第2章 二日目・交流

「行くでガンス!」

「突然どうしたんですか博士⁉」

「なんじゃ? 不意に強迫観念のようなものに捉われて……」

「怖ッ! 元から狂ってるのかボケてるのか判断に困りましたけど、宇宙人に精神を支配されたとかは絶対に嫌ですよ⁉」

「仮にも儂の右腕を担う科学者のくせして、オカルトめいたことを言いよる。案ずるでない。脳波の傍受対策は戦時中から怠っておらん」

「いや、どの並行世界で、いつの話なのか分かりませんけど、その右腕は先程マヌカンに食べられてましたよね? しかも代わりはいくらでもありますよね?」

「何? 年寄りから上げ足取って楽しい? 生き甲斐なの?」

「そんな悲しい女がいてたまりますか⁉ いいから今日の作業を終わらせてください!」

「……三口に分けて」

「分かり辛い映画ネタとか挟まないでください! というか、さり気なく自分が監禁されてます、みたいなアピールもイラッとします!」

「いつにも増してキレのあるツッコミじゃのう。書類上でしか存在しない、架空の人物として生きてみたくはないか?」

「非常に魅力的ですけど、博士が言うと脅しにしか聞こえないんですよね! 私は希望を捨てませんよ!」

「……ところで助手よ、なんか成長しておらんか?」

「セクハラですか?」

「もう既に枯れておろうに……」

「まだ熟してさえいませんよ!」

「ではなく、あれを見ろ」


  * *


「フンガー」


 秋の麗らかな日差しが合宿所の大部屋を照らす中、夜明けまでバカ話に興じていた選抜メンバー達は、畳の上で鼾をかきながら雑魚寝している。そんな彼らの健やかな眠りを妨げたのは運営委員の樋口だった。


「起きなさい! もう昼ですよ!」


 樋口は白衣姿のまま鍋とフライパンを持ち、太鼓のように打ち鳴らす。壮絶な金属音を耳元で聞かされ、下呂と更田は渋々と起き上がる。


「何? この幼馴染かつ委員長キャラにしか許されない起こし方……」

「行き遅れて気でも狂ったか?」

「そこ聞こえてますよ! 整列しなさい!」


 眠気眼を擦りながら半谷と原も起床し、何がなんだか分からないまま畳の上で横並びに座らされた。その光景に満足したらしい樋口は前置きも程々に、全く脈絡のない新情報を彼らに知らせる。


「いつまで寝てるつもりですか⁉ 大会も間近だというのに、精神が弛んでいる証拠です! そんな君達に新しい仲間を紹介します! さぁ、どうぞ!」


 口を挟む余裕も与えず樋口が襖を開けた先には、長身で細身の女子が無表情で立っていた。髪型もショートカットで中性的な見た目でも、更田が初見で相手を女性だと認識できたのは、つい最近どこかで見た誰かの面影と重なったからだ。


「神崎束(カンザキ タバネ)さんです! はい拍手!」


 気まずい雰囲気に構わずハイテンションで手を叩く樋口をよそに、おずおずと下呂は立ち上がって神崎と対峙する。


「どこかでお会いしました?」


 下呂の問いかけに、神崎は沈黙で答える。彼女の視線は真っ直ぐ下呂を貫いていたが、その目からは全く感情を読み取れない。


 電波的な不思議キャラというか、得体の知れない不気味さが室内に充満していく。このままでは危険だと冷や汗を垂らした樋口は、空気を緩和させようと茶化した。


「なんですか下呂君? さっそく一目惚れで古典的なナンパですか?」

「違います。昨日の幼女と似ているような気がして……?」

「バカなこと言いなさんな。幼女の顔なんて、どれも一緒で見分けつきませんって」


 そう軽口を言った瞬間、神崎の足が樋口の太腿を蹴り抜いていた。


「はうわッ! 研究職に太腿パーンッは刺激が強すぎる!」


 畳の上に崩れ落ちている樋口を尻目に、下呂は己の疑問を追求する。


「……そもそも、この場に幼女がいたこと自体が問題なんですけど。自分はロリコンという不名誉な冤罪までかけられてるんですよ?」

「ここでは皆、自分のことを無罪だと言います」

「どこの監獄だよ⁉」


 下呂の悲痛な叫びを無視し、樋口は太腿の痛みなど忘れたかのように淡々と話を進めた。


「それはさておき、さっそく皆さんで全体練習をしましょう。今日から他の参加校も集まりますし、思いっきりやるなら今しかありませんよ」

「練習は一人で勝手にやるズラ」


 飄々としつつ流れをぶった切ったのは半谷だった。自由を愛する彼が個人プレイに走るのは予想の範囲内だったが、さらに原までもが続いた。


「右に同意する。ステーションは団体戦でありつつ、孤独な個人競技だ。全体練習などしたところで付け焼刃にしかなるまい。悪いが、己は体調管理に専念させてもらう」


 そう言うと彼ら二人は何か準備をするでもなく、手ぶらのまま合宿所から出て行く。取りつく島も無く放心していた樋口は彼ら見送った後、我に返って更田に詰め寄った。


「追いかけなくていいんですか⁉ 勝手に行っちゃいますよ⁉」

「あいつらの言い分にも一理ある。今日のところは様子見で、それぞれのやり方を尊重するのもアリだ」


 更田自身も協調性という言葉が嫌いなため、団体行動を嫌う半谷と原の気持ちが分からないでもない。それに昨晩は寝る前に寒いと言って服を着ていたので、変態的な姿で外出していないのも確認済みだ。

 しかし、更田の考えを樋口は自信満々に突っ撥ねる。


「それはナイです」

「なぜ言い切れる?」

「ステーションは個人競技でありつつ、団体戦だからです。皆の心が一つにならなければ、襷を次に繋ぐことは不可能です」

「勝つという目的さえ合致しているなら、利害関係を組む理由としては充分だろ」

「嘘ですね。あなた達の勝利には共通する見返りが無い。あなた達は他の参加者とは別の理由で走ろうとしている。第一目標が勝利でなくなるのなら、これから先も仲間の事を信じられません」


 確かに、更田は自分が自分で走る理由を見出せてはいなかった。今まではBチームであることの劣等感と反骨精神でケツに火が点いていたが、相手も走らされていたことを知った後は火も萎んだ。


 自分でさえ分からなというのに、他のメンバーが走る理由なんて知るわけがない。こんなことならバカ話をしていないで、もっと有意義な会話を昨晩にしておくべきだったと、後悔したところで更田は周囲の違和感に気づく。


「他の奴らはどこ行った?」

「えらいこっちゃあ!」


  * *


「ここらへんにしよっかなー」


 半谷は他の学生達が宿泊地にしているであろう、立派な外観のホテル前に来ていた。ホテルの傍にある広い公園を憩いの場とし、思い思いに時間を有効活用している学生達を眺めながら、木陰の下で彼は不敵な笑みを浮かべる。


 彼にとってストリーキングという行為は、この社会を形成した大人達に対抗する唯一の手段だ。生まれた時から親に捨てられ孤児院で育った彼に言わせれば、この社会は狂っているし、この時代に生きている人間達も頭がおかしい。


 なぜなら、生きるのに無駄な物やルールが多すぎるからだ。付加価値としてのブランド品や、役所での面倒な手続きなど、自由に生きる上で制約となる負担が重い。その足枷を取っ払って生きるために生きろと、彼はストリーキングをすることで主張していた。


 だからこそ、公共の場で全裸になれるチャンスがあるステーションは、彼の目的に沿っている。それが彼の走る理由だ。そして本日もミッションを遂行しようと服に手をかけた時、不意に背後から呼び止められる。


「いや、もっと人目につかない方が良い」

「なーに、付いて来ちゃってんのー?」


 声の主は合宿所で別れたはずの原だった。振り返った半谷は下から打ち抜くように睨むが、当の本人はキョロキョロと周囲を見回している。


「? 己しかいないが?」

「ハラちゃんのことだっつーの」

「一緒に全体練習を拒んだ仲だろう」

「だから個人プレイで別れたんじゃね?」

「うむ、そういう考え方もあるな。しかし、起床してすぐ貴君と一緒に合宿所から出たおかげで、己は日課である用を足すことができなくなってしまった」

「ハラちゃーん? 今ツッコミ役いねーんだわ。単刀直入に言ってケロ」

「公衆トイレはどこにある?」

「そこらの茂みですれば?」

「待て。見つかったらどうする? 公然猥褻罪で捕まったとして、大会出場停止になったら貴君は責任をとれるのか? 一緒に探してくれ」

「面倒くせーズラ」


 半谷からすれば道端で排泄するくらい人の自由だと思う。それでも彼は口では不満を言いつつ、律儀に原を手助けすることにした。


 幸い今いる場所は公園であり、半谷は土手の上に立っている。彼は持ち前の視力で公衆トイレと思われる建造物を発見した。


「あれじゃね?」

「でかした。それでは行こう」


 原はトイレを見つけるなり、広場を突っ切って早歩きする。その原の背中を見て悪戯心が芽生えた半谷は、便意を催していないのにもかかわらず彼と横並びするように歩く。


「……何のつもりかね?」


 並列して歩こうとする半谷を横目で警戒しながら、原は彼の真意を問う。すると半谷は笑顔で信じられないことを言った。


「ついで」

「先に着くのは私だ!」


 邪魔者を押しのけて原は我先にと駆け出すが、起床してから我慢していた便意のせいで内股でしか走れない。少しでも油断したら肛門が開いてしまう。そう悟ると額から脂汗が流れ、全身に悪寒が奔った。


「おっさきー」

「待てぇ!」


 軽快に前を行く半谷の肩を掴もうと、原は手を伸ばすも届かずに空を切る。


(このまま地面に倒れて、大事な物も全て失えたら、どんなに楽だろうか……)


 もう開き直って諦めかけた時、大会予選でのトラウマがフラッシュバックした。そう、彼は本番で走りながらウンコを漏らした経験がある。今思えば、それがマゾの性癖を目覚めさせるスイッチだったのかもしれない。


 ずっと秀才として周囲から高い評価を受けてきた原にとって、自分の清廉潔白なキャンパスを汚したいという願望はあった。なぜなら、常に他者との隔たりを感じていたからだ。その距離を埋めようとするならば、自分から心を開いて歩み寄るしかない。だが、心を開いたとしても、心の中には何も無かった。


 だからこそ、彼はステーションに参加することで泥塗れになりたかった。他者から汚されないのなら、自分で汚すしかない。そう必要以上に意気込んで臨んだ結果、本番でウンコを漏らすという失態を招く。これまでの評価は一転し、周囲からはクソ漏らしとして笑い者、またはチームの恥晒しとなった。


 とはいえ、これは汚れたい原の狙い通りであり、期待していた以上の効果が発揮されただけにすぎない。ただ一つ副産物として誤算があったのは、女生徒から軽蔑する視線を向けられると、背筋がゾクゾクとするようになったことだ。


 しかし、それとクソとは別問題である。あんな汚名は一度で充分だ。こんな関係ない所でクソを漏らしてやるものかと、原は最後の気力を振り絞って下半身に意識を集中した。


「うおおおおおおおぉぉぉーーーッ!」


 叫び声をあげた原は半谷を置き去りにする猛スピードで、先に念願の公衆トイレに辿り着く。そして個室のドアに手をかけるが、無情にも鍵がかかっていた。


「オーマイ、ゴッド!」


  * *


「速いなー、ハラちゃん」


 自分より大きい体格で瞬発力がある人間と、半谷は今まで会ったことが無かった。まるで人間の限界を超えたような原の動きを見て、彼は素直に感心する。


 それはそれとして、ようやく邪魔者が去った。原がトイレへと入って行くのを確認し、半谷は近くの茂みへと入る。これで今度こそストリーキングができると安堵しながら、パンツ一丁になった時だった。


「そこで何をしている?」


 またも不意に声をかけられる。声がした方向へ顔を向けると、そこには几帳面そうな見知らぬ男子生徒がいた。


「森林浴」


 咄嗟に半谷は真顔で嘘を吐く。こいつは頭でっかちだと、経験則で察した。


「この肌寒い天気でか? それに服を脱ぐ必要も無い」

「だからこそ」

「バカにしてるな?」

「だったら?」

「逮捕する」


 そう言うが否や、相手は容赦なく殴り掛かってきた。不意打ち気味の攻撃だったが、半谷は首を傾け紙一重で回避する。


「血気盛んだじぇ」


 下唇を舐めた半谷は体を掴まれないよう、バックステップで相手から距離を取る。その後も相手は間髪入れず無駄の無い動きで半谷を追い詰めようとするが、半谷からすれば無駄が無さすぎた。直線的すぎて相手が自分のどこを狙っているのか予測しやすいのである。


「ちょこまかと」


 舌打ちをしてイラつく相手を見て、そろそろ頃合いだと半谷は察した。


「話し合う気は?」


 半谷は相手の目を見て問いかける。絶対に目を逸らさない。意志の強い瞳で相手を射抜くように睨みつけると、とりあえずは攻撃の手を止めてくれた。


「……俺の名前は千光寺青雲(センコウジ セイウン)だ」

「聞いてねーズラ」

「お前の名前は?」

「殺助」

「真面目に答えろ」


 自分から対話する意志を求めておいて、自分から絶好のチャンスを棒に振る。自分が正しい、偉いと勘違いしている奴らに対して、皮肉めいた言葉で返してしまうのは彼の悪い癖だ。


「生憎、無作法な輩に名乗る名前は持ち合わせてないナリよ」

「そうか。ならば力づくで聞き出してやろう」


  * *


「生きてて良かった……」


 トイレの個室で原は便器に跨りながら、一人で喜びを噛み締め、世界の全てに感謝していた。この世に生まれたこと、家族に愛されたこと、友人に出会えたこと、今までの人生で関わり合いになった人達全員に、祝福のキスをしてやりたいような慈愛に満ちている。


 一時は絶望を味わったが、咄嗟に機転を利かせて事無きを得た。人は危機に直面すると自分でも信じられないような身体能力を発揮することがある。また、火事場の馬鹿力というものは思考力でも常人を超える反面、同時に熱暴走で冷静さを失わせる。


 そう、原は現在進行形で女子トイレにいるのだ。


 無事に便意の地獄から解放されたのも束の間、これから戦場の脱出ゲームが幕を開けた。人生というのは次から次へと困難が待ち受けている。それは避けては通れない道であり、最後まで諦めてはいけない。


 まず、原がしたことは状況の整理だ。ここは公園の片隅にある小さな公衆トイレであり、掃除用具入れを除けば個室は三つある。そして彼がいる個室は奥の方で、掃除用具入れとは逆側の列だ。


 公衆トイレの出入り口は一か所しかなく、覗きを防止しているためか窓も無い。ここから抜け出すならば、物理的に考えて正面突破するしか手段が無いだろう。


 それなら次は、どのようにして正面突破するか方法を考えた。あまり使用頻度が少ないことに期待して、運悪く女生徒と遭遇したら即アウトだ。原は自分の岐路を一か八かで決断することに抵抗があるため、今いる個室から鏡で外の様子が見えないか確認する。


 そう思って便座に上がろうと足を掛けた時だった。この女子トイレに入ってくる足音が聞こえたのである。外の地面は芝生であるため、この石を蹴ったような硬質な音はトイレ内でしかありえない。


 原は瞬時に体を硬直させ、気配を悟られないよう息を潜めた。女生徒だと思われる人物の足音が近づいてくるにつれ、冷や汗が背筋に沿って垂れるのを肌で感じる。


 しかも、よりによって女生徒は原の隣の個室へ入った。ドアを閉める振動が壁越しに伝わる。この極限状態の中、彼の脳内は目まぐるしく回転していた。


(出るなら今しかない! ……いや、もしかして何かの罠か? ここは相手が出て行くまで、待機していた方が確実だろう)


 彼の精神は落ち着いており、至って冷静だった。だからこそ正常に狂っていた。悪いのは遅れてやって来た思春期のせいだ。というか、もはや知的好奇心という名の発情期だ。トイレという閉鎖的な空間が、逆に原の心情を解放していた。外から見えない絶対的な安心感と、それでいてドーパミンが分泌されるような非日常のスパイス。


 そんな邪な想いでトイレに潜伏し、リアルタイムで女子の放尿シーンを盗み聞きしようとした彼に天誅が下る。


「観念しなさい! この変態ッ!」


 個室のドアを蹴破って乱入してきたのは、女言葉で話す野太い声をした男だった。


「変態だぁッ!」


 自分のことは棚に上げ、原は悲鳴を上げる。すると相手は心外だと言わんばかりに、怒気の強い口調で抗議した。


「アタシの心は女だからセーフよ!」

「己はノンケだ! お願いだから掘るのだけは勘弁してくれ!」

「アンタなんて、こっちから願い下げよ! 警察に通報してやるわ!」

「待つんだ! これは緊急事態だった!」

「女の敵ッ!」


 対話を試みようとも一方的に捲し立てられ、我慢強い原でも堪忍袋の緒が切れる。


「それを言ったら貴君も同罪だろう⁉ 性別的には男なんだから!」

「アタシは女よッ!」

「証明する術は無い!」

「じゃあ、試してみる……?」


 上目使いで股間を撫でられた原は、自ら墓穴を掘ったことを呪い絶叫した。


「うわああああああぁぁぁぁーーーーッ!」


  * *


「何あれ……?」


 面倒なことに巻き込まれそうだと、小動物的な勘で危機を予測していた下呂は、一人で合宿所を抜け出して周囲を散歩していた。そして当ても無く時間を潰せそうな場所を探していると、前方に怪訝な雰囲気のカップルを発見したのである。


「ねー、どこに行く気なの?」

「静かに滝が流れる、綺麗な川を見つけたんだ」

「えー、早く見たーい!」


 盗み聞きするつもりは無かったが、声が大きいので歯が浮いてしまいそうな会話が丸聞こえである。目の前でイチャイチャされて居た堪れなくとも、道を塞がれているため追い越すことができない。


(甘い言葉で人気の無い所に連れ込む気だろう……)


 ついでに後を追跡して出歯亀してやろうかと、下呂がゲスい考えを張り巡らせていたところで、カップルの前方から一人の男が現れた。


「おい、待てよ! その男は誰なんだよ⁉」

「……あー、いや、違うのコレは……」


 期せずして修羅場に遭遇してしまった下呂は、これまた小動物的な判断の速さで、咄嗟に傍の自動販売機に隠れる。すぐ逃げればいいのに、そうしないのは彼の性格たる所以だ。


(なんか面白そうなことになってるぞ……)


 さっきまで浮ついていた男女が突如、窮地に立たされるのは見ていて気分が良い。こうなってしまうと人として大切なものを失っているが、目の前の三角関係は下呂が期待していた通りの展開となっていく。


「現地に到着して早々、人の女に手ぇ出すんじゃねぇ!」


 彼女を取られた男の方が威嚇するように吠える。すると、さっきまで優男のように甘い言葉をかけていた青年が、瞬く間に化けの面を剥いだ。


「それに対して申し開く気もねーし、押し問答する気もねーから。つべこず言わず、かかってこいよ雑魚」

「ざけんなッ! やっちまえ!」

(え、他の人いたのッ⁉ どこに隠れてたんだよ⁉)


 彼女を取れらた男の掛け声と共に、下呂が歩いてきた方向から複数人の男が現れた。そして化けの面が剝がれた優男を囲み、一斉に襲いかかったのである。


 これでは、あまりにも多勢に無勢。もっと男らしく一騎打ちを申し込むべきだと、加勢しようと思っていた下呂の動きが止まった。なぜなら、囲まれた男が一人でバッタバッタと、敵を軽く捻り潰していったからである。


 体重を乗せた重い拳を、まるでハンマーかの如く振り回し、確実に相手の顔面に当てていく。その破壊力は計り知れず、たった一発で男子生徒を地面に沈めさせ、一方的に複数人の男達を蹂躙した。


「あー、カス共のせいで喉乾いたわー。どうしてくれんの?」


 死屍累々としている中で当の本人は息切れさえせず、余裕の表情で倒れている男子生徒の上に座っている。そして話しかけても返事をしないと見るや、男子生徒の尻ポケットから財布を抜き出した。


(カツアゲだ! いや、でも最初に仕掛けてきたのは相手の方だし……)


 ハッキリと分かる暴力でのイジメでなら、下呂は自前の強い正義感を遺憾なく発揮できる。だが今回は、どちらが善で、どちらが悪かは容易に判断できない。などと拳に迷いが生じていると、屍の上に座っていた男が立ち上がり、下呂が隠れている方へと向かって歩き出す。


(ヤバい! ここ自動販売機だ! なんとかして気配を消さないと!)


 もし見つかったら今度は自分が殺される。あの男が自販機の前に来るタイミングで、上手く裏に回り込めば大丈夫なはずだ。そう考え気づかれないよう息を潜め、慎重に裏へ移動しようとした時だった。耳元で甲高い音が聞こえたのである。


「わッ!」

「うひょう⁉」


 下呂は思わず飛び上がり、素っ頓狂な声で驚嘆した。そこには神崎がいたのだ。


(どうしてここにッ⁉)

「まだ残党がいたか?」


 異常を感じた男が訝しそうに近づいてくる。神崎を問い詰めている暇は無い。下呂は一か八かの大勝負に出た。


「ニャ、ニャーゴォ……」


 猫の声真似である。離島に猫などいるわけもなく、こんな古典的な手に引っかかる奴はいない。だが、奇跡が起こった。


「……猫か」

(やった! 見た目よりもバカで助かった!)


 下呂は自らの小動物的な習性で、なんとか危機を乗り切ったのである。彼は心の中で拍手喝采を自分に送っていた。

 しかし、生まれ出でた時からツキに見放され、壊滅的に運が悪いのも彼の性だった。


「ブルッシャアアアアァァーーーーッ!」

「どこの化物だよ⁉」


 奇声を上げた神崎の頭を叩くも時既に遅し。先程の男が自動販売機の脇から、こちらを狩人のような暗い目で睨んでいたのである。


「って、猫なわけねーよな」

「#$%&%$#ッ⁉」


 絶句と悲鳴が混じり合った下呂は狼狽し、とにかくバックステップで男との距離を取る。そして一つの挙動でさえも生死を分かつと悟った彼は、即座に額を地面にこすりつけた。


「たまたま通りがかっただけなんです! 本当です! 許してください!」


 だが相手は無防備な体勢の下呂には目もくれず、優しくスムーズな動作で撫でるように神崎の手を取った。


「君の名は?」

「神崎……束?」


 どうして自分の名前なのに疑問形なんだよ? そう下呂は思ったが、相手の方は気にせず自己紹介をした。


「俺の名前は医王山灯籠(イオウザン トウロウ)。これから一緒に遊ばない?」


 突然の誘いに対し、下呂は頭を上げる。医王山は神崎の肩に手を回しながら、ゴミを見るような目で下呂を一瞥して言う。


「あー、いいよ男は帰って」


 ……これで自分の身の安全は保障された。少々、男として情けない行為だったが、プライドを捨てて助かるなら安いものである。神崎は勝手に来ただけだし、それほど嫌そうな顔もしていない。何か起こっても自業自得だ。


 しかし、この場で一人だけ納得がいかず、医王山に異を唱える者がいた。元彼にカナちゃんと呼ばれていた女である。


「ちょっと! 私は⁉」

「一緒に来いよ。まとめて相手にする方が得意なんだ」

「えー、何それー」


 彼女は呆然と立ち尽くす。それを聞いて下呂は迷いを取り払い、静かにクールな頭脳で立ち向かう決心をした。この医王山という男を野放しにしてはいけないと、彼の中に住まう正義が語りかける。


「その汚い手を離せ」

「あー?」


 振り向いた医王山が怒気を込めて鋭く睨む。額には青筋が浮かび上がり、今にも飛びかかりそうな威圧感を放つ。それでも下呂は意に介さず、タガが外れたように怒鳴りつけた。


「聞こえねーのか⁉ その汚い手を離せって言ったんだよ!」


  * *


「どこ行きやがった?」


 更田は一人、公園の広場へと来ていた。他のメンバー達を探すために人通りの多い所を狙っていたが、ここでは逆に人が多すぎて見つけるのに苦労しそうだ。


 やはり別の場所を探そうか悩んでいると、行列を成している奇妙な集団を発見した。少しずつ前に進み、さらに最後尾から列に加わっているため、何かの順番待ちをしているらしい。一体何を配っているのか先頭へ行って確かめようとしたところ、不意に声を掛けられる。


「もしかして、更田君かい?」

「誰だテメーは?」


 声をした方向へ顔を向けると、見ず知らずの好青年が微笑んでいた。なぜ相手は自分のことを知っているのか、自然と更田は彼への警戒心を強める。


「申し遅れました。僕は廟那由太(ミタマヤ ナユタ)です。以後お見知りおきを」

「で、何の用だ?」


 廟は笑顔を全く崩さず、両手で持っている箱を差し出す。まるで宗教の勧誘だ。


「これ、僕の父が経営している会社の商品なんだ。ぜひ受け取って欲しい」

「そこで配ってるのと同じ物か?」

「もちろん。自社で開発したダイナレッグだ」


 ダイナレッグという単語に更田は聞き覚えがないが、以前にも大会参加者全員に靴が配られたことがある。そして彼は履きもせず直ちに売った。


「いらねーよ。おれには自分の靴がある」

「タダなんやから貰っとけや!」


 突然、廟と名乗る目の前の好青年が関西弁を喋ったのではない。その横にいる高慢そうな女が口を挟んできたのだ。更田は廟に問いかける。


「この珍獣はなんだ?」

「美少女に向かって、誰が珍獣やねん! ウチの名前は川北柊花(カワキタ シュウカ)や! よう覚えとき!」

「まぁまぁ、川北さん。僕は別に押し付けるつもりは無いよ。ただ単に彼の食わず嫌いを直したかっただけさ」

「なんにせよ、もう話は終わりだろ? 今は人を探してるんで、また後にしてくれ」


 もしかしたら彼ら二人は同じチームで、更田のライバルとなる大会選手なのかもしれない。だとしても既に更田は彼らに対して興味関心を失っていた。

 しかし、廟の放った言葉で、踵を返そうとしていた更田の動きが止まる。


「君が自社の非売品を転売したことは調べがついている」

「……なんで、それを?」

「さっき言ったろ? 僕の父が経営している会社だって。一度でも市場に出回れば徹底的に調べ上げるし、どうしたって足がつくものだよ。靴だけにね」

「素晴らしい」


 素直に感心する川北の拍手を更田は遮る。


「上手くねーんだよ。で、大企業のご子息様が直々に靴を届けに来たってわけか? まさかそれだけじゃねーだろ?」

「確かに靴はついでだけど、受け取ってもらいたいのも本音だよ。ただ仲間の中に君を高く評価している人がいてね、会ってみたくなったのさ」

「てーことは、お前らも大会の選手か?」

「そうじゃなきゃ現地におらんやろ」


 いちいち言い方が気に障る女だと、更田はイライラを隠せずにいた。いや、これは関西弁の特色なのだと思い直したところで、ある違和感が彼の胸に過る。


「お互いスポーツマンシップに則ろう」


 廟が右手を差し出したことで思考が途切れ、更田は握手に応じなかった。


「おれはスポーツマンじゃねぇ。大体、この競技に正々堂々もクソも無いだろ」

「この競技にだって美徳はあるさ。君がスニーカーなのも拘りじゃないのかい?」

「ただの意地だ。それをカッコいいと思うのなら、勝手に美徳を形成するのは民衆の方じゃねーの?」

「江戸時代で言う粋の文化だね。随分と博識じゃないか。能ある鷹は爪を隠すということかな?」

「恥の文化なもんで」


 決まった、と更田は心の中でガッツポーズをする。よくよく考えれば意味が分からない会話だったが、なんとなく勝ったような気分だ。そうして勝利の余韻に浸っていると、後方から騒がしい声が聞こえた。


「マコチン!」

「変態や⁉」


 パンツ一丁の半谷だ。彼の特性を一言で言い表す川北の感想は的を射ており、平然としている廟に対して更田は必死に他人のフリをした。


「お仲間かな? 呼んでるよ?」

「知らん。きっと人違いだ」

「マコマンコ!」

「その名で呼ぶな!」


 つい反射的にツッコみを入れてしまい後悔する。半谷は既に更田の目前にまで迫っており、半裸のまま抱きついてきた。


「助けてチョンマゲ! ストーカーに追われてるナリ」

「とりあえず離れろ!」

「青雲じゃないか。どうしたんだい?」

「これは大将。いえ、変質者がいたもので」


 半谷を振り落とそうと足掻く中で、廟が青雲と呼ぶ男へ親しげに話しかけているのを聞き取る。大方、どこか人目のある場所で脱ぎだした半谷を発見し、捕まえようと追いかけっこをしていたのだろう。


 しかし、全裸であるならまだしも、半谷はまだ半裸である。彼を庇う気は無いが、追いかけられる謂れも無いと、見当違いな弁明しようとしたところ、またもや聞き覚えのある声が後方から聞こえてきた。


「貞操の危機だマコ! 己の純潔を守ってくれ!」


 原である。普通に助けを求めれば良いものを、わざわざ人に誤解を招く言い方によって、更田の神経を逆撫でするという相乗効果を生み出す。


「華々しく散れ!」

「一緒に夜通し語り明かした仲じゃないか⁉」

「え……禁断の恋?」

「違うわ!」


 原の言っていることは間違いではないが、今度は川北の曲解が酷い。彼女の妄想を打ち消そうと大きな声でツッコミを入れている中で、原を追いかけていた男が廟に声をかけた。


「あら、那由太じゃないの」

「やぁ、来現。お相手が気に入ったのかい?」

「冗談じゃないわよ。女子トイレに不審者がいたから、お仕置きしてただけ」


 女子トイレというキーワードに反応し、更田は原に対して見る目を変える。一体お前は何をしたんだと、釈明なんて到底できそうにない事柄に身構えると、次は前方から怒鳴り声が聞こえてきた。


「待てコラァ!」

「…………」


 柄の悪そうな男に追いかけられ、更田の下へ駆け寄ってきたのは下呂をお嬢様抱っこした神崎だった。原の不祥事など頭から吹き飛び、更田は下呂を介抱する。


「何があった⁉」

「自分はまだ……戦える」


 下呂はボコボコに顔を腫らしながらも、健気にファイティングポーズをとっていた。だが、その瞳は虚空を見つめている。


「灯籠、また喧嘩かい? こっちじゃ大会前まで慎むようにと言ったじゃないか」

「喧嘩を売ったのは相手の方だぜ」

「だとしても、もう充分に痛めつけただろう」


 廟と灯籠と呼ばれている男の会話を耳にしただけで、沸々とマグマのように煮え滾る怒りは我慢の限界だった。更田は下呂を地面の上に寝かせ、ゆっくりと立ち上がる。


「聞き捨てならねーな。こいつはバカだが、よっぽどの理由が無けりゃ自分から無鉄砲に喧嘩なんか吹っかけねーんだよ」

「仇でも取りてぇのか? そこの雑魚が弱すぎて不完全燃焼だったところだ」


 ドン、と灯籠が強気に前へ出る。そして更田は彼と対峙することで、自分に課していた鉄の掟を思い出していた。今ここで手を出すわけにはいかないが、一度は出した刀を納めることもできない。


 後にも先にも進めない手詰まり状態で睨み合う中、青雲と、来現と呼ばれていた男が二人がかりで灯籠を羽交い絞めにした。


「何しやがる⁉」

「燃え尽きる前に頭を冷やせ」

「体が火照ってるなら、ワタシが相手してあげてもいいわよ」

「離せ、気色悪い!」


 渋々と灯籠が引っ込み更田は安堵する。また、彼ら二人の忠告は更田自身にも効いていた。いくら仲間がやられようとも怒りに身を任せてはいけないと考える意識の外から、廟が笑顔を取り繕わずに問いかけた。


「君は不思議なことを言う。なぜ昨日会ったばかりの人物に対して、そこまで深い信頼を置けるのか疑問だね」

「そりゃあ……皆と熱い夜を過ごしたから……もう言わさせんといてよ恥ずかしい!」

「違うと言ってるだろクソ女!」

「そんな、あの一晩は嘘だったというのか⁉」

「見損なったぜマコチン、いやマコマンコ!」

「黙れテメーら! いい加減に口を閉じねーと八つ裂きにするぞ! 緊迫感のある雰囲気が台無しだ!」


 空に向けてマシンガンを撃ちまくるように、更田は川北を含め選抜メンバーを黙らせた。その光景を見て、灯籠が薄ら笑いを浮かべて言う。


「ケッ、こいつら選抜チームかよ。道理で腑抜けた連中だと思ったぜ」

「どういう意味だ?」

「負け犬が思い出作りに来てるんだろ? 勝つ意欲も負けるプレッシャーも無いくせして、こっちはいい迷惑だ」


 更田が自分に課していた鉄の掟とは、人を殺意で殴らないことだ。その理由は大会予選の決定打が個人的な怨みを含む自分の拳だったことと、校長室で暴れていた中で樋口が現れたことと関係している。


 もしも自分に失うものが無くなった時、また都合よく誰かが自分を止めてくれるとは限らない。もはや失うことは怖くない。ただ我を忘れて周囲を傷つける自分が滑稽で、惨めで、何よりも恐ろしい。


 だからこそ今までは牽制や捕獲のために、あくまで正当防衛として拳を振るっていたが、今度こそは堪忍袋の緒が切れた。この灯籠という男は殴り殺しても良い。そう判断して更田が一歩を踏み込んだ時――、川北が医王山の横っ面を思い切りビンタした。


「ふざけんのも大概にしぃや! こいつらは一度負けたにも関わらず、もう一度戦う決心をしたんや! アンタにその勇気があんのか⁉」


 この場にいた誰もが状況を理解できず、時間が止まったような感覚を得ていた。なぜ川北は医王山を殴ってまで、選抜チームの肩を持つのか? 混乱する思考の中で、少し遅れて激昂した医王山が襲いかかる。


「何しやがる女ァ!」

「そうはさせるかよ」


 手刀を繰り出そうとする医王山の手首を、がっしりと更田が掴む。両者ともに力が均衡していたため、どちらも次の手を出せずにいた。


「……大丈夫だよマコ。こいつは自分が本番で借りを返す」


 いつの間にか復活していた下呂が更田の方に手を置き、力を抜くよう静かに強い意志を込める。それに対し医王山は、更田の手を振り切り見下すように言い放つ。


「あれだけ啖呵切ってボコボコにされたくせして、まだ減らず口が叩けるようだな?」

「灯籠、いい加減にしないか。大会前に騒ぎは起こしたくない」

「わーったよ」


 こちらが何かを言う前に、廟が医王山に釘を刺す。医王山は渋々ながらも、後ろ頭をガシガシと掻いて従順に後退する。


「君達も競技に私情を挟まないでくれ。個人的な禍根は断つこと。いいね?」

「自社製品をPRしてる奴に言われたくねーよ。癒着でもしてんのか?」

「これは本当に良かれと思ってやっていることだ。後で人数分、合宿所に送るよ」


 更田の憎まれ口に対しても、廟は眉一つ動かさない。そのまま彼らは更田達の前から去って行った。


 残されたのは更田、半谷、下呂、原、神崎、川北の六人である。なぜ川北も残っているのか不明だが、先程こちら側に味方してくれた恩もあるので、なんとなく更田は言葉を選んで示唆した。


「……行かなくていいのか? あいつらの仲間なんだろ?」

「ハァ? 何言っとんねん。ウチも選抜メンバーの一人や」

「マジで⁉ じゃあ、なんで廟と一緒にいたんだよ?」

「玉の輿や!」

「言い切りやがった!」


 あまりにも清々しい川北の物言いに、更田は開いた口が塞がらない。驚いたのは他のメンバーも同じようで、つい下呂が疑問を抱く。


「……でも、もう既にメンバーは五人揃ってるよね? わざわざ余分に募集するかなぁ?」

「うっさいわハゲ!」

「いったぁ! ハゲてないし、なんで殴るの⁉」

「ハゲた面しとるからや!」

「どんな顔だよ⁉」


 下呂の言い分は尤もだが、今はそんな口答えを聞いている場合ではない。更田の心の片隅には裏切った水天宮の陰が映っており、それは半谷も同様であった。


「また女スパイだっちゃ?」

「誰が峰不二子やねん!」


 まさかの半谷までもが理不尽に殴られる。いや言ってないし、それ怪盗だしと、更田は条件反射でツッコミそうになったが堪えた。


「殴るなら己を殴れ!」


 ただ殴られたいドMのくせに善人ぶりながら、原が川北の前に両手を広げて立ちはだかる。だが川北の反応は意外なものだった。


「仲間を庇う献身さ、ウチには殴れん!」

「なぜだ⁉」


 どうやらアプローチを間違えたらしい原は、失意のドン底に落ちながら地面に倒れる。愛すべき童貞は死んだ。


「あ、皆さんお揃いで、ここにいたんですか? もー、あっちこっち探し回りましたよー」


 原付で会場を走っていたらしい樋口が、公園にいた更田達を発見する。そのまま彼女は更田達の元まで原付を走らせ、安堵したのか能天気に笑顔を振り撒いていた。

 しかし、その表情は川北が前に出て自己紹介することで凍りつく。


「あんたが樋口さんかい? ウチは川北柊花や。よろしゅう頼んます」

「……ちょっと急用を思い出したので、私は本部に戻ります。ほら、神崎さんも一緒に来て」


 見るからに樋口は狼狽し、神崎を原付の後部座席に乗せようとする。あまりにも怪しすぎる挙動に対し、更田は相手が確実に尻尾を出すまで待った方が良いか、リスクと不安を天秤にかけ判断した。


「追うぞ!」


 更田の掛け声に男共が同調する。今にも走り出しそうな原付の荷台に手を掛け、四人がかりで後部タイヤを持ち上げた。


「待てコラァ!」

「わーッ! なんで付いて来るんですか⁉」

「生意気にベスパ乗りやがって! 何か隠してるだろ!」

「疾しいことは何もありません!」


 そう言いながら樋口はギアを変え、アクセルを思い切り踏む。すると前輪が勢い良く回り出し、引っ張られて体勢を崩した更田達は手を離してしまった。

 ここで引き下がれない更田は最後の負け惜しみを言う。


「原付タンデムは道路交通法違反だぞ!」

「日本じゃないから大丈夫です!」

「どういう意味だぁ⁉」


  * *


「博士ぇ!」

「まーた非常事態か?」

「川北柊花が彼らに接触しています!」

「ああ、知っとるよ。神崎と入れ替わりで選抜チームの一員なるよう儂が手配した」

「なんで教えてくれないんですか⁉ 何の狙いがあるんですか⁉」

「まぁ、落ち着きなさい。時間が無かったんじゃ。それに彼らといた方が、彼女にとっても刺激になるじゃろうて」


  * *


「せっかくやし、コースの下見すんで」


 原付に乗る樋口の追跡を断念するまで、かなりの距離を更田達は走った。そして一休みをしていた間に川北が提案をしたのだが、下呂のリアクションは薄い。


「明日でいいよ。体痛いし」

「ドアホ!」

「どぉうぇ⁉」

「本番は明後日やぞ! 何眠たいこと言っとんねん!」


 疲れている更田は二人の茶番に付き合っている余裕は無く、川北が手に持っていた紙に目を惹きつける。


「ちょっと地図を見せてくれ」


 更田は樋口の言葉が頭から離れなかった。ここは日本ではない。じゃ、どこなんだ? 知らない内に何かの流れに乗っているような気がして、少し焦りながら地図を開く。


「……ここはどこなんだ?」


 地図には島の全体像が載っているだけだった。横から川北が補足説明をしてくる。


「一応は日本の領海内にある離島や。ただ広義の意味では補強して最近できた埋立地みたいなもんやから、島として国連に申請して登録されるまでは治外法権になっとる」


「そんな所で大会開いていいのかよ?」

「別にええやろ。男のくせに細かいこと気にすんなや。ってか、そんな初歩的な事も知らんかったんかい」

「悪かったな。お前らは知ってたか?」


 男共に同意を求めると原が答えた。


「開催地は事前に調べてはいたが、てっきり昔からあるものだと思っていた。まさかそこまで歴史の浅い島だとは……」


「土地開発自体は日本列島改造計画の名残で、随分と前からやってたようやで。ただ公共事業とはいえ途中で資金難になりおって、断念されていたのを今の不破博士が引き取ったんや」

「詳しすぎない?」


 ペラペラと裏話を披露する川北に対し、猜疑心が強くなった下呂は怪訝に思う。


「土建屋の娘やからな。って、誰がゼネコンや!」

「なんで⁉」


 もはや言いがかりのレベルで下呂を殴りつける。後ろで羨ましがっている原には気づかないまま、川北は自慢でもするような口調で得意気に続けた。


「ま、おかげで選抜チームに入れたわけや。こんなに美人で優秀な人材が協力するんやから、感謝してくれてもええんやで?」


 川北は自分がコネで選抜されたことの負い目など、全く感じていない様子だ。その態度に更田は警戒を強くする。


「……選抜チームが発足した理由は、川北が要望したからか?」

「んなわけあらへんやろ。そこまで干渉できひん。それこそアンタらが選ばれた基準が分からんし、よう調べさしてもろたわ」


 とりあえず更田は川北の返答に安心した。なぜなら、彼女も自分達と同じ立場であり、医王山に言い放った言葉に嘘偽りは無いと実感したからだ。

その一方で、いくら殴られようと懲りない下呂が懇願する。


「自分の事は内密で……」

「アカン。ただでさえウチらは出会ってから日が浅い。少しでも心を開いて信頼関係を築かん内は、大事な襷を預けられんわ。特に半谷駿」


 急に名前を呼ばれた半谷は、どこか上の空だった。その反応を見て、川北は睨みつける視線を一層鋭くさせる。


「予選で全裸になったらしいな。そりゃ失格になるわ。次やったら例えイケメンだろうとシバキ倒すで」

「おけおけオッケー」


 純粋とも、悪ふざけとも取れる半谷の変わらなさに、更田達は毒気を抜かれる。それは彼と出会って間もない川北も例外ではなかった。


「しょうもな。ま、後でウチのことも話したる。今はコースに集中や」



「ここが第一コースや。初っ端から起伏の激しい道のりやけど、他のコースよりかはオーソドックスな方やで」


 川北の言う通りスタート地点から近い場所からでも、険しそうな山を一望できる。更田は地図を見ながらルールの確認をした。


「……この道のりに沿って進まなければいけないのか?」

「まさか。ルールが無いのがルールのステーションに、そないな制限つけへんやろ。とはいえ、この道を進むしか他にルートは無いやろなぁ」

「なら、崖を登ればショートカットできる」


 第二コースへ向かうには、螺旋状になっている山道を右側から迂回する必要がある。それなら左側にある崖を登れば直線で行けると更田は考えたが、川北の反応は冷たいものだった。


「正気か? ま、登れるんやったら登ってみぃ」

「後で吠え面かくなよ」


 意地になった更田は引き返せなくなり、そのままの勢いで崖を登り始める。


「ほー、器用に登るもんや。ホンマは人間やのうて猿やないか?」

「誰が猿だ!」


 などと強がってはいるものの、更田は中盤に差し掛かってから動きが鈍くなった。指にかかる全体重の負担と、落ちたら無事では済まない高さによる恐怖で、一手ごとの動作が慎重にならざるを得ない。


「けど、時間かかりすぎやろ。ライバルは待ってくれへんで? やーっておしまい!」

「アラホラサッサーッ!」


 川北の掛け声に合わせて半谷の叫び声が聞こえたかと思うと、彼は下から更田に向けて石を投げつけてきた。


「何しやがる⁉ テメーら後で絶対に殺す!」

「発想自体はおもろいけど、競技中は無防備を晒すだけやな。お蔵入りにしといた方がええんとちゃう?」

「いや、そうでもないぞ?」


 声が聞こえたのは頭上からだった。なんと原は遅れて登り始めたにも関わらず、いつの間にか更田よりも先に崖の上へと到着していたのだ。


「どうしてそんなに速く登れたの?」

「登ってから行き当たりばったりで進むのではなく、予め重心を掛けやすそうな箇所を決めておくんだ」


 下呂の質問に対しても、原はスマートに返答した。確かに登ってからでは、どこに手足を掛けようか迷って効率が悪い。とはいえ、少し見ただけで登る順序を即座に決められるものだろうか? 更田は原の計算力に感服した。


「流石やわ原君! まるでスパイダーマンや! どっかの猿とは大違い!」


 もはや言い返す気力さえ残っていない。どっと疲れが更田の身に襲ってきたが、なんとか崖に爪を喰い込ませる。

 すると、原が更田に向けて手を差し伸べてきた。


「何の真似だ?」

「一度やってみたかったんだ、アレ」


 アレとは何か? 更田は暫し逡巡した後、息を大きく吸い込み、力強く原の手を取る。


「ファイトォ!」

「いっぱーつッ!」



「ここが第二コース。工場と昔の従業員が住んどった家が立ち並ぶ、旧市街地やな。障害物が多くて迷路みたいなんが特徴や」


 川北は気楽にコースの説明をしているが、人が住んでいたであろう家は廃墟も同然だ。今にも崩れそうな建物の間を大勢が走るのは危険であり、そこをコースにするのも不自然だと更田は思った。


「退廃してるな……。ここを残しておくメリットってあるのか?」

「文化的な価値があるんとちゃう? 軍艦島みたいに。知らんけど」


 この島について詳しいのか、詳しくないのか分からない答えである。建物の不気味さと相まって、少し心配になってきた更田は質問を重ねた。


「……道は合ってるのか?」

「いや、迷っとる」

「土建屋の娘じゃねーのかよ⁉」

「せやかて、ウチも来るんは初めてや! 男が細かいことで喚くな!」


 責任を押し付け合う醜い言い争いを二人がしていると、先の十字路に立っていた下呂が道を指し示す。


「たぶん、こっちだと思うよ」

「根拠は何や?」

「単純に方角だよ。よく路地裏とかで追い駆けっことかしてたから、感覚で分かるんだ」

「ゲロっちの言う方向で合ってるナリ」


 半谷の声がしたので更田は顔を見上げると、彼は建物の上に立って道を見渡していた。彼の突拍子もない行動は驚きだが、こういう身軽さは不思議と頼りになる。

 そう感じたのは原も同じだったようだ。


「ハヤオが言うのなら間違いないだろう。ゲロの体内磁石は精度が高いな」

「ゲロって呼ぶの止めてくんない? なんか褒められた気がしないんだよね」


 原はフォローしたつもりだったが、なぜか下呂の反応は芳しくない。この先の展開を予測した更田は助け舟を出す。


「実際に見て確認したのはハヤオだしな」

「自分の手柄は⁉ ……いや、そうじゃなくて、はぐらかそうとしてない⁉」


 気づかれた。だが、更田は焦りを表情に出さず、素っ気ない対応をする。


「え、何が?」

「試しに自分の名前を言ってみてよ」

「……マコだけど?」

「YOUではなく、MEね! 本当は忘れてるでしょ⁉」

「仲間の名前を忘れるわけないだろ」

「だったら言ってよ」

「…………」

「おい⁉」


 更田の胸倉を掴む下呂を、川北が窘める。


「ええ加減にしぃや。仲間を疑って楽しいんか?」

「なんで自分が責められてんの⁉」



「ここが第三コースの水上アスレチックや。基本的に丸太の上を走ることになるけど、いくつかの障害も設置されておる鬼門やな」


 川北に連れて来られた場所は、辺り一面が湖のコースだった。ただ水面に頼りなさそうな丸太の足場と、何か怪しげなモニュメントが聳え立つばかりだ。


「もはや駅伝から駆け離れてねーか?」

「駅伝やのうてステーションや。そのためのダイナレッグやろ」


 そう言って川北は自身の膝を軽く叩く。どうやら今履いている黒い靴が噂のダイナレッグらしく、原は物珍しそうに純粋な好奇心で質問する。


「そのブーツに何か仕掛けが?」

「せや。よう見とき」


 得意気に言う川北を止める暇も無く、彼女は意気揚々と湖へ飛び込んだ。そのまま水中へ沈み込むかと思いきや、彼女は水の上で静かに仁王立ちしていた。


「浮いた⁉」


 驚く下呂をよそに、川北は淡々と説明を続ける。


「ホバリングって言うんやったかな? なかなかムズいで。他にも色々と機能あるらしいから、アンタらも履いて試したらどうや?」


 川北の提案は魅力的だった。まさか無料で配られていた靴に、こんな未来感の溢れる機能が搭載されているとは思わない。その上まだまだ使い方が未知数とくれば、健全な男子高校生でテンションが上がらない者はいないだろう。

 しかし、更田、原、半谷、下呂の四人は、それぞれの理由で断る。


「遠慮する。丸太があるなら、それで充分だ」

「己も自慢の肉体を信じている」

「そもそも靴が苦手ナリ」

「……自分も大丈夫かな?」

「ま、確かにスピードを重視するなら、丸太の上を走った方がええかもな。じゃ、ウチはダイナレッグの練習も兼ねて先に行くで」


 とりあえずは男達の言い分に納得し、川北は一人で先に進んで行く。その姿が見えなくなるのを確認してから、更田は本題を切り出した


「で、どうする?」




「ここが第四コースの空中アスレチックや。さっきの第三コースまでが二次元やとしたら、上下左右と縦横無尽の三次元やな。木々の間を自由自在に飛び回れる、身軽さが求められるで。ま、ここまで来た強者なら余裕やろうけど、なんでアンタらビショビショに濡れてん?」


 男達は四人とも、全身ずぶ濡れになって川北の案内を聞いていた。ダイナレッグを断っておきながら水没したという事実を認めたくない更田は、男の代表として物申す。


「走るより泳いだ方が速えーかもしんねーだろーが」

「んなわけあらへんやろ。水に落ちた時点で失格やアホ」


 川北に男としての威厳もプライドもバッサリ切られた更田は、無言のままその場で崩れ落ちる。そんな彼を不憫に思ったのか、原が話題を元に戻した。


「ここもダイナレッグの機能で突破可能なのか?」


 第四コースは例えるならば、蜘蛛の巣のようなロープが主な足場だった。後は申し訳ない程度に吊り橋が設置されており、落ちれば死を予感させるには充分な高さだ。


「空は飛べん。あくまで浮くだけや。せやから死ぬことは無いやろ。安心して逝け」


 常人には突破できないだろうと思わせるコースであろうと、川北は楽観的に構える。なぜなら、彼女には手頃な実験体が身近にいたからだ。


「いや、自分ダイナレッグ履いてないし! さっきの台詞は接続詞が変だったから、もう一度だけ校正した方がいいと思う⁉」


 それは下呂である。崖から突き落とそうとする川北に対し、彼は必死に抵抗した。


「何おかしなこと言っとんねん。いいから早よ逝け。乙女に恥かかす気か?」

「花も恥じらう乙女はこんなことしないと思う!」

「誰がビッチや!」

「誰も言ってない! マコ達も傍観してないで助けてよ!」


 まだ先程のショックから復活できていない更田の返答は辛辣なものだった。


「……何事も犠牲は付き物だ」

「この人殺しぃ!」


 哀れ、人柱となった下呂は第四コースに突き飛ばされる。世界に絶望しながら走馬灯が駆け回り、奈落の底へと堕ちていく彼の手を掴んだのは半谷だった。


「大丈夫かゲロっちー」

「パヤオ!」


 半谷はサーカスの曲芸のように、ロープに足を引っ掛けて自身は逆さまのまま下呂をキャッチしたのだ。なぞの愛称で呼ばれたことなど気にも留めず、半谷は腹筋のみで上体を持ちあがらせて下呂にロープを掴ませる。


「助かったよ! ありがとう!」

「このコース面白いナリよ」

「へぇ……。あれ? これって自分が突き落とされる必要あったのかな……?」


 下呂の感謝を聞いているのか聞いていないのか、半谷の返答は的外れなものだった。そして一息ついたことで思考がクリアになった下呂の体を、半谷は再び抱え上げる。


「一緒に行くズラ」

「ちょ、待っ……あああああーーーーッ!」



「ここが第五コースの滑走路や。スタートからゴールまで単純に直線やからな、ホンマの自力が試されるで」

「何の変哲も無いな……」


 原は率直な感想を呟いているが、更田には何か違和感が頭の片隅に引っかかっていた。


「いや、滑走路があるのに、どうして選手達は船で来たんだ? 飛行機を出せよ」

「ちゃんと観客は飛行機で来るらしいで。ま、一部の富裕層に限られるけど、船の方が一度に大勢入れるやろ」


 川北の言う理由は納得できるようで、なんとなく不自然だ。その曖昧さを上手く言葉にできる自信が無く、それ以上の疑問を更田は言い出せなかった。


「なんか、蜃気楼でも見えそうなコースだね……」


 季節は秋だが太陽の日差しは強く、アスファルトから照り返される熱は思考力を低下させる。いくら歩いても景色が変わらない広大な滑走路上に立っていると、下呂の言う通り地平線の向こうまで道が続いているような錯覚に陥りそうだ。


「よし、じゃ合宿所に戻ろか。ビリケツは罰ゲームやで」

「競走ってか? 嫌だよ面倒くせー」

「ふっ……子供騙しだな」

「た、体調が……」


 原も下呂も更田の意見に同意するが、相手は一度決めたことは絶対に曲げない川北である。彼らの誤魔化しに耳を貸すはずも無い。


「もっち、ステーション形式やでぇ」


 半谷が高らかに叫ぶ。


「GO!」


  * *


「だらっしゃーッ! おれの力を見たかコラァ!」


 合宿所に一番速く到着したのは更田だった。続いて半谷、下呂の順でゴールし、彼らは歓喜の雄叫びを上げる。


「UREYYYYYYYY!」

「ヒャッハァーッ!」

「やかましいわ! ったく、体力だけは無尽蔵やな。普通の駅伝に出たれ!」


 四番目は川北だった。そして遅れて原がゴールする。


「……ハァ、ハァ……まさかビリとは……」


 汗だくで芝生の上に倒れ込む原を見下ろしながら、更田は仲間として忠告した。


「無駄に筋肉つけすぎだ。余計に体力を消耗してるぞ」

「筋肉は……悪くない……」

「ともあれ原君がビリケツやな。罰ゲームは一位の更田が考えとって」


 気楽そうに川北が言ったのを聞き逃さず、原は自分が磔でもされたかのように、期待の眼差しで更田を見つめた。


「やめるんだマコ! 筋肉を苛めないでくれ!」

「……じゃ、罰ゲームは無し、っていう罰ゲームで」

「なぜだぁ⁉」


 原の悲痛な叫びが辺り一帯に木霊する。同情の余地は全く無いのだが、事情を知らない川北だけは話が別だった。


「なんやそれ? 白けるわー。こんな不完全燃焼のまま終われんな」

「どうする気だよ?」

「ゲロッパ、ちょっと椅子持って来てー」


 呼ばれ方に首を捻りつつも、命令ではなくお願いを川北からされた下呂は、彼女の指示を遂行しようと縁側から合宿所へ入って行く。その一方で指示を出した川北は、玄関で配達された郵便物をチェックしていた。


「ウチの荷物と、ダイナレッグも人数分届いてるやん。仕事早いなー」

「これでいい?」


 下呂が持ってきたのは、キッチンにあったスツールである。ちなみにスツールとは、背もたれが無いタイプの簡易的で安そうな椅子だ。


「お、ええ感じや。あんがと。じゃ、そっち置いといて」


 川北の指示通り、下呂は庭の中央に椅子を置く。それを確認してから、彼女は間延びする声で宣言した。


「椅子取りゲームやるでー」

「なんで?」


 率直に疑問符が浮かんだのは更田だ。そのリアクションを見て川北は自慢げに説明する。


「ステーションでの格闘を実践的にやりたいからや。さっきは格闘しとる暇無かったし、椅子取りゲームは乱戦を想定するのに最適なんや」


 実はステーションの競技中にバトルが勃発するのは稀である。なぜなら、そんな事をしている間に他の選手が出し抜くからだ。


 しかし、コースの障害やギミックによっては、強制的に相手と対峙しなければいけない場面が発生する。また、競技中のミッションで乱戦をクリアすれば、自分達のチームが有利に働くこともある。


「なるほど。確かに理に適っている」

「楽しそうナリ」


 原も半谷も乗り気だ。更田も異論は無い。後は下呂が首を縦に振るだけだが……。


「え、やめとこうよ。指導者もいないのに危ないよ」

「GO!」


 少数派の意見を切り下げる立派な民主主義の下、川北は半谷の掛け声に倣ってスピーカーから音楽を流し始めた。曲名はオクラホマ・ミキサーである。


「体が勝手に動く!」


 牧歌的でノスタルジーに浸れるアメリカ民謡には、ネガティブな下呂も逆らえなかった。男四人で一緒に、リズムに合わせ椅子の周りをスキップしてしまう。


 はた目からだと陽気に遊んでいるように見えるが、それぞれ四人の思考も目まぐるしく回転していた。いつ音楽が鳴り止むか分からない状況下で、どのようにして椅子を確保できるのかイメージする。


 どうしても負けられない緊張感と、これから殴り合う恐怖と向き合う中で、永遠とも思えた音楽が止まった――。


「いただくじぇ!」


 誰よりも先に反応したのは半谷だ。脇目も振らず、一直線に椅子を目指す。だが、彼の俊敏さを理解していた更田は、音楽が止んだ瞬間に横っ飛びしていた。


「させるかッ!」

「覚悟!」


 半谷へと襲いかかる更田とは反対方向から、同じく原も突進する。三者がクロスする中で更田と原の激突は避けられず、半谷だけが軽い身のこなしで跳び箱のように、交差点である二人の頭上を早々に通過した。


「ぐっ、ギ……」


 原のパワーを受け止めている更田の呻き声を耳に残し、半谷は悠々と椅子へ手をかける。すると、椅子越しから下呂がファイティングポーズで待ち構えていた。


「そう簡単に椅子は取らせないよ」

「……震えるズラ」


 間髪入れずに下呂がジャブを繰り出すと、半谷は椅子に手をかけた体制のまま、その手を軸に体重移動してジャブを避ける。そして同時に勢いよく回し蹴りを放った。


 その蹴りを下呂が屈んで避けた隙に、半谷は彼との距離を詰めて膝蹴りをする。だが、またも最小限の動きで蹴りを回避した下呂は、今度はリバーブロウを狙うも、負けじと半谷は素早いバックステップで躱す。


 洗練された正確無比な動きの下呂と、野性的な直感でトリッキーな動きをする半谷とでは、お互いに次の動作が読めずに攻めあぐねる。まるで二人が剣豪のように次の手を観察する中、もう一方は相撲の取っ組み合いのように膠着状態が続いていた。


「ナメんなボケぇ!」


 原との力比べに嫌気が差した更田は、とうとう怒りの感情によって馬鹿力を引き出し、彼を勢いに任せてぶん投げる。


「不覚! だが取った!」


 投げ飛ばされた原は空中で身を立て直し、そのまま椅子へ着地するように腰かけた。それで勝負が決まったかと思いきや、審判の川北が新たに火を点ける。


「五秒確保できたら成立や!」

「タコ殴りだっちゃ!」


 即座に半谷と下呂が、まるで示し合わせたかのようにラッシュを仕掛ける。だが、彼らの攻撃は原の筋肉の前では非力であり、二人とも反動で弾き飛ばされた。


「効かーーんッ!」

「そんなバカな⁉」


 唖然とする下呂の後方から、一人の男が猛然とダッシュしてくる。更田だ。彼は椅子の足を手で掴むと、座っている原ごと肩から上へ持ち上げ、そのまま高く飛翔した。


「いいから……降りろ!」


 渾身のパワードロップが炸裂する。だが、原は後頭部を地面へ強く叩きつけられようとも、恐るべき執念で椅子へとしがみ付く。


「死んでも離さん!」

「ストップ! 終了や! 見事、五秒経ったので原君の勝ち!」


 川北がゲームの勝者を告げ、男四人は各自の健闘を称え合う。


「なんつー耐久力だ……」

「打たれ強いっていうか、むしろ快感に変換されてない?」

「筋肉は裏切らない。裏切るのは、いつだって自分だ」


 何やら名言っぽいことを言っている原を尻目に、半谷は気持ちを切り替える。


「早く二ラウンド目を開始するズラ」

「いや、これ以上は余計や」


 あっけなくゲームを切り上げようとする川北に対し、まだ不完全燃焼だった更田は不満そうに言う。


「もう終わりかよ?」

「やったって意味があらへん。誰かさんが本気を出さん限りはな」


 更田には相手を拳で殴らないという、己で課した決まりがあった。それを先程のゲームを通した戦い方だけで、川北は容易く見抜いたのである。


「本気を出してねーわけじゃねーよ」


 それは嘘偽りの無い更田の本心だったが、彼のパワーで人体の急所を突けば、原の肉体を打ち崩せた可能性があったのも事実だ。


「自分にハンデ課しとる場合か? ま、ええわ。後で腹を割って話そうや」


  * *


「ようこそビストロ川北へ。私は炎の料理人・シェフ川北でございます」


 二日目の夜。特訓の疲れを洗い流し、風呂から上がってきた更田を待ち構えていたのは、白いコックの衣装と赤いスカーフを身に付けた川北の姿だった。


「こちらが本日のメニューでございます」


 湯気が立ち上る頭のまま、下呂は川北から差し出された用紙を受け取る。本日のメニューは、本日のサラダ(ステーション風)に、本日のスープ(ステーション風)……。


「本日のばっかなんだけど……?」

「本日のメニューですから」


 意味の分からなさで混乱している下呂の横から、原が口を挟む。


「この、ステーション風というのは?」

「本日のサラダのステーション風でございます」

「いや、だからステーションって何? 味の想像が全くできないんだけど!」


 小動物的な勘が回復した下呂は何を食わされるのか危機を感じ、矢継ぎ早に疑問点を指摘する。そして、とうとう川北の化けの皮が剥がれた。


「ええから黙って食えや! 少しサプライズあった方が食事も楽しいやろ!」

「不安でしかないよ⁉」

「お見舞いしたるで!」

「これから料理を作ろうという人の発言じゃない⁉」

「今から調理に取り掛かるから、首洗って待っとけや!」


 首を長くしての間違いだろ、と更田は指摘する気さえ起きない。料理が完成するまでテレビでも観ようと電源を入れた。


「あ、ステーション特集だ」


 下呂の何気ない一言で、みんながテレビに注目する。


「ミカちゃんが出てるナリぃ!」


 半谷が言うミカちゃんとは、水天宮帝のことである。なんと彼女は番組の記者から、華々しくインタビューを受けていた。


「……まるでアイドルみたいな扱いだな」

「いや、アイドルだろう。ステーションをやっていて彼女を知らないのか?」


 更田も原も、何を言っているんだコイツは……という顔で互いの反応を見る。


「え、水天宮さんって有名人なの?」

「せや。たった一人のステーション女性競技者。それだけの看板で瞬く間に人気者や。しょーもない」


 下呂の純粋な質問に答えたのは川北だった。なぜか彼女は偉そうにしているが、更田には一つ気がかりなことがある。


「……料理は?」

「レタスでも嚙っとれ!」

「何なんだよ⁉」

「こいつがイケ好かんから、ウチがステーションに出馬したんや! それがウチの走る理由や! 文句あるか⁉」

「無いです……」


 本当にレタスを投げられた更田は意気消沈する。


「てか、アンタら水天宮と知り合いみたいな口振りやな……?」

「あーッ! すごく本日のスープが飲みたいなぁ!」

「煮崩れしてまう!」


 今のは下呂のファインプレーである。一体スープなのか煮物なのか分からない発言を残し、川北はキッチンへと引っ込んで行った。


 再びテレビへ視線を移すと、あなたの走る理由は何ですか? という記者の質問に対し、水天宮が答えている場面だった。


『この大会に優勝して、ダイナレッグの有能性を世界に知らしめることです』


 テレビ越しに見ても彼女の瞳には曇りが無い。きっと本心で言っていると思わせるからこそ、更田には薄っぺらく聞こえてしまう。


「……なぁ、お前らが走る理由って何だ?」

「自由の風を感じたいズラ」

「己の殻を破ることだ」

「走り切ること……かな?」

「そんな事に意味なんかあらへん! ただの自己満足や!」


 いつの間にか戻って来た川北は、片手鍋で熱したスープと思われる液体を、おたまで容赦なく下呂にぶっかけた。


「熱ッ痛ぅ!」

「食べ物を粗末にするな!」


 更田の注意に川北は耳を貸すことなく、おたまで液体にとろみを付かせている。まるで何かの妖怪だ。


「男同士で生温いこと抜かしおって。勝たな道は開かんのじゃ!」

「チームのために献身しろ、ということナリか?」


 妖怪と成り果てた川北に臆すことなく、意外にも半谷が一歩前へ進み出た。いつになく真剣な半谷に応え、川北も正面から対峙した。


「個人のためにチームがいる、なんて青臭いことは死んでも言わん! 逆に言えば、 このステーションという競技において、個人の目標が優先されることはありえん! だったら一人でマラソンにでも参加した方が有意義やろ⁉ ウチが聞きたいのは、おどれらがステーションに参加して走る理由や!」


 川北の意見は正しい。だが、それは世間一般での話であり、この場においては正しさなど存在しないと、更田は気づいていた。


「……ちょっと待て、ステーションで走る理由なんか探しても見つからないだろ。おれ達が勝ったところで何も見返りが無いなら、どうしたって個人的な理由が走る原動力になるんじゃないのか?」

「せやけど、ここに集まっとる。腐ってもチームとして存在しとる以上、走るからには勝つ意気込みでないと利害が一致せえへん。途中で半谷が全裸になって、レース自体が台無しにされたら目も当てられへんやろ?」

「聞き捨てならないっちゃ」


 さらに川北へ近づこうとする半谷を、原が押し留める。


「落ち着くんだパヤオ。川北さんが言うことは一理ある」

「真に受けるズラか?」

「己は大会中にウンコを漏らした」


 場の空気が一瞬で凍りつく。下手に触れれば低温火傷しかねない状況で、下呂が控え目なフォローを入れる。


「……次から気をつければ」

「そして、また漏らす可能性がある。いや、むしろ漏らしても構わない覚悟がある」

「何が君を突き動かすんだ⁉」

「……さらなる扉が開くのだよ」

「ドン引きだよ!」


 下呂が頭を抱えて嘆く一方で、川北は諸手を挙げて喜ぶ。


「素晴らしい! その勝利への執念こそ、ウチが探し求めとった篝火や!」

「川北さんは何か誤解してるから! そこに感動の要素は一切無いよ!」

「じゃ、アンタはババ漏らしながらゴールまで走り切れるんか⁉」

「そういう問題じゃないし!」

「なんや? 男の嫉妬ほど見苦しいもんは無いで。これだから大会中にゲボ吐いた輩は」

「あ、今言っちゃいけない事を言いましたね⁉ そっから先は戦争ですよ!」


 今にも川北へ噛みつかんとする下呂の肩に、原が優しく手を置く。


「下呂……気の毒だったな」

「クソに言われたくねーよ!」

「一生懸命、無我夢中に走った人に向かってクソとはなんや! 少しは敬意を払わんかい!」

「オレも緊張でゲロ吐きながら走ったのに、この扱いの差はなんなの⁉ 不公平だよ!」

「だってゲロだし……」


 小さく更田は呟いたつもりだったが、下呂の地獄耳は聞き逃さなかった。


「おい! 今どっちのゲロを指して言った?」

「そりゃゲロだよ」

「だからどっちだよ⁉ 紛らわしいから区別してくれ! 外来語禁止!」

「分かったよゲボ」

「ゲロをオレから区別するな! オレからゲロを区別してゲボにしろよ!」

「下呂は下呂じゃん……」

「下の名前があるじゃない」


 それが分からないから困っているのである。どうやって誤魔化そうか考えていると、先に半谷がボケてくれた。


「え、ロ?」

「下ネタかよ」

「どうでもいいよバカ! さてはオレの名前を忘れたな?」

「そんなわけないだろ」

「じゃ呼んでよ」

「本日のパスタが食いたいな!」

「茹で上がってまう!」

「その連携も何なんだよ! 本当に今日会ったばっか⁉」


 再びキッチンへと引っ込んで行った川北を見送りながら、とにかく話を元に戻そうと考えた原が質問をする。


「ちなみに、マコは何のために走るんだ?」

「最初は単純に就職のためだったが、今となっちゃ分かんねーな」

「走りながら答えを探せばいいナリ」

「確かに。上手く言えねーけど、このままじゃ駄目なような気がして、何かしてねーと不安になんだよ」

「それはマコが戦闘で打撃をしない理由と何か関係があるのか?」

「気づいてたか」

「わざわざ己と力比べする必要は無いからな」


 クソ漏らしを暴露した原に対し、もはや更田は自分の過去を隠す気になれなかった。正直に、ありのまま起こったことを言う。


「予選のゴール前で相手を殴り飛ばしたら、そのまま相手が先にゴールしちまったんだよ。だから戒めみたいなもんさ」

「一丁前に自分ルールかい」


 また、いつの間にか川北が会話に口を挟んできた。


「よく長距離マラソンは自分との戦い言うたもんや。そら走っている間は孤独やから、自分と向き合うしかないわな。でもステーションは違う。走っている間も敵だらけや。そして走り抜けた先には仲間がおる」

「おれ達は選抜メンバーだ。勝っても意味が無いなら、自分と向き合うしかないだろ」

「自分を変えようとして自分が変わらんように、世界を変えようとしても世界は変わらん! けどな、世界を変えようとして初めて自分が変わるんや!」


 逆に言えば、自分を変えようとすれば、世界が変わるということだ。この選抜メンバーと一緒にいることで、どのように自分と世界が変わるのか興味が湧いた更田は、あえて川北の口車に乗ることにした。


「明日、樋口を問い詰めようと思う」

「なんで?」


 川北が更田の目を見る。そして更田は川北から視線を逸らさない。


「選抜メンバーとして走ることに迷いが生まれたからだ。この迷いを払拭してから大会に本気で臨みたい」

「その心意気や。ほれ、本日のステーション風パスタやぞ」

「焼きソバじゃねーか⁉」

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