第22話 対峙-Flower02


ぬいぐるみの形をしたペンケースに入っている、お気に入りのアプリコットカラーのペンは、文字を書く度にあの日の夕焼け色で懐かしい感覚を蘇らせてくれる。


そして、眼の前にはそれ一本で描き上げた世界が広がっていて、文化祭の終わりと、校庭での後夜祭の始まりを告げている。


「雲が……」


ほづみは誰も居なくなった教室から、一人空を眺めている。


夕色を灯したすじ状の雲がまだ青を残した空に、びしびしとひびを走らせている。


「綺麗……なのにどうして、こんなにも残酷なんだろう?」


廊下へ出ても人影はなく閑散としていて、ダンボールで作った看板やゴミが散らばっているだけだ。


後片付けには、明日が丸一日当てられているので、この時間、後夜祭に参加していないのは、よっぽどの変わり者かひねくれ者、もしくは孤独を愛する者だけだ。


「……ふふ、私はどれかしらねぇ」


呟く声もよく響き、言葉がこだまして、自分を締め付けてくる様だ。


ほづみは身体を揺すり歩いて、少しずつ身体を温めながら、時間を潰していた。


「もう、祭りは終わりよ……そう、約束の時間が来る」


屋外の渡り廊下へ出ると、夜を思わせる風が身を包む。もう茜は身を潜め、遠い山の端を残して闇が迫っている。


「……花火か」


ぱ、ぱんという短く安っぽい音が、それの終わりを告げ、残煙を風が歪める。


やがて人の声が校舎に戻り、立ちすくむほづみを置いて、それぞれの家路に消える。


今日一日が、彼ら彼女らの想い出となった事は疑い様がない。


それが楽しく愛しいものか、思い出したくもない、醜悪な記憶かまでは考えが及ばない。


「どっちだっていいのよ……」


楽しい事はなかなか思い出せない。どうでもいい瞬間に浮かんでくるのは、哀しいものだけなのだ。それに大小をつけたところで、あまり変わらない。辛いことは辛いままなのだから。


ほづみは制服に着替えることもせず、コスチュームを着たままだ。風はますます冷たくなり、ほんの少しだけ欠けた月が投げる光は、とても明るく、下手な照明よりもよっぽどマシな影をコンクリートの地面に与える。


「……あなたにしては、まともな所を選んだわねぇ」


風景は暗いだけで、どこにも何かを見つける事は出来ないのだが、ほづみには溶け込む様に、自然に佇むその忌々しい姿が持つ気配、魂の色、そういうものが手に取るようにわかっていた。


ほづみは借り物の靴を脱ぐと、サスペンダーを改造して作った短い吊りバンドの金具を弾き、自分のニーソックスもするすると下ろす。そして、片一方ずつ丁寧に丸め、靴に収めて渡り廊下にあるベンチの下へそっとしまう。


「ごめんね笹峰さん、ちゃんと返せなくって……夜露はしのげるよね……必ず……返すから」


踵を指で弾いて言い聞かせると、素になった足をコンクリートに下ろす。


冷たさで上がりそうな声を飲み込み、その地面に座って、ストレッチを始める。開脚して冷たい匂いの地面に、眼鏡が当たらない様におでこでキスする。


ゆっくり吐き続ける静かな息に、虫たちの声が乗る。周りには何者もないように、感覚をまどろませ、そして繋げる。


「よっ!」


そのままの状態から手を思い切り突いて、身体を跳ね上げる。浮き上がった宙で前方へ回転し、開脚していた足を閉じて、コンクリートに立つ。


「……今、行くわ」


もう一度月夜を睨みつけ、前に見える階段を蹴って、校舎に入るドアに手をかけた。


それを五センチ開いただけで、何かが外気に触れた。


「何? この嫌な感じは……」


悪夢の様に、身へと空気がねっとりとまとわり付いてくる。


あるいはこれを、本当の殺気というのかもしれない。それでもほづみは、何の構えもとらず、散歩でもするように、そこへ足を踏み入れる。


「!」


途端、闇から何かが振り下ろされ、リノリウムの床板を鈍く叩いた。


そして聞こえる。声ではない人の息が耳に入り、暗闇をうごめいているのがわかった。


「……あら、あら、文化祭はもう終わったわよ、速やかにご帰宅願えるかしら?」


冗談めかして言っても、何も返ってこない。


ぞろぞろと影から出てくる人影達の眼は、しっかりと開いていて、生きているが、自ら何かを考えているような光が灯っていない。


澱んでいて、余分なものをそぎ落とすフィルターをかけたように、敵意だけを向けているのだ。


(ゾンビってわけじゃないか……服装に統一感が無いわね。どういう繋がり?)


新入社員のような濃紺のスーツ男、深雪野の制服姿の男子女子、どこかの制服を着た少女に、私服で同い年位の少女もいる。


考えている間に、飛び掛って来た少女をかわし、首筋を軽くはたく。


「ぎゃっ」


声を上げたかと思うと、その場に折れて動かなくなる。


「さあ、ちょっと痛いかもしれないけど、いらっしゃい!」


可能性を押し戻すしづるのシードの力を部分的に、ほんの少し込めると、このような事ができる。


制圧できるということは、何らかのシードの作用があるからだ。なければないとして、ほづみの力がそれを代行する。


もちろん解放された「力」を持つ者に対しては、佳梨にしたような方法を取らねばならない。


群がる人達は素手の者もいれば、何処から持ってきたのか木刀、竹刀、はたまた清掃用のT字ほうきやデッキブラシの得物の者もいる。


「十人十色って奴かしら……はっ!」


その隙間を縫う様に滑り、ほづみは打撃をことごとく受け流し、返の一撃を加えて行く。


目指しているのは屋上だが、ご丁寧に階段にも人が分散している。


「ちっ、残しておくのは後々面倒だし、仕方……ない……かっ!」


振り下ろされたT字箒を突き上げで叩き壊し、よじる身で蹴りを腹部へ打ち込み、「ぐぅっ」ともんどりを打って、屈んだ男の首筋を打ち据える。


一段一段上る事はできず、何段かに足を分ける。


ほづみは、身体を斜めに切られた階段に吸い付ける様にして、人をさばいていく。


「ふふっ、たいしたことないわねぇ」


多人数とはいえ、統率の取れていない烏合の衆たる攻撃は、ほづみに触れる事さえできず、彼女の通った後には、人のうずくまる姿があるだけだ。


やっと踊り場にいた人間も、黙らせる事ができた。光取りの窓からこぼれる月光に、薄っすらとかいた額の汗が光る。


その光が一瞬遮られ、闇が訪れる。


「ちっ! 何て物をっ」


ゆるやかに重力をまっとうし、最上段から落下して来るのは、普段自分たちが使っている学習机だ。


避ける事も叩き壊す事も造作無い、だがほづみの周りには、気を失っている人が、足の踏み場も無いほどにいるのだ。


いくら向かって来たと言っても、おそらくこの人達に罪は無く、無防備な状態でこんな物を当てられたら命さえ危うい。


(どうする?)


一瞬振り返った壁が、出っ張った二段構造になっているのが眼に入った。


「これが正解っ!」


もう頭上間近にあった机の角を、神速でI字にまで上げた足先でアタックし、ほんの少しベクトルをつけかえる。


まるで片足で机を掲げる様に身体を流して、ひょいと音がするくらいの軽さで、それを出っ張りに置いた。


「味な事してくれるわねっ!」


五歩で長い階段を飛び上り、犯人に詰め寄る。


その犯人たる影は、白い笑顔を浮かべている。


ほづみよりやや幼いぐらいの少女は、ナチュラルカラーのカットソーを着て、黒いスカートから細い足を覗けている。


背には機能性に富んだワンショルダーのバッグがかかっていて、何処にでもいそうな少女なのだが、投げつけた机とセットのイスを軽々しく掴んで立っている姿は、とてもまともとは言えそうにない。


「…………」


口元を軽く歪めたかと思うと、唐突に腕を振った。


ほづみは、それに合わせ、揃えていた左足を引いて、半身になる。


背負った壁に、飛んできたイスが弾けて豪快な音を立てる。


吹き抜け構造の階段は、一流の音楽ホールのように音を伝え、耳を通り過ぎたそれは、風に乗り、階を下っていく。


「……それで?」


からかう様に言うほづみに、少女はさらに微笑を返し、身体を屈める。


そして一歩の踏み込みで、ほづみの懐に入り、突きを繰り出していた。


「つうっ!」


その早さに受けきる事ができなかった。


今までの人間とは明らかに動きが違う。施されている事自体は変わらないだろうが、この少女自身が、元に持っていたものが違うようなのだ。


(ちっ! 何か、格闘技をやってるのね)


下から迫ってくる蹴りを鼻先でかわし、一歩飛び下がると、少女はすぐさまそれを埋めて次の一撃二撃を加えてくる。


(……直線的な動きが多いわね、空手かしら?)


すでにほづみの背後は壁で、元来広くないこの場所では、ほづみより背もリーチもない少女の攻撃は、コンパクトで逆に理にかなっている。


「っと、そうとばかりにはいかないのよ」


繰り出された突きを、わかっていた様に受け取り、ほづみは腕を掴んだままに背中にある壁を蹴り上がって、トンボを切ると、少女と身体の位置を入れ替えると同時に、掴んだままの腕を引き戻して、華奢な腹部へ膝を入れる。逃げ場をつかまれる事で失った、ほづみの攻撃力が少女の体を貫く。


「あぐぅぅっ」


ほづみは自分との間合いを考え、突きが有効な攻撃になる距離を作り、誘っていたのだ。


掻きむしるように、腹部を掴む少女に「ごめんね」と言う風に、ウィンクを投げる。


「う、うう……」


息を漏らす少女の眼は、未だ敵意を灯して、手の先にあったひしゃげ、鉄だけになったイスを掴むと、ほづみに飛びかかる。


「ちっ、まだなのっ!」


避ける為に首を振った瞬間、頭のリボンの一つが絡め取られ、かみそりで落としたように切れ飛び、段下へ舞い落ちる。


少女はそんな物に気も捕らわれず、イスだった物を打ち据えてくる。


(ダメッ! 行かないで)


ほづみは闇たる下層へ消えゆくリボンの切れ端を、溶ける粉雪を惜しむよう掴もうとして反応が遅れた。


ただの布切れと想いの篭った結晶、ふたりのその違いが、一瞬を産んでしまった。


(もう、逃れられな……!)


不意に、指先が階段から続く手すりのゴムに触れる。


(光はこれねっ)


ほづみは逆手で手すりに、開脚しながら倒立して飛びあがり、一撃をやり過ごした。


刺々しい鉄は身体があった場所を豪快に叩いたが、ほづみは体操選手があん馬の取っ手に昇る様に、身を跳ねさせる。


そのままバランスをとり、続く手すりを倒立して腕のみで進み、階段の途中に降り立つ。


ほづみは、危機から脱した安堵を感じる間もなく、足の回転を上げて、頂上で待つ少女に詰め寄る。


「くうううっ!」


思惑が外れ、唸りだけになった少女は、ベビーフェイスを引きつらせて、右足を引き絞り、次いで腰を開いて、くりくりと大きな瞳を一点で止める。


(わかりやすいわね)


ほづみも詰め寄る歩調を緩めず、むしろ回転を上げる。


「しっゃあっ!」


ぎりぎりまで引き絞られた上段への必撃が放たれるが、そこにほづみの顔はない。


彼女はそれを見越して、寸での間合いにて飛び込み前転で、これをかわしていた。


「うぎうぐぐっ!」


そしてその収縮された前進と、回転の力から解放されたほづみの足刀が、少女にめり込んでいた。


少女は最後の声も無く、気を失いその場へ崩れる様にへたり込んだ。


「命名、スクリューブレイクってとこかしら……人は追い詰められた時、必撃にかける。しかし、その一撃こそ冷静たれば、何よりも避け易い……か、おじいちゃんの言う事も役に立ったわね」


傍で眠る少女の、白桃のような頬をぷにりと押してから、ほづみは扉の前に立った。



その扉には、【関係者以外立ち入り禁止】という墨で書かれた達筆な文字が、しっかりと貼り付けられている。


鉄製の頑強なドアは、日頃使われる機会が少ないのか、ノブが異様に硬い。


「んっ……」


ほづみは力を込めて、肩で押し開けると、やっとできた隙間へ身体を滑り込ませて冷たい外気を吸う。


しなやかな四肢が通り抜けた後、重い音を立ててドアは世界を切り離した。


始めてみるそこは、明るい月光で明け方のような色をしているが、それよりも鮮烈なものが向かえた。


「……何、この匂い……これ、綾の家にもあった夜来香?」


屋上の端から、等間隔に茶色の、こ洒落たプランターが並んでいて、ほづみの足先までやって来ている。


園芸部の物だろうかと、腰を屈めて匂いを確認する。綾の家で見たものは一本きりだが、ここにはそのプランターごとに、白い花が咲き、強すぎる香りを漂わせている。


いくら綺麗で貴重な花でも、これだけあると祭壇にでもいるようで気分が悪い。


「……吐きそうだわ」


少しでも和らげようと、手を被せてもいっこうに失せない。


こんな花畑には、いい想い出がなく口をついて言葉が漏れる。


「秋桜と同じね」


一歩踏み出した所で、月が落としつける影が揺れた。


そして声が響いてくる。


「やあ、ようこそ。僕の屋上庭園――ルーフガーデン――へ」


真は屋上の塔屋へ座り、細い足を組んで、ほづみを見下ろしていた。


逆光で隠れる顔を包むように、手を当てて眼鏡でも直しているのだろうが、ほづみにしてみれば、その仕草はやはりキザっぽく、嫌味なものに映る。


「どうだい、ここまでの道程は、準備運動ぐらいにはなったかな?」


「……関係ない人を……何を考えてるの、あんたはっ!」


むせ返るような匂いの中で、少女と少年は互いに引けない想いを胸にして今、対峙を始めた。


「関係無くもないさ、まあ協力者ってところだよ」


「ゴタクはいいわ、さっさと降りて来て私と闘いなさいっ! それがあなたの義務でしょ」


真は「ふっ」と鼻先で笑うと、軽々しく数メートルの高さを飛び降り、ほづみの眼前に立つ。


「そんなに急がなくてもいいじゃないですかシンデレラ。零時までにはまだまだ時間がありますし、舞踏会は始まったばかりですよ」


足を運んで真は、プランターの花畑へ入る。


「少しお話ししませんか? 君の事……いや、しづるさんの事……」


ほづみの意思強い眉がぴくりと動く。


どうして世界を愛する為に生きたしづるは、真に殺されなければならなかったのか、ほづみはしっかりとしたものを手に入れていない。


果たしてこれを聞けば、しづるが真を救ってと言った本当の理由がわかるのだろうか。


「いいわ……話してみなさい。私には聞く権利があるはずよ」


「……では、ほづみさん。しづるさんの力をどう思いますか? 他人の可能性を引き出す力……そして、許し合う心を育む力……」


なぜそんな事を、改めて聞く必要があるのだろう。


「素敵じゃない。可能性は自分の思い通りにならないものかもしれない。けれど許し合う心は何よりも大切でしょう。それがなければどんな事だって、その場で足踏みしたまま進めない」


そのおかげで自分は、佳梨との事も乗り越えられた。


あの力は人の心に、どんなものより大切な花を咲かせる能力なのだ。


だが、真の表情は一変する。憎々しくも優しかったそれは、冷たく哀しいものになる。


「残念だよ、君は綾のいい友達だっていうのに……そう、しづるさんよりも……けれど、あの力を大切と言う。やっぱり闘うしかないのかい?」


真は唇を噛んでみせる。


「君は誰かに与えられたもので、心の枷を乗り越えて嬉しいのかい?」


真は花房を一つ千切って、フェンスの向こうへ放り捨てる。


それは、ゆっくりと風を受け、紙飛行機の様に闇へ姿を消した。


「大きな話になるかもしれないが、例えば戦争……何が原因かはいいさ、だが、人はその後、何十年何百年もかかって、やっと仮初の平和を繋ぐ。愚かしいけれど、それが人さ。けれど、国の根にある人の心までは、そんなものを受け付けはしない。許し合う事は当人どうし、世代の為に悲しみを考えて、乗り越えるものなんだ。決して人から労せず与えられるものじゃないっ! それがヒトというものの犯した過ちの、愚かなるたった一つ与えられた償い方なんだ」


初めて声を荒げた真に、ほづみは臆した。その実、彼が語ったものが大きかったのだ。


「……そんな事……知らない……」


「誇れるものじゃないけど、僕や綾はその悲しみを知っている。愛という結晶としてでなく、欲望の欠片として生まれ育った想いを! それでも……こんな悲しみを知っている僕を……彼女はこの僕が間違っていると言った……僕はね、今まで綾が泣かずにすむ世界が欲しいだけだった……だけど、触れてしまったからか、自分がこの世界でどうあるべきか、など考えてしまうんだ……そんな事は、必要ない、必要ないのに、だ……」


ほづみもまた、真の言葉を受けて考えていた。


真の言う事は正しいのだろうが、こうしてしづるの力に触れた自分には、憎しみなどない。


むしろ優しさで包まれている。


(これが、この想いのどこが危険なのよ)


ほづみは決意して顔を上げる。


「……それで、あなたは何がしたいの? 高校生でも判るほどに愚かしい世界をも変えられる……その力を持ったしづるを殺して、あなた自身の力を持って、国でも変えようって言うの! あなたなら誰もが望む世界が創れるとでもいうの!」


ほづみはある分だけの想いを言葉に変えた。


「……なぜ殺した? ふふ……君は本当にそう思っているのかい、残念だって? 本当は僕に感謝しているんじゃないかい? おかげで君は、あんなにも楽しくて、優しい時間を手に入れられたんだからね」


 ほづみは見透かしたような、真の言葉に息を詰まらせる。


「だっ、黙りなさい! 話を勝手にそらすんじゃない。あんたは、あれだけ大切に想ってくれる綾の為……綾の為にだけ生きればいいでしょ!」


「ああ、だからしづるさんを殺した。僕と綾はふたりで悲しみを越えていく……余計なお世話なんだよ、彼女も、君の力もね」


真はゆっくりと歩を詰める。


「その力は消してもらうよ。特にしづるさんのものはね……でも、僕らは似ていると思わないかい?」


真が近づくに連れ、身の回りにある空気が、肌にまとわり付く風に変わる。


それだけ圧倒されているとでも言うのと、ほづみは額からの汗をすくった。


「僕は綾の為……君はしづるさんの為。究極的には自分だけの為、人って奴はどうにも身勝手なのかもね。やっぱりこの世で一番恐ろしいのは、異形の怪物なんかじゃなく、心を持ち意志を携えた、僕たち人間という悪魔だってことさ」


「あううっ!」


顔に寄せられて、吐かれた言葉に気をとられ、何をされたかもわからなかった。


真の掌打が、胸骨の辺りをとらえていたのだ。


そして瞬間、何かが背中を突き破って、虚空へ弾ける。


それは輝く宝石の様でもあり、また河辺で拾う丸い石にも似た何かだった。


暑い夏の日、妹が託した力の結晶がほづみから剥がれ、塔屋の屋根に当たり、キンと高い音を立てて砕けた。


その軌跡は、星屑が走る様に、尊い煌きをいつまでも放っている。


「ああっ! ああああっっ」


ほづみはその場に崩れ、肩を抱いて凍えるように震えだす。


寒いのではなく熱いのだ。


息が苦しくなり、すぐに喉が乾いて、ピンク色のぷりぷりした唇も張りをなくす。


「次はあなたの力ですよ。お願いです、ただ綾の友人として生きてください。その方が君の為でもあるんだ……そうすれば、今の安らぎが永遠のものになるのだから」


投げかかる言葉も聞かず、ほづみは震えている。


「……っ殺す! 高城真ぉぉぉぉ」


ほづみは一気、罵声を上げて野獣のような蹴りを繰り出す。


「っと……」


それを真は軽々しく受け、半歩足を下げる。そして、言葉を切って、次々と拳と足の見事なコンビネーションを繋げて、ほづみに返す。


だが、ほづみはその攻撃を前に、笑みを強くしてことごとくさばいていく。


「くっ」


真は得意に攻め続けているのに、力点がずらされる度、自分にダメージが溜まる事に困惑した。


「はたかれているだけなのに、なぜだっ」


迷いをかき消す様に出した膝を追って、蹴りを繋げるが、それでも少女は、はにかみに似たものを浮かべて、真の攻撃が止まっているかのように、身体を操っている。


「……僕にも多少心得ってやつがあったんですけどね……でもこれならどうだい!」


バックステップを踏んで、真は間合いを取ると、ボールを投げる様に、しなる腕を宙に投げ出す。


「!」


何かが飛んで来た。


物体その物であるなら、ほづみにも見えるはずだが、それが何かであって、何であるかわからない。


ただ結果として、シャツの肩口が鋭利な刃物でなでられたかの様に、パックリと開いて、皮までも裂いたのか、薄っすらと血も滲んでいる。


「手品じゃありませんよ? 僕は身の回りにある空気を操る事ができるんです。


圧縮し、刃物の様にして飛ばしたり身体にコーティングし防具としてもね……もっとも、今はまだまだ研究中ですから、成長すれば、さらに色々な事が出来るかもしれませんがね」


「手品師が種明かしするのは、負けを認めた時だけでしょう……いいのかしら……それとも、知れたところでどうにもならない、サービスって感じなのかしら?」


ほづみは切られた布を指先でなぞり、そして笑う。


真はその笑みに身をえぐられる。


綾の様に包み、何かを解き放ってくれるようなものではない。


初めて身震いした程の恐怖、それを思い起こさせるものだった。世界でこれほどに笑うという行為を汚しているものは、ないかもしれない。


「……それがどうしたっていうの? そんなもの関係ないのよっ! 受け入れられない……しづるの描いた想いの為にも、あんたを認める訳にはいかないのよっ!」


ほづみは構えをとり、素足をコンクリートに擦り付ける様にして、にじり寄る。


きつとした眼は、真から一点もずらさない。


「しかたないですね。運命みたいなものかもしれません。どこへ行こうとあの橋、父さんの影が、権力という汚れた力を孕んで、僕に迫る様に……」


「うるさいっ! 訳わかんない事言うなっ」


ほづみは我慢できない様に、間合いを一息に詰めようと、ざらりとした感触にさらされている素の親指に力を込め、コンクリートをえぐる勢いで踏み込み、蹴り上げる。


「くっ」


真はまた空刃を放つが、ほづみはかわそうともせず向かい、かすめた刃が音も無くスカートの裾を切り取る。


「なっ! 外れただと……ぐうっ!」


ほづみの突きが頬を捉え、続けて逆手の手刀が迫る。が、真もそれに反応してガードを固めていた。


「なっにっ!」


次の瞬間に身体が宙を舞っていた。


自分の意思とは別に、無理やり走り高跳びでいう、ベリーロールをさせられていた。


ほづみはガードした真の腕を、流れに逆らう事無く取り、逆方向の力を加えて、投げに転じていたのだ。


ひとつつの動作から、複数の手を産むのが彼女の持つ格闘術にして、水のようにふるまえという所以なのだ。


真は受身を取りつつも夜来香に突っ込み、土埃が立つと同じに、折り飛んだ茎が夜に舞う。


急ぎ身を起こした時には、すでにほづみの身体が眼前にあった。


「こんなものじゃないわよっ」


下から打ち上がってくる蹴りが顔をかすめ、デザイナーズブランドの眼鏡が、宙に弧を描く。


「ちっ、いい物なんですけどね」


上げられた足が、そのまま落ちてくる踵落としをかわしてから呟くが、ほづみはそんな事を気に留める仕草も見せず、力を込めて息つく間のない激流のように攻撃を続ける。


「しっはぁっ!」


身を屈めて真の足を払うように、蹴りを加えるが、読んでいた真は、小さく飛びあがり、完全に死角である、ほづみの頭部へ前蹴りを見舞う。


だが思惑を外れて、それは空を切る。


ほづみの蹴り自体がフェイントであり、彼女は身体ごと、地面に寝そべりこっちを見ていた。


そして「にぃ」と笑うと、蹴り出して宙にあるままの真の足を、跳ね起きの要領でさらに突き上げる。


「ぐっ!」


あまりの衝撃に、真はまた意せぬ所で宙返りをさせられ、地面に身体を擦らせる。


「あはははっ! 壊せる、壊せるわ! 何て簡単なのかしらっ」


砂場に横たわる泥人形をいたぶるような心地に、ほづみはぶるると身をよじる。


その表情は、自分で自分を慰めているような、恍惚に包まれ始めていた。


「うふふ……ちょっとサービスしちゃったかしらぁ? それとも綾以外のじゃ何も感じないとか? あはははっ」


スカートの裾を両手でつまんで、パーティーで淑女がするようにお辞儀する。


「くっ、どうやら単に僕の技術だけじゃ敵いそうもありませんね」


立ち上がった真は、両手を広げて動きを溜め、そして力強く打ち出す。


「!」


風が変わった。


今まで流れていたものと違い、空気が身を刺す様に、刺々しいものに変わり、花の強い香りを孕ませて向かってくる。


「きゃっ!」


何かが破裂した様に、ほづみは身体を派手に飛ばし、プランターに突っ込む。


バキバキと花が倒れる悲鳴と、プラスチックが砕ける音が交じり合う。


「どうですか? あまり使いたくなかったのですが、仕方ありません……綾にはまた悪い事をするね……でも仕方ないんだ」


真は再度両手を広げて構えるが、ゆっくりと立ち上がった、ほづみの表情に手が止まった。


シャツの身ごろを斜めに切られ、薄く色付いた肌をさらしているが、彼女は驚愕などしていないし、諦めてもいない。また……


「笑っている……?」


ほづみは痛みよりも衝撃よりも、何かが身体の奥から込み上げて来て、笑みを止められないのだ。


……壊せ壊せ壊せ壊せ……


あの時と同じに、心臓の拍動に言葉が絡んで来て、隅々の細胞にまでイメージが浸透していく。


……壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ……


熱く身体が燃えるようだった。


それはしづるからシードを受け取った時のものに、似て否なるものであり、眠れない夜、淫靡に火照る感覚だ。


「……こ……わ……せ……壊せっ!」


 ついに口をついて言葉が漏れる。


「ちっ!」


真は臆しながらも、動作を続けて空破刃を放つ。


「あはははっ! そんなもの脆い、脆いのよっ! 何をしたって、無駄よ、無駄ぁ!」


眼にも見えないはずのそれに、ほづみは身体を向かわせると、突きを放った。


バリン


空間でガラスが弾けるような音がして、ほづみはまた笑う。


「ほぉら、言ったじゃない、無駄だって」


「何っ! こ、壊しただと!」


しづるの託したシードは、その大きすぎる負荷と不安定なほづみの力を抑制していたのだ。


それを真の一撃で失い、今彼女の可能性は花を咲かせた。いや、開花してしまった。


しづるのシードと対を成す存在。


ありとあらゆるものを壊す力。


それは可能性からいづる力であろうと、何であろうと消し飛ばす、破壊という名の花だ。


「あはははっ……最後、最後よ高城真! あんたの全て、これで壊してあげる! 夢も希望も、全てを実現不可の妄想にしてあげるわよ! 所詮、あんたの作った檻なんて、綾さえ繋いでおけない脆弱なものなのよ! アルミ、ブリキ、木製、飴細工ぅっ、あはははははははっ!」


「ちっ!」


もう避けられない、前進という凄まじい力が加わった突きが、今放たれる。


「イっちゃいなさい!」


高圧な空気で作った、何層もの盾を突き破って、肋骨が軋む音が轟く。


それに重なるように、肉を毟り取られるような鈍痛が突き上がって、真の表情を歪ませる。


真は口から血の束を流し、赤黒い道をコンクリートに描きながら、ほづみの突きの威力でふら、と二歩下がる。


そこに容赦のない追撃が迫る。


「あぁははっ! しづる、もう終わるよ! こんなの、テストで満点取るより簡単だよ!」


命をむしり取るための、最後の蹴りが準備される。


軽く息をすって、続くステップに乗せて、真の顎先を打ち抜くように、ほづみは躊躇無く一撃を放った。


「くぅ、綾……!」


その時、真の前に香りが訪れた。無残に散らされた、花たちとは違う甘い匂い。


「ど、どうして今になって!」


その持ち主に、ほづみは狼狽する。


二人の間に入った少女は、軽い後ろ髪を乱して、鉄製の護身用スティックを構えていた。


「きゃあああっ!」


真を守る為に作った鋼鉄のガードポイントも、ほづみの攻撃を止めるのには、何の役にも立たなかった。


しっかりと握っていた月光を映すスティックは、砕かれた氷の様に二つになり、手から落ちていく。


それだけではない、握り手の爪が一枚一枚全て剥がれて、夜に赤い糸を引いて飛び散って行く。


その血の軌跡は、夜空に大きな彼岸花を描き出す。


「佳梨、どうしてあなたがっ! どうしていまさら私の邪魔をするのよっ!」


彼女から飛んだ残骸が、屋上の端を囲うステンレスの手すりにぶつかり、小さな音を幾つも立てる。


「う、ふふ……たまにはね、見返りのない想いってのも、いいかなって思っただけよ……私の捨てられない、忘れられない想い……」


 花梨は、ぼろぼろになった右手をだらりとさげて、ほづみの前に立ちはだかる。


「どうして……どうして……ど、う、し、て、なぁのぉよぉ!」


 ほづみの頭の中を、許しあえた時の花梨の姿が巡る。自分をかわいいといってくれた、あの安らかな笑みも。


 だがそれは、やがて燃え盛る、黒き意識にかき消されていった。


頭の中が燃えるように熱くなり、全ての考えや記憶までもが、消えていく。


 思考が侵食された瞬間、ほづみは花梨の左腕を蹴りぬいていた。


「きぃやややぁ!」


 悲鳴ともいえない叫びを上げた花梨の体が、大きく揺らぐ。


その一撃で、腕の骨が簡単に折れてしまっていたのだ。


 だが、花梨は倒れる事無く、必死に足を開き、体を無理やり留める。


「まだ、倒れない……倒れられない。そんなに簡単に、私の想いが折れるだなんて思わないで! この、想いが……この想いがっ!」


「花梨……」


 真は自分の前に立つ少女の背中に、確かな力を感じた。すでにシードもなく、ただの人なのに、自分の前に立ち、壁となっている。


 その強さは、自分を救ってくれた、綾に似たもののような気がした。


「せっかく許されて、拾い上げた命……しづるが助けてくれた命なのに……それを無駄にしようって言うのね……わかったわ」


 ほづみはゆらゆらと体を揺すり、舞うように、一歩ずつ花梨に迫った。


「真……ここは私が何とかするから、今のうちに……まだ私が立っていられるうちに、逃げて……」


 花梨は真に向き直る事無く、想いを告げた。


「馬鹿な事を言うな。僕がどうして……」


 それは真の敗北を諭したものだ。真にとって、それは許されない。


「ぐちゃぐちゃ言わないでよ! 三文芝居は逝っちゃってから、あっちでゆっくりやれぇ!」


 立ちはだかる花梨の足の甲を、ほづみはさっと踏みつける。


「えっ?」


花梨の疑問を置いて、ほづみはしっかりと固定した、彼女の太腿を拳で打ち据える。


「あああああっ!」


その一撃は、触れるか触れないかとういう、柔らかなものだった。


 だが確実に、枯れ木をふみ折る乾いた音がして、花梨の左足が自然に崩れる。


そしてバランスを崩し、低くなった花梨の体を、ほづみの腕が乱暴に捕まえる。


掴まれたシャツの襟首がぴんと張り、ほづみの力に耐えられなくなったボタンが、いっぺんに弾け飛ぶ。


「だから、無駄だって言ったでしょ……でも、少し待ってるといいわ。あなたの大切なものもまとめて、送ってあげるから……あなたたちが、いるべき場所へね」


 ほづみはそのまま捨てるように、花梨の体を地面に投げた。


 花梨は薄れていく意識の中で、ほづみの顔を見た。


それはいつか、心からかわいいと言ったものとは大きく外れ、シンデレラというより、意地悪な継母のようだった。


「ま、こと……もう、逃げて……私はもう……」


 本当は、もう一息続けて、想いを伝えたかった。だがそれは、言葉に乗る事はなかった。ただ、深く沈んでいく意識と同じものだった。


(私、利用されてるだけでもよかった……それで満足だった……だって、くだらない私に居場所をくれたのは、真だけだったから……本当に嬉しかったよ。どんなに歪んでいたとしても、真の傍にいる事で、私は私になれたんだから……だから、だから……)


霞む世界の先に、弾けとんだ白いボタンがおちていた。


混濁した意識の中で見るそれは、丸くて白いはずなのに、赤黒く歪んだ月のようだった。


(私……これからも、真の傍に……いたい……)


 それを最後に、花梨は気を失った。


「くそっ! どうして佳梨まで」


真は内臓からの血を滴らせた唇を、粗く噛み上げる。


「く、くくくく、くふふふふ! 次は、あんたよ真くぅん……この手で、この拳で、あんたを救ってあげるわよぉ。あんたにとって、不自由なこの世界からねぇ……」


 歪んだ表情で笑うほづみを見据え、真は打開策を必死で模索する。


 だが、花梨の言った言葉しか、良策が見つからない。痛みに踊る体が、いつも冷静な頭脳まで麻痺させているようだった。


「くっ、駄目だ。それは駄目なんだ……それじゃ、僕の……僕と綾の世界は……」


 悔しさか、自然と拳に力がこもってしまう。


「ふん。綾とあんたの世界が何だって言うのよ……そんなもの、あんたが綾をいいように縛り付けておける、ただの檻じゃないの!」


 ほづみの言葉に、真の眉尻がぴくりと動く。


「僕が、綾を縛っているだって? それこそ馬鹿な事だ……僕たちの何を知っていて、君はそんな事を言うんだい……悲しみや感情なんて、自分以外には伝わらないものだって、そう思っているんだろう? でもね、それをこえて、意識を共有できる人もいるんだよ……それが、僕と綾だ。僕たちの悲しみは、僕たちにしかわからない。だからこそ、僕にはわかるんだ! 綾の望んでいるものが!」


 真は想いを新たにして、素早い動作から、ほづみに空破刃を放つ。


 だが、それもほづみは嘲るように拳を突き出して、容易く打ち破ってしまう。


「ふん……それこそ傲慢ね。あんたはいつまでたっても綾、綾、綾。あなたを守って、ぼろ雑巾みたいに、そこで這い蹲っている花梨のことは、どうでもいいの?」


 ほづみは後ろに寝転がる花梨を振り返る。


「この娘は、見返りのない想いもいいって、言った。けど、それこそ真実かしら? 人って描いた願いは、必ず叶えたいものじゃない……例え願いが折れてしまっても、百の努力のうち、一でも見返りが欲しいのよ。それをあなたは、花梨に与えてあげたの? 居場所なんてものじゃなく、きちんとした努力の見返りを……」


「…………」


 真は押し黙る。確かにほづみの言う通り、自分は花梨に何も与えていない。


 花梨は都合よく使っていただけだ。


 それがどんなに酷な事か、真はよく知っている。


「僕にそんなつもりはない。花梨はただ利用していただけさ……僕と綾のために。それに僕は後悔などしていない……綾しか僕を救えなかったんだからね……」


 真は意を決し、ほづみに走り寄る。両拳の中に空気を何層も何層も丁寧に重ねあげ、また面積をしぼり圧縮して、小さな塊を作り上げる。


それは研究段階で、一度も実践で試した事のない技だった。しかし、真にはそれにかけるしか、道が残されていなかった。オルタナティブとして、花梨が残した道は、決して選択できない。


「僕の考えは、君が自分の欲望を果たすために、しづるさんの想いという、隠れ蓑を着ているのと同じさ……傲慢で、利己的で許されないものなんだよ……でも叶えなくてはいけないものだ」


「何が同じだぁ!」


 突き出したほづみの手刀と、真の拳がぶつかり合う。


ぶつかり合った力は、均衡していて、どちらの突進も静止させ、その場に二人を留まらせる。


「そうだろう? 現に君は、破壊に取り込まれ、喜んで踊っているんだろう? 僕や花梨を壊す事を楽しんでいるんだろう? 命のない人形をいたぶる快感に、身を震わせているんだろう?」


 一瞬でも気を抜けば、突き出した拳を押し返される。そう思った真は、言葉の裏に自分の信念を打ち付けて、意識を高める。それと同時に言葉で、ほづみを揺さぶろうとする。


「そう……あんたの言うとおりかもね。でも、それでいいのよ。私は、私さえ壊してしまったんだから……あの娘の願いを叶えるためにね……だから、もう引き返せないのよ……」


 ほづみの言葉が終る瞬間、真は釣り合っていた力の均衡が崩れるのを感じた。


 そして、それこそが一撃のチャンスだと直感した。


(ならば、ここにかけるしかない!)


真は胸中で、一撃への気を一気に練り上げる。


「ふふっ、そんなに力んで、何をする気なの?」


 練り上げた一撃を放つ直前、ほづみの声がした。


「くうっ?」


 真は意図せずに一歩、踏み出してしまう。


 ほづみが、かみ合わせていた拳の軸をわざとずらしたのだ。


 先だって見せた、力の均衡の崩壊も、ほづみの策略だったのだ。


「仕方ないわ。これが、あなたの現実だもの……私に殺されるっていう……悲しい夢よ」


 ほづみはすれ違って、通り過ぎようとする真の拳を逆の手で掴み、そのまま脇をすり抜ける。


 そして、完全に行き違ってから、フォークダンスのステップのように、真の体を自分の方に反転させて、強引に至近距離の間合いへ引き戻した。


「!」


 二つの影が重なった瞬間、ほづみの拳が、真の腹部を鋭く射抜く。


 真は、ほづみに至近距離で食らわされた攻撃に、言葉も悲鳴も出なかった。


 さっきとは反対側の脇腹にめり込んだほづみの拳が、吐き出される言葉を痛みで止めてしまっていた。


 出てしまうに違いない悲鳴の代わりに、ボキン、ボキンと確実に、肋骨が折れる音が耳に響いた。


「ううう…………」


 かみ合わせた歯の隙間から、鮮血が滲み出して、垂れる。


「…………」


 それでも、ほづみはめり込んだままの拳を離さず、さらに押し込む。


「どう? しづると同じ仕打ちを受けた気分は? あの娘はこうして、二度もナイフを押し込まれて死んだのよ……」


 押し込む拳に比例するように、真の口からは鮮血が音を立てて滴る。


「でも、これだけで終らせない……あなたにはそれ以上をあげるわ……しづると同じ、人の可能性を解放する力、消してあげる……そして、あとはひとつずつ、あんたの全てを奪っていってあげる」


 ほづみは血まみれの真の顔に、自分の顔を寄せて、ゆがめた唇で、キスするように囁く。


「おじいちゃんから一子相伝でもらった奥義と、私のシードを掛け合わせたものを食らわせてあげる……嬉しいでしょう……嬉しいよねぇ! だから、飛んじゃえっ!」


 破裂音も炸裂音もなく、ほづみの押し込んだ拳の先で、何かが弾けた。


「ぐはぁぁっ!」


 そして、言葉どおり、真の体が宙を舞った。体操演技の月面宙返りのように華麗なものではなく、ふわりとただ上方に浮かび、そのまま落ちる。


「おまけよ!」


 そこに、ほづみの蹴りが放たれる。


 蹴りは無防備な真を捉え、その体を直線的に吹き飛ばす。


 もはや真には、受身を取る余裕すらなく、体のあちこちを打ちつけながら、コンクリートの地面を転がる。


「滅壊、めっかい……なんて名前でどうかな? くふふふ……はははは、めっかい、かいかん!」


「ううう、くっ」


 咳き込んでもいないのに、口から血が逆流する。空中に四散した血液は、球を形作り、灰色の屋上のあちこちを彩る。


その失った、血の赤いアートの向こうに、横たわったままの花梨がいた。


(このままじゃ、僕は……)


ぽつりぽつりと微笑をこぼしながら、ほづみが自分に近付いてくる。


真は一矢報いようと、僅かにしか動かない手のひらで、空気を練り固め始める。


起き上がろうと俯いて見た地面に、血痕の花がいくつも咲く。


「ま、こと……に、げて……」


 それは寝言のようなものだろう。もしくは真が聞いた幻聴かもしれない。


「!」


 驚いて、目だけを向けるが、やはり花梨は微動だにせず、横たわっている。


「くううう、くそ! くそ!」


 真は全身に無理やり力をみなぎらせ、鉛のように重い体を立ち上がらせる。食いしばった歯の隙間からこぼれた血が、シャツにへばりつき、絞り染めのような模様が浮かび上がる。


 頬に当たる風が、やけに冷たい。眼鏡をなくした真の目からは、歩み寄るほづみの姿が揺らめいて、一回り大きな獣のように見える。だが、その姿は獣というより、悪魔と言ったほうが適切かもしれない。


「くそっ! 結局悪魔を討つのは、天使なんかじゃなく、より強い悪魔って事なのか、馬鹿馬鹿しい!」


 そして、ほづみに打ち込もうと練っていた空気の弾を、足元の地面にたたきつけた。


「何、この期に及んで、目くらましのつもり! そんなものでどうにかなるって、思ってるわけじゃないでしょ!」


明らかなる悔しさが真を埋める。


だが、ぐずぐずしていられない。決めた事は迅速に行動に移さなければ、機を逃す。


煙に紛れて、花梨を抱き上げると、真は苦虫を噛み潰した表情を浮かべる。


そして、ほづみの手が煙の中から及ぶ前に、銀の手すりを乗り越える。


その先は深遠なる闇を浮かべる校舎がつくる、深い井戸だ。


真はためらう事無く、その底へ身を投げ出した。


「待ちなさい! まだよっ! こんな幕切れで許されると思ってるの! 私に、私に殺されなさいぃ、高城真ぉ! それがあんたの償いよぉぉぉ!」


声を置いて真は、下る地の底を見つめる。


(ちっ、戦略的撤退とは言い難いね。ほづみさんの言う約束は、果たされたというのか? こんな形で!)


思うが、空気の束を少しずつ剥がして下降している自分は、この空気を操るシードを失っているわけではない。


おそらくは、ほづみの「滅壊」で失ったのは、しづると同じものかと、唇に付く乾きかけた血を舐める。


腕にある少女は、軽くなった髪を空気に響かせて、安らかに眠っているが、血の跡がついた腕がひどく痛々しい。


そして曲がってはいけない方向に曲がってしまっている、もう片方の腕と片足は無残というしかない。


「……僕は、僕は負けたのか? あの危険な想いに……それとも臆してしまったのか? あれに触れる事で、綾との時間が消える事を恐れたのか? 綾との時間を否定されるようで怖かったのか……僕たちの世界が変わっていくことが……だから消してしまったというのか? 僕は、僕はっ! 僕こそ愚かだったというのか!」


佳梨の腕から散る赤い水晶の玉に、透明な月光を宿す粒が混じる。


真はしづるの想いの深さに涙し、ほづみの力の前に敗北した。


「違う、違う、違う! 認めない。僕は間違ってなどいない! 認めない、認めるものか、君たち双子のつくる世界など!」


 そんな自らの敗北を認めてしまう事は、綾と自分が味わってきた悲しみさえ、否定してしまう事になる。それは自分達の命さえ否定する事と同じなのだ。


 ふたりが出会う事で、初めて価値のあるものになった命を。


「そんなことはさせない……綾を否定させる事など……誰にもさせるものかぁ!」


 真は、自分の言葉が負け惜しみでしかないと知っていても、言葉をとめる事が出来なかった。


 そうしなければ、綾の微笑が消えてしまいそうで、たまらなく怖かったのだ。





ほづみは追いかけて、止めを刺してやるつもりだったが、声と一歩目を出した途端に見ている世界が反転した。


折れた膝を衝撃が襲い、胸が圧迫されて眼鏡がコンクリートを滑っていく。そして頬が冷たいそれに触れ、突っ伏してしまった。


力を込めようとしても、身体が言う事を聞かない。


産まれたばかりのシードを全て解放してしまった反動で、身体が動かなくなったのだ。


「ふ、ふふ、やっと終わったよしづる。結局、言った通り救ったって事になっちゃった……しづる、これで良かったんでしょ……ねぇ……しづる」


それが結果であって、自分のした事に何の間違いもない様に息を吐き、ほづみはまた笑みを汚した。


「これで、これで、終ったんだよね……これでもう、私は私に……もう一度……もど……れ…………」


月だけが見ている少女の背中、あの夏に消えた少女との約束は、秋月が輝く夜、やっと果たされた。


幾つもの痛みを伴い、敗者だけを産み落として――。



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