9-2 本能的に嫌われた

 アパートの4階にあるその部屋のドアは、2ヶ月前と何ら変わっていないように見えた。そんなことは当たり前なのだけれど、何かの間違いでそこが異世界へと続くドアだったらいいなと謎の期待を抱いていたものだから、俺は自業自得で落胆した。

 チャイムを鳴らしてみる。反応なし。

 鍵は……当然、かかっていた。

 葛井を知る人間――とりあえず親は、彼が消えたことをどう思っているのだろう。もし事が公になったら俺は失踪幇助罪(?)にでも問われるのだろうか。

 いや、待てよ。失踪扱いになっているとは限らない。どうやらわりと行き来自由のようだから、心配させない程度に一時帰還したりしているのかもしれない。

(それなら)

 閃いた。葛井がこちらへ戻ってきた時に気づくよう、手紙を残しておけばいいのではないか?

 ほんの少し、希望が見えてきた。

 俺はショルダーバッグからメモ帳とペンを取り出し、ドアを机代わりにして、

「戻り次第、連絡願う。杉原一馬 ◯◯◯ー◯◯◯◯ー◯◯◯◯」

 と書いた。

 ちょうど書き終えたところで、隣の部屋のドアが開き、学生らしき男性がこちらを一瞥した。彼が背中を向けるのを待ってから、ドアポストにメモを投函した。

 よく晴れた、12月にしては暖かな日だった。アパートの共用廊下から例の動物園付きの公園が見下ろせる。しばらく足が遠のいていた。俺は、あの日全力で駆け上がった階段をゆっくりと降りて、公園へ向かった。


(よぅ、久しぶり)

 頭の中で声をかけながら、(一方的に)顔なじみの羊・そらおの背中を撫でようとした。その時だった。

「!?」

 そらおがとたとたと数歩歩き、俺の手は空中で行き場をなくした。

「……」

 もう一度、そーっと撫でようとしてみる。

 が、駄目。逃げられている。明らかに拒否られている。

(なんでだ)

 今までは一度だってこんなことはなかった。今日は特別機嫌が悪いのか?

 いや、どうやらそうじゃない。子供たちには平然と撫でさせている。

 そらおがくるりと向き直り、賢者のような目で真正面から俺を見た。

「逃げる奴には、撫でさせん」

 そう言われている気がした。そらおはきっと、俺の負け犬根性を感知したのだ。

 今まで頑なに逃避を否定していたのが一転、ふらふらと逃げ道を探しているのだから、無様なことは重々承知している。それでも、動物に本能で嫌われたのはなかなかショックだった。女子に言われる「生理的に無理」と同程度の破壊力があった。

 でもさ、聞いてくれよ、そらお。山田さんもひどいと思わないか? それまで非テンプレを応援してくれてたのに、有名な絵師とツテができそうになった途端、テンプレに切り替えろなんてさ。

「そんなものだろう」

 割り切れって言うのかよ。

「想像力が欠けていたのだ。今のお前は逃げ出したいと心から願っているだろう。『今のような状況』を想像することさえできれば、異世界で易々と英雄になる話も書けたはずだろう」

 うっ。その通りだ。

 というかそらおのセリフも全部俺の想像なのだが、今頃想像力が発揮されても完全に手遅れである。

(……)

 頭の中で深いため息をつき、立ち去ろうとした。

 その時どこかの子供が、

「猫だ!」

 と叫んだ。

 この「ふれあいコーナー」に猫はいない。どこからか紛れ込んできたのだろうか。

 視線の集まっている先を追っていくと、岩塩を舐めている山羊の背中にオッドアイの白猫が鎮座していた。八坂の猫じゃないか。

 猫は俺と目が合うと、山羊の背中から地面に降り、ゆっくりと公園の出口に向かって歩き出した。

 ついていってみよう。ここではないどこかへ行けるなら、異世界でも童話の世界でも構わない。

 10メートルほどの距離を保って、追跡を開始した。


 住宅街をぐるぐると回る。狭い路地を出たり入ったりする。人ん家の庭と思しき場所を突っ切る。猫のたまり場になっている駐車場を通過する。

 陸橋を渡り、銭湯の角を曲がると、猫は石段を登って神社の境内へ入っていった。鳥居をくぐり、落ち葉の掃き清められた石畳を進んでいく。

 奥まったところにある、滅多に使われないものと思しき建物の苔のついた格子窓に、

「杉原君へ」

 と題された一通の手紙が挟まっていた。

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