第1章 初日・出会い

「絶対に無理ですって!」


 博士の口から伝えられた実験方法を聞き、生真面目な助手は慌てふためいた。


「まだブレインストーミングの段階で、他人の意見を否定するでない!」

「いやいや、風呂敷だけ広げて収束する気ないでしょう⁉ 全部やる気でしょう⁉」

「流石は儂の助手。よく分かっているのう」


 助手は眩暈がした。もう何を言っても聞く耳を持ってはくれない。ストレスで胃が痛くなりそうで、せめて全てを吐き出して楽になりたかった。


「本当に正気ですか⁉ 文部科学省に掛け合って、教育委員会の許可を取って、学校に博士の実験システムを導入するんですよ⁉」

「地球の命運が懸かっているんじゃぞ! なりふり構っていられるか!」

「その皺寄せが全て私に寄っているんです!」

「グダグダ言わずにやるんじゃ! ゆとり世代め!」

「ゆとりですが何か⁉」

「この失敗作!」


 助手は心に刻んだ、忍耐の文字が崩れ去るのを感じた。


「もう我慢できません! 堪忍袋の緒が切れました! 辞職させていただきます!」

「そうか、残念じゃ……」

「同情を引こうったって、そうはいきませんからね! 今度の今度こそ、私は自由を掴み取ります!」


 脱力していく博士の老体を見て、助手は心が痛みそうになったが、後顧の憂いを断つように持っていたボードを叩きつける。そのまま背中を向けて帰ろうとした時だった。


「既に作戦の内容は伝えてある。ただで研究から抜け出せるとは思わないことじゃな」

「え?」


 物騒な響きに、助手は思わず振り返る。研究室の中央に立つ博士は、まるで隠居している祖父のような優しい声音で続けた。


「君の存在は組織が抹消するじゃろうて。もう二度と会えないのは寂しいのう」

「は……謀りましたね⁉」

「はて、何のことじゃ?」


 まだ恍けようとする博士の顔を見て、助手は全てを理解した。もはや、どこにも逃げ場所など無いということに。


「悪の組織め! 何が正義か分かったもんじゃない!」


* *


「ここでいいのか……?」


 授業が半ドンである土曜日の学校が終わり、すぐ家に直帰した更田は一人で目的地に向かっていた。電車を乗り継ぎ片道三時間。港から船に乗り込み、さらに半日以上の時間を費やして辿り着いたのは、世の中から隔離されたような孤島だった。


 船から降りた更田は、港から見える風景を一望する。雄大な大自然がある一方で、近くにある歩道などの人工的は綺麗に整備されていた。どうやら本当に、ここがサッシュメントステーションの全国大会が開かれる会場のようだ。


 ちょっとした旅行気分で浮かれている場合ではない。そう思い直した更田は意識を改め、次は合宿所を目指す。


 樋口と言う名の女から渡された地図によれば、港から歩いて一時間ほど歩けば合宿所に着くようだ。まだ開発中の孤島であるため、バスなどの公共交通機関は無い。明日になれば交通サービスは始まるらしいが、更田は一足先に現地へ赴いていた。

なぜなら、彼も歴とした選手の一員だからだ。


(一時はどうなることかと冷や冷やしたが、渡りに船の申し出ではあったかもな……)


 ステーション部の退部を告げられ、校長室で暴れようとしていた時、更田に救いの手を差し伸べてくれたのは運営委員会だった。最初から勝てないと分かっているBチームでありながら、Aチームと最後まで競った立役者としての功績を認められ、見事に学連選抜のメンバーに抜擢されたのである。


 所謂、敗者復活戦だ。但し、もう既にメンバーは五人とも決まっていて、五人ともが各々の学校から運営委員会に引き抜かれた人材である。あくの強い個性が揃うと予想されるため、そのコミュニケーション不足がハンデとならないように配慮された結果、他のチームよりも早く集合することを許可された。


 これだけの情報ならば才能ある人物のように聞こえるが、言ってしまえばアウトロー気取りな負け犬野郎である。実は更田自身も選抜される人物の基準は分かっていないため、あまり期待せずに勝負へ臨もうとしていた。


(どんなチームだろうと関係ない。おれは自分が走らなければいけない理由を、ただ見つけたいだけだ……)


 内心では強がっているが、てっきり更田は行きの船でメンバーと出会うと思っていた。結局それらしい人物を見かけることなく、彼は港から出発することに。


 それぞれの学校が違うとはいえ、高校生一人が遠い地へ現地集合するのは体に堪える。運営委員会の樋口も引率してくれず、日程の簡単な説明だけをして連絡が途絶えてしまった。なんという放任主義……。


 元より上手い話は向こうから舞い込んでくるものではない。どうせロクな目に遭わないことを、更田は経験則で嫌でも分かっていた。もう今日は合宿所に着いたら、すぐに旅の疲れを癒したい。そう決めた更田は、トレーニングついでに軽く走ることにした。


 アスファルトの道を踏みしめている横には、ジャングルと見間違うほどの木々が生い茂っている。季節は初秋だというのに、紅葉が広がる気配を微塵も感じさせない。


 どうして自分が走っているかの理由にはならないが、走ることで風を感じられるのは良い事だと更田は思う。まるで自然の一部に溶け込んだような錯覚を引き起こし、ランナーズハイに入ることができる。


 どこまでもグングン突き進めて行けるような気がした。背中にリュックを背負っていても、まるで苦にならない。今の自分は無敵だ。ただ走るという純粋な行為だからこそ、更田は自由に近い全能感を得ていた。


「こんにちは!」


 集中していた意識の外から声を掛けられ、いつの間にか女性が並走していた事に、更田は遅ればせながら気づく。まるで早朝ランニングの最中に出会ったような、無駄に元気の良い挨拶に毒気を抜かれ、更田は曖昧な返事をするしかなかった。


「ん? ああ、どうも……」


 この女は誰だ? 同じ選抜メンバーか? ってか、どうして一緒に走っているんだ? しかも親しげに、意味が分からない。狙いが謎だ……。


「いい天気ですね」


 訊きたいことは山ほどあったが、思考がグルグル回り過ぎていて対応できない。とりあえず彼女は世間話がしたいようだったので、話を合わせようと空を見上げた時だった。


「うおッ⁉」


 野生の勘が働いて咄嗟に上体を仰け反らすと、更田の目の前を斬るように蹴りが通り過ぎていく。更田は体勢を立て直す暇も無く、続いて女は回転しながら間髪入れずに踵落としを放ってくる。


 更田は振り落される足をキャッチしようと手を伸ばしかけたが、なぜか頭の中で危険信号が鳴り響く。直前で避けることを判断した彼は、あらん限りの力を腹筋に込めて道路へ横っ飛びをした。


「いきなり何すんだテメェ!」


 アスファルトの上を転がりながらも受け身を取り、即座に謎の女と向かう会う。


「お手並み拝見?」


 彼女は相手との距離を測る軽いジャブ程度に言うが、なんと踵落としで地面が大きく抉れていた。血の気がサァーッと引く。


「死ぬとこだったぞ!」

「まぁ、まぁ。そんな固いことを言わないでくれ。キサマの実力を見ておきたかっただけだ。それにしても、噂に違わぬ瞬発力だな」

「おれの事を知っている風に言うが、一体テメェは誰だ?」

「オレの名前は水天宮帝(スイテングウ ミカド)。そしてキサマは有名人の更田真虎だろ? そりゃあ知ってるさ」


 更田のことをリスペクトしている風に言うが、かと言って遜る様子が微塵もない。偉そうな態度の水天宮に対し、更田は慎重に情報を引き出そうとした。


「有名人って、おれの事か?」

「無論。他に誰がいる? あのソバットとセパタクローを組み合わせ、ステーション競技用に試行錯誤の末で仕上げた、更田流決闘術の創始者だろ?」

「なんのこっちゃ⁉」


 更田のプレイスタイルは格闘メインの妨害行為である。ただスニーカーを履いていた更田にとっては、足技で攻撃した方が効率的だっただけだ。


「この会場へ来て、初めて会う奴がキサマとは運がいい。いざ、果たし合おう」


 水天宮は勝手に話を進めようとしてくる。更田は必死に説得を試みた。


「待て。噂が独り歩きしている。おれは大層な人間じゃない」

「あの反応を見る限り、どうやら噂は本当だった様子だが……?」


 駄目だ。話が通じそうにない。そう悟った更田は弁明するのを諦め、水天宮から一目散に逃げ出した。


「コラ! どこへ行く⁉」


 ただ暴れるだけの理由が欲しい奴に、いつまでも付き合ってはいられない。一度だけでも距離を空ければ、無尽蔵なスタミナを持つ更田は逃げ切れる自信があった。


「なるほど、ステーションの流儀に合わせるということか。その誘い、乗った!」


 後方から水天宮の声が聞こえた瞬間、またしても更田の脳内に危険信号が鳴り響く。更田は後ろを振り返らず、咄嗟に進行方向へヘッドスライディングをする。


 そして後頭部の上を何かが飛んでいく風切音がし、顔を上げた時には既に飛来物がカーブミラーを叩き割っていた。


「よく避けたなー。次は当てる」


 殺す気かッ⁉ 無惨にも砕け散った鏡の破片を見て、すっかり更田は腰が抜けてしまう。だが、逆に非現実さを素直に受け入れることで、返って彼の脳内はクリアに透き通った。


「ちょ、タイム!」

「おかしなことを言う。ステーションにタイムは原則として無い」

「そうじゃなくて、おれは学連選抜のメンバーだ! お前もそうなんだろ? おれ達は仲間じゃないのか⁉」


 これが更田の導き出した妙案だった。現在、この島に学生がいるとしたら、それは早めに招集されている学連選抜しかいない。お互いに仲間だと判明すれば、共に走るチームメイトに怪我をさせようとはしないはずだ。


「関係あるの?」


 やっぱり駄目か。迫力のある水天宮の眼力に身が竦み、すぐさま更田は作戦を変えた。


「あ! 豚が空を飛んでいる!」

「え、どこ⁉」


 騙された水天宮が空を見上げている隙に、更田は音を立てず脱兎の如く駆け出す。そして鏡の破片を乗り越え、道路と隣接している森林へ頭から飛び込んだ。


「うわ、見失った⁉ 絶対に見つけ出す!」


 うつ伏せになった更田は息を潜め、水天宮の間抜けな声を聞く。だが、決して彼女の様子を窺うことはせず、地面を通して足音が遠ざかっていくのを我慢強く待ち続ける。そして完全に土の振動が治まり、ようやく更田は身を起こすことができた。草木の間から道路を覗き、誰もいないことを確認してから、彼は一息吐いて胸を撫で下ろす。


 とはいえ、いつまでもここにいるわけにはいかない。更田は舗装された正規ルートを諦め、太陽の方角と地図を頼りに、森を進んでショートカットする道を選んだ。港での磯臭さとは打って変わり、森の中はアロマテラピーのような、程良い花の香りが漂っている。それでいて空気は澄んでおり、更田は深呼吸することで精神的な余裕を取り戻す。


 早く旅の疲れを癒したい更田だったが、仮に目的地へ無事に着いたとしても、合宿所には自分を狙う水天宮がいる。そう思うと億劫になり、自然と足取りも重くなってしまう。


 開き直ってサバイバル生活でもしてやろうか、などと考えながら歩いていると、途中でコンテナのような建物を発見した。森を調査する人達の拠点か何かだと思った更田は、あわよくば休憩しようと建物へ近づく。


 だが、建物には入口らしき扉が無かった。それどころか、更田が建物だと思っていた構造物は、不自然なほど綺麗な正四角形の白い石だったのである。更田は白い石の側面に手をつきながら、遺跡を発見した冒険家のように内心で胸を躍らせた。


 自然の中に奇妙な人工物があるだけで、妙な神秘性を感じてしまうのはなぜだろうか……? この島中を隈なく探せば、もっと不思議なものに出会えるのかもしれない……。おそらく真相は大したことのない理由だったとしても、好奇心が芽生えるだけで更田にとっては充分だ。この世は面白いという可能性だけで、生きる希望になり得る。

 ここではない、どこかへ。


「ギャアアアアァァーーーーッ!」


 聞き覚えのある女性の絶叫が、静かなパワースポットである森中に木霊する。せっかく久しぶりに癒されていた更田は、少し不機嫌になりながらも水天宮を無視できず、声が聞こえた方向へと移動した。


「更田真虎おおおおーーーーぉぉッ!」


 白い石から離れると、運良く水天宮と遭遇する。そして一直線にこちらへ向かって来るのを見て、叫び声は自分を誘い込む罠だったかもしれないと気づく。


「……しつけーな。いい加減に……ウオオオオォォーーーーイッ⁉」


 しかし、近づいてくる彼女の切迫した表情と、その後ろにいる全裸の男を目撃し、そのような疑いは頭から吹っ飛んだ。思考が真っ白になってしまった更田は、とりあえず水天宮と一緒に逃げることを選択する。


「後生だ! 置いてかないでくれ!」

「さっきまでの威勢はどうした⁉ ってか、どうしてこうなった⁉」

「それは助かったら話す! とにかく手を貸してくれ!」


 自分に襲いかかった水天宮ほどの女なら、全裸の男くらい自力で対処できそうなものだが、助けを求められては仕方ない。更田は走るのを止め、暴漢の前に立ちはだかる。


「先に行け!」

「恩に着る!」


 カッコつけたは良いものの、どのようにして全裸の男を対処するべきか分からない。話している余裕は無いと開き直り、問答無用で撃退しようと構える。すると何を思ったのか、相手の方から更田に話しかけてきた。


「助けてチョンマゲ!」

「うるせぇ! 殺すぞ変態!」


 ふざけた態度に腹が立ち、思わず更田は反射的に殴りかかってしまう。だが、相手は拳を軽やかに躱し、更田の横を通り過ぎていく。


「忍法、変わり身の術」

「なっ……⁉ 待ちやがれ!」


 相手の変態性にばかり気を取られ、素早い身のこなしに不意を突かれてしまった。信じたくはないが、おそらく相手も選抜メンバーの一人なのだろう。


(……面白い。敏捷性では劣るが、持久力では負けん)


 ことさら更田は勝負事において、いかんなく勝気を発揮してきた。喧嘩も、スポーツも、ごっこ遊びも、ギャンブルも、彼は勝とうとして勝負に挑む。


 生まれてこの方、戦う前から負けると思ったことは一度も無い。自分に対しても、周囲に対しても、ストイックな姿勢を頑なに貫いてきた更田だったが、背後の茂みから野生の熊が現れた時は流石の彼も死を覚悟する。


「どうしろ、ってんだ⁉」


* *


「くっそー、一体どこに隠れた?」


 時は少し遡り、水天宮帝は森の中に入って更田を探していた。

 森の外は開けた道路と港町があるため、そう簡単に見失うわけがない。視線を張り巡らせていれば森から出てくるかと思ったが、それも時間の経過につれ期待できそうにない。そわそわと痺れを切らした水天宮は、意を決し森の中へ入ることにした。


 しかし、森の中へ入ったら入ったで視界が非常に悪い。これでは更田を探し出すのは困難だと思えた矢先、偶然にも森の中を歩いている人影を見つけた。お目当ての更田ではないが、他に頼れるような人もいない。

 水天宮は相手を驚かせないよう、控え目に話しかけた。


「あの、少しよろしいだろうか?」


 呼ばれて振り返った相手は、男なのか女なのか見ただけでは分からないほど、怖いくらいに中性的で整った顔立ちをしている。水天宮は思わず相手の雰囲気に呑まれかけたが、さらなる相手の挙動に面食らってしまう。


「答えて進ぜよーッ!」


 突拍子もない大声と、特に意味の無いパントマイムが異質さを際立たせる。背の高さと声の低さからして、かろうじて相手が男だと分かった水天宮は、怖気づきながらも果敢に会話を試みようとした。


「まだ何も質問していないのだが……?」

「なんちって」


 相手の飄々とした態度に、生真面目な水天宮は調子が狂う。だが、更田を追える唯一の手がかりだと思い直し、異文化コミュニケーションを図ってみる。


「背が高く、かつ目つきが悪い人相の男を見かけなかっただろうか?」

「見てねーズラ」


 無理して体を張った割に、あまり成果を得られなかった水天宮は肩を落とす。


「そうか。呼び止めて申し訳ない。それでは先を急ぐぉ……⁉」


 勝手に期待していた自分が悪い。そう悟って踵を返した時だった。視線の先に、野生の熊が出没していたのである。低い唸り声をあげ、歯を剥き出して涎を垂らし、人間達をターゲットとして見据えている。


 どうして島に熊がいるんだ? いや、今は余計な事を考えている場合ではない。なんとかして危機を切り抜けなければ。


「……いいか? 動揺して背中を向けるなよ」


 同じく熊を見て固まっている隣の男に対し、水天宮は落ち着いて注意を喚起する。そして熊の様子を観察したところ、彼が背負っているリュックに関心を示しているようだ。


「おそらく、熊の狙いはキサマの荷物だ。静かに降ろして、食いついた隙に逃げるぞ」


 この男が何をするかは未知数だったが、水天宮の指示通りにリュックを地面に置く。熊は降ろされた荷物に視線が釘付けとなり、その隙をついて水天宮は静かに後退する。


 まだだ、まだ焦るな。少しでも気を緩ませれば、熊のターゲットが自分達に変更される。森の中から道路までは一キロほどだろうか? 三分間の全力ダッシュで助けを呼べる。それまでの時間を稼げるくらいの距離を取るまでは、絶対に油断するな。


 そう自分に言い聞かせている時だった。全神経を集中させた意識の中で、靄がかったようなノイズが紛れ込む。


 ハッとして水天宮が横に視線を送った時には既に遅かった。ノイズの発生源は、隣の男が服を脱いでいる衣擦れの音だったのである。


「全裸になるな!」


* *


「……というわけだ」

「いや、意味が分からないよね」


 熊に追いかけられて十分後。更田達の三人は命からがら辿り着いた合宿所の屋根に上り、依然として捕食しようとする熊から退避していた。


「どうして全裸なんだよ?」


 今の絶望的な状況に陥ってしまった元凶に対し、更田は辛辣な言葉を投げかける。だが、相手は何を言われようと、どこ吹く風だった。


「人は生まれた時から全裸ナリ」

「テメーを屋根から突き落として、また胎内から人生やり直させてやろーか?」

「ダーリン好きだっちゃ」


 全く反省の色が見えない。変態男は自分の好きに生き過ぎていて、相手にするだけ無駄だと更田は悟る。


 そして円滑なコミュニケーションを諦めた途端に、更田は無言の時間が気になり始めた。天気は秋晴れで穏やかな日差しであっても、外を熊が徘徊している状況下ではリラックスできそうにないだろう。


(お願いだ、誰か喋ってくれ!)


 ファーストコンタクトはトラウマになるレベルの悪印象だが、これからはチームメイトとして協力しなければならない。そして何よりも大会までの残り三日間、こんな気まずい雰囲気の中で生活するなんて嫌だ。

 すると更田の願いが届いたのか、なんと変態男の方から話を切り出してきた。


「井之頭高校、半谷駿(ハンガイ ハヤオ)ナリ!」


 なぜこのタイミングで自己紹介を……? 疑問を口に出す暇も無く、畳み掛けるように水天宮も自己紹介をする。


「中央高校、水天宮帝だ」

「……総武高校、更田真虎」


 何はともあれ、空気を切り開いてくれたのは助かる。水天宮の流れに乗って自嘲気味に自己紹介をしていると、右手で何か柔らかい物を掴んでいる感触がした。


「友だチンコ!」

「ふざけんな殺すぞ⁉」


 更田は拳を握って殴ろうとしたが、半谷は不安定な足場である屋根であっても、難なく飄々と回避する。まるで小学二年生のような半谷のノリに、悪戦苦闘している更田を見かねたのか、今度は水天宮の方から一つの提案をしてきた。


「しりとりでもする?」

「どんだけ悠長なんだよ⁉ あの熊どうにかしようぜ⁉」


 下を見ると、獲物を求める熊が合宿所の周囲を徘徊している。右手を鰐に食われたフック船長の気分を味わいながら、更田達は現在の窮地から脱する方法を考える。


「何か対策はあるだろうか?」

「ウンコを投げつける」

「一人で生成してろ!」


 水天宮と自分ならまだしも、間に半谷が入ったのでは真面目に作戦会議ができない。少し冷静さを失っていたと反省し、更田は初対面から気になっていたことを水天宮に質問した。


「……なぁ、その物騒なブーツで熊を撃退できないのか? おれの見間違いでなければ、確か恐ろしい破壊力だったような気がするんだが……」


 出会い頭の踵落とし。常人ならば自分の足が折れるはずだが、水天宮は特殊な加工を施されたブーツでアスファルトを粉砕していた。


「ああ、申し訳ないが、このブーツは義足だ」

「それが義足だって? すげーハイテクだな」


 水天宮の足は爪先から膝まで義足らしいが、パッと見では派手なブーツのように感じられる。更田が素直に驚いていると、彼女は得意気に語った。


「キサマは走り幅跳びの世界記録保持者が、義足を装着していることを知らないのか? もはや義手や義足は日常と遜色ないリアリティの一部であり、人としての可能性が拡張された現実世界だ。とうの昔に、生身の肉体が優れていた時代は終わったのだよ」

「へー。じゃ、その高性能な義足で熊退治してくれよ」

「断る。今はオレがテストパイロットをしているが、ゆくゆくは世界に広がるべき製品となり得る。人類の希望となる立派な医療技術を、動物虐待には使いたくない」

「その前に絶体絶命だから」


 近年、障害者スポーツの発達は著しい。例えば車椅子マラソンや、車椅子バスケなど、それまでリハビリや気分転換に過ぎなかったものが、過酷な勝負の世界として人々に認知され、細かくも公平なルールが整備されてきた。


 その一方で、走り幅跳びや短距離走など、健常者に迫る勢いで記録を叩き出す選手には目を見張るものがある。また、それを可能にする義肢の技術も年々レベルが高い。


 しかし、義肢の選手が健常者を超えようとすればするほど、その間にある確執はより一層大きいものとなる。今まで問題とされていなかった義肢が突如、健常者の大会で反則となる扱いを受けたのだ。


 結局のところ、健常者と障害者は対等ではない。ただ、オリンピックとパラリンピックで、競技者の住み分けがされただけである。


「いつか、健常者が義肢を装着するために、四肢を切断する時代が来るぞ」

「本末転倒だろ」


 下にいる熊よりも、目の前にいる水天宮の方が恐ろしい。決して表情には出さないよう配慮したつもりが、更田は心の奥底で畏怖を感じてしまった。


「今を生きるなり~」


 こんな時こそ、何者にも捉われない半谷の能天気さは頼りになる。まさかの癒しキャラとして機能している彼だったが、どうしても無視できない致命的な問題があった。


「いいから服を着ろ!」


* *


「で、どのような塩梅じゃ?」


 いつもの薄暗い研究室。博士は椅子にふんぞり返りながら、心待ちにしていた助手からの報告を聞こうとしていた。


「はい。予選では優秀な成績を見込まれていながら、様々な不確定要素で充分なデータを得られなかった選手を中心に、選抜メンバーとして五人ほど集めました」

「ほう……」


 物事は順調に進んでいるというのに、なぜか博士の反応が薄い。だが、助手は博士の様子を気に留めず、淡々と進行状況を報告し続けた。


「特に、この更田選手はスニーカーというハンデを背負いながらも、予選の優勝校である総武高校Aチームを追い詰めた実力者です」

「いや、そうじゃない」

「え?」


 報告を途中で遮られ、助手は徹夜で仕上げた資料を床に落とす。そして頭の中が真っ白になってしまい、博士が求めている情報が何か分からなかった。


「儂が訊いているのは、捕獲していたマヌカンのことじゃよ」

「自分で世話するとか言ってませんでした?」

「は?」

「え?」


 突然の事態を把握できず、二人の間で時間が静止する。そして一足先に己の非を認めた博士は、頭を抱えながら絶叫した。


「やってもうた!」


* *


「……行きたくないなぁ」


 大江戸高校からの選抜メンバーである下呂日朗(ゲロ ニチロウ)は、陰鬱な気分で合宿所を目指していた。道のりを歩いていても自然の豊かさには目もくれず、何かブツブツと呟いては下を向いている。


「優しい人達だといいけど……」


 どうして虚弱体質な自分が、ステーション全国大会の選抜メンバーに選ばれたのだろう? 他に誰かいなかったのかな……?


 大体、自分をスカウトした樋口という名の女性からして、怪しい匂いがプンプンしていた。メンバー選抜の基準も説明しないまま、いきなり合宿所への招集命令である。普通は何かしらの段階を踏むはずなのに、断る暇も無く周囲に流され、気がついたら全国大会の現地に前乗りしているではないか。


 その後も下呂は足取りが重いままで、ブツブツと一人で文句を呟いては、勝手にイライラしていた。十月でも衰えない残暑の厳しさが、さらに彼のイライラを加速させていく。


 目的地の合宿所までは、後もう少しで着くはずだ。それまでに負の感情を抑えつけなければ、きっと選抜メンバーに迷惑が掛かってしまうだろう。これから苦楽を共にする仲間だし、ファーストコンタクトこそが大事なのだ。


 そう自分に言い聞かせ、下呂は合宿所の敷地内へ入る。そして彼が最初に目にしたものは、男女三人が屋根の上で言い争っている光景だった。


「何だろ……?」


 半裸の男が全裸の男に服を着させようとして、その横で長い黒髪の女が爆笑している。まさか自分と同じ選抜メンバーだろうか? もしかしたら、屋根の上から仲間達を歓迎しているのかもしれない……。


「テメェ今すぐ殺してやる!」


 いや、違ったか。淡い希望を抱いていた自分が愚かだった……。そう反省して回れ右をしようとしたところを、運悪く屋根上の女に見つかってしまう。


「そこのキサマ! 早くこっちに来い!」


 振り向きたくない……。このまま聞こえないフリをして、何事も無かったかのように立ち去りたい……。


「早くしろ! 手遅れになるぞ!」


 水天宮の凛とした声から一転し、更田のドスが利いた低い声に呼ばれ、小心者な下呂は思わず呼びかけに反応してしまう。


「え? 何がですか⁉」

「熊が出没しているんだ! 早く逃げろ!」

「はぁ⁉」


 水天宮の言葉で今が危機的な状況だと察知した下呂は、すぐさま来た道を戻ろうと脱兎の如く駆け出そうとする。目の前の仲間を見捨てたのではなく、港に戻って助けを呼ぼうと彼なりの判断だった。


「そっちじゃない! 屋根に上がれ!」


 しかし、なぜか更田に呼び止められ、下呂は咄嗟に急ブレーキをかけて転んだ。視認できる範囲では熊の姿を捉えることができず、どう行動したら良いのか分からない。


(どうやったら屋根に上がれるんだよ⁉)


 右往左往している場合じゃないか。今の自分は狩られる側だ。熊の正確な位置なんて知りようがないんだから、何も余計な事を考えず、指示通りに動こう。


「分かりました!」

「玄関から入るなぁ!」


 制止させようとする更田の忠告も遅かったようで、思考を停止した下呂の耳には届かなかった。そのままの勢いで玄関の扉を開け、下呂は滑り込むように合宿所へと入る。


(……割と古臭い内装だな)


 玄関の正面にロビーのようなスペースがあり、窓から差し込む光を白い床が優しく反射していた。その左手には洗濯機と、風呂場らしい暖簾が垂れ下がっている。


 合宿所の設備なんか気にしていられない。早く自分も屋根の上に避難しなければ。そう思って二階へと通じる階段を見つけようと、廊下の突き当たりを右に曲がった時だった。


「うわッ⁉」


* *


「平和だなー」

「どこが⁉」


 半谷と言い争いをしていたせいで熊を見失った更田は、呑気な水天宮にキレ気味でツッコミをした。どこに熊が潜んでいるのか分からないのに、安心して下へ降りられるわけがない。更田は自分の部屋でゴキブリを見つけた以上の緊迫感に苛まれているというのに、水天宮は今の状況を楽しんで余裕さえあった。


「そういえば半谷は荷物を置き忘れたままか。下着くらい貸してやったらどうだ?」

「絶対に嫌だわ!」

「ぼっくんも履くなら、ミカちゃんのパンツ被った方がいいぶぁい」

「はははは…………冗談だよな?」

「忍法、変わり身の術」


 水天宮の目が笑っていないことに気づき、またしても半谷は更田のことを盾にしようと背後に回る。そして尻にナニを押しつけられた更田の心は折れ、諦めて自分の服を渡した方が良いと判断した。


「もういい! おれの服を黙って着ろ!」

「インキンタムシにならない?」

「ならねーよ! テメーが全裸で毛じらみにならないか心配なくれーだわ!」

「精液臭そう」

「テメー、今すぐ殺してやる!」


 もう何度目かの我慢の限界が訪れた更田は殴り掛かるが、その拳の一つ一つを半谷は器用に紙一重で避ける。つい先程と同じパターンで学習した更田は、地の利を生かそうとタックルで半谷を捕まえようとした。

 しかし、突進してきた更田の頭上を、半谷は最小限の動作で飛び越える。


「源義経か⁉」


 人間離れした跳躍力に驚愕した更田は半谷の実力を認め、頭を冷やしてから相手の出方を窺う。お互いに仕掛けず拮抗した状況が続くと、不意に水天宮が声を上げた。


「そこのキサマ! 早くこっちに来い!」

「どうした?」

「新顔だ。忠告が聞こえてないらしい」


 水天宮が指した方向に、なんだか地味そうな男が一人いた。手荷物の多さからして同じ選抜メンバーだと判断した更田は、鼻から息を吸って大きな声を出す。


「早くしろ! 手遅れになるぞ!」

「え? 何がですか⁉」

「熊が出没しているんだ! 早く逃げろ!」

「はぁ⁉」


 水天宮の凛とした声が地味そうな男の耳に通り、素っ頓狂な声を上げたかと思うと、そのままどこかへ走り去ろうとした。慌てて更田が引き止める。


「そっちじゃない! 屋根に上がれ!」


 地味そうな男はビックリしたのか、勢いを殺せずに足を滑らせて転ぶ。その鈍臭い挙動にを見て水天宮は更田の指示に疑問を抱く。


「なぜ引き止める? 救援を呼んでもらった方が得策では?」

「どこに熊が潜んでいるのか分かんねーんだぞ。このまま知らない所で襲われたんじゃ、どうにも夢見が悪い」

「でもさ、マコっちゃーん? オイラ達は森を抜けたんだから、あの巨体を隠せるとしたら場所は一つしかなくね?」


 半谷が間延びした声で鋭い指摘を放つ。更田は可能性としての現実に目を逸らしつつ、恐る恐る導き出した答えに戦慄する。


「……合宿所の中?」

「分かりました!」

「玄関から入るなぁ!」


 更田の切迫した声も間に合わず、地味そうな彼、下呂日朗は勢い余って玄関へと突入してしまった。更田は世話が焼けると思いながらも、彼を救出しようと屋根から降りようとするが、水天宮に首根っこを掴まれる。


「何すんだよ?」

「ミイラ取りがミイラになるぞ。二階の窓を割って侵入しよう」


 後で修繕費を請求されるのが嫌だったため、それは最終手段にしようと更田は思いついても口に出さなかった。なぜなら、一切躊躇せず実行に移せる猛者が傍にいたからだ。


「GO!」


 交渉する余地も無く、半谷は更田のパンツを当て布にして窓を叩き割った。


「おれのパンツに何の恨みがあるんだ⁉」

「いや、実用的だぞ。まさかこんな使い道があるとは……」


 破片でズタズタになったパンツを拾い上げながら、水天宮は真剣な表情で考察する。それを奪い取り、更田は怒鳴るように指示を出す。


「感心するな! それと裸足のバカは屋根で待機してろ!」

「お守り」

「干からびて死ね!」


 半谷が差し出した陰毛を薙ぎ払い、更田は水天宮と共に窓から合宿所へ侵入する。窓の破片を踏みつけて床に着地すると、どこからか悲鳴のような声が上がった。


「うわッ⁉」

(さっきの男の声か……?)


 最悪の事態を想定した更田の額に、一筋の冷や汗が垂れる。だが、動けないでいる彼の背中を押すように、水天宮は淡々と声の出所を察知した。


「下から聞こえた」

「行くぞ!」


 更田は水天宮を引き連れ、急いで階段を下りる。仮に彼らが助けに駆けつけたとして、自分達の力で救えるとは到底思えない。


 それでも更田が足を動かしたのは、損得勘定だけでは計り知れない何かの恐怖が襲ったからだ。それは熊よりも、自分が死ぬことよりも怖い。彼の中に住まう魔王が諦めていいのかと、耳元で囁いては急き立ててくる……。


「どうした⁉」


 階段を下りきって正面の通路、突き当りの曲がり角で下呂が倒れていた。それを発見した更田は一目で深い外傷が無いことを確認して駆け寄るのだが、近づいて行くと徐々に悲鳴を上げた理由の全貌が明らかとなった。

 下呂が幼女を襲い、体を上に覆い被せていたのである。


「このロリコン野郎!」

「誤解だぶへぇ!」


 下呂が弁明をする前に、更田は彼の顔面を蹴り飛ばす。そしてすかさず水天宮が幼女を保護した。


「大丈夫か⁉ 怖かったろう」

「…………」


 救出された幼女の表情は青褪めており、水天宮が優しく抱きかかえても全く反応しない。なおも更田は下呂を問い詰める。


「怯えちゃって声も出せなくなっちまったよ!」

「何もしてないって! 事故だよ、事故!」


 自らの無実を訴える下呂。しかし悲しいことに、自分がやっていないという悪魔の証明は不可能だ。かと言って他の目撃者もいない中で、唐突に幼女が口を開いた。


「曲がり角、出会い頭に、ラリアット」

「あまりの恐怖に俳句を詠んでるぞ!」

「なんてトラウマ植えつけやがる⁉」

「いや、この状況で今の気持ちを俳句にできるなんて余裕の表れじゃないか⁉ しかも意味が分からないし、落ち着いて話し合うべきだよ!」


 下呂の主張は尤もだったが、更田も水天宮も予想以上の出来事に対して冷静さを欠いていた。ゆえに聞き入れてもらえず、その代わりに蹴りが飛ぶ。


「問答無用!」


* *


「どうも皆さん。お久しぶりですね……」


 不破博士の助手であり、大会運営の責任者でもある彼女、樋口がズレている眼鏡を直そうともせず、ヘラヘラ笑いながら合宿所へ訪問しに来た。


 合宿所の大部屋には更田、服を着た半谷、水天宮、下呂、幼女の一同が揃っている。だが、誰も口を開こうとはせず、重苦しく異様な雰囲気が漂っていた。そんな彼らのプレッシャーを意に介さず、樋口はズケズケと間に割り込んだ。


「いやー、お迎えに行けなくて申し訳ございません」

「何しに来た?」


 壁を背にし、片膝を立てて座布団の上に座りこんだまま、更田の鋭い双眸が樋口の無駄話を終了させる。それでも警戒心を解こうとする愛想笑いは止めず、彼女は単刀直入に用件を言い切った。


「あの、この辺で女の子を見かけませんでしたか?」

「この子か?」


 すぐさま水天宮が幼女を抱き上げると、樋口は一瞬だけ疑問符を浮かべる。そして嬉しそうな笑顔を振りまきながら、わざとらしくテンション高めに幼女の下へ駆け寄った。


「そうです、この子です。もー、勝手に抜け出しちゃ駄目じゃないですかー」

「ちゃんと目を離さないようにしてほしいですね……」


 そっと下呂が皮肉を言うも、母性の前では悪意が掻き消される。樋口は幼女の目線と合うように立ち膝となり、髪がクシャクシャになるくらい頭を撫でた。


「お兄ちゃん達に遊んでもらったのかな? 楽しかった?」

「別に」

「あ?」

「抑えろ! 大人気無いぞ!」


 生意気な口を叩く幼女に対し、更田が怒気を効かせて立ち上がりかけたのを、慌てて水天宮が押し留める。まだ状況を把握できていない樋口は呑気なもので、今更になって彼女が見覚えの無い外見だということに気づいた。


「皆さん初日で随分と打ち解けたようで安心し……あれ? じゃあ、貴女は?」

「オレは水天宮だ」

「選抜メンバーじゃない……なるほどですね。他校の生徒とも仲良くなったんですか。意外と積極的なアプローチ仕掛けちゃってぇ……。この調子で親交を深めてください。では、私は去ります。また後ほど」


 まるで嵐のように場を掻き乱した樋口は幼女を連れ去り、さらっと置き土産に巨大な爆弾を投下した。その爆弾が不発弾であることを願い、まるで何事も無かったかのように素知らぬ顔で水天宮が立ち上がる。


「じゃ、オレもこれで……」

「待て」


 更田の言葉を合図に、半谷と下呂が水天宮を素早く取り囲む。


「生きて合宿所から出られると思うなよ」


 暗い表情で睨む更田に対し、あっけからんとした水天宮は余裕の表情を見せた。


「……オレは一度も選抜メンバーだと名乗った覚えはないが?」


 確かに彼女は成り行きで更田達と行動を共にしていただけで、勝手に勘違いしていたのは男共の方である。だが、出会ったばかりで冤罪を受けた下呂にとっては許し難く、すっかり心が荒んでいた。


「まさか自分達の仲を引き裂く作戦だったとは……この泥棒猫め!」

「いや、人の話を聞け。別にオレが何もしなくてもキサマらは不仲だったろう」

「これだから女は信用できねー」

「成敗いたす!」


 更田、半谷からも立て続けに責められた水天宮は弁明を諦め、潔く拳で解決することに決めた。元より、選抜メンバーとの腕試しが狙いだった彼女にとって、むしろ今の追い込まれた状況は好都合だ。


「……いいだろう、死にたい奴からかかってこい」


 しかし、男共は水天宮を中心にガンをつけるばかりで、塞いだ部屋の出入り口から離れようとしない。怪訝に感じた水天宮は彼らを挑発する。


「どうした? 来ないのか?」


 この時、更田の脳裏にはアスファルトを容易に打ち砕く、彼女の凄まじいキック力が過った。特殊な義足だと知らなかったからこそ、出会った当初は目で追って蹴りを躱せていたが、密集している室内では消極的にならざるを得ない。


「……テメーが行けよ」

「ここはマコちゃんが殉死して、オイラが覚醒する場面だっちゃ」

「誰がマコちゃんだ。気安く下の名前で呼ぶな。テメーが覚醒したところで、全裸になるのがオチだろーが」


 蹴りの破壊力を間近で体感したことのある更田と、その彼の怯えようで危険を察知した半谷は互いに相手を押し付け合う。だが、水天宮が義足であることも知らない下呂は二人の様子を見て幻滅し、まどろっこしくなって自ら前に出た。


「女一人に何を迷う必要がある⁉ こういうのは力で捻じ伏せればいいんだよ! よく見とけチキンガーリック共! 今そこに野菜を添えてやるよ!」


 虚勢を張っているのか、言っている意味が全く分からない。それでも水天宮は自ら一番槍を買って出たことを評す。


「勇ましいな。ゆえに短命だが」

「それだけ独り言が達者ならボッチでも退屈しねーな! 大会が終わるまで監禁してやらぁ! へぶらっしゃ!」


 かけ声ではない。水天宮の前蹴りが鳩尾に炸裂した下呂の悲鳴である。まるで馬の後ろ蹴りみたいな要領で、突くような蹴りの衝撃が彼の体を貫き、天井スレスレまで優しく浮き上がると、綺麗な放物線を描きながら床へと沈んだ。


「良いのは威勢だけか。で、キサマらはどうする?」


 人間じゃねぇ……。

 動物虐待はしないと言っていたくせに、人間相手には一切容赦しない。ただの噛ませ犬で奇怪なオブジェに成り果てた下呂を見ながら、更田は恐怖で戦慄すると同時に、妙にゾクゾクとした高揚感を得ていた。


「こんな奴でも目の前で仲間がやられたとなっちゃ、見逃すわけにはいかねーな……。おい、二人がかりで襲いかかるぞ。一撃でも当てりゃ報いにはなるだろ」

「助太刀いたす」


 女相手に二体一でも勝機は薄いだろう。だが、勝てる見込みがないからこそ、反骨精神の塊である更田は彼女に一杯喰わせたくてしょうがない。幼い頃から父親に虐待を受けていた、彼の悲しい性だった。


「行くぞ!」


 先手必勝。攻撃こそ最大の防御だと言わんばかりに、更田と半谷の二人は猛攻を仕掛けた。即席のコンビネーションにもかかわらず、上下左右が対になるよう蹴りを繰り出し、互いの生存率を少しでも上げるよう意識を集中する。


「正面で対峙するな! 常に回り込んで横から挟み撃ちにしろ!」

「アイアイサー」


 更田の指示通りに半谷が素早くヒット&アウェイ戦法で、付かず離れずの絶妙な距離感を保つ。そして厄介な半谷を早めに処理しようと、焦って蹴りが大振りになる水天宮の隙を狙い、ヘッドスライディングをした更田は彼女の軸足を両手で掴むことに成功した。


 しかし、鋼鉄の義足はビクともしない。このまま寝技に持ち込むこともできず、かと言って手を離すこともできない。無防備な状態である更田は自分が犠牲になることを厭わず、半谷に全てを託した。


「今だ! 殺れ!」

「こんなものか?」


 頭上から聞こえた冷たい言葉が、何を意味するのか考えた時には遅かった。水天宮は自分の軸足を掴んでいる更田ごと、天井に頭が付きそうな跳躍力でジャンプしたのである。


 足から手を離すのも忘れ、むしろ余計に力を入れて爪を喰い込ませた結果、重力に従って更田が水天宮の下敷きになってしまう。空中で身動きがとれるはずもなく、彼は着地と同時に無慈悲な飛び膝蹴りを一身に受けた。


 呻き声も上げられず、体の内臓を全て吐き出したような激痛が更田を襲う。そして次第に薄れゆく意識の中で、何の前触れも無く水天宮の甲高い悲鳴が聞こえた。


「きゃぁ!」


 水天宮の胸を抑えながらしゃがみ込む動作が止めとなり、ついに更田は気絶する。気を失う間際に見えたのは、半谷の自信に満ちた背中だった。


「女に手は上げねー。けど胸は揉むナリ」


* *


「えらいこっちゃ、えらいこっちゃあ!」

「どうした助手よ? マヌカンはGPSで無事に見つかったのじゃろ?」

「それが見てくださいよコレ⁉ 小さい女の子になっちゃってるんです!」

「ふむ、これはこれでなかなか……」

「邪な目で近づかないでください! この子は私が育てます!」

「誰も得しない母性を発揮するでない。何を取り乱す必要がある?」

「だって幼女ですよ⁉ そりゃ驚きますよ!」

「これだから生娘は……」

「決めつけないでください! セクハラで訴えますよ!」

「少しは洞察力を鍛えろ。肉体をカスタマイズできるマヌカンが幼女になったところで、何か不思議なことがあるか? むしろ、できて当然じゃろう」

「……確かに。でも、どうして幼女に?」

「何かに感化された可能性はあるが、この島に未成熟児はおらん。きっと気まぐれじゃろう」

「流石は博士! 伊達に長生きしてませんね!」

「無論。ゆえに欲情もせん。まるで孫のような愛らしさまで感じるわい。どれ、この儂が率先して手懐けてやろう」

「ガブ」

「あぎゃーーッ!」

「どうしたんですか博士⁉」

「右腕を持って行かれたぁ!」

「そんな汚いもの食べちゃ駄目でしょ! 早くペッしなさい!」

「少しは老体を労われ! ……まぁ、元から義手じゃけど」

「流石は博士! ドクターゲロみたいな体してますね!」

「その内お主も改造してやるからな」

「……この子どうしましょう?」

「所詮、人であって人でなしの獣。これだけ凶暴性を秘めておるのなら、一匹残さず駆逐せねばなるまい。今までと変わらず実験対象じゃ」

「流石は博士! ラスボスの貫禄がありますね!」

「そういう変な伏線とか張るの止めてくれる?」


* *


「おい、テメーら生きてるか……?」


 窓から差し込む月明かりに照らされた室内で、更田の呻き声が地響きのように下呂へと伝わる。それで意識が目覚めた彼は記憶を整理し、気力を振り絞って返事をした。


「……なんとか」


 どうやら変な体勢で寝ていたらしく、水天宮に蹴られた腹部よりも首と肩が痛い。悪夢に魘されるよりも酷い目覚めだったが、状況を確認しようと上体を起こす。


「今、何時だ?」


 畳の上で仰向けに寝転んでいる更田に聞かれ、下呂は左手首に装着している腕時計のバックライトを点灯させる。


「えーと、夜の九時くらい?」

「マジかよ……駄目だ、起き上がれねー」

「ご飯も食べてないし、力が出ないよ……」


 たまの休日に思わず昼寝をしてしまい、気がついたら夜だった以上の虚無感と、倦怠感が彼らを襲う。もはや何をする気にもなれず、二度寝するために気を紛らわそうと、更田は下呂に会話を振る。


「てか、下呂だっけ? よく無事だったな。内臓が破裂しても不思議じゃない飛び跳ね方だったぞ」

「……できれば下の名前で呼んでほしい。自分の体内にはプロテクターが仕込んであるから、少しくらいの衝撃なら吸収して緩和してくれるんだ」

「水天宮の義足と同じくらい高性能じゃねーか」

「限度はあるよ。それにドーピングと一緒で格闘技は出場禁止だし、あまり自分じゃ利点を感じられないかな」

「難儀だな……」


 下呂は中学を卒業するまで、母の弟である叔父からボクシングを教わっていた。学校で不良からイジメを受けていると聞きつけ、気の毒に思った叔父が土日の間だけ稽古をつけてくれたのだ。


 しかし、気の弱い下呂は相手を殴れなかった。練習と割り切ればミット撃ちくらいはできたが、グローブも付けずに不良達を殴るのも、殴られるのも怖い。結局、臆病なだけの自分に嫌気が差す。


 昔のことを思い出して憂鬱になった下呂は、このまま二度寝できそうになかったので、気分転換に風呂へ入ることにした。


「なんか眠り過ぎたみたいだし、ちょっと風呂場にでも行ってくるよ」

「おれは明日の朝でいいや。行ってら」


 暗闇に目が慣れてきた下呂は慎重に立ち上がり、荷物を持って更田を踏まないように部屋の出入り口へと歩む。その際、まるで最初から部屋のインテリアだったかのように、扉の横で半谷が美しいポーズで壁に貼り付けられていた。


(一体、現代社会で何の大罪を犯したら、全裸で壁に減り込まれるような刑に処されるんだろう……?)


 生きているのかさえ怪しい半谷を後回しにして、下呂は記憶を頼りに風呂場へと向かう。廊下からエントランスの右手にある暖簾を潜り、手探りでスイッチを見つけて脱衣所の明かりを点ける。


 棚に籠。シンプルで簡素な作りであるものの、合宿所にしては旅館のように本格的な佇まいだった。これなら浴場も期待できると思いながら上着を籠に放り込んだ時、扉側の壁に設置されていた洗面所の鏡に気づく。


 自分の上半身に刻まれている傷跡を指でなぞりながら、体内に埋め込まれているプロテクターの感触を確かめる。そして否応なく、過去の記憶がフラッシュバックした。


 自分のために暴力を振るうことはできないけど、誰かを守るためになら教わったボクシングの力を使えるんじゃないか? そう仮説を立てた下呂は実践し、道端で恐喝されていた男子学生の窮地を救った。多勢に無勢をものともせず、見事に不良達を撃退したのだ。


 しかし、それが全ての過ちだった。弱者を守るという大義名分を得た下呂は、まるで自分こそが正義であるかのような錯覚に陥ったのである。そこから先は地獄の始まりであり、終わりの見えない抗争が続いた。


 弱者からは頼られ、強者からは狙われる。そして擦り減らされる精神と、傷つけられる身体が限界を迎える前に、下呂は世界に絶望して道路へ飛び出した。


 一時でも生きることを放棄した下呂だったが、三日三晩ほど生死の境目を彷徨うことで、やはり死ぬことへの憎悪が勝った。以来、彼は善にも悪にもなりきれず、ボクシングも辞めて無気力な生活を過ごす。


(もしも先生からステーションに勧誘されてなかったら、今でも腐って濁った眼をしていたのかな……?)


 惜しくも予選では優勝を逃したが、大会を通して気持ちの収め所は見つけたつもりだ。それでも自分は未だ走らされており、まだまだゴールまでの道は遠く険しい。鏡に映っている自分の顔へ自嘲気味に笑いかけると、下呂は衣服を棚の籠に叩き込み、浴場の明かりを点ける。


 今日は余計な事を考えすぎた。適度に熱いシャワーでも浴びて、体を清めつつ無心になろう。早くサッパリしたい。そう思って浴場への扉を開けた時だった。水色の古風なタイルの上に、黒のボンテージを着た男が横たわっていたのである。


「うわああぁぁーーーーッ!」


 あまりのドッキリに気が動転した下呂はパンツを履くことも忘れ、全裸のまま大部屋へ逃走した。そして急いで部屋の明かりを点け、寝転がっている更田の大きな背中へ縋りつく。


「ちょっと、こっち来てよ!」

「どうせロクでもないことだろ?」

「いや、違うんだって! 次元が! 次元が違うんだって!」

「そういうパラレル設定はいいからよ、今できることは明日に回せ。男は寝て起きたらパワーアップするもんだ」

「ダメ親父みたいなこと言ってないで、早く一緒に……うわぁ! 部屋に入ろうとしてるよ⁉ メッチャ怖っ!」


 襟首を引っ張ってでも更田を連れて行こうとする下呂だったが、空いた襖の陰からボンテージ男が部屋の中を覗き見ていたことで尻もちをつく。赤く血走った眼球は瞬きせず対象を見据え、ギャグボールを銜えた口からは涎を垂れ流している。


 もはや逃げも隠れもできない状況に追い込まれた中で、淡々と更田は闇に紛れるボンテージ男を一瞥した。


「……なんだ、服は着てるじゃん」

「何その低レベルな価値基準⁉ こんなとこで寝てたら食べられちゃうよ!」

「全裸に人権は無い。パンツを履いて出直してこい」

「あっ、今は自分の方が変態なのか⁉」


 外から一見すると、裸である自分の方が変質者であると気づいた下呂は、ショックで頭を抱えることしかできなかった。


 いや、それでも露出度の高い服を着ていた方が、逆に全裸よりも変態なんじゃないか? と、足りない脳みそで活路を導き出した彼が顔を上げると、いつの間にかボンテージ男が急接近していた。


「何をする気だ⁉」


 咄嗟に身構える下呂。だが、相手のボンテージ男が差し出したのは普通の鞭だった。


「フゴ」

「え?」


 虚を突かれた下呂は放心し、安易に鞭を受け取ってしまう。そしてボンテージ男は四つん這いになり、Tバックである尻を向ける。


「叩けってこと?」

「フゴ!」


 力強い発声である。どうやら肯定らしい。下呂は現実に思考が追い付かず戸惑いながらも、要求された通りにボンテージ男の尻を鞭で弱々しく叩く。


「……こうかな?」

「ちょっと止めてもらえますか? 中途半端なのが一番嫌いなんで」

「うるせーよ! 喋れんのかよ⁉」


 自力で玉口枷を外したボンテージ男は立ち上がり、饒舌に語り出す。


「部屋で変なポーズとってたから、てっきり仲間だと思ってたのに……」

「んなわけねーだろ! 勝手に期待して落ち込むな!」

「え、じゃあ何やってたの? ……怖」

「お前に言われたくねーッ!」


* *


「また変なのが増えたな」


 部屋が騒がしくなって目が冴えてしまった更田は、自分の仲間となる選抜メンバーの面々を改めて確認した。


 壁から復帰した全裸の半谷駿と、風呂場から全裸で出てきた下呂日朗。そしてボンテージ姿で現れた謎の男……。


「半蔵門高校、原挑(ハラ イドム)と申す。以後よろしく」


 よろしく、などと言われても御免被りたい。できることなら、更田は目の前にある現実から逃走したい気持ちでいっぱいだった。だが、ここは本島から遠く離れた孤島であり、仮に帰れたとしても居場所は無い。


 やる気の無かったBチームとは違い、選抜チームは予想斜め上の変態集団である。どうアプローチしていけば分からない更田は、まず話し合える環境を整えようとした。


「とりあえず、普通に服を着てくれないか?」

「これが正装だが?」


 原の発言に更田は眩暈がした。さらに追い打ちをかけるように、下呂の自暴自棄とも言える開き直りが炸裂する。


「更田君も脱いじゃいなよ。けっこう気持ちいいよ。ね、半谷君?」

「いや、オイラのはストリーキングナリ。露出することで性的興奮は求めてねーズラ」

「そんなバカな⁉」

「よく見てみ? 勃起してないっしょ?」

「男の股間なんて凝視しないよ⁉」

「これだから変態は困る。一緒にいたら己の知能指数まで下がってしまう」

「鏡を見て言え!」


 下呂の原に対するツッコミが決まったところで、更田は彼らの会話を遮る。


「もういい、これ以上は喋るな。いっそのことリセットしよう」

「現実にゲームみたいなリセットボタンは無いぞ?」


 更田の提案に対し、一番に反応したのは原だった。できることなら、お前の人生を最初からリセットしてやりたいと、言いたくなる衝動を更田は思い留まる。


「この先入観のまま対話してると頭が割れそうに痛むんだ。お願いだからSMを前面に押し出して真面目なことを言うな」

「話は最後まで聞くナリよ」


 つい更田は助け舟を出してくれた半谷に感謝しかけたが、一番ぶっ飛んでいて何をしでかすか分からないのは彼だと思い出す。それでも今は頭痛の種である彼の奇行に目を瞑りながら、更田は一つ一つ丁寧に、順序立てて静かに語った。


「……思えば、おれ達の第一印象は最悪だ。一人は全裸になって熊に追いかけられ、一人は児童ポルノの冤罪をかけられ全裸になって、一人は勘違いして性癖を暴露し引っ込みつかなくなった。だから全てを忘れよう。何も無かった事にして、また出会い方から演出するんだ。んで、そっちを本来の記憶とすり替えよう。そうでもしなきゃ、やってられねー」

「確かに、今のままじゃ仲悪すぎだもんね……」


 最初に同調したのは下呂だ。それと追随するように原が苦言を呈す。


「だが、どうやって関係を修復する? 全くイメージできないが……」

「簡単だ。お互いに初対面のフリをして会話するだけでいい」

「そんなの無理だっちゃ。マコっちゃんとは友だチンコした仲ぶぁい」

「誤解を招くようなことを言うな!」


 その半谷との事実が嫌だからこそ、更田は今回の企画を提案したのだ。百歩譲って全裸は許せるとして、それさえ、それさえなけれは彼は半谷が重要な戦力になると評価していた。


「ホモ?」

「黙れロリコン!」


 下呂の怯えている目を更田が一喝すると、今度は逆に瞳の中で炎が燃え上がる。


「自分はロリコンじゃない! 強いて言えば年上の女性が好みだし、どうせ付き合うなら巨乳に越したことはないと思ってる!」

「そういう、いらない情報を無暗に提供するなと言ってるだろ!」


 まだ下呂には冤罪をかけられた恨みが残っているらしい。彼の逆鱗となるスイッチは非常に強力だが、同時にコントロールできない危うさもある。下手に激情してしまうと噛ませ犬になってしまうため、なるべく更田は彼の特性を把握しておきたかった。


 そして一番の謎は、過度のSM趣味さえ明るみに出なければ、本来はリーダー格になれたであろう、秀才の雰囲気を漂わせる原である。


「やれやれ。なんでもかんでも秘密を打ち明けても、相手が受け入れるとは限らないぞ」

「お前が言うな! 説得力がありそうで皆無なんだよ!」

「無駄話を止めろ! もう何も考えずに、服を着てから部屋に戻って来い!」

「アイアイサー」


 ヒートアップする下呂を制止させ、更田は強制的に初対面ゲームを推し進めようとする。まずは彼らに服を着させるために部屋から追い出し、戻ってきてから設定がスタートだろ指示を出した。

 そして部屋に一人残された更田は座り込み、冷静になった頭で熟考する。


(なんか無駄に従順じゃないか……?)


 話の腰が折れるため、言い出しっぺである更田は無意識に考えないようにしていたが、なかなかに自分の提案は意味が分からない。それでも男子特有のノリの良さとでも言うのか、どういうわけか反対意見も無く始まろうとしている。

 そう、嫌な予感はしていたのだ。


「ハヤコでぇーっす! 十七歳でぇーっす! ヨロ乳首!」

「はい、やり直し。早く出てけ」


 謎のテンションで入室してきた半谷を見下すように、冷ややかな視線で追い出そうと更田は画作する。だが、そんな暇は与えないと物語ろうとする勢いで、畳み掛けるように下呂が飛び込んできた。


「お待たせー」

「まだ入って来るな!」

「あ、ニーナじゃーん。 お久しブリブリ~」

「うけるー。卒業してから変わってなーい」

「初対面の設定じゃないのかよ⁉」


 いや、そこじゃないだろ、と更田は自分で叫んでおきながら思う。さっきとは違い服を着ているとはいえ、二人ともボケ倒し過ぎてツッコミが間に合わない。


 しかし、この不条理なノリに合わせては危険だ。なぜ、女子高生のような言動でグータンヌーボを演出しているのか分からないことだらけだが、この流れに乗ってしまえば最後、どうしようもならなくなってしまうだろう。


 そのように判断して、更田は二人の奇行には触れないことにした。こっちがリアクションするからバカがつけ上がるのだ。絶対に相手にはしないと決意していると、原が静かに入室した……ボンテージのままで。


「ごめん待ったぁ?」

「何も変わってねぇ! 時間は一番あっただろ⁉」

「もう、イドミおそーい」

「ごめーん。ナンパされちった」

「殺してぇ!」


 怒りを通り越して殺意が湧いてくる。一体、彼らは何がしたいのか? ただの嫌がらせにしては悪質な精神攻撃に耐えられず、更田は狂ったように頭を掻き毟った。


「イドミちゃん今日もカワイイー」

「ありがと。で、誰コイツ?」

「知らなーい。なんかいた」

「今まで知らない人と一緒にいたのー? ヤバーい」

「ヤバいのはテメーらの頭だ! 教育の闇が深すぎる!」


 頑なに女子トークを続けようとする奴らにツッコミをして、更田はハタと気づく。なぜ、ここにきて自分を阻害するような会話に移行したのだろうか、と。


「警察呼ぶ?」

「ノリ悪いし」

「キモーい」


 そう、彼らは更田が女子トークに混ざることを期待しているのだ。一緒にバカをしようと、手を拱いて遊びに誘っている。


(……嫌だ、自分を見失いたくない)


 それが本音だ。今では目の前の三人が悪魔のような形相で笑い、人の道から外れさせようと誘惑しているようにしか見えない。


 しかし、更田は自分の立場が危ういものであり、チームとしての結束が大会では重要だということを頭の中では理解していた。一緒にガールズトークをすることで、おそらく連帯感は芽生えるだろう。


 だとしても、心では納得できない。自己と集団。一人はみんなのために、みんなは一人のために。二律相反する選択に葛藤しながら、吹っ切れた彼は強く拳を天に突き上げる。


「さぁ、始まるザマスよ!」

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