った大砲、もとい土管の底を蹴る。すると土管の中に入っていた下呂が射出され、上空に高く、医王山に向けて飛び上がった。


「あががががががッ!」


 生身の体で空気砲の衝撃に耐えられるわけもなく、激痛で悲鳴をあげようにも顎が揺れて声にならない。遊園地の絶叫マシーンを超える恐怖体験に意識を失いかけるも、目前にターゲットを補足して気を持ち直す。


「な、どうやって……ッ⁉」


 狼狽する医王山。そもそも彼は敵を倒しに行く際に、わざわざ地面に降りたことで下呂は怪しいと感じていた。つまり、医王山は空を飛んでいる間はダイナレッグの制御に夢中で、攻撃にまで手が回らないのだ。


「地獄に落ちろぉ!」


 下呂の痛烈な飛び蹴りが、医王山を貫くように命中する。そのまま二人は縺れ合うように地上へと墜落した。


『ロケットで上空に飛び上がった下呂選手が、豪快に医王山選手を叩き落としたぁ! ついに破れる拮抗! まさに無鉄砲! 普通だったら死んでるぞぉ! 博士、なぜ彼は無事だったのでしょうか⁉』

『彼は過去に事故で意識不明の重体に陥り、生命維持のためにプロテクターを体内に移植手術したようじゃ。見た目とは裏腹に頑丈なのじゃろう。後、ダイナレッグの効能で耐久力がアップした可能性もあるぞい』

『おっと、ここにきて真面な解説が聞けたぁ! でも、ちょっと選手に対して詳しすぎてキモいぞぉ! さり気なく製品をPRするのも下手だぁ! あざとい!』

『儂にどうしろと⁉』


 実況席の漫才とは無関係に、下呂と医王山はフラフラしながらも立ち上がる。


「……この俺を、ここまでコケにしてくれたのは、テメーが生まれて初めてだぜぇ!」


 今にも血管が破裂しそうな医王山の怒り狂った眼光を、下呂は真正面から受け止めた。


「もう自分は、自分が弱いことを理由に逃げない! かかってきやがれ!」


 口火を切った瞬間、医王山の飛び蹴りが下呂の顔面に直撃した。咄嗟に後ろへ飛んで衝撃を逸らすも、首の可動域を超えて重大な負荷がかかる。それでも下呂は地面に踵を引っ掛け、意地でも倒れないように踏ん張る。なぜなら、次の攻撃に対応するため。


 医王山の蹴りはダイナレッグのブースターを利用した推進力で、下呂の目からは足が急に巨大化したような錯覚さえ起こす。だが、下呂は瞼を閉じずに紙一重で連撃を避ける。


 最初こそノーモーションからの攻めに驚いたが、ボクシング経験者である下呂の目は速さに慣れていた。ブースターでの蹴りは大振りで粗く、下呂からすれば扇風機みたいに回転しているにすぎない。むしろダイナレッグを履いていない方がコンパクトに立ち回れていただろう。


 気持ちで負けなければ勝てる。そう確信した時、なぜか唐突に医王山が距離をとった。


「死んでも死に足りねーようだなぁ!」

「まだ死に切れないんでね……」


 そう減らず口を言うと、今度はブースターを使用せず医王山が突進してくる。だが、先程よりも格段に動きが遅い。これなら一過性とはいえ、研ぎ澄まされた感覚で対処が可能だ。


 しかし、医王山には真の狙いがあった。それに下呂が気づけたのは、余裕を持って蹴りを受け流した時だ。ブースターの噴射口が自分に向いているのである。


 次の瞬間、一切の情け容赦なく爆炎が下呂を襲う。波に呑まれた幼い記憶など比にならず、固い地面の上をゴロゴロと大車輪のように転げ回り、最後は建物に激突して壁を崩壊させることで止まることができた。

 その無様な姿を見て、医王山は高らかに笑う。


「ハハハァ! ザマー見ろ! この世は力だ! 暴力だろうが権力だろうが、強い奴が生き残る! それも分からねーで雑魚が楯つくなんざ考えられねぇ!」


 医王山の実家は病院であり、彼は唯一の跡取り息子だ。学力的にも身体的にも恵まれ、親からの期待にも応えられる能力を持つ。だが、何一つとして不自由のない暮らしをしてきた彼にも、どうしようもできないことがあった。人の心だ。


 幼い頃から突出した才能を発揮していた彼は、他人の意志を軽んじる癖があり集団から孤立していた。それでも彼は自分が正しいと思っていたからこそ、数の暴力を単一の力で捻じ伏せる。いつしか彼にとって、刃向う者は支配の対象となった。


 成長した現在では、悪のカリスマによって人を従わせることができる。だが、その権威は暴力によって打ち立てたものであり、今更になって本質を入れ替えることはできない。


「そう……だから君のような人間が程度の低い小悪党に成り下がる」


 朦朧とする意識の中で、下呂は満身創痍のまま立ち上がろうとする。そして鋭く敵を見据えるも、その膝はガクガクと震えて言うことを訊かない。


「言ってろクズ! とんだイカレ野郎だぜ!」


 この世には正義があり、自分の行いにこそ善があると思い込んでいる奴ほど救いようがない。人の話を聞いても理解できず、どんな脅しにも屈しないバカに対し、医王山は徹底的に牙を折る必要があると経験則で知っていた。


 すかさず医王山はダイナレッグのブースターを起動し、動けないでいる下呂との距離を一瞬で詰め、そのまま彼を踏みつけるように上へ乗りかかる。体を倒された下呂は抵抗する力さえ残っておらず、まるで他人事のように最悪の未来を予測していた。


「終わりだ」


 そう宣告する医王山の言葉には感情が込もっていない。潔く負けを認めない相手の方こそ悪いのだと、自分を正当化させるために言い聞かせているようだ。


 絶対悪であるはずの医王山が罪の意識を持つ? その不自然さに下呂が口を開きかけた時、ブースターの火炎がゼロ距離で噴射された。


 あまりの激痛に叫び声が上げられない。燃やされた酸素を吸い込んでしまい、声帯ごと喉を焼き尽くされる。その熱気が肺にまで届き、体の内側から水分が蒸発していく。


 想像を絶する苦痛から逃れようと、必死に地面を転がるも効果は無い。何もできない。手も足も出ない。打開策も無い。救いも無い。そして次第に胸の内を占めていく無力感とは別に、胃の奥から込み上げてくる吐き気が襲う。


 本選で恥を晒すわけにはいかないと我慢するが、肉が焦げる匂いに鼻孔が刺激され、ついに下呂は堪えきれず盛大に嘔吐した。その吐瀉物の中に今日の朝食を発見し、下呂は自嘲気味に笑う。予選での失態を反省して食事を避けていたのにもかかわらず、川北が食べ物を強引に口へ突っ込んだのである。


 仲間の存在はプレッシャーにしかならないと思っていた。それなのに今は気が楽だ。どうやら考え方が凝り固まっていたのは自分の方らしい。意識が鮮明になると、自然と周囲の音も聞こえてくる。


『……博士、今なら弁明する機会を与えますよ?』

『何が?』

『まさか兵器を開発していたなんて予想外でした。どうか自首してください』

『誤解してるぞい⁉ あれは使い方が極悪なだけ! ダイナレッグに罪は無い!』

『――などと容疑者は述べており、改心する様子は一向に見受けられません』

『問題発言じゃ! 放送を止めい!』

『私は情報操作に負けない――』


 そうだった。アホらしい実況席の会話に気づかされる。自分はバカなのだ。バカはバカらしく、愚直に信じた道を突き進めばいい。無駄に派手である必要はない。また、過激な変革を望む必要もない。


 今は単純に、立ち上がることだけに意識を注ぎ込め。相手は巨悪ではない。蓋を開けてみれば、ただの凡庸な悪だった。悪は弱さから生まれる。ならば、自分も凡庸な正義でいい。小さな勇気を積み重ねて行こう。


 正義が心に語りかける。


「待て」


 もう何度、こうして立ち向かったかは数え切れないが、今度は虚勢ではない。地に足がつき、ダイナレッグを通して体の中心へとパワーが漲ってくる。


「いい加減にしやがれ! テメーはゾンビか⁉ そのまま死んだフリしとけば、少しは利口だろうが!」

「生きる理由は無いよ。だけど死ぬ理由も無い」

「俺には死にたがっているようにしか見えねぇんだよ!」


 プライドを傷つけられた医王山は怒り狂い、暴力の権化となって襲いかかる。得意のブースターで距離を詰めながらの飛び蹴り。だが、その攻撃を下呂は最小限の動きで躱し、さらに拳を合わせた。


「ぐおッ⁉」


 下呂の拳が医王山の顔面にクリーンヒットする。超スピードの中にいた医王山はショックで混乱するも、すぐに下呂が自分の射線上に拳を置いただけだと推測した。


「……こんのカスがぁ!」


 最短距離を行く直線的な攻撃から、医王山はブースターから噴射される火炎での攻撃に切り替える。反動で連発はできずとも、範囲と威力がズバ抜けて高く、使い勝手の良い能力は彼の自慢だった。それゆえに、その自信は脆く崩れやすい。


「何が一体どうなってやがる⁉」


 赤々と燃え盛る爆炎の中、下呂は陽炎のようにユラユラと立ち尽くしていた。彼自身、なぜ炎を受けて無傷でいられるのか分かっていない。だが、そんなことは無関係だ。元より彼は刺し違えてでも戦う覚悟があり、炎に対する恐怖心を乗り越えている。


 底知れぬ不気味さを感じた医王山は爆炎を撃ち止め、単純な肉弾戦へと移行した。最初に目撃した喧嘩での、ハンマーのように打ち下ろす拳骨。それこそ下呂が狙っていた、待ちに待った勝機である。


「自分で自分を殺すのは、もう沢山だ!」


 瞬時に鞘から刀身を抜き出す、居合切りのイメージで下呂は拳を振るう。上から迫り来る医王山の拳と交錯させ、下呂は下から斜めに突き上げるようにして、相手の顎を目掛けカウンターを当てる。


 ひ弱な下呂がボクシングを始め、最初の課題となったのはパンチ力だ。それを補うために彼は相手の力を利用する、カウンターを己の武器として磨き上げた。正義の活動に挫折してからは使えないでいたが、タイミングとハートが合わさる今は失敗する気がしない。


 脳味噌を揺らされ、首から脊髄が寸断された医王山は、まるで糸が切れたかのように倒れる。もはや決着はついたと判断した下呂がゴールへ向けて走り出すと、その背中を呼び止める声がした。


「許さねぇ……ッ!」


 怖気がした下呂は反射的に振り返る。そこには気絶していたはずの医王山が、必死に立ち上がろうと鬼の形相で下呂を睨んでいた。復活する前に止めを刺そうにも、なぜか下呂は金縛りにあって身動きできない。


 しかし、心配は杞憂に終わる。医王山は立ち上がれなかった。意識を失いながらも短時間で目覚め、すぐに起き上ろうとしたのが逆効果だったのだ。脳と体の連携がとれていないのか、その動きはぎこちなく、顔色が真っ赤に染まっていた。やがて紫に変色すると、とうとう白目を剥いて失神する。


 下呂は目が離せなかった。まるで医王山の脳に、別の意志が働きかけているようだ。だが、今は余計な事を考えず、走ることに集中しなければいけない。もうゴールが目と鼻の先にあろうとも、まだ道は続いている。


 せめて自分が抱える不安を悟らせないように、次の走者へ襷を手渡すのが精一杯だった。まだゴールではない。この後も自分にできることがあるはずだ。そう信じて。


「川北さん! 頑張って!」


  * *


「アンタが気張れ! このハゲ!」


 下呂の激励を投げ捨てるように、襷を受け取った川北は勢いよく走り出す。なぜなら、実は既に医王山は空を飛んでゴールしていて、先に水天宮がスタートしてしまったからだ。ステーションという競技は、本人に余力さえあればコースの妨害行為が可能なのである。


 明らかに労力と結果が釣り合ってない。だが、そんな文句を面と向かって本人に言えるわけもなく、ムカムカした川北は最初から全力疾走する。


『第三コースは大きな湖! 水上アスレチックの上を走る特殊なコースですが、なぜこのような障害を設置したのでしょうか?』

『皆様も既にお気づきかもしれぬが、サッシュメントステーションはダイナレッグの扱い方を非常に重視しておる。第一コースが単純に肉体、つまりダイナレッグの適性を見極めるものだとすれば、第二コースは頭脳じゃな。ダイナレッグに対する情報収集能力と、洞察力を試すのが目的じゃ』

『じゃ第三コースはテクニックですかねー、はいはい』

『話を聞き流すでない!』


 実況席の重要そうでアホらしい話を聞き流しながら走って行くと、ようやくポイントの水上アスレチックまで着いた。川北は全く臆することなく、地上と同じスピードで丸太の上を疾走して叫ぶ。


「水天宮はどこや⁉」


 あの愉快さを求む女が自分をスルーするわけがない。絶対に何かを企んでいるはずだ。それなら最初に不安要素を叩き潰す。


「お命ちょうだい!」


 水天宮にばかり意識を集中させていたせいで、他チームからの強襲に気づくのが遅れた。その一瞬がステーションでは命取りだが、川北は選手の姿を目視することなく、声がした方向に後ろ回し蹴りを放つ。


「モブに用はあらへん!」


 アウトサイドから首を刈り取る様な足刀が命中し、相手は頭から湖へと撃沈した。当の川北は何事も無かったかのように、涼しい顔で先へと進む。


 第三コースの水上アスレチックは、トーナメント表のように入り口から出口が窄まる構造になっている。つまり、湖を脱するルートが限られてくるため、他選手との遭遇率が高い。


『選抜チームの川北選手、並み居る男共をバッタバッタと薙ぎ倒して行くーッ!』


 実は水上でのバランス感覚よりも、単純に戦闘力が重要であるコースで川北は好成績を残していた。決して相手が弱すぎるわけではない。むしろ全国レベルの猛者だ。


 それでも川北が女性として異常とも言える強さを誇っているのは、一重にダイナレッグの扱い方である。この競技はダイナレッグを、どれだけ上手く使いこなせるかで差が開く。


「そこで何しとる⁉」


 ステーション全体でコースの中間地点を折り返した頃、ようやく川北は水天宮を発見する。彼女はアスレチック上におらず、湖の中央付近で退屈そうに佇んでいた。


「キサマを待っていた」

『惚れてまうやろーッ!』

「やかましいわ! 会話に入ってくんなブス! おい、ウチを待ってたんなら、さっさとかかってこんかい!」


 野次を飛ばす毛利を一喝し、川北は正面から水天宮を睨み付ける。その視線を受け止めて水天宮は優雅に、そして意気揚々と対峙した。


「そうするとしよう」


  * *


「強行猥褻罪で逮捕する」


 第四コースの待機場所で、いつも以上に真剣な面持ちの千光寺が半谷に詰め寄っている。なぜなら自分の出番前で気が立っている……ではなく、半谷が女装姿でレースの準備をしていたからだ。


 しかも女装のクオリティが低い。スカートが短すぎて男物のパンツが見えているというのに、彼は周囲に見せびらかすようにストレッチを行っていた。


「誰が歩く猥褻物ナリか」

「自覚はあるようだな。話が早い」

「オイラから溢れ出る色気が童貞君を発情させたっちゃ?」

「前言撤回。ふざけているのか?」

「本気だったら許してくれる?」


 半谷から謎のウインクを受け、千光寺は男としての何かが萎えた。多少なりとも戦意が削がれた彼は、今ばかりは変態に対しても寛容な態度を覗かせる。


「許すかどうかは俺が決める事ではない。だが、少なくとも女装して大会に出場するのは変態行為だ。潔く自首しろ」

「まだ始まってもないぶぁい」

「そうだ。始まる前に終わるんだ。あの女は水天宮に決して勝てない」

「なんで?」

「単純に実力差だ。パワー、スピード、テクニック、どれを取っても俺達は女である水天宮に敵わない」

「へー」

「正直、選抜チームが木城町と医王山と互角以上に渡り合ったのは予想外だが、水天宮だけは絶対に無理だ。仲間である俺でさえ彼女の力は底知れない」

「一つだけ言っておく。ぼっくんは帝ちゃんのオッパイを揉んだ男ぶぁい」

「……よく今まで命があったな」

「この世に絶対は無いナリ。死ぬことでさえ、やってみなきゃ分からないっちゃ」


  * *


『圧・倒・的! 啖呵を切った川北選手、水天宮選手の前に手も足も出ない!』


 実況席の解説を聞く余裕も無いほど、川北は切迫した状況に追い込まれていた。


「どうした? 第一や第二コースのように、華麗な逆転劇を披露してくれ」


 対する水天宮は攻防の最中でも息を切らすことなく、平然として相手を水際へと追い詰める。湖を背にした川北はダイナレッグで水上へと逃げることもできたが、意地とプライドを懸けて真正面から突貫する手段を選んだ。


「死に晒せッ!」


 空中前転での踵落とし。奇襲に近い攻撃は初見なら避けられず、ガードしようにも動きが硬直する蹴りを、水天宮は義足で難なく受け止める。


 二人ともダイナレッグの扱いには長けており、技量で言えば互角の戦いだろう。しかし、単純なパワー勝負では水天宮に軍配が上がり、川北は攻撃が通用せず苦戦を強いられていた。


「こっちの番だ」


 そう小さく水天宮が呟くと同時、なんと彼女は足場である丸太を力任せに踏み砕いた。突如として着地点を失った川北は水面に浮かぶため、ダイナレッグのホバリング機能を起動させようと意識を向ける。


 だが、その僅かな隙を生み出すのが水天宮の狙いだった。彼女は不安定な水上に浮かびながら、優れたバランス感覚で川北の脇腹に蹴りを打ち込む。


「っんな……⁉」


 かつて一撃で下呂を昇天させた威力の蹴りを受け、同じように川北の体も宙へと撃ち上がる。このまま意識を失えば湖に落ちて失格であり、例え意識を保とうが脇腹の激痛に耐えながら水面に浮くのは至難の業だ。


「……つまらない。あっけない幕引きだな」


 もはや勝利を確信した水天宮は、終わりを見届けずに溜息を零しながら踵を返す。だが、彼女の背後から聞こえたのは川北が湖へと落ちる着水音ではなかった。


「ナメんな、まだまだや……ッ!」


 先ほど空高く蹴り飛ばされたはずの川北は、驚くことに気合と根性だけで湖の中央へと降り立った……わけではなく、危機的状況下で無意識にダイナレッグを通し、自己の能力を発現させたのだ。その足元にはキラキラと輝く結晶が水面に張っている。


「氷……なのか? まぁ何にしろ、お膳立てした甲斐があった」

「鬱陶しいんじゃボケぇ!」


 川北は吠えるも、湖の中央から一歩も動くことができない。なぜなら、ホバリングで移動すれば格好の的であり、無我夢中で発動させた能力は上手く制御できないからだ。

 そんな彼女の事情とはお構いなしに、水天宮は胸の高鳴りを抑えられないでいた。


「さぁ、窮地を脱してくれ」


 水天宮が湖の水面を掬うように蹴り上げると、そこから静かに波紋が広がって行く。その波の揺れは徐々に大きくなり、やがて高波となって川北に襲いかかった。


「……もう何が起きても驚かんわ」


 時に人はリスクの選択を迫られる。それはリスクの有無を選べるわけではなく、リスクの大小を判断しなければいけない。だが、その人によって何に重きを置いているかは異なる。


 退路は無い。波は近づいている。絶対に避けられない。次に引っくり返されたら、着水する間もなく呑まれて失格。ならば、崖っぷちから飛び降りる覚悟を示す。


「こんな所で、終わってたまるかアアアアァァーーッ!」


 不安定な足場から跳躍し、川北は大波に立ち向かう。真正面から壁を蹴り破ろうと、無謀な勝負に挑む。その不屈の精神がダイナレッグの力を呼び覚まし、再び氷結の能力が発動する。今度は足が波に触れた瞬間に凍りつく規模であり、そのまま彼女は氷山の中央を貫いた。


 まさに奇跡としか言いようのない芸当を見せつけられた水天宮は、驚愕するどころか余裕綽々と賛美の拍手を贈る。


「ピンチに能力が覚醒するなんて漫画みたいだ。ありきたりだが、熱い」

「漫画は読まんとちゃうんか?」

「オレはね。だが脳に記憶がある」

「あー、確か思念体っちゅう奴やったか? よく臆面もなく正体を明かしおったな」

「隠す必要があるか? その反応だと薄々は気づいてたんだろ?」

「アンタが意識体やろうと、思念体やろうと関係あらへん。どっちにしろブッ潰すだけや」

「それでいい。オレも本気を出そう」


 聖母のような慈愛に満ちた優しい声音で、水天宮は静かに言い放つ。


「ロータス」


  * *


「全く礼儀のなっとらん小娘じゃ。一緒にいる儂の知能指数まで下がるわい」

「視聴者投票で選ばれた学生アナウンサーですから、我慢して最後まで見届けてください」

「致し方あるまい。これも仕事じゃが、実況の音は競技者に聞こえぬよう制限しておくように。ところで、マヌカンは順調に行動しておるか?」

「はい。原挑と共に思念体のデータベースサーバ捜索に乗り出したようです」

「結局そうなるか。儂らが積極的に関わると警戒されてしまうとはいえ、何かあれば助手も常に手助けできるように準備を怠るな。奴らの関心は儂が引きつけておく」

「かしこまりました」


  * *


「で、そのデータベースサーバはどこにあるんだ?」


 一人で思念体が記録されたデータベースサーバを探し、森の中を彷徨い歩いた原は疲れ果てていた。あまり大きい島ではないにしても、それを一人で探すとなると広大だ。ただでさえ第一コースを走り終えた後だというのに、また走り回るのは気が遠くなる。


 肝心の神崎は鍵となる思念体探しで別行動だ。自分一人の力だけで功績を打ち立てねばならず、周囲に頼れる人はおらず、ついに流石の原も心が折れた。


「いきなり脈絡の無い質問で失礼する。誰か島内に不自然な建物、もしくはオブジェのようなものを見たことがある人はいないか? オーバー」


 通信でチームメンバーから情報収集する。要は神崎にバレなければいいし、内容を誤魔化して伝えればいいのだ。開き直って返答を待っていると、更田から通信が入った。


『それっぽいものを、どっかで見たような気がするなぁ……』

「どこだ?」

『港の方だが……それが何か関係あるのか?』

「気にするな! アンカー走り切れよ! じゃあ切るぞ!」


 目的地さえあれば原の行動は早い。基本的に彼は悩むのが嫌いであり、それさえ取っ払えば疲れなど吹き飛ぶ勢いで疾走する。


「お、神崎じゃないか。どうしたんだ熊に擬態なんかして?」


 港へ向かう途中、一頭の熊がノシノシと歩くのを原が見かけた。彼は神崎の返信能力だと思い、何の警戒もせず気軽に声をかける。


「がるるる……」


 返事は唸り声だった。そして挨拶代わりとでも言うように、原の胸筋を鋭利な爪で切り裂く。そこまでして、ようやく原は一つの事実を理解した。


「なんで本物の熊が⁉」


  * *


「貴女って、ある意味すごいよね」

「何が?」


 中学生になった春の放課後、廊下の片隅で複数の女生徒に話しかけられたことを、なぜか今になって川北は思い出す。わざわざ呼び止めた内容に棘が含まれているのを感じ、いつでも戦闘態勢に入れるよう身構えた。


「どうして演劇部にいられるの? 主役のオーディションに落ちた上、他に何の役も貰えてないんでしょ?」

「だから?」

「普通、耐えられなくね? 精神力タフすぎ」

「マジでウケんだけど」


 取り巻きの女三人が川北を嘲笑する。何が面白いのか分からないので、まともに相手などしていられない。


「ウチからすれば、アンタらの方が良い度胸しとるわ。早い話、ウチに演劇部を辞めてほしいんやろ?」

「そんな酷いことは言ってないじゃん」

「ただ演劇部が川北さんの居場所じゃないだけ」

「同じことやと思うけど、質問を変えるわ。それは、あの女から伝えろ言われたんか?」

「まっさかー」

「これは皆の総意だから」

「よー分かったわ。後日、自分で退部届を出したる。これで文句は無いな?」

「とっても残念だけど、それが利口だよねー」

「もしも次があるとするなら、今度は転校生のくせに出しゃばらない方がいいよー」


 勝ち誇ったような顔で立ち去ろうとする女生徒の背に、川北はボソッと呟いた。


「……ウチは、自分が間違っとるとは思わん」

「何か言った?」

「せいぜい友達ごっこしとけ」



「ぶぼっ⁉」


 顔面に水を浴びせられた川北は、過去の回想から現実へと引き戻される。その正面には、依然として水天宮が立ちはだかっていた。


「最初だから手加減したとはいえ、直撃を受けて立っていられるとは頑丈だな」

「何してくさっとんじゃ⁉」

「至極単純。ダイナレッグに溜めた水を高速で発射しただけだ」

「それはロータスとかいう、謎のキーワードと関係あるんか?」

「関係はする。だが、どう関係するかは説明したところで無意味だろう」

「そうかい。なら走り終わってから、自分から話したくなるよう調教したるわ」

「最後まで立っていられたなら……な!」


 まだ言い切らない内に、水天宮はダイナレッグから勢いよく水を発射する。ちなみに参考までに補足しておくと、消火活動に用いられるホースから放たれる水の出力は四十キロにも及ぶらしい。


 水天宮の強靭な足腰だからこそ成せる技を、川北は間一髪で避ける。攻撃を見てから避けるのでは間に合わないため、どうせ顔面を狙うのだろうと予測していた。だが、このまま防戦に徹する気も無く、川北は水面を掬うように蹴り上げる。すると水飛沫が凍りつき、そのまま氷の礫が水天宮へと向かう。


「無駄だ」


 彼女は今いる場所から動くことなく、気怠そうに片足だけを上げて氷を水で弾く。単純だからこそ強く応用性に富んでいる能力に対しても、川北は臆せず試行錯誤を繰り返す。


「死に晒せ!」


 自らの水量により視界を覆われた水天宮の頭上から、殺気を纏う川北が奇襲を仕掛ける。咄嗟に水天宮は防御の構えをとるものの、川北は彼女を相手にせず着水し、彼女の足ごと辺り一帯の水面を凍らせた。最初の一喝は足元への注意を逸らすブラフだったのだ。


「だから何?」


 水天宮は凍りついた足を力任せに氷上から引き離し、何事も無かったかのように蹴りを繰り出す。その蹴りを川北はダイナレッグで受け止め、苦痛に顔を歪ませつつ嫌らしい笑みを浮かべる。


 先ほど肉弾戦でボコボコにやられながらも、また接近戦に持ち込んだのは勝算があるからだった。しかし、かすかな強がりの笑みも消え失せ、その表情は驚愕へと変わる。


「……なぜ凍らん⁉」


 彼女は水天宮の体ごと氷漬けにするつもりだったが、どんなに能力を引き出してもダイナレッグから先を凍らせることができない。疑問符を浮かべて混乱している間に、続く二撃目をくらってしまった川北は無様に倒れる。


「……可哀想だから解説しよう。能力の解放は大雑把に言って三段階に分かれる。キサマが一段階でダイナレッグに干渉するのなら、オレは二段階で肉体に干渉する。つまりダイナレッグで変換したエネルギーの恩恵を、肉体にも還元させることでパワーアップするわけだ」

「だからと言って、氷結化を防げる理由にはならんやろ」

「水は生命の源だぞ? キサマはジョジョを読んだことがないのか?」

「波紋かい!」

「オーバードライヴ!」

「ぐぎゃ!」


 水天宮からの一撃を受け、川北は自分の意識が朦朧としていくのを感じる。意識が肉体から乖離していく中で、いや、逆に鋭敏となった意識で体を支配できないと確認していく中で、彼女は与えられた本来の役割を思い出した。


 亡霊の絶叫が響く。


「スケルツォ!」


  * *


(誰か助けて……)


 幼い水天宮帝は祈る。コンクリートの瓦礫に埋もれながら、ただひたすらに他者と自分の安全を祈る。両足は潰されており、身動きが取れない。そして一寸先も見通せない暗闇の中で、段々と痺れているような足の痛覚だけが、まだ自分が生存できている証拠だと認識できた。


 家族での海外旅行から帰る際、日本へと向かう空港で爆発事故が勃発した。否、それは事故ではなく、テロリストによる故意に起こされた事件だと後で判明した。


 家族で生き残ったのは幼い彼女だけであり、両親は娘を庇うようにして瓦礫に潰されて死んだとのこと。彼女は救われていた。愛されていた。


 それでも彼女は世界を呪わずにはいられなかった。どうして自分がこんな酷い目に遭わなきゃいけないの? 何か悪い事した? どうせ壊れるのなら、全て壊れてしまえば良かったのに。どうしたら何もかも壊せるの? どうやったら壊れるの? もう嫌だ、壊れろ!


 そこに他者と自分の幸福を祈る少女の姿は無かった。どれだけ呪詛を念じ続けようとも、両足を失った状態では報復など叶わない。


 生活の保障は父が経営していた会社を、祖父が引き継ぎ直すことで維持された。たまたま聞こえた話によると、血族から養子をとり後継者に育成するようだ。病院から出られない身では後継ぎなど望むべくもなく、元から将来については薄らと頭の片隅に置いていた程度だったが、今度は自分が何者でもなくなったという不安に駆られた。


 家族やコミュニティなどの基盤を失った今、自分が自分で在るという確証は、無くなった両足を自覚するという作業でしか得られない。あの時の苦痛を思い出すしかない。恨み続けるしかない。そんな辛い思いをしてまで生きる必要はあるのか?


(誰か殺してくれ!)



「嘘だろ?」


 止めを刺したはずの川北が、おそらく思念体であろう名前を呼んで立ち上がった。この名前を呼ぶという行為には特別な意味があるため、水天宮帝は情報を引き出そうと警戒する。


「……キサマは今、意識体なのか? それとも思念体か?」

「ウチが知るか」


 返ってきた答えは素っ気ない。彼女自身も混乱していると見受けられる。それなら、わざわざ虎の尾を踏む必要はないと判断した水天宮は、川北を相手にせずゴールへ向けて一直線に走り出した。


「待てやコラ!」


 年頃の乙女とは思えないドスの低い声で、まるでヤクザのように川北が追い駆けてくる。足の速さに変化は無いが、それ以上の距離が広がらず、かと言って縮まりもしない。


 付かず離れずの差でピッタリとマークされた水天宮は、川北に対して何か得体の知れない不気味さを感じていた。このままゴールする前に牽制を打っておく。


「くらえッ!」


 走りながら前転するように後方へ放ったのは、鉄をも切る高密度の水圧カッターだ。日常生活レベルでダイナレッグの繊細な操作ができる、彼女だからこそ可能な技である。殺傷能力が高すぎて封印していたが、脅しに使うには充分な威力だろう。これで無暗に近づけない。


「やかましい!」


 水天宮が持つ最強の切り札を、あろうことか川北は暖簾でも潜るかのように腕を払い、水を粉雪に変えて霧散させた。


「どええええええぇぇーーーーッ⁉」


 目が飛び出すほどの仰天をしながらも、水天宮は冷静に状況を分析する。


(攻撃をダイナレッグではなく手で防いだのは、ダイナレッグで変換したパワーを肉体に還元させている証拠。つまり第二段階の到達だが、同じ段階にいる自分以上の効力を発揮しているということは、既に第三段階目の領域『マヌカン』に……ッ⁉)


 最悪の事態を想定した彼女は迷いを切り捨てる。もはや一目散に駆け出すしか選択肢が見当たらない。そこに強者としての余裕と威厳は無く、ただ生き残るため必死だった。


 永遠とも思える長い鬼ごっこの果てに、ようやくゴール先で佇む千光寺青雲の姿が見えた。それでも水天宮は安心せず、襷を渡す際に彼へ一言だけ忠告する。


「真っ直ぐ突っ切れ!」

「当然だ」


 簡素に了解の意だけ伝えると、千光寺は脇目も振らずに矢のような凄まじいスタートダッシュを発揮した。その小さくなる背中を見送ることもせず、そして足を止めずに水天宮は走り続ける。

 すると後方から嫌な叫び声が聞こえた。


「ダイナレッグは、どないしたああああぁぁーーーーッ!」


  * *


「女装に邪魔ナリ」

「死んでまえ!」


 川北の罵倒を意に介さず半谷は走り出す。その足取りは誰よりも軽やかであり、瞬く間に森を駆け抜けた。


 第四コースは空中アスレチックという名の森である。木々が生い茂る地表部は起伏が激しいため、猿のように木から木へと飛び移る身体能力が求められる。


「ぐわぁ!」

「ん? 何か踏んだナリな」


 選手の主な移動手段としては、蔓をロープ代わりにしたターザン式がある。それと申し訳程度に補強された枝を足場とするが、その中でも半谷は異次元の存在だ。


 彼は宙に浮いているかの如く、まるで重力を感じさせずに移動していた。彼が女装していると気づかなければ、森の妖精と見間違えるほどに幻想的な光景だったろうが、そんな空想は進行方向の先にいた千光寺を発見することで終わる。


「ウェーイ、ウンコちゃーん!」

「……死にたいのか?」


 千光寺も半谷程ではないが、ダイナレッグを使用して力強くスムーズに移動していた。彼は水天宮の忠告通りに、並走する半谷を相手にしないようにする。


「じゃーな、青ウンコ!」

「許さん!」


 怒りメータが一気に振り切った千光寺は半谷を捕まえようとするも、全く手が届かない。ゲームで例えると彼の動きが横スクロールの二次元だとしたら、半谷は三次元のオープンワールドくらいに森を縦横無尽に駆け抜けていた。


「正々堂々と戦え! それでも男か⁉」

「女の子だっちゃ」


 獣のような身のこなしで何を言うか。きっとダイナレッグの能力を使ったに違いない。そうでなければ、こんなにも自分との実力差が出るわけがないのだ。


「そっちがその気なら、こちらにも考えがある。俺をバカにした事、後悔させてやろう」


 千光寺もダイナレッグの能力を解放する。足元に光るエネルギーが迸り、半谷へ向けて一閃した。その光は半谷の周囲にある木々を焦がすも、肝心の対象は下へ移動し回避している。


「チッ、外したか。次は逃がさん!」

「バイバイキーン」


 半谷は飄々と先へ進むが、内心は彼らしからぬほど非常にビビっていた。実は光を完全には避けきれておらず、体が麻痺して足を滑らせ木から落下したのだ。途中で体勢を立て直し、相手に悟らせないよう振る舞うのが精一杯である。

 そんな彼に気合を入れるため、川北から通信が入った。


『余裕ぶっとる場合か! おそらく見た限り相手の能力は電撃やから、少しでも当たっとったら致命傷や! その痺れた体じゃ次は避けられんで! オーバー!』

「突っ張ることが男の勲章ナリ。オーバー」

『今の姿で男らしさを説くな! こうなったら覚醒しかないやろ! オーバー!』


 ダイナレッグの力を直に体験した彼女の言葉は重いが、それしか見えていないようにも思える。また、他人の指示に対し素直に従うような玉ではないと、半谷の性格を理解している更田からも通信が入る。


『ダイナレッグ履かなくて大丈夫か? オーバー』

『自業自得や! オーバー!』

「……力が……欲しいか……?」

『やかまし! 黙って走っとれ!』


 怒り狂う川北には悪いが、半谷はダイナレッグや思念体の力に頼る気は無かった。そんなものを使わずライバルを蹴散らすからこそ面白い。常識を覆してこそ生き甲斐を感じる。


 しかし、そうも言っていられない状況にあるのも事実。千光寺の脅威は範囲攻撃の広さだ。電撃を半谷に当てずとも、どっかの木に当たれば巻き込まれ感電する。何か避雷針になりそうな金属を森で探すのは無理だろう。


「これで終わりだ!」


 何も対策を立てられないまま、背後から千光寺が追ってくる。また電撃を放つ構えを取っており、もう半谷は悩んでいるのがバカらしくなってきた。


 よくよく考えてみれば、最初から逃げる必要などなかったのだ。半谷は敵に牙を剥くべく、身を翻して空中に躍り出る。


 そして突然、体に異変が起こった。手足が縮んで自由が効かない。重力に逆らえず落下していく中で、半谷の叫び声が雷の音に掻き消される。


「何事ナリか⁉」


  * *


「なんじゃアリャァァーーッ⁉」


 第五コースの待機位置にて、軽くアップをしていた更田はモニターを見て愕然とした。軽快に走っていたチームメイトが突然、子供になったと思ったら画面が光り輝き、瞬く間に姿を消したのである。

 もしかして幻か何かだったのかと混乱する彼に、廟が少し興奮気味に話しかけた。


「……これは驚いた。そういえば君は能力の覚醒について通信していたね?」

「それがどうした⁉」

「なるほど。つまり彼はダイナレッグを履かずして無理に、あるいは無意識に能力を引き出そうとした。その代償として身体の変化が起こったのか」

「なんつー理屈だよ⁉ 原理がブッ飛んでるだろ⁉」

「君は博士の説明を聞かなかったのかい? そもそも僕達に意識体があること自体が奇跡なのだから、それとは別に思念体の力を引き出そうとすれば、奇跡の結晶である原子の結合も変化、もとい増幅するのは当然さ」

「知らねーよ! テメーの当たり前を他人に押し付けるな! ってか、おかしな能力を持ってたり、大人を子供にしたりする思念体って何なんだよ⁉」


「正確に言うと、特殊能力が発現する要因は思念体ではなく、ダイナレッグにある。なぜなら、思念体の呼び出しに応じて原子が増幅し、再び原子が結合されて構造が変化した際、その余剰した原子を補完するのがダイナレッグの役割だからだ。つまり、その補完した原子をエネルギーとして消費し、ダイナレッグから出力されたのが特殊能力の正体だよ」

「分かるような、分かんねーような……。ま、それはそれとして、思念体を呼び出して原子が増幅するなら、大の男が子供に退化するのは不自然じゃねーか? 元の体積が減っちゃってるだろ」


「いや、本当ならダイナレッグ無しで思念体を呼び出せば、肉体が形を保てず跡形も無く消える。それなのに彼は幼女として体を保持し、なおかつ意識まで失っていない。だから僕は驚いたんだ」

「どうなるか知ってたなら止めろよ!」

「僕からは君の声しか聞こえてないよ」

「……そうだった。ってか、律儀に色々と教えてくれて有り難いな」

「面白いものを見せてもらった礼さ。君にも期待している」


 そういって廟が差し出したのは、スキューバダイビングで着るウェットスーツを肩口で切り抜き、手先をグローブに改造したような物だ。腕の部分だけ貰っても用途が不明である。


「これは何だ?」

「ダイナアームと呼ぶ。簡単に言えばダイナレッグの腕版だね。君に進呈しよう」

「他の奴らは装備しないのか?」

「残念だけれど、これは選ばれた人間にしか装備できないんだ」

「それなら必要ない。せっかくの厚意を無下にして悪いが、どうしておれが選ばれる?」

「なんとなく君からは、僕と同じ匂いがしたからね。ま、そういうことなら仕方ない。でも、ダイナレッグだけは忘れないで必ず装備してくれ」


「おれの中に思念体がいるとは限らねーけどな」

「いや、全国大会に出場する選手達には、もう既に思念体が入っているよ」

「は? いつの間に? 危ねーだろ⁉」

「身体検査の時にね。思念体はデータ情報みたいなものだから、そう扱いは難しくない」

「んなこと言ってんじゃねぇ! 人権の問題だ!」

「大丈夫、大会が終われば思念体を抜き出す手筈になっている。それに競技中はダイナレッグさえ装備していれば人体に影響は無いし、日常生活で思念体が呼び出されることも無い。僕の体が保証するよ」


「信用できねーな。そこまでして実験に関与する理由は何だ?」

「僕は会社組織としてダイナレッグを完成させたいだけだ。ハッキリ言って思念体に興味は無いが、彼らのオーバーテクノロジーに頼らなければ完成には程遠い。その上、どうも博士達は意図して完成を遅らせているようだから、必要なデータを揃えるために強硬手段を取らせてもらっただけさ」

「……テメーは、思念体が地球侵略すると知っていて、積極的に資金援助してんのか?」

「まさか君は、そんな与太話を本気で信じているのかい……?」

「はぁ? んなわけねーし! むしろ、おれの方が世界征服してーわ!」

『つまんな!』

「盗み聞きするな!」


  * *


「どこへ消えた⁉」


 眩い閃光の後には何も残らず、千光寺は半谷を見失う。必ず見つけ出してやろうと躍起になった矢先、仲間の木城町から通信が入った。


『アオちゃん、先頭走者が谷の橋を落とそうとしてるわよ。今は急いだ方がいいわ』

「了解。目標を優先する」


 ハッと我に返る。水天宮からも真っ直ぐ進めと注意されていたのを思い出し、千光寺は高速で森の中を駆け抜けた。邪魔な枝も全て薙ぎ払い、あっという間に谷の裂け目に着く。


 そして丁度、敵チームが橋のロープを完全に切った直後の場面に出くわす。千光寺は間に合わなかったが、それでも諦めずに前へ進む。まさに死ぬ気の覚悟で谷へ飛び降りる。


 いつもの千光寺であれば、こんな無謀な手段は取らなかっただろう。だが、なぜか飛ぶ瞬間に身体が熱くなり、行けると思ってしまったのだ。事実、彼は素晴らしい跳躍力を見せ、落ちていく橋の上を足場にして渡り切った。


 橋を切り落とした相手は信じられないというリアクションを取る暇も無く、そのままの勢いで飛んでくる千光寺の蹴りを受けて地に沈む。実は誰よりも驚いているのは当の本人だ。心臓がバクバクと脈打っている。


 自分は危ない橋を渡るどころか、石橋は叩いて渡るような様な性格のはずなのに、知らぬ間に半谷の毒に侵されていたか? そう自嘲気味に笑っていないと強がれない。さらに体が熱くなってきた千光寺は、もう追手が来られないと見越して休憩せざるを得なかった。


「無茶しすぎたか……」



「これは切腹ものナリ……」


 木から落とされた半谷は絶望していた。なぜなら体が小さくなっているからだ。原因は不明であり、どうやったら元に戻るのか皆目見当もつかない。それならば今できることを確認していくしかないだろう。


 まず木登りは可能だ。むしろ体が大きい時よりも得意になっているが、木々を飛び移る様な芸当は不可能である。それでも移動するのなら、地面を歩くよりは蔦を伝ってターザン方式で行くしかない。


 決まりだ。実践あるのみと意気込み、邪魔な衣類と脱ごうと手をかけたところ、なぜか急に恥ずかしいと感じた。公共放送で全裸になった、あの半谷駿が、だ。


 自分が思っているよりも、より深刻な状況に陥っている。混乱と恐怖が同時に脳内を占める中、彼は心を落ち着かせようと胸に手を当て、よく揉む。これが彼なりのリラックス法だ。このバカバカしさが落ち着く。


 また母性も得ることで精神安定剤になる。オッパイは偉大だ。自分にオッパイは無いけれども、あると錯覚させてイマジネーションする。胸は無い。当たり前だ。


 そこでハッと、背筋を悪寒が奔った。こんなありえないことが起こるものかと、慌てて下を手で触り確認する。嫌な予感は的中し、彼は、彼女こと、半谷駿は青褪める。下が無い。


「半谷の野郎、どこ行きやがったぁ! ぶっ殺す!」


 もう何が何だか分からなくなっていると、今度は殺気を孕んだ男が自分の名前を叫んでいる。半谷は覚えて無かったが、彼は予選で争った選手であり、ついさっき移動中に踏み越えた相手だ。名前は星乃と言う。


 敵意の強い彼から逃れようと半谷は周囲を見回すが、どこもかしこも細めな木だらけで隠れられそうな場所は無い。木に登って逃げようとすれば返って目立つ。今の子供のような体で闘える力があるとは思えないため、彼女は木の陰で息を潜めるしかなかった。


「あれ? こんな所に観客が迷い込んだ……?」


 終わった……。あっさり見つかった半谷は絶望する。このままリタイアしてはチームメンバーに面目が立たない。せめてもの足掻きで一矢報いようとした時だった。


「……メチャメチャ可愛い。俺の名前は星乃! 君の名前は⁉」


 相手は自分が半谷だと思っていない? これを好機だと考えた半谷は、咄嗟に有名喫茶店の繋がりで偽名を名乗る。


「私の名前は上島です。帰れなくなったの……」


 これは半谷にとって、かなりの屈辱だ。フリとはいえ女の子のように演じるのである。これまでもギャグで女言葉を使うことはあったが、これからは心も女に傾く危険性があり、自分が自分でなくなってしまう。


「俺が連れて行ってあげるよ!」

「いえ、運営さんの救助を待ちます……」

「いいから、いいから!」


 半谷の意思を無視して、星野は彼女を抱き抱える。所謂お嬢様抱っこだ。半谷の羞恥は極限に達するも、都合良く送ってくれる利便さを考慮し我慢する。どうやら自分の演技は効果覿面の様子だ。まさか合宿所で仲間とやったガールズトークが役に立つとは……。


「谷まで来たけど、橋が落とされてるみたいだな」


 とにかく恥ずかしさを忘れようと別のことを考えていると、意外にも早く森を抜けて谷の裂け目に着いた。だが、彼の言うように橋は落とされており、このままでは谷の向こうへと渡れないため、他のチームは迂回策を取っていた。道理でスムーズに進むわけだ。


「安心してくれ。なぜか俺のホバリングは風力が強すぎるから、このくらいの距離なら飛んで渡っちゃうぜ」


 星乃は理解していなかったが、彼は風の能力を持つ。そして有無を言わさず自信満々に谷から飛び降りた後、不測の事態に陥る。


「ヤッベ、人数制限を考えてなかった!」

「嘘でしょ⁉」


 一気に真っ逆さまということはないが、確実に少しずつ下へ落ちて行く。真綿で首を絞められるような感覚に、半谷は戦々恐々とするしか術がなかった。


「大丈夫、向こうの崖まで行ければ後は登れるから」


 そう落ち着いて言うと、星乃は半谷を背中に回し、崖へ蜘蛛の様に張り付き登り始めた。完全な足手まといである半谷を背負っても、嫌な顔一つしない。その横顔を見ていると感慨深いものがある。かつて鬼気迫る表情で半谷を血眼になって探していた男と同一人物とは思えない。


 しかし、なんだか無性に蹴落としたくなってくる。後は登るだけなら半谷だけでも可能だ。今ここで敵を屠った方が効率的だが、真剣に崖を登る彼の横顔を見ていると憎み切れない。


「ようやく着いた。もうすぐゴールだからね」


 迷っている内に、対岸へと辿り着く。このまま更田へ襷を繋ぐのも味気無いなぁ、などと呑気なことを考えている場合ではなかった。まだ彼らはゴールしていないのだ。


「ここで待てば会えると思っていたぞ」


 彼らの前に立ちはだかったのは千光寺である。彼はダイナレッグを使用したオーバーヒートの回復がてら、しつこく半谷が通るのを待っていた。事情を知らない星乃は半谷を地面に降ろし、千光寺の敵意を真正面から受けて立つ。


「何の用だロリコン野郎」


 とてつもないブーメランが刺さる。半谷は自分の姿を確認することはできないが、どうやら幼女のような見た目らしい。


「構えろ。不意打ちと思われては心外だからな」

「武人だねぇ。じゃ、俺も本気を出すとしましょ……ぶぐわぁ⁉」


 星乃は一撃でやられた。口ほどにもないとはこのことか。


「さて、半谷。なぜ幼女の姿なのか知らないが、今ここでリタイアするというのなら見逃してやらんでもないぞ?」


 千光寺は半谷に向き直る。ここで戦うのも、リタイアするのも得策ではない。ならば、第三の道を見つけるまでだ。


「えー、半谷って誰ですか? 私の名前は上島ですー」

「とぼけるな。例え姿形が変わろうとも、半谷駿特有の逸脱者たるオーラは隠し切れん」

「え、上島ちゃんって半谷なの?」

「チェリオ!」


 急に目を覚ました星乃に止めを刺す。というか、特有のオーラって何だよ? 謎のキモいシックスセンスを発揮している千光寺は、半谷を見下ろしながら次の行動を警戒している。


「俺は女子供でも戦士であるならば容赦はせん。どうする?」


 どうしようもない。だが、負けたくない。皆で勝つと決めた。それならば、最後まで情けなくとも勝負を挑む。逆境を超える。


 半谷が戦う覚悟を決めた時、突然の激しい頭痛に襲われた。頭の中で誰かの叫び声が聞こえ、脳内で反響し続けている。半谷は気を失いそうな痛みに耐えるよう、頭を抱えて空へ吠えた。


「オイラの頭の中で叫ぶのは誰ナリか⁉」


  * *


(ようやっと目覚めたか)


 ここはどこ? 何をしているの?


(言わんでも解るやろ? 求める答えは自分の中にあるさかい)


 彼女の指摘した通りだ。私はサッシュメントステーションという競技に参加しており、ピンチの真っ只中にいた。

 あなたは誰?


(そう、それが問題や。答えが自分の中に無い)


 私は川北柊花で、彼女はスケルツォ? だけど、どこから私が生まれて、どこから彼女が来たのかは不明だ。

 どうしたらいいの?


(勝ち取るんや。だから今は、あの女の尻を追っかけることに集中せぇ)


 彼女に言われてから自覚する。私は地面の上を走っていた。いや、走らされてた? 少なくとも私は走ろうと思って走っていない。ただ手足の慣性に身を任せている。体が軽すぎて自分で動かしているという感覚が希薄だ。


(そのままの距離を維持して。何者でもない、偽物のウチを信じろ)


 言っている意味は解らない。だが、意図は通じる。なぜなら私は戦えない。それが相手に知れたら戦況は再び不利に傾く。


(あれはアカン……地面に伏せろ!)

「やかましい!」


 前方を走る相手が器用に足から水鉄砲を放つ。それを私は脅威だと感じず、煩わしく手を振って払う。すると水が手に触れた瞬間から雪の結晶に変わり、私は輝くダイヤモンドダストの科を通過した。


「どええええええぇぇーーーーッ⁉」

(かかっ、素でエグいわ)


 驚く相手と笑う彼女とは対照的に、なぜか私は急激な眠気に襲われる。


(おおきに。後は任しとき)



『ゲロッパ! そっちに水天宮を誘導しとるさかい、先回りして挟み撃ちや!』

「ええー、体中が怪我だらけで安静なんだけど……」

『うっさいわボケ! 命令に背いたらシバキ倒すぞ! ええな!』


 とっくにゴールしたはずの川北からブツっと乱暴に通信を切られ、ノイズが鼓膜に直撃した下呂は顔を顰める。なぜ水天宮を執拗に追いかけ回すのだろうか? そして人使いが荒い。などと文句を呟きながらも、指定されたポイントへ移動するのが下呂という男だ。

 そんな自分に辟易していると、また誰かから通信が入った。


「もしもし?」

『神崎です。水天宮さんの捕獲が成功したら、原君の所へ合流してください』

「なんで?」

『それは合流後に教えます。それでは』

「女の子って大変だなぁ……」


 男に対する秘密事が多すぎる。そのくせして男の話は聞かず、よく聞いているフリをするだけ。こういう時は何かを言った所で無駄だ。男が先に折れるしかない。


 川北には川北の、神崎には神崎の考えがあり、下呂には下呂の考えがあるようで何も考えていない。男は考えているフリをする。どうでもいいのだ。やることは決まっているのだから、ある意味で彼女達は気が楽とも言える。


 諦めを悟る様な感情で待機していると、向こうから水天宮が茂みを掻き分けて走る姿が見えた。下呂は両手を大きく広げ、警告と威嚇の意味を込めた通せん坊をする。


「はい、ストップ! ここは通さないよ!」

「退け!」

「トホホ……」


 水天宮に蹴飛ばされ、下呂の壁は二秒で決壊した。合宿所でも一撃で倒された経験のある下呂は、こうなるだろうと最初から自分でも予測していたのだ。


「何しとんねん! この役立たず!」


 後から来た川北は下呂の屍を超えながら罵倒する。第二コースで医王山と死力を尽くした彼は気持ちの収め所がついており、まるっきり戦闘意欲が無くなっていた。


 このまま水天宮を逃がすと思いきや、彼女の進行方向に伏兵として神崎束が現れる。


「ギリギリセーフ」

「キサマは選抜チームのエンジニアか? 押し通る!」

「お断り」


 数々の大男達を屠ってきた水天宮の前蹴りを、無表情のまま難なく神崎は受け止める。その足にはダイナレッグが装着されていた。


「なぜ平気でいられる⁉」

「すぐ解る」


 驚愕する水天宮の足を弾き返し、神崎にとっては珍しく抑揚のある声で名を呼ぶ。


「ミリオーネン!」

「キサマも思念体を⁉」


 相手の能力が不明な内は安易に手を出せない。どのような攻撃が来るか水天宮が身構えていると、相手の神崎は素っ頓狂な声を上げた。


「は? どないした?」

「神崎さんが関西弁⁉」


 ふざけているのか? 下呂と水天宮の二人に疑問符が浮かび戸惑っている間、神崎の見た目で関西弁を喋る女は冷静に状況を整理する。


「そこに川北柊花がいるということは、ウチが神崎束の中に入ったんか……?」

「だから何だ⁉ 関係無い!」


 迷いを捨て水天宮が牙を剥く。下呂も考えるより先に体を動かそうと身を乗り出すも、川北から制止させられる。


「手助けは無用」

「川北さんが神崎さん? どゆこと?」


 今度は川北が標準語を話す。つまり彼女達二人は精神が入れ替わっているのだが、事情を知らない下呂は混乱する。もはやオロオロするしかない彼の目の前では、水天宮の踵落としを神崎に入った川北、もといスケルツォが真剣白刃取りの要領で足を掴んでいた。


「素手でッ⁉ くっ、離せ!」


 絶好のチャンスだというのに、そこからスケルツォは動かない。ただひたすらに水天宮を見据え、静かに目から一滴の涙を零す。


「ウチな、アクション女優になりたいねん」


  * *


(おぎゃー)


 私の最古の記憶はエンドロールを眺めていたことだ。映画ではない。言うなれば人生そのものであり、もしかしたら前世から転生するための清算だったのかもしれない。はたまた、今世を生きるための知識を刷り込まれていたのかもしれない。


(おぎゃー)


 今となっては読解できないが、スタッフロールに当たる文字の部分に、何か大切な情報が載っていたように思う。その横にアニメ映画のNG集みたいなものがあり、そこから外界の風景を写し見ることができた。


(おぎゃー)


 さっきから誰かの鳴き声が大きくて耳に障る。いや、これは私から発せられた救難信号だ。どうやら狭い所に閉じ込められたらしい。私の意識とは無関係に、肉体が本能で泣き喚いている。だが、その音も体力の限界により、次第に弱くなっていく。


(……おぎゃ)


 それでいい。私は真っ黒な暗闇に溶け込む。そして観客の一人になり、神の視点で映画を観る。例え何もできずとも、ただ沈黙を守れたら満足だ。そこに意味はなくとも、意義はある。


(おぎゃー)


 また息を吹き返した。しぶとい。ありえない。つまり、私の勘違いだ。私が肉体の本能だと認識していたものが、実は全くの別人だということに気づいた。お前は誰だ?


(おぎゃー)


 意思で疎通はできない。この別人が生存した場合、私は私として、彼は彼として自己を確立できるのか? そして私も誰かの人生を生きることができるのか? それを見届けるのも楽しそうだと考えた時、いきなり視界が白く開けた。


(おぎゃあッ!)



「逃げずに立ち向かうことは誉めてやろう。だが、無謀だ」


 頭の痛みがスーッと引けた後、半谷は無意識の内に千光寺の前に踏み出していた。相手は怖いけれど、もはや怯えない。私は私じゃないかもしれないが、私は一人じゃないから。


「自分でもバカだと思う。でも気持ちは晴れてる。そろそろ私の物語が動き出す」

「何を言っている?」


 訝しげに千光寺が睨む。その視線に負けじと、半谷の眼差しが強くなる。


「言いたいことは一つだけ。生まれる前から出してくれと叫んでた!」


 道化が未来を歌う。


「フロイデ!」


 半谷が叫んだ瞬間、体の中心から光が溢れて全身を包み込む。そして発光が止まった後に残ったのは、なんと幼女から男の姿に戻った半谷駿である。


「オイラ、参上!」


 人を食ったような軽い性格も一緒であり、誰が何と言おうと正真正銘の半谷駿だ。目の前で起こった奇跡に対する千光寺の驚きは少なく、それよりも正々堂々と戦えることの喜びの方が大きい。


「これが能力? まぁ、細かいことはいい。決着をつけよう」

「一方的に因縁ふっかけられても困るナリ」

「お前が逸脱者なのが悪い。取り締まらなければ危険だ」


 コインロッカーから救助された後、身寄りの無い半谷は孤児院に引き取られた。そこでの生活に不自由さを感じたわけではない。子供達で協力し合いながら、それなりに楽しく普通にやっていた。


 しかし、成長した半谷は知ってしまった。表では人格者ぶっていた施設のオーナーが、裏では経費を着服していたのだ。告発しようにも今の社会福祉法人が無くなれば、残された子供達の受け入れ先は保証しないと脅され、何もできず耐えるしかなかった。


 おかげで施設は経営が破綻し、外部から施設の運用が見直され、不正が発覚したオーナーは逮捕されるも、立ち退き命令が覆されることはなかった。今まで助け合った仲間ともバラバラになる。


「オイラは自由を愛する男。抑圧は不満を積もらせるだけだってばよ」

「社会にはモラルとルールがある。秩序が守られてこそ安全は保たれる」

「それは自由の重みに耐えられないだけナリ」


 この世は学歴社会だ。高卒である自分が施設を買い戻せるほど稼げるとは思えない。将来に希望が持てない。そんな折にサッシュメントステーションが開かれた。これに勝てば大学に行ける。だが、半谷が欲しいのは将来の安泰ではなかった。


 そして半谷は優勝ではなく、ストリーキングを選ぶ。メディアに映って注目を引きつけることで、離れ離れになった仲間と子供達にメッセージを送った。


「ふん、自由に生きて何が得られる?」

「人としての尊厳」


 今にして思えば質素な食事も、暗い照明も経費の削減である。だが、幼い半谷はそういうものだと思っていた。それが普通だと言い聞かせた。昔の自分を殺したい。


 それから半谷は常識を疑った。全ては偏見だった。卑下だった。既成概念を破壊したい衝動に駆られる。もう、そういうものだと世界を考えたくない。大人の建前に騙されたくない。本当の正しさを知りたい。


「……俺からすれば、お前の奇行は獣風情にしか見えん!」

「オイラは生きるために生きる。お前のような家畜と一緒にするな」


 二項対立。自由と秩序。動物と機械。マイノリティとマジョリティ。挑戦と安泰。権力と権威。反抗と従順。ブルジョワジーとプロレタリアート。もはや論じられる領域ではない。これから先は生きた者だけが答えを出す。二人が戦うことは必至だった。


 千光寺はダイナレッグを起動する。細胞を変換して生み出された電力が還元され、肉体能力が飛躍的に向上した。この状態の自分は反動も大きいが、人間の限界を超えたインパルスを可能にする。勝負は一瞬でつく。


 電光石火。音を置き去りする勢いで千光寺は飛び蹴りを繰り出す。だが、半谷は既に攻撃が届かない位置に移動していた。相手が動き出す前に回避していた。先の先を読んでいた。


「……絶っ、コォーーモンッ!」


 千光寺からすれば自分の攻撃が外れる意味が分からない。半谷がテレポーテーションでもしたのか考えを巡らせていると、突如として臀部から熱い痛みが襲ってくる。やがてそれは龍脈のように広がり、とうとう行き場を失って大噴火した。


「あぎゃぁぁああああああーーーーーーッッ!」


 何が起こったのか知覚できない。いつ、どんな攻撃を受けた? 能力を使ったのか? などと複雑な仕込みを疑っていた千光寺だったが、実際の種明かしは実に単純なものだ。


「また、つまらぬものを貫いてしまった……」


 半谷は片足立ちで、もう片方の足を掲げて蛇のように撓らせている。つまり、彼は靴を履いていない裸足の親指で、正確に千光寺の尻穴を突いたのだ。アホか!


「そのバカバカしい攻撃が二度も通用すると思うなよ!」

「絶・肛門!」

「どわぁ!」

「絶肛門!」

「や、やめ……ひぎぃ!」

「絶肛門!」

「やめてください!」

「敵に背を向けるとは笑止千万ナリ! 44マグナム!」


 もはや声にならない悲鳴が大地を駆け巡る。自分が攻撃をする前に避けられ、そこに会心の一撃を与えられるのだ。生きている時間のスピードが違う。こんなことがあっていいのか? いいや、あってはならない。


 千光寺は幼い頃から英才教育を施されており、血反吐を吐くほどの厳しい訓練に耐えてきた自負がある。警視庁トップである父親の息子として周囲の期待に応え、家を守る責任と隣り合わせでも乗り越える精神力が培われている。

 ん? 待てよ、それは本当に自分だったのか? 何がキッカケで……?


「うるせぇ! 44マグナム!」


 千光寺が思考の渦に呑み込まれる寸前、半谷が駄目押しの浣腸でトドメを刺す。


「な、何も喋ってないだろ……鬼か……?」

「鬼じゃない、殺助ナリ。バイバイキーン」


 それはバイキンマンだ! 説明する気無いだろと抗議したいが、千光寺は亀のように身を固めて防御するしかなく、半谷が去る後ろ姿を五体投地したまま見送った。自分の惨めな姿に涙が出そうになるも、大将である廟那由太に襷を渡せさえすれば勝てる。勝てば官軍だ。そう自分を奮い立たせ、彼は体に鞭を打ちながらもゴールを目指す。


 一方、半谷はジョギングのような気軽さで足を運ぶも、いつものような底抜けの明るさは影を潜めていた。そして彼らしからぬ真剣な面持ちで、アンカーである更田に襷を手渡す。


「後は頼むナリ……」


  * *


「必ず帰る!」


 半谷から襷を受け取り、更田は全力でスタートダッシュする。スタミナの配分などは考えず、とにかく今は廟との距離を空けることに専念しなければならない。


 第五コースは飛行機の滑走路を利用した、ただただ何も無い直線コースだ。走りやすいし戦いやすい。それだけに選手の純粋な戦闘力、総合力が試される。第四コースで多くのチームが迂回したため、このまま先頭を走り抜ければ勝てる。


「やぁ、ようやく追いついたよ」


 横から廟の声がする。信じられない。いくらなんでも速すぎる。あれだけの差から先頭走者である自分に追いつくということは、追い抜かれたら挽回できないということだ。その事実を更田は認め難く、廟への無視を決め込む。


「そういう態度に出るのなら、ダイナアームの力、とくとお見せしよう」

「やっぱり、こうなるのか!」


 さっさと追い抜けばいいものを、廟は更田を倒すことで完全勝利したいらしい。更田は走りながら裏拳を叩き込むが、簡単にダイナアームでガードされる。鉄のような硬さだ。


「お返しだ」


 廟の顔から優しさと笑みが消え、大きくダイナアームを振りかぶった。脅威が迫る。更田は咄嗟に腕を盾にするが、ガードの上から予想以上の強い衝撃が襲い、体ごと冗談みたいに吹き飛ばされる。


 まるで巨大な拳に殴られたよう。腕が痺れるだけでなく、振動が骨を伝って脳味噌まで揺らされる。また束の間の浮遊感で意識が酔い、地面に倒れた後も眩暈がして立ち上がれない。その間にも廟は距離を詰めて追撃を仕掛けようとする。次の攻撃は受け切れない。まさに絶体絶命のピンチに陥った中、横から来た乱入者が飛び蹴りで廟を牽制する。


「いつまで寝っ転がっているつもりですか? こんな所で情けないですよ、更田先輩」


 振り返って見せた横顔は、更田の母校の後輩である入巣だった。彼は自分と同じBチームであり、この大会でも補欠だったはずだ。


「入巣⁉ どうしてここに⁉」

「選手として来たに決まってるでしょ。故障した軽部先輩の代わりに」


 軽部というのはAチームのリーダーであり、予選の決勝で更田と対決した男だ。どうやらその時に負傷していたが、直前まで隠していたので急遽、入巣が抜擢されたらしい。だったら本番前に挨拶くらい来ないものか……。


「やれやれ、まさかの二対一か」


 入巣に蹴られた廟は面倒そうに埃を叩き、邪魔者が入ったことに不快感を表す。また入巣も廟の一挙一動を見逃さないよう、明らかな敵対心を示す。


「いいえ、三つ巴の戦争です」


 それは更田に対する宣戦布告でもあった。かつては同じチームで慕われていただけあり、更田は彼の気迫に面くらう。


「ここまで来たら出し惜しみはしない」


 なぜか更田は蚊帳の外で話が進み、廟は早々に切り札を出す。


「ニルヴァーナ!」


  * *


「離せ変態!」


 なぜか関西弁を喋り出した神崎は、強敵であるはずの水天宮を圧倒し叩き伏せた。今は下呂が彼女の両手足を紐で縛り、脇に抱えて合流地点まで運んでいる。そこには白いコンテナのような構造物があったが、今は待ち人を優先したい。


「原君どこ?」

「ここだ。いやー、ちょっと苦戦した」


 そう言って現れた原の胸元には大きい爪痕が残されており、大量に失血していた。


「その派手な傷どうしたの⁉」

「熊に襲われてな。ま、正体はロボットだったが、なんとか撃退しておいた」

「あの残骸はサーバの守護ロボ? ……手間が省けた。感謝する」


 まだ川北は不器用な標準語を喋っており、無表情のまま礼を言う。なんとなく釈然としないまま、下呂は静かに水天宮を地面に降ろした。


「こんな所に連れて来て何のつもりだ⁉」


 当然の疑問について、関西弁の神崎が答える。


「サーバを破壊して全ての思念体を抹消するに決まっとるやろ」

「バカか⁉ そんなことをしたらキサマらも死ぬぞ!」

「知っとるわ! でもなぁ、ウチらがいたら本来の意識体はどうなるんや⁉」

「意識体に生きようとする力は無い! 理不尽な現実を受け止められない! 社会復帰するにはオレ達のような思念体が必要だ! 事実、キサマの意識も思念体が呼び起こすことで目覚めた! 治療にも役立つ! これほど便利で革新的な技術は無い!」

「そんなものがあるならウチは最初から生きようとせぇへん!」

「ちょっと待って。話について行けないよ」


 なかなか熱い討論だが、事情を知らない下呂からすれば要領を得ない。代わりに標準語の川北が説明した。


「……元凶である私から順を追って全てを話す。まず前提として、神崎束と川北柊花の精神は思念体として入れ替わっていた」



 つまり、感情が乏しい無口な性格が本来の川北柊花であり、不破博士の孫だ。博士は娘夫婦を研究による事故で亡くした過去を持つ。忘れ形見として柊花が残ったが、その彼女も幼い頃から体が弱く、長い闘病生活で一度の睡眠時間が増え続けていった。


 可愛い孫を救おうと研究に没頭する中で、成果が出ない博士は娘夫婦が研究中のAI技術を引き継ぐ。それは機械のVR空間に本当の人格を作り出すものだったが、博士が応用したのは疑似的な魂をデータとして構成し、生身の人間の脳へ移植することだ。


 ここで次に神崎束の話をする。彼女は関西出身で本来は気が強い性格だ。どこか温かさのある地元の大阪を愛していたが、東京オリンピック後に不動産の株価が高騰した影響で父親の土建屋が傾き、一家は夜逃げするように関東へ引っ越した。


 そして東京の人付き合いは神崎の肌に合わず、学校でも周囲から浮いていた。夢を目指す彼女は孤高を貫くことで精神を保っていたが、母親が別の男と付き合い家を出て、さらに父親が蒸発したことで心が折れる。借金取りが自分に接触し、頼みの綱だった女優オーディションは棒にも振らず、働けない中学生が金を稼げる選択肢を考えていると、足元の不注意で階段から転がり落ち、そのまま目覚めることはなかった。


 同じ頃、ようやく研究が形になりそうだった不破博士は、政府や企業の有力者達に研究費の有志を募っていた。自分の後継者が育てずとも優秀になるのだ。財産を守る保険としては魅力的であり、順調に資金は目標の到達額へ達しそうだった。


 しかし、新たな問題が発生する。データとして構成した魂を実験で他の生物へ移すと、その被検体の肉体が損傷するのだ。原因は相違する魂と肉体の拒絶反応による原子の崩壊だと判明するも、なぜそうなるのかが解らない。またもや行き詰っていると、かつて研究所を建設する際に関わった社長が金の無心で尋ねてきた。束の父親である。


 確かに博士は彼にも資金援助を要請したが、まさか会社が倒産しているとは思わなかった。金が欲しいのは自分の方だ。相手にする価値は無いので門前払いをすると、意識を失った娘の治療費が必要だと土下座で頼み込まれた。そして博士は悪魔的な発想に憑りつかれる。データを一から構成して魂を作るのではなく、元ある人間の魂をデータ化するのだ。博士は束を実験対象にするという条件を提示し、それを金と引き換えに父親も受け入れる。


 かくして悪魔に魂を売った博士は、父親に売られた少女の意識を思念体へと変換し、それを同じく孫の思念体と入れ替えた。これで魂と肉体の相違は最小限に抑えられる。先に目覚めたのは孫の思念体が宿る束の肉体だ。博士は彼女を中心に原子の結合条件を解き明かす研究を進め、その副産物としてエネルギーの発生と肉体のカスタマイズ方法を発見し、廟の企業が技術に食いついてダイナレッグが完成した。


 そして出資者には優秀な思念体のサンプルを摂取すると説明しておきながら、本当の狙いは孫の意識を目覚めさせるためにサッシュメントステーションを開催する。



「本物の川北柊花の意識が目覚めた今、ウチの役割は終わったということや」


 川北の説明が終わった後で神崎が毒づく。その態度は投げやりであり、すぐさま水天宮が反論する。


「だーかーら! キサマが消えた後、神崎束の意識はどうなる⁉ 死ぬ理由はいくらだってあるんだ! それで自殺したんじゃ元も子もないだろ!」


 意外にも思念体である彼女は、自分の安否よりも意識体を心配していた。そこを不思議に思った下呂は、別の切り口で話を聞く。


「……水天宮さんの意識は死にたいって思ってるの?」

「ああ、テロで両親と両足を失い、犯人も見つからず怒りの矛先が無い! 精神が病んでいる状況で祖父母が選んだ治療法がオレだ! 今オレが消えれば帝は幸せになれない!」

「それはおかしい。さっき死ぬ理由はいくらでもあるって言ったけど、本物の水天宮さんは生きたいって思ってるじゃないか」

「生きたいが、生きられない状態にあるんだ」

「違うね。生きたいと思うのなら生きられる。なぜなら生きたい理由は一つしか無いし、それだけあれば充分だから」


 交通事故で生死の境を彷徨った下呂だから解る。彼は病院のベッドの上で一心不乱に生きたいと願っていた。生きたいから生きるのだ。それ以上も以下も無い。だからこそ彼女達のような思念体の異常性が際立つ。


「意識体と思念体の違いが分かったよ。それは死を憎悪する心だ。川北さんも神崎さんも自分の死を潔く受け入れるし、水天宮さんも意識体が簡単に死を選ぶと思ってる」


 対話するべきは思念体ではなく、意識体の方なのだ。死にたがりの生きたがり。それを理解した下呂は、何も無い所へ大声で叫ぶ。


「そこで眠ってる意識体に問うぞ! テメーに巣食っている思念体は死ぬってよ! このままだと本当に死ぬぞ! 死を憎悪しろ! こんな所で死んでられっかよ! その怒りは抱えていいものなんだよ! 外に出していいものなんだよ! 今ここで死を乗り越えろ!」


 一通り啖呵を切った下呂は肩で息をしていた。まだ言い足り出ない。でも言葉にできないもどかしさが無力を自覚させる。


「お気持ちは嬉しいですが、どうやら水天宮さんは鍵ではないようですね」


 その場にいた誰もが気まずさで絶句する。まだ死ねない。死ぬ時ではないのだ。川北は空気を読まずに淡々と告げた。


「残る一人は廟那由太さんです」


 まだ更田が戦っている。下呂の話を聞いて沈黙思考していた原が率先して動き出す。


「己達もゴールへ急ごう」


  * *


「もう終わりかい?」


 廟の能力は重力だった。上から押し潰されるというよりは、下から引っ張られるような感覚だ。無理をすれば動けない程ではないが、廟の攻撃を避けられないのは致命的である。事実、更田と入巣は廟の拳を受け、二人仲良く地面に転がっていた。


 廟の挑発により更田は立ち上がるも、打開策が無いまま殴られる。それが何度も続けば更田も勝てないことを悟る。頑張ったじゃないか。これ以上は惨めだ。ベストを尽くしたのだから、誰も自分を責めたりはしない。そう自分に言い聞かせ、次第に諦めが心を侵食していく中で、隣の入巣が救いを求めるような目で更田に問う。


「……更田先輩。ボク達は何のために走ってきたんでしょう?」


 理由は無い。理由は無くとも生きるためには走り続けるしかない。それは誰もが解っている。誰もが信じている。だが、全員が走れているわけではない。途中で脱落者も出る。自分を信じられなくなる。そんな人間に生きろ、なんて他人から言えることなのか?


 ふざけるなと、更田の闘志に火が灯る。不意に込み上げた怒りを火種に、メラメラと炎が燃え盛る。道は違えど道は続く。辿り着くべき場所は同じだ。それが信頼だ。まだ自分は本気を出して、出して、出して、出し尽くしてはいない!


『立て! 更田真虎! 逆境に打ち勝て!』


 復活した実況の声が響く。そして更田は元気が出てしまう。予選で聞いた実況の声と、合宿所で取材した毛利の声が一緒だと気づいたのだ。初心を思い出す。母校でBチームとして、何が正しいのか分からないまま闇雲に走ったことを。そして努力は報われず、理不尽に対する憤りが爆発寸前だったことも。


 しかし、更田は選抜チームの一員になった。そこで出会った仲間達は一癖も二癖もあったが、心の底から気持ちの良いバカ達だ。更田は運が良かった。そんな自分を張り倒す!


「何、救われた気になってんだよ! 誰かから勇気なんか貰ってんじゃねぇぞ! この大バカ野郎が!」


 更田は勢いに任せダイナレッグを脱ぎ捨てる。突然の行動に入巣は驚く。


「なんでダイナレッグを外すんですか⁉」

「自殺行為だ」


 廟も同様に更田の正気を疑う。ダイナレッグによる能力の抵抗力が失われた今、更田にかかる重力の負荷は何倍にも膨れ上がっていた。それでも彼は痩せ我慢で立つ。


「おれが走る理由を教えてやる!」


 雨の日に入巣から訊かれ、答えられなかった問題に答えを出す。自分には見えて他人には見えないものがあり、他人には見えて自分には見えものがある。声は上がっていても、誰も耳を傾けない。そして消えた人達に俺は生きろとは言わない。生き返れと願う!


「声無き者の、声を聞くためだ!」


 いつしか心に魔王が住み着いたとしても、魂だけは奪われてなるものか。


 魔王が耳元で囁く。


「ゲーテ!」


  * *


「これで……よし、っと」


 第五コースのスタート地点付近で、樋口は千光寺の思念体を回収していた。神崎束は肉体ごと思念体を鍵として扱っていたが、マヌカンにより肉体を離れた思念体はデータとして手軽に扱うことができる。


 第一コースの木城町、第二コースの医王山の思念体も彼女が回収した。廟には隠しているが、実のところ思念体を意図的に入れたのは彼のチームだけだ。他のチームは意識体の力だけでダイナレッグを使用しているため、第一段階の能力しか使えない。


 それにしても、選抜チームの躍進には目を見張るものがある。こちらで期待していた以上の功績だ。神崎達も無事にサーバへ辿り着いたようだし、何もかも順調だった。


「樋口ちゃん」


 背後から呼び止められ、樋口はビクッと体が強張る。振り向くと男の半谷がいた。彼は思念体である。自分達の企みを知っているのなら、それを阻止しようと動くはずだ。


『さぁ、いよいよサッシュメントステーションも大詰めに差し迫って参りました!』


 大会に用に配布し、自分も使用しているインカムから実況の声が鳴る。情報漏洩を危惧した博士から指示され、通信を制限していたはずだ。


「どうして⁉」


 半谷の手元にはアンテナが握られていた。それは離島での通信を分割し、様々な設定を適用させる装置の残骸だ。頭を抱える樋口に構わず、半谷は彼女の胸倉を掴む。


「オイラをベスパに乗せてけ」


  * *


「君も思念体を呼んだか。でも、僕もマヌカンだ。万が一は無い」


 廟は更田が思念体を呼んでも動揺せず、かと言って油断もせず重力の負荷を強くする。それでも更田は着実に歩み寄り、廟との距離を詰める。普通に考えたら発生源に近づくよりも、効果範囲から逃げた方が得策だ。


「理解に苦しむね。ハッキリ言って狂ってる」

「狂わずして、愛する人の下へ駆けつけられるか!」


 狂言に付き合っている暇は無い。廟は止めを刺そうと拳を構えるが、そこで初めて更田の足取りが確かなものになっていると気づき、焦った彼は珍しくミスを犯した。更田を強く殴り過ぎたのである。


 ダイナレッグを履いている人間でも体が吹っ飛ぶのだ。生身の人間であれば飛距離は更新され、更田は遥か彼方の前方へ飛んで行った。そして地面に倒れたまま動かない。死んだのかと思っていると、急に彼は立ち上がりゴールへ走り出した。


 やられた。最初からこれが狙いだったのか。廟は重力を解除し、引力を発動させるも届かない。ここで彼は彼らしくもなく、慌てて更田の後を追い駆けた。それもミスだ。走るスピードが乗ってきたタイミングで、更田は方向転換で逆走して来たのである。


 いつもなら奇襲で突っ込まれようと、冷静に対処できた。だが、立て続けに予想外のことが起きたことで、後手後手に回っている廟の判断力は削ぎ落とされていた。無難にダイナアームで攻撃を防げばいいのにもかかわらず、刺し違えようとカウンターを狙ったのだ。それが最大のミスであり、極限にまで瞬発力が強化された更田の飛び蹴りをボディに受けてしまう。


 そこから先のことは覚えていない。大気を震わすような轟音と共に体が弾け、地面の上を転がり何度もバウンドする。やっと勢いが殺されて止まったのは、滑走路の端にあった車に激突し、全壊したガラスの破片に埋もれて沈んだ後だった。


 敵は排除した。更田は満身創痍のままゴールを目指すが、ダイナレッグを履かずに思念体の能力を行使したことで肉体が反動に耐えられない。ちなみにゲーテの能力は狂気である。相手や自分の思惑に反する行動をとる度に攻撃力が上がるという、身の破滅を招く呪いのような効果だ。それを知らない更田は走る。肉体は悲鳴を上げていながら、それに反して歩みを止めることはない。結果、ドンドン狂気は強くなる。


『更田選手、大逆転! まさかの番狂わせだぁ! 後はゴールまで走り切るのみ! 

地位も名誉も無い男がダイナレッグを脱ぎ捨て、権威に打ち勝つ瞬間を見逃す……な? あれ? どうした更田選手⁉ 様子が変だぞ!』


 もはや更田には実況席の声も届いていない。ただゾンビのように前へ歩く。転びそうになれば自然と足が前に出る。口から血を吐き視界も霞む。だが、これで念願の栄光が手に入る。大切な物を置き去りにした彼にも、ようやく報われるべき時が来た。自分も他人も許せる瞬間が訪れるのだ。もう苦しまなくていい。


 しかし、心の奥底では全く別の感情が渦巻いていた。誰か俺を……。


「止まれぇ!」


 ゴール直前で呼び止めたのは半谷駿だった。男の姿で勇ましく立ちはだかっている。


「ここから先は通さないナリ!」


 黙っていれば自分のチームが優勝だというのに、邪魔をする意味が解らない。もはや更田は対話を望まず、狂気で強化された肉体能力で半谷を弾き飛ばす。


「ぐわぁ!」


 何がしたかったんだ? 足は速くとも力の無い半谷は軽く吹っ飛ぶ。邪魔者がいなくなったところで、更田は再び前進する。


「更田先輩! 止まってください!」

「更田君! まだ僕は戦える!」


 なぜか今度は入巣と廟が彼を止めに来た。何が狙いなのか考えるのも面倒だ。二人とも体力が回復し切っておらず、容易に退かせることができたが、またもや半谷が前に立ち塞がる。


「オイラは何度でも復活するナリよ!」

「加勢するぞ半谷!」

「止まれ更田!」


 半谷だけではなく千光寺と、前にBチームで一緒だった尾上も更田を止めに来る。実は彼もAチームに入り第四コースを走っていた。更田の勇士を見ていたら居ても経ってもいられなくなり、半谷と千光寺と共に三人で駆けつけたのだ。ベスパ四人乗りである。


「安心しろ! お前のことなんか誰も悪く言ってない! 俺が言わせない! だから、いつでも胸張って戻って来い!」


 その言葉を届けたかった。だが、俺は味方だと更田に言う前に、彼は自分の前から姿を消した。もう、あんな後悔はしたくない。


「大将、今の内にゴールするんだ!」

「入巣! こいつは任せて先に行け!」


 男三人がかりで、ようやく更田と拮抗する。この隙に二人がゴールすれば彼は止まるはずだったが、何の前触れもなく半谷が男から女の姿に戻った。


「なんてタイミングで幼女になる⁉」

「ハヤに文句言わないでよ!」

「やっぱ無理だ! 二人とも手伝ってくれ!」


 廟と入巣は身を反転し、千光寺と尾上の背中を押す。五人がかりなら更田を止められる計算のはずだが、彼の能力は逆境でこそ真価を発揮する狂気である。むしろ逆効果で、より肉体が強化された。


 このままでは五人の壁が崩れる。かと言って人数も減らせないでいると、さらに強力な助っ人が加わった。


「諦めちゃ駄目よ!」

「筋肉は裏切らない!」

「おもしれーことになってんなぁ」

「何やってんすか更田先輩!」


 木城町、斉藤、医王山、茨の四人である。協力は嬉しい。まさに百人力とも言える力を合わせるが、まだまだ更田は狂気により強化される。底が見えない。こうなったら更田の体力が尽きるまでの我慢大会を覚悟していると、ついに真打が登場した。


「ごめん遅くなった!」

「どんだけ人様に迷惑かけとんねん!」

「今、助けに行く!」

「水臭いぞマコ!」


 下呂、思念体が戻って関西弁になった川北、原、水天宮の四人が壁に加わる。総勢十三名。これでようやく更田を押し戻せるだけの人数になった。狂気による強化も限界値に達しているが、今度は更田が止まるよりも先に彼の肉体が崩壊する可能性が危ぶまれる。


「どうしたらいいんだ⁉」


 誰かが叫ぶ。そして、それは誰もが同じく持つ疑問だった。


 魔王ゲーテの目的は世界征服だ。なぜなら自由に生きたいから。そのためなら社会の秩序も、制度も、構造も全てを破壊する。まさに狂気。神の反逆者などと言えば聞こえはいいが、つまるところ裏を返せば彼は誰よりも我儘なのだ。まるで子供。だからこそ彼は自分と同じ小さな破壊者を待っている。


「好き」


 壁の先頭にいた幼女の半谷が更田の首に手を回し、そのまま不器用にキスをした。周囲の時間が止まり、更田の体から力が抜ける。正気に還る。壁になっていた十二名は一斉に二人から身を引く。まだ半谷は更田に抱きついている。


「まさかのヒロイン枠?」

「これが書きたかっただけでしょ? 完全に個人の趣味じゃん……」

「道理で友達に読ませられないわけだ」

「顔出しNGでーす!」

「つーか、誰が最初にゴールテープ切る?」

「どうでもいいよ」


 各々が好き勝手にヒソヒソと内緒話をする。その中で更田だけは、どうすればこの支離滅裂な公開処刑から抜け出すことができるのかを考え、ある一つの名案を提示した。


「皆で手を繋いでゴールしよう!」

「「「「「「「「「「「「甘ったれんなカス!」」」」」」」」」」」」

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