5-1 昔の彼女と出くわした

 突然一週間も無断で休んだことについて、喫茶「らんたん」の店長はココナを許したらしい。ふつうならクビである。有望な新人だったのだろう。

 その日は山田さんとの打ち合わせではなく、俺は一人でコーヒーを飲みながら、ポメラで原稿を書いていた。キリのいいところまで書けたので、伝票を持って席を立った。

 店内を軽く見渡すと、以前より明らかに男性客が増えている。ココナ目当ての客と思われる。

 くどいようだがここはキャバクラではない。足しげく通ったところで店員さんとお近づきになれるはずもないのだが、「美人」の吸引力というのは大したものだ。これが秋葉原あたりの店だったらアイドル事務所からスカウトの一件や二件すぐに来そうな気がする。

 ココナに会計を支払う。

「50円のお返しです。ありがとうございました!」

 今日はただの店員さんだったな……と油断していると、

「こちら、次回から使えるクーポン券です」

 と、紙切れを渡された。

 超回復喫茶キュアキュア・アルヴィース城下町店・SPパンケーキ無料券と書いてあった。※厳密には、異世界の文字の上に日本語でふりがなが振ってあった。

「ぜひご利用ください!」

 と言って、ココナはぐっと親指を立てた。

 俺は穏やかに、

「結構です」

 と言って、ご不要なレシートを入れるカゴに、異世界で使えるクーポン券を捨てた。


 自分が行く気はないのだが、

(スカウト……か)

 と、俺は喫茶店から家までの道を歩きながら、頭の中でつぶやいた。

 葛井はうまくいかなかったけれど、俺でなくてもあちらの世界で勇者になれるということはわかった。ウィンウィンの取り引きが成立し得る。

 知り合いに候補者はいないだろうか? 行きたいか行きたくないかはさておき、まず身軽であることが条件。一人暮らしで、突然いなくなっても世の中に与える影響が少ない職業の人間。

「……」

 っていうと、まさに俺は適任なわけだが。

 歩道橋の登り階段で、お子さん二人を連れたお母さんとすれ違った。

 俺は29。同輩たちも29。大変わかりやすいことに、今年は結婚式ラッシュだった。

 家庭を持つなんていう、はるか遠い未来の出来事だと思っていたことを、周囲の人間が次々と成し遂げていく。

 俺がバイトで日銭を稼ぎながら自己実現なんかを目指している間に、みんなはボーナスを貯め、パートナーを見つけ、人の親になる支度を整えていた。何人かはすでに人の親になっている。

 去年、新人賞を取った時、これでやっと周りに追いついたと感じた。けれど、それはほとんど勘違いだった。ポンと100万円を得たからといってそれが何になろう。結婚式を挙げ子供を産み育て相応の家に住むことを考えたら、100万なんてはした金だ。何なら結婚式一発で消し飛ぶ。「まとも」な人生を歩むには、大金がかかる。

 小説をやっていた仲間の大半は、25歳の手前で離れていった。筆を折ってしまった人もいれば、余暇として書き続けている人もいるけれど、いずれにしてもとりあえずフリーターからは脱する道を選んだ。

「……」

 よせよせ。考えても仕方のないことは考えるな。今は目先の次回作が優先。スカウトのことは頭の片隅に置いておこう。


 再会は突然だった。

 歩道橋の下り階段。対面から、まだ秋なのに厚手のコートを羽織った若い女性が登ってきた。それだけでも人目をひくのに、黒髪のおかっぱに白猫を乗っけているものだからさらに目立つ。しかし決して目立とうとしているわけではない――ということを俺は知っている。何故なら昔、付き合っていた人だからだ。

 まず、猫と目が合った。それから、八坂玉恵と目が合った。

 いわゆる童顔とは少し違う。人生の苦悩が刻まれていない。彼女は自分の力を信じ切っているのだ。それも自己暗示の類でなく、極めて静かに。

 美人と見る人もいるだろうしブスと見る人もいるだろう。俺はオリエンタルな美人だと思っている。

 視線を外して、何事もなかったように通り過ぎることもできた。けれど俺たちは、

「久しぶり」

「久しぶり」

 というありきたりな挨拶を経て、昔なじみの24時間居酒屋に向かったのだった。

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