誰か俺を止めてくれ!

笹熊美月

プロローグ

「また失敗したぁ!」


 薄暗い研究室。しわがれた声でヒステリックに叫ぶ人物の傍らに、もう一人の人物が置物のような静けさで佇んでいた。


「博士、お気を確かに」

「助手よ! 何が原因じゃ⁉」

「はい、衝撃を吸収する関節のロックと、その衝撃を排出するパイプが上手く機能しなかった模様です」

「あーもう! 既に理論上では可能なのに、細かなパーツの耐久力が追いつかん! これ素材レベルから技術力を見直す必要があるぞ!」


 お互いに博士、助手と呼び合っている彼ら二人は、専門用語からして研究者のようだ。そして激昂する博士からの火の粉が飛びかからないよう、助手は怯えながら控え目に代替案を繰り出す。


「製品を土台の上に固定するのではなく、慣性の動きに従いつつも、柔軟に反発する実験器具を開発してはどうでしょうか?」

「そっちの方が大発明だわ! この儂にアンドロイドでも作らせるつもりかバカ! お主を実験器具に改造してやろうか⁉」


 社会人になるのが嫌で研究者を目指したのに、ここでも理不尽なパワハラは避けられない運命だったらしい。そう悟った助手は頭の中で忍耐の文字を思い浮かべ、心を空っぽにして越えてはいけない一線を踏み止まった。


「……申し訳ありません」

「博士お家かえりゅ!」


 さっきまで怒っていた博士は床に身を投げ出し、今度は仰向けのまま見境なしにジタバタ暴れ回る。


「還暦のオジサンが駄々を捏ねないでください」

「もう疲れたもん! おしっこ出る!」

「年甲斐も無くアホなこと言わないでください。博士の双肩に地球の命運が懸かっているんですよ?」

「地球の危機とか、ぶっちゃけ心底どうでもいいわ! 儂の思い通りにならないのなら勝手に破滅しろ!」


 このオジサン駄目だ……。早くなんとかしないと……。

 助手は目の前の現実から逃げたくなったが、無駄に責任感が強いため頭を振る。いつものことではあるので、助手は咄嗟に機転を利かせた。


「あ、博士が好きだったアニメの劇場化が決まりましたよ」

「儂が世界を救おう」


 すくっと立ち上がった博士を見て、助手は胸を撫で下ろす。しかし、安堵するのも束の間、さらに博士は奇妙なことを自信満々に語る。


「ついでに妙案を思いついたぞい。一から新しいものを作るのではなく、元からあるものを実験に利用すれば良い」

「……それは何ですか?」

「人体じゃ」


*  *


『さぁ! ついにアンカーへ襷が渡り、いよいよ今回の大会も大詰めです!』


 空は快晴。気温は高くとも、吹く風は強く涼しい。写真で切り取ったかのように雄大な自然は、荒んだ精神を落ち着かせてくれる。


 そんな中、人工物である陸上競技場の周辺は、今が九月の残暑とは思えないほどの、茹だる様な地下熱が高まっていた。眩しい太陽でカラッとした湿度の空気上に、スピーカーから流れる実況アナウンサーの甲高い声が耳障りなほど良く響く。


『先頭を走るは総武高校のAチーム軽部選手! その後を追うのは……おおっと⁉ 同じく総武高校Bチームの更田選手だぁ!』


 更田真虎(サラダ マコ)はマイクで叫ぶ実況者の声を頭に入れる余裕も無いまま、一心不乱に同級生の背中を追い抜こうと走る。


 照りつく日差しが襲って来ようと、滝のように流れる汗が目に入ろうと、正面から風の抵抗を受けようと、地面を蹴る足が悲鳴を上げようと、熱く滾る血液が脈動する心臓のエンジンは止まらない。


(負けてたまるかッ!)


 ゴールまで数十メートルの直線で、ようやく更田は相手と横並びになった。

 ここで己の限界を超えられるかが勝負の分かれ目だ。そう悟った更田は酸素を吸い込み、無呼吸のままゴールまで突っ走ることを覚悟する。


 もう目の前のことしか見えない。心臓が破裂したっていい。こんな所で競り負けるくらいなら死んだ方がマシだ。そう思えるほどに、更田は今のレースに執着心を持っていた。


 高校三年生にしてレギュラーのAチームではなく、落ちこぼれのBチームとして出場していること。誰も自分達が勝つことを期待していないし、誰も正規のAチームが敗北することを望んではいない。


 だからこそ更田は勝ちたかった。誰も予想しない番狂わせを起こすことで、理不尽な大人社会をバカにしてやりたい。自分達が負け犬だと誰にも言わせない!


『競技者の誰もがランニングシューズを履く中、意地でもスニーカーに拘るストリートバカが、今まさにスポーツマンの頂点に立とうとしている!』


(ほっとけ!)


 勝手なことを言うアナウンサーにツッコミを入れながら、更田は全力で疾走する。自分と似た境遇である仲間達が繋いだ襷を肩に掛け、教師に対する憎しみと怒りを背負い、なけなしの反骨精神で地を蹴り風を切る。


 今までの苦労が走馬灯のように甦って行く中、更田にはゴールテープまでの道のりが光り輝いて見えた。まるで時間が止まっているようで、体が羽毛のように軽い。このまま飛んで行けそうだ。


「負けないで!」


 もはや手さえ伸ばせば届きそうな距離までゴールに迫った時、更田は想い人である女子マネージャーの声援を聞き逃さなかった。部活内で居場所が無かった更田にとって、平等に優しく接してくれた彼女は天使のような存在である。


「負けないで軽部君!」


 応援していたのが敵だと判明した途端、無意識に展開していたゾーンから現実の世界に弾き飛ばされた。そして一瞬だけ気を失いかけたが、肝心のゴールは目の前である。失恋して落胆している場合ではない。


 浮かれていた気分から一転するのを根性で抑え、更田は悲しみを乗り越えようと執念で足を前に出す。その時、視界の端から何かの塊が飛来してくるのを捉え、咄嗟に防ごうと更田は右腕で薙ぎ払う。


「邪魔だ!」


 タックルしようとしてくる軽部の肩を、更田は裏拳でギリギリ受け止めた。そのまま彼は更田の腕にしがみ付き、逆上がりの要領で回転蹴りを側頭部目掛けて放つ。


「くらえ!」


 しかし、トリッキーなだけで不安定な足場から繰り出す蹴りなど、野性的な勘を持つ更田には通用しない。彼は蹴りを軽く左手で逸らすと、そのまま一回転して浮き上がった軽部の後頭部を右手で丸掴みにし、思い切り地面へ叩きつけた。


「寝てろ!」


 瞬きするだけで見逃してしまいそうな、レベルが高い二人の攻防。そう、これはただの駅伝ではない。似て非なるものだ。


『おおーっと! ゴール前の死闘を制したのは、なんとBチームの更田選手だァーッ! まさかの番狂わせ! スニーカー会社とのスポンサー契約まで待ったなし!』


 頭の緩そうな実況アナウンサーの声を聴きながら、更田は勝利を確信する。もはや自分を隔てる物は何も無い。やっと努力が報われる時が来たのだ。


(長かった……)


 ここまで来るのに、どれだけの苦労を費やしたのだろう?

 これまで受けた酷い仕打ちでさえ許せそうな、心が解放された気持ちでゴールテープを切ろうと両手を広げた時だった。軽部が地面に這い蹲ったまま、後ろから更田の足を手で掴んだのである。


「マジかよッ⁉」


 更田は転ばされても、瞬時に受け身を取って立ち上がる。すると、同じく体勢を立て直した軽部が、必死の形相で更田のことを睨みつけていた。


 腕っぷしには自信のある硬派な更田にとって、外面が良いだけの軽部に威圧されるとは夢にも思わない。人の目を気にして、地位や名声などの属性を貼り付けたがるような奴が、腹の黒さと牙を見せつけて対峙している。


「勝たなきゃいけないんだ!」


 そう叫んで軽部が襲いかかって来た時、もはや更田に闘う理由は無くなってしまった。結局は彼も走らされていることを知り、張り合う必要性を見失ってしまったのだ。


「しゃらくせぇ!」


 しかし、応戦はする。負ける理由だってない。

 何もかも考えるのが面倒になった更田は、反射的に軽部の顔面をカウンター気味に殴った。彼の表情を見ているのが辛かったのである。


(楽になれ……)


 そう拳に念じて、慈悲深く止めを刺したのがいけなかった。アウトコースにいた更田は右腕で軽部の右頬を殴り飛ばしたため、そのまま彼が宙を舞いながらゴールテープを切ってしまったのだ。


「あ」


 会場にいた誰もが茫然としていただろう。まるで事件現場に遭遇した通行人の気持ちを味わっている中、実況アナウンサーだけが素早く状況を把握していた。


「先にゴールしたのは、総武高校Aチームだァーッ!」


 そう宣言した途端、止まっていた時間が動き出したかのように、競技場の観客席から歓声が鳴り響く。トラック内にいた関係者達も一斉に騒ぎ出し、気絶して倒れ込んでいる軽部の元へ駆け寄って行った。

 呆気無い幕切れに拍子抜けした更田は一人、空を見上げて呟く。


「……明日は雨かな?」


  * *


「勝てっこないよ!」


 地方予選が始まる一週間前、総武高校でAとBチームの選手分けが発表された。さっそくAチームがコーチ陣とミーティングしに会議室へ移動する一方、取り残されたBチームは練習後も帰らずに学校のエントランスで居残っていた。


「俺達にどうしろと……」

「今までの苦労が水の泡だ」


 既にBチームの間では負けムードが漂っており、蒲生と山本の二人は項垂れていた。そして気まずい雰囲気を感じ取った尾上は、落ち込んでいる二人を見て優しく諭す。


「でも、良い結果を残せばAチームの補欠になれるかもしれないし、まだまだ諦めるのは速いんじゃない?」

「だったら、最初からBチームなんか作らなけりゃ良くないですか? 走ってるだけで笑い者ですよ!」


 さっきからヒステリックに叫んでいるのは、二年生の入巣だ。例え相手が先輩であろうとも、冷静でいられない今は噛みつかずにいられない。それが分かっているのか、尾上も喧嘩腰に対抗するような真似はしなかった。


「三年の俺はともかく、後輩を育てる意味合いもあるんだろ。そうカッカするな」

「同じ二年の茨は選ばれたのに、どうしてボクだけ……」


 尾上のフォローも空しく、入巣は話を聞かずに落胆している。ここまで彼らが世界の終わりのように嘆いているのは、それなりに理由があるからだった。


 事の発端は、文部科学省が生きる力を理念に打ち出した新競技だ。その名はサッシュメントステーションと言い、大体のルールは駅伝と同じである。ただ絶対的な違いが一つ。それはレース中の妨害がアリということ。


 つまり、団体戦の陸上競技でありながら、格闘技の要素も入っているのだ。ついに頭がトチ狂ったかと、世間一般の誰もが謎の新ルールを不審に思っていたのだが、とある条件により常識が吹っ飛ぶことになる。


 サッシュメントステーションの優勝者には、有名大学の進学と、大手企業の就職を確約するという報酬が与えられるのだ。これにより学生達は目の色を変えて参加したがり、瞬く間に人気スポーツとなった。


 とはいえ、見返りがあるのは学生達だけであり、まるで大人達には関係ない。それどころか、未成年に暴力沙汰を起こさせる倫理観の問題にまで発展したくらいだが、提案者の熱い説得により済し崩し的に実施されることに。


「この世は平等じゃない! 現代社会は弱肉強食です! 学生が真のゆとり教育から脱するためには、このぐらいのショック療法が求められています! ただ生き残るのではなく、生き抜く力が必要なのです!」


 今でも提案者の熱論は語り草である。聞けば提案者の不破博士はスポーツ科学の権威らしく、民衆達は完全に納得しないまでも、ひとまずは倫理的な問題を超えられた。


 そのような背景もあり、Bチームのメンバーは自分達が落伍者の烙印を押されたことに、深い憤りと納得できない不満があるのだ。理不尽な事実を受け入れられず、努力が報われなかった無力感に苛まれる……。

 しかし、同じくBチームである更田だけは違った。


「悔しけりゃ、勝てばいい」


 更田の言葉に対し、落ち込んでいたBチームの面々が顔を見上げる。いつも傲岸不遜な態度でありながら、まるで子供のような理想を掲げる彼の奇妙なアンバランスさに、一同は戸惑いを隠し切れなかった。


 だが、結局は更田も自分達と同じ立場である。それなのに綺麗事だけを並べ立てられ、入巣は我慢ができない。


「無理に決まってるでしょ! 明らかにボク達は劣っているんですから!」

「そんなこと誰が決めた」

「え……誰って、あの顧問達ですよ! 何を言ってるんですか⁉」

「おれはあいつらの評価なんぞ、屁とも思っちゃねー」


 更田がBチームとなってしまったのは、この反抗的な態度が原因である。足は速くとも指示に従わない事が多かったため、協調性が無いと教師陣に判断されたのだ。


「実際、更田はキャプテンの軽部と同じくらい速いしな。でもステーションは五人の団体競技だ。一人だけ速くても勝てない」

「俺達を励ましてくれるのは嬉しいけど、優勝できなきゃ意味が無いよ……」


 更田の性格を知っている蒲生と剣崎の二人は、言い合いを続けようとする入巣を抑えつつも、やはり諦めムードが拭い切れない様子だった。


 なぜなら、サッシュメントステーションは優勝しなければ意味が無いからだ。有名大学の進学と大手企業の就職は、全国大会の優勝者のみに与えられた特典である。だからこそ、総武高校のようなBチームの出場枠は考えられない。


 しかし、家が貧乏で元から大学への進学を視野に入れていない更田にとって、優勝することの報酬は魅力的に思えなかった。それよりも更田を突き動かす衝動は、自分勝手な教師陣に対する復讐である。


「おれは励まそうと思って優しく言ったわけじゃないぞ。最初から優勝しか狙ってない。当たり前のことだろ?」

「だから、それが無謀なんですって! 勝算でもあるんですか⁉」

「全員ぶっ殺す!」


 またもや噛みついてくる入巣と言い合いになりそうだったが、更田は堪えて鶴の一声を言い放つ。その台詞に一同は唖然とし、事態を呑み込むまでに時間がかかった。


「なるほど。予選でAチームを怪我させて、全国大会では代わりに俺達が出場すると」

「いや、それはAチームが優勝できたらの話だろ?」

「じゃ今から襲うか?」

「ひとまず落ち着けって」


 混乱して物騒なことを口走る蒲生と山本を、頭の回転が速い尾上が窘める。だが、その反応で闘志に火が点いたと勘違いした更田は、さらに自分の主張を明かした。


「大体よ、せっかく何でもアリのルールなのに、妨害をメインに据えて練習しないってのはおかしくねーか?」


 更田の言う通り、なぜか競技者達の間では妨害し辛い空気が流れていた。おそらく皆が心の奥底のどこかで、卑怯と言うワードに引っかかっているのだろう。


 そう考えた尾上は、更田が抱えている疑問を否定するわけでもなく、やんわりと婉曲に別の視点から意見を唱えた。


「まぁ、結果的に公認されたとはいえ、まだまだ日が浅くて試験的な運営だからなぁ……。それに妨害なんて学校教育で推奨されることじゃないし、多分みんな様子を窺っているだけだと思うよ?」

「だったら、おれ達が先駆けて行こうぜ。正直に言って、それほどAチームとBチームとの間に実力差は無いはずだ。おれ直伝の喧嘩殺法さえマスターしたら、あいつらに一泡吹かせることだって不可能じゃない」


 尾上の思惑も空しく、更田はドンドン突っ走って行く。だが、その中で唯一、入巣だけが更田の考えに同意し始めたのである。


「……分かりました。更田先輩の口車に乗ってあげます。ボクだって、このまま引き下がるわけにはいかないので」

「その意気だ」

「ただし、スニーカーで走るのは止めてください。支給されたランニングシューズはどうしたんですか?」

「あんなもん売ったわ」

「なんで⁉」

「ランシュ履いたくらいで速くなるなら苦労しねーんだよ」


 人生で出会ったことのない人種に接触し、入巣は開いた口が塞がらなかった。そのやりとりを横から傍観していた尾上は、やれやれと大仰に溜息を吐く。


「前途多難だな……」


* *


「……人体実験って、現代科学の倫理に反しますよ?」


 助手は博士の思い付きを聞いてから、ただでさえ薄暗い研究室が肌寒くなったような気がした。そして冷や汗が止まらないのに対し、博士は偉そうな態度である。


「灯台下暗しとはこのことじゃのう」


 どうやら世迷言ではなく、博士は本気で言っているらしい。やると言ったらやる。このままでは危険だと判断した助手は、ついに塞き止めていた感情を吐き出す。


「私は絶対に協力しませんからね! このマッドサイエンティスト!」

「自惚れるな。運動神経の悪いお主に頼むわけなかろう」

「じゃあ誰に……」

「製品を使うのは若者じゃから、できれば若者からデータを採取したいのぅ」

「この人でなし! 変態!」

「お主は童貞か何かか? その類稀なる想像力を生かして、広告クリエイターにでも転職するかね? ん?」


 いつもの脅し文句で我に返った助手は、頭の中で忍耐の文字を思い浮かべ、さも何事も無かったかのように話を進めようとした。


「……どうやって若者からデータを採取するんですか?」

「まずは教育機関と連携した方が効率的じゃろうて」

「協力してくれますかね?」

「儂のパイプを利用すれば、連中も首を縦に振らざるを得ないじゃろう」

「かしこまりました。それでは私の方から先方へ連絡しておきますが、一体どのような方法で必要なデータを採取するおつもりでしょうか?」


 一度目は微妙にはぐらかされてしまったので、助手は再度尋ねる。すると、博士は勿体付けるように、笑みを零して答えた。


「……人体で一番汗を掻く箇所を知っているかの?」

「いえ、存じ上げませんが……」

「足の裏じゃ」


  * *


「更田先輩! どこへ行くつもりですかッ⁉」


 暗雲立ち込める雨の中、傘も差さずに入巣は更田の背中を呼び止める。更田も雨で濡れることを意に介さず、入巣に呼ばれて振り返った。


「どこって、家に帰るだけだ」

「嘘です! 先輩の家はそっちじゃないでしょ⁉」

「……どうして家の方角を知っている?」

「それはそれとして! 今すぐ戻って先生達に直談判するべきです! 本番でAチームを追い詰めた立役者である、更田先輩が補欠にすら選ばれないなんて納得できません!」


 予選大会が終わって数日後、学校で全国大会の補欠選手が発表された。その補欠に選ばれなかった更田は、放課後に練習せず下校しようとしていたのだ。


「いいんだよ。それに入巣はAチームの補欠に選ばれたんだろ? だったらおれなんかに構っている暇は無いぞ」

「そんなの全く嬉しくないです!」


 入巣の目尻から流れ出る液体が、雨なのか涙なのかは分からない。それでも更田は温かみを感じ、後輩の頭をクシャクシャに撫でる。


「お前、変わったな」


 大会前の入巣は純粋でありながら警戒心が強く、跳ねっ返りで人を見下す癖があった。それゆえに挫折と言う挫折を知らないような奴だったのだが、少なくとも更田の前にいる入巣は思いやりを持てる後輩だ。


「ボクが変われたのは、先輩のおかげです……。だから、戻ってきてください!」

「それはできない。もう、おれは走る理由を見失ったんだ」

「走ることに理由なんて必要ですか⁉」


 そう問いかけられ、更田は頭をハンマーでカチ割られたような衝撃を受けた。雨天でも輝く入巣の瞳が眩しく、見ていられなかった更田はお茶を濁す。


「いつか教えてやるよ。じゃあな」


 入巣に背を向け、更田は帰路を歩く。雨が地を叩く土砂降りの中で、入巣の声だけが更田の心に届いていた。


「その時は、また一緒に走ってください!」


* *


(なぜ、おれは走っているんだろう……?)


 高校最後の夏休み。強すぎる太陽の光を浴びながら、更田は校舎のグラウンドを一人で走っていた。ただ走るという行為に、特別な技術も何も無い。もはやルーティンワークと化している体調管理に求められているのは、誰よりも速く長く走り続けることだけ。


 熱で頭がおかしくなりそうだ。だが、走ることの単純な辛さと、それでも努力しなければいけない必要性が、更田を無心でいる事を許してはくれなかった。


 サッシュメントステーションは出来たての競技である。成立した経緯も詳しいことは知らないが、なぜか公立学校は参加の義務が命じられていた。そこで学校側はステーション部を特設したのだ。


 しかし、例え報酬が豪華であっても、思うように人は集まらなかった。やはり既に他の部へ入っている生徒が多くいたため、学校は部活を引退した三年生を中心に、ステーション部へ勧誘し始めたのである。


 元バスケ部だった更田が勧誘された理由は、単に身体能力が高かったからだ。自分は大学に進学しないから受験勉強もしないし、就職先は学校側が斡旋してくれるという話だったので、更田は就職活動よりもステーション部を優先した。


(全く楽しくない……)


 バスケは惜しくもインターハイを逃してしまったが、もう病み付きになるくらいの楽しさだった。どんなに練習が辛くても、その楽しさのためなら頑張れた。


 しかし、走ることは自分との闘いである。バスケのように敵がいるわけでもなければ、助けてくれる仲間がいるわけでもない。どこまで行っても、スタートする度に己の限界に挑戦せざるを得なくなる。


 だから更田は、特設ステーション部に入って後悔した。こんなことなら自分で就職先を見つけて、家計を助けるバイトを増やした方が賢明だ。何が楽しくて、こんな炎天下の中を走らされているのか? 何かの刑に処されている気分である。


 なら、今すぐにでも部を辞めれば良い。それだけで解決するだけの話だったのだが、なぜか心の奥底では最後の一線を踏み止まろうとする力が働いてしまう。この理性とも本能とも言えない現象を、更田は自分の中で魔王と呼んでいた。


 苦しくて何かを諦めかけた時、いつも心の中の魔王が囁くのだ。「それでいいのか?」と。更田は自分の中に住んでいる魔王に何度も助けられた記憶があるため、その囁きには従うようにしている。


 だからこそ、更田は何度でも己に問いかける。


(なぜ、おれは走っているんだろう……?)


 いくら考えても答えが出ないのなら、とにかく今は体を動かすしかない。

 時計も地球も回っている。そしてチームメイト達もトラックを回っている。その中で、自分だけが周回遅れになってはいられない。例えグルグル回っているだけで、実際は前へ進んでいなかったとしても……。


「おい、道を塞がないでくれ」


 不安を掻き消すように走っていると、軽部が後ろから声をかけてくる。大学のオープンキャンパスで遅れて来たくせに、なぜか偉そうな態度だったため、更田は振り返らず走ることに集中した。


「アウトコースから抜けばいいだろ」

「隊列を組んで走っているんだ」


 後ろを振り返ると、部員達は軽部を先頭に二列となって走っていた。どうして走ってまで規則正しくあらねばならぬのか。更田は気が滅入る。


「BチームがAチームの邪魔するな! ついて行けないなら外周してろ!」


 そして教師陣の理不尽な叱責である。そっちから勧誘して来たくせに、従順でなければお払い箱らしい。人間とは、そこまで歪むものか。


 だが、今回ばかりは都合が良い。大人しく外周へ行くと見せかけ、この機に乗じて帰ってしまおう。もう今日の練習は充分だ。


 更田は教師の目を盗み、まるでコソ泥のように自分の荷物を抱える。そのまま俊敏な動作でグラウンドを離れ、学校のエントランスに降り立った。この場所を選ばない身軽さは、頑丈なスニーカーならではの芸当である。


(おれが居なくなったところで、どうせ誰も気づかないだろう……)


 ミッションを遂行したと油断していると、マネージャーの高千穂が職員用玄関から出てきた。小さい体でスポーツ飲料が入ったジャグタンクを両手に持ち、覚束ない足取りで今にも転びそうだったため、つい更田は心配して声を掛けてしまった。


「大丈夫か?」


 高千穂が持つ片方のジャグタンクを、更田は慌てて奪い取るようにして持つ。すると余裕を得た彼女は、ようやく彼の存在を認識したらしい。


「あ、ありがと……」

「気をつけろよ」


 ただ注意がしたかった更田は、ジャグタンクを運ぶ高千穂の手伝いをしなかった。ジャグタンクを道の邪魔にならない所へ置き、そのままの流れで帰ろうとする。


「もう帰っちゃうの?」


 高千穂に呼び止められ、更田は足を止める。よくよく考えてみれば彼女に目撃された時点で、部活を早退するミッションは失敗しているのだ。更田は後で告げ口されぬよう、さも何事も無かったかのように平然とした態度で言葉を返す。


「どうせ後は流しだろ。バイトあるから帰る」

「一杯飲んでく?」


 弾けるような屈託の無い笑みで、高千穂は更田にコップを突き出す。


「いらねーよ。見つかると面倒だ。じゃあな」


 どうやら高千穂は人の良い性格らしい。その純真さを危ういと思うものの、それならそれでいいと更田は割り切って学校を後にした。


「また明日ね」


  * *


「更田君にはステーション部を辞めてもらいます」


 Aチームの選抜が発表されて翌日、更田は校長室に呼ばれていた。ドアの前には顧問が門番のように立っており、校長と更田はフカフカのソファに座って対面している。


 そして突然の解雇宣告。予選が終わったというのに、何がどうしてこうなったか見当もつかない更田は、これだけは無いだろうと思うものを当てずっぽうで言ってみた。


「全国大会の応援に行かないというだけで?」

「なんだ、分かっているじゃないか」


 なぜか顧問は納得しているようだが、更田は全く意味が分からなかった。どうしてAチームの応援に行かないという理由だけで、今まで走り続けてきた部員を辞めさせる必要性があるのだろうか?


 疑問は止めどなく溢れてくる。だが、更田は考えるのが面倒になった。自分の都合を優先する学校側の主張など、分かりたくもなかったのである。


「ま、別に構いやしないっすけど。もう未練は無いんで」


 精一杯の強がり……と言うわけでもない。本当に更田は虚脱していたのだ。やれるだけのことはやった上、最後には誰も悪くないことを悟った。もう走る必要は無い……。

 しかし、にこやかに微笑む校長の言葉は、耳を疑うものだった。


「それなら就職先の斡旋はしない、ということでいいね?」

「は? なんで?」


 それでは勧誘の時と話が違うではないか。思わず反射的に訊き返してしまうと、校長の代わりに顧問が答える。


「自主退部するのだから当たり前だろう。途中で脱落する軟弱者のくせに、ステーション部の威光だけは利用しようとするのか?」


 その言葉、そっくりそのまま返してやりたい。お前等こそ生徒を利用して、自分達は何もしないくせに指導者気取りかよ。


 徐々に怒りが湧いてくるが、ガキの口喧嘩だけは避けたかった。更田は怒りに身を任せないよう自制心を意識し、相手のペースに流されないよう集中しながら話を進める。


「ちゃんと最後まで走っただろーが。そこまで非難するくらいなら、おれをAチームのメンバーに加えろよ」

「それは無理だ。だから応援に回れと言っている」

「何の意味が? さんざんAとBで競わせておいて、どうしておれが今更Aチームの応援に行かなきゃなんねーんだよ?」

「部員なら強制参加だ」

「だから終わったじゃねーか。そっちからおれを足切りしたんだろ? こんな脅迫紛いのことまでして、一体何がしたいんだ? 意図を教えてくれ」

「実力も無いくせに、偉そうなことを言うな! お前のように協調性の無い奴を、真面目なAチームに入れるわけにはいかん! くだらん揉め事を増やすだけだ!」


(質問の答えになってねーじゃねーか。対話にならねぇ……)


 先にキレられてはお手上げだ。自分の理屈が立ち行かなくなると、スイッチが入ったように自己解釈を捻じ曲げてしまう。相手の話を最後まで聞いてくれる、もっと大人らしい大人は存在しないのだろうか?


「まぁまぁ、落ち着きましょう」


 頭に血が上ってヒートアップしていく両者を仲介してくれたのは、にこやかな笑顔を崩さない校長だった。校長は顧問と違い、物静かな態度で更田に決断を迫る。


「それで更田君、どうしますか?」

「どう、とは?」

「部員として全国大会の応援に行くか、意地を張って季節外れの就職活動をするか、自由に選んでください。私は君の考えを尊重しますよ」

「なんか、おれを辞めさせたいように聞こえますね」

「…………」


 校長からの返事は無い。顔は優しそうに笑っているが、目の奥は笑っていなかった。


(この際、就職先の斡旋は諦めよう。所詮、元は自分で就職口を探そうとしていた時期に、教師の甘い言葉で勧誘されたに過ぎない。だが、せめて絶望だけはさせないでくれ……)


 更田は藁にも縋るような気持ちで、校長に最後の質問を投げかけた。


「一つだけ答えてもらってもいいですか?」

「どうぞ」

「おれが部活を辞めたとして、これまでの努力はなんだったと思います?」


 校長の表情から笑みが消える。

 みんな違って、みんな素敵。生徒一人一人に個性があり、誰一人として無価値な者は存在しない。そう生徒に教えてきたはずの校長は、真顔のまま虚ろな瞳で開き直る。


「努力は必ずしも報われるとは限りません。それが社会人となる前に分かっただけでも、充分な収穫ではないですか?」


 この世界は嘘だった。これから生きていて楽しいと感じることは無いし、苦労してまで生きる価値さえ無い。何も無い。虚無だ。


(生きる理由が分からない……)


 もはや何もかもがどうでもいい。自分の未来ある人生でさえ、更田には魅力的に思えない。なぜなら、きっと自分は本気を出すことができず、無気力なクソ製造マシーンと化してしまうだろうからだ。


「……ふざけんじゃねーぞ」

「何か言いましたか?」


 空っぽになった更田の奥底から、沸々と怒りの感情が溢れてくる。頭は努めて冷静でいるはずなのに、心臓が焼けるように熱い。とはいえ、燃えるように熱い憤怒は風前の灯火である。心の隙間へ代わりに入り込んだものは、ドス黒い闇の感情だった。


「ふざけんじゃねぇ、って言ってんだよカス!」

「ひぃっ!」 


 激昂した更田は机を投げ飛ばし、ソファを蹴り倒し、校長の胸倉を掴む。どこまで行っても底の見えない暗闇の奔流が、暴力と言う形でしか表現できない結果だった。


「や、止めなさい! 退学にするぞ!」

「勝手にしやがれ! 退学が怖くて突っ張っていられるか!」


 権威を振りかざそうとする校長に、更田は拳を振り上げる。自らの手で首輪を外した生徒を目の前にして、戦慄した校長は血の気が引いた。


「だ、誰か! 誰か早く助けを呼んでくれ!」


 どこにも行く当てが無く、迷子になって途方に暮れた更田にとって、最後に残された道は爆発しかなかった。自分は一生懸命に生きていたのだと、忍耐強く頑張っていたのだと、人々に分からせてやるのだ。


「抑えつけろ!」


 暴れた更田から真っ先に逃げ出したくせに、他の教師を引き連れて来た途端、顧問は威勢よく指示を出す。だが、大の男達が更田にタックルしようとも、怒りに打ち震えている彼はビクともしなかった。


 そんなもので止められるか。多勢に無勢がどうした。生徒と真っ向から勝負しようともしない、臆病者に負けてたまるものか。

 しかし、心の内で悲痛に叫んだことは、全く異なる感情だった。


(……誰か俺を止めてくれ!)


 誰にも止められない。校長の首を絞める左手も、振り上げた右手も、針で縫い付けられたように固く握りしめている。どうしてこうなったのだろうか? 未然に防ぐことはできたのだろうか? 後悔する猶予も与えられず、更田は拳を振り下ろそうとした。


「その必要はございません」


 扉を蹴り破るような勢いで校長室に入ってきたのは、いかにも地味そうな眼鏡をかけた女性だった。突然の闖入者に対し、その場にいた誰もが動きを止める。


「更田真虎さん。で、いらっしゃいますね?」


 なぜか名前を呼ばれ、更田の手から力が抜けた。そのまま校長から手を離し、教師陣を押しのけ、眼鏡の女と正面から対峙する。


「何の用だ?」


 ついさっき汚い大人達に裏切られた更田の傷は大きく、警戒心は非常に強い。だが、彼を目の前にして物怖じしない女性が言い放った言葉は、その場にいた誰もが予想していた返答の斜め上を突っ切った。


「おめでとうございます。あなたはサッシュメントステーション全国大会の、学連選抜に選ばれました」

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