8-1 気を取り直してジム通い
19……20!
(よし!)
30キロのアブドミナル20回をクリア。まだぶよぶよではあるが、この皮下脂肪の下で着実に筋肉が付き始めている。
あれからまた、俺はジムに通うようになっていた。リズに馬鹿にされたままでは悔しかったのと、スポーツジムは他の空間と比べて「クエスト」を抱えた人物が明らかに少なかったからだ。心の健康を保つ上で、体を動かすことはやはり効果的らしい。
ランニングマシンを使っている最中にアイディアを閃くこともあった。ジム通いが生活全体をいい方向へ誘導してくれている。区営だから出費も大したことはない。
体を鍛える喜びがわかりやすく反映されて、執筆中の『異世界で貧民の子として生まれ大将軍にまで成り上がる』で俺は「修行」のシーンに力を入れた。
主人公の師匠は、魔法に頼りがちな主人公に物理攻撃力を付けさせるために、魔法禁止の武道会に出ることを命じる。会場は城壁に囲まれた自治都市パルタス。毎週開催される武道会で、最初は予選負けを繰り返す。
「やぁ」
と、山田さんが手を挙げた。
俺は二つのことに驚いた。第一に山田さんが先に来ていたこと、第二に山田の頭上にオレンジ色のビックリマークが出ていたことである。完璧超人に見えるこの人でもクエストを抱えることがあるのか……
「すいません、お待たせして」
「いやいや、今日はちょっと早く着いちゃったからね」
クエストに気づいているせいだろうか。何となく、言葉に覇気がないように感じる。
山田さんはブレンドを二つ注文すると、テーブルの上にファイルケースを置いた。あの中には赤ペンでチェックを入れられた俺の原稿が入っているはずだ。それを見ながら修正について話し合うのが毎度の打ち合わせである。
ところが、山田さんはすぐには原稿を取り出さず、テレビで見た話、つまり雑談から入った。これも珍しい。普段ならすぐに本題に入る。
コーヒーが運ばれてきてようやく、
「さて」
と、山田さんはファイルケースを開いた。
(うっ)
白い。1枚目のどこにも赤ペンが入っていない。
嫌な予感がした。そして、的中した。
「杉原君」
「はい」
「すまないが、修行パートは没だ」
うぐ。
「全部ですか」
「全部」
「……」
「セオリーとしては、わかってるよね」
「はい」
ライトノベルでは、修行パートは好まれない。
最近は漫画でもその傾向にあるという。ドラゴンボールの最初のほうとか、俺は好きなんだけど。
「あえてチャレンジしてみたんですけど、やっぱり駄目ですか」
「そうだね」
プロットの段階では、師匠の下について成長するということだけ決めてあった。過程を描き込んだのは独断だ。
「修行パートには致命的なデメリットが二つある。一つは、本筋から長時間離れ過ぎること。もう一つは?」
「努力を見せつけられること」
「そう。ライトノベルは原則として楽しく、気持ちよく読めるものでないといけない。スポ根とは違うんだ。ストレスを与えられると今の読者はすぐ離れてしまう」
「……」
「杉原君の考えはわかってる。だからこそ――なんだよね。現実では努力が必要なんだから頑張ろうぜってことだろ?」
「はい」
「個人的には共鳴するよ。でも、仕事だからさ」
修行の過程を描き込んでみようと思うんですけど――と、事前に相談したら反対されていただろう。だから、いきなり書いてみた。没にされる可能性は結構高いと思っていた。
「すいません、勝手なことして」
「いや、悪くなかったよ。絵が止まらないようにしようっていう工夫も感じられた」
「ありがとうございます。……それで、全部カットするとなると、修行をしたっていうことはどういう風に出しましょうか」
「ちょっと待ってね」
と遮り、山田さんはコーヒーをすすった。
あ。これはまずい。修行パートを没にすると俺に伝え、俺がそれを受け入れたのに、クエスト表示が消えていない。それすなわち、本題は別にあるということだ。
ここ数日の検証で「クエスト」の定義には仮説が立っている。「悩みごと」全般というわけではない。どうやら「俺が関与することで解決し得る問題」がクエストと見なされるようだ。
山田さんは今、他でもない俺に関して、何か問題を抱えている。
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