8-3 絶対にやっちゃいけないことをした

「杉原よ」

「はい」

「何があった」

「何かあったように見えるんですね」

「いや、だいぶわかりやすいわ。私のほうがわかりにくかった自信あるわ」

「頭の上にオレンジ色のビックリマークでも出てます?」

「何を言うとるんだね君は」

「何でしょうね」

「一応まぁ、接客業だからさ。ヒゲぐらい剃ろうぜ」

「……すいません」

 それが、勤続8年で初めての、星川さんから俺へのダメ出しであった。


 原稿は完全に沈黙している。

 異世界モノにすることを受け入れていたのがウソみたいに、チーレムに対する拒絶反応が出た。

 努力せずに与えられた能力で、複数の異性に好かれる展開。

 本当にみんなそれが読みたいのか? 正気か? SNSで「異世界チーレム大好きです」って自分の顔と名前さらして言えるか?

 一円にもならない煩悶ばかり繰り返して、一文字も書き進められない。


 異世界チーレムを書けと指示されてから、次の打ち合わせまでの二週間、俺は廃人のような生活をした。

 本屋のバイトには一応行く。腑抜けた状態で退勤時間までやり過ごす。他にはどこにも出かけない。食事は十割方コンビニで調達し、ゴールデンタイムのバラエティー番組を見て、面白そうなテレビがなければ無気力にネットを徘徊する。人気ユーチューバーのユーチューブを見る。バイトがなければ日がな一日、昔一度クリアしたゲームに没頭する。

 建設的な思考ができない。

 ジム? 当然、行っていない。

 ゲームをやりながら寝落ちたりするから睡眠のリズムがめちゃくちゃになって、バイト中、眠くてたまらない。フリーターとしても破滅しつつある。


 会社が交渉中だという有名な絵師。誰なんだろう。大言壮語ということはあるまい。

 未曾有のチャンス。飛びつくべきだ。

 無礼極まりないが、「絵師ガチャ」なんて言い回しもある。新人作家は上手い絵師を当てられることを心から祈る。ハズレの絵師を付けられてしまったら諦めるしかない――と。

 山田さんの(会社の)指示通り、売れ筋の異世界チーレムにシフトすれば、有名な絵師が付いてくれるかもしれない。ラノベ作家を続けたいなら、逆らうという選択肢はない。

 そこまでわかっていて、書きたくない。こんなメンタリティの俺がどうしてラノベの新人賞を取れたのだろう。人生で一度だけ彼女ができたことより遥かに、「何かの間違いだった」という気がしてならない。


 安酒を飲みながらボリボリとポテチをかじる。イモを薄く引き伸ばして現代的な味付けをした菓子。都会のコンビニエンスストアという限られた空間で、ポテトチップスのコーナーがかなりの面積を占めているという現実。カップラーメンも然り。

 大量生産の売れ筋商品を頬張りながら、作り手としては売れ筋に迎合したがらない矛盾。

 ははは。バーベキュー味うめえなあ。コークハイとバーベキュー味のポテチは鉄板。こりゃアメリカが世界を牛耳るのもアメリカ人がぶくぶく太るのも自然の道理だわ。


 気づけば、電話が鳴っていた。俺は布団の中。電話の発信元は山田さんだ。

 現在、打ち合わせの時間を5分過ぎている。

(何してんだろ、俺)

 うっかりしていたわけじゃない。俺は今、明確な意思を持って、打ち合わせをすっぽかそうとしている。

「……」

 まだ間に合うかもしれない。今すぐ電話に出て平謝りして、急いで「らんたん」に言ってめちゃくちゃ謝って、大急ぎで仕事に取りかかれば許されるかもしれない。

 電話に出れば。電……

(切れた)

 なら、今すぐにかけ直せば。完全に道が塞がれてしまう前に。

 俺の脊髄でパイロットが「動け、動け」と叫んでいる。しかし、細胞はその声に反応しない。決めの「動いてよ」もスルー。心身にべったりとついた脂肪によって、あらゆる生体機能が著しく衰えている。

 食べカスが散らばった敷き布団の上で、スマホの画面がスリープ状態に入るのを眺めながら、俺自身が食べカスのようなものになっていく。

 いいや、もう。外寒いし。


 その日のうちに一通、二日後にもう一通、山田さんからメールが来たが、俺はろくに内容も読まず、ゴミ箱フォルダへ放り込んでしまった。

 摩擦も空気抵抗も一切なし。猛スピードで人生が奈落へと堕ちていく。

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