第18話 文化祭-beforeFestival04

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「では各組、資料の提出をお願いします」


学生棟の騒がしさが、まるで遠のいて行く祭りのように、この場所では、たったひとりの声が澄んで耳に入る。


ほづみはただ黙って、生徒会長の話に耳を傾けている。


憂うつだった委員会も、とりあえずこれで最後と言うのも、大きく関っている。


(それに……)


シャーペンのお尻で唇をつついていると、夕夜が小さく肩を揺らして。自然な笑みをこぼす。


(……助かった……ううん、助けてくれた)


知らぬ間に、心労というものは溜まるもので、何もなく生きているだけでも、それは様々な要因となってしまう。時にそれは知れぬ疾病をも引き起こしかねない。


ほづみが今までしてきたことは。これに類しなお、通常とは言い難い痛みだった。


(楽になったわ……はっきり言うと自分がここまで追い込まれてただなんて思ってなかった)


夕夜に知れた事は幸運だった。ほづみはどっと肩から、重い物が取り払われた気になっていた。もちろんそれが彼女の力、スウィートペインの為である事はわかっている。


(……そのせいで夕夜ちゃんに危険が及ばなければ一番なんだけど……)


見る限り、彼女にたいした戦闘能力は期待できない。


もし何かの手が及んできたら、対処し戦う事は不可能だ。ならば、先んじて動くしかない。


などと、ついつい考に入ってしまい、ほづみは見つめたままでいるとしても、夕夜にはそのように伝わらない。


「…………っ」


視線に気付くと、頬を染めて顔を背けてしまう。





夕夜はほづみの視線を感じて、自分の薄い胸に手を置いてみると、明らかに早鐘のように乱打しているのがわかる。


(先輩ったら、あんなに見つめてきて……不思議なんだよね)


しづると接していた時、ほづみと接していた時、それぞれに持つ、あの甘い香りや雰囲気は同じように思える。


(なのにどうして違うように感じるのかな?)


ほづみの持つ温かさは、いつも開かれていて母と同じく切なく誘う。しかし、しづるの持っていたものは、どこか違っていた。同じはずなのに、肌に触れる質感は奥底の小さくとも絶対的な部分が……。


夕夜は顔を上げてほづみを見る。


「……そう、想い出と記憶の違いみたいに……」


ただあるものと深く刻まれているもの、それが二人の持つものの違いのように思えた。どちらも好きだという感情は変わらないし、二人と出会ったから、その違いにも気付いた。


(しづる先輩は、私にこれを伝えたかったの?)


聞いてみたくても、その相手はもういない。


そしてこれをほづみに尋ねる事も罪になるだろうくらいは、夕夜にも理解できる。


(私だってそこまでバカじゃないもん……それに……)


良かったのだ――彼女にとって母により近い温もりを持つほづみとの出会いは、待ち望んでいた事のようだった。


(だから、ひとりで悩まないでね……私だって先輩の手助けくらいはできるよ。ねぇ、ほづみ先輩)


もう失いたくない、あの優しさを……それがどんなに自分勝手な考えであっても、極的に自分だけの為でも構わないとさえ思っていた。


「あの腕、あの胸、あの香り、今度は私が守るよ……見ててね、お母さん」


会議室の窓から迫る夕陽は紅く、熱く手に走る血潮にも似て、何かをたぎらせる。


夕夜はぼんやりとしたままのほづみを見て、打ち明けられたあの時を思い返し、静かに強く誓った。





「そう、優しい痛みって言うの……」


渡り廊下のベンチ、やっと泣き止んだ夕夜はコクと頷きながら、ほづみから引き出したモニターをいじっている。


ほづみは感心というよりも、興味を大きくしていた。何しろこれだけはっきりとした形で現れているシードを、目の当たりにするのは初めてだったからだ。


「ねぇ夕夜ちゃん、この事知っているのは?」


「……私と先輩だけです……」


聞かれた内容にしか答えようとしない夕夜は、必要以上に何かを話す事が、自分の行為への弁明のようで、嫌なのかもしれない。


はたまた、認めてくれたという愛情から、肩を抱いたまま離さないでいることが迷惑なのか。


「ごめんね、夕夜ちゃん……嘘ついてて……でもあの娘との約束を守る為には、こうするしかなかった……それに私は、こうなって良かったって思うの」


「そ、そんな! 私は酷い事をしました。勝手に人の想い出を覗くなんて……」


確かにはしたなく、許されない行為だが、ほづみの記憶を覗いた夕夜は、涙をこぼしたのだ。それは本当にほづみの事、しづるの事を思っているからこそ、頬を伝ったものなのだろうと理解できる。


「……いいの……本当に」


もう一度、今度は強く抱きしめると、夕夜の匂いがほづみの中を満たしていく。


「うふふ……夕夜ちゃんって、ホットミルクみたいな匂いね」


眼を閉じると、夢の続きに行けそうで、そして気付いた。


(ああ……あの感触は夕夜ちゃん自身だったのね)


ほづみはゆっくりと眼を開き、空の青さを確認すると、泣き止んだはずの夕夜の目尻が、また濡れ始めていた。


「どっ、どうしたの、夕夜ちゃん?」


ほづみは力加減なく抱いて、どこか壊してしまったのかと思ったほどに、夕夜は泣きオルゴールの上で踊る壊れたオートマタのように、そこから先に進めず、同じフレーズを永遠に繰り返している。


「……わた……し、うれ……しく……て」


遠くでするギターと歌が、子守唄の代わりと淡く耳に届く中、切れ切れにする声は今でなくどこか遠い日々からして来るように切ない。


(私にも……お母さんと同じもの……が)


夕夜はまた涙を強める。けれど、それが何から来る物か、ほづみにはわからなかった。


「……夕夜ちゃん……」


ほづみはどうしたものかと、辺りを巡っている自分のモニターを覗く。夕夜が触れる事で、それらはくすみが取れて、より鮮明な色を映し、どこか心が軽くなったように感じるのだ。


(……凄い可能性ね……しづるのシードにも似ているけど、痛みを弄るだけで、軽くするなんて……少し怖いかもしれない……)


この時、ほづみの中に芽生えたものは、自分の意志や信じるものが、崩れるかもしれないという、意味の違う恐怖だった。


「……先輩?」


夕夜が胸から顔を上げる。表情は湿ったままだが、どうにか落ち着いたのだろう。


「ははは……何でもないのよ……そうだ、これしまってくれる?」


モニターをちょんちょんと指先でつつくと夕夜は頷き、手を掲げてほづみの豊かな胸にもう片方を押し当てる。


そうすると、ぱたぱたとモニターが、映写機に巻かれるフィルムのように、胸へ吸い込まれて行く。


「終わりました……それで先輩、ちょっと聞いていいですか?」


胸にある手はそのままで、さっきまでの泣き顔を、どこにも感じさせない艶っぽい表情を浮かべている。


「どうしたら、こんなにデッかくなるんですか?」


「はは……いや自然に、なんだけどね……やっぱ、環境の変化とかかな? 家を出てから一、二ヶ月で急にだったから」


たばかっているのね、という声が今にも薄い唇を割りそうだった。


「……本当よ。私だって高校入るまでは、あの娘とちょびっとしか変わらなかったんだから……ね?」


信じきってはいない眼をしているが、やっと白くしなやかな指が、胸から剥がれていく。


「……じゃあ、身体の同じ所に生まれつきのアザとかあるんですか?」


「小さな頃は、胸の辺りにあったんだけど、今は消えちゃったわ」


「そうなんですねぇ……双子って、やっぱり特別なんですね。でも先輩、あんまり危ない事しないでね……ほづみ先輩までいなくなったら」


 詰まる語尾に、ほづみは意を決し返す。


「……ごめん、その約束だけはできないの。それに私には、立ち向かうだけの力があると思っているから」


絶対的な拒否でないそれは、夕夜を守ろう、無駄に危険な事に巻き込みたくないという想いが、溢れている。


「……わかりました。けど、私だって何かあれば闘います。私が想う何かに、それが反していたとすれば……」


ほづみには、既に夕夜も後へ引けないという事がわかっていた。


何にせよ目醒め、持ってしまった力は、避けられない何かを呼ぶのだ。


しづるがそうだったように、そして自分もそうであるように、夕夜にも必ず「その時」が訪れる時が来る。


風が吹けば木々がざわめく様、雨が降れば地を潤しあがる様、漆黒に包まれた夜がくれば、陽光がそれを壊す様に、ごく自然にやって来る。


それらと同じ――人は、生まれた時に、誰かと対峙する時がくると決められている。


「……わかったわ。でもその時は、私も一緒に……ね?」


ぱちりと片目を伏せて、唇をむにりとやる。


「……はいっ!」


その答えを聞いた夕夜は、返事よりも早くほづみに飛び込んできた。


力任せの抱擁は乱暴でも、しっくりと人のぬくもりを伝えてくる。


「にぎゃっ!」


「あ、先輩、ごめんなさい……」


 甘えすぎた夕夜の頭突きが、あごに入ってしまったのだが、その痛みさえ、今は愛しかった。


ひとりほくそえみながら、胸に夕夜を抱き、泳ぐリボンを見ていた。


チャコールカラーの布地は、風に身を揺らしながら、染まっていく夕景の中に、溶け込む様に舞い、それはバランスの取れたドレスの中に光る、きらびやかなジュエリーと等しかった。



幸せを思い返し、ほづみは膝の上の拳を握った。


(……そう、大切な想いを守る為にも、私はしなきゃいけない……ごめん、しづる。もう、ただ救うって事は出来ないかもしれないわ……)


長引いている会議の中で、夕夜からやっと眼を外し、机の上に投げてある提出資料を睨む。


「……組さん……う、うんっええと。天住さん、提出してください」


横に座る綾が肘でつつくので、ほづみは何? という少々怪訝な顔を向ける。


そして、はっとする。綾はご丁寧に口だけを動かして「提出よ」という言葉を伝えてくれる。


「は、はい! すみません」


ほづみが勢いよく、パイプイスを跳ね飛ばして立ちあがると、あの時と同じタイミングで周りから嘲笑が起こる。


(……ちゃー、またやっちゃった……完全に私って、いつもぼーっとしてる不思議ちゃん系だと思われているんだろうな)


頭を垂れて、ほづみは足を進める。嘲笑なんて受ければ腹立たしいのだが、こればかりは仕方ない。何せ初めてではないし、自分でも重々反省しているのだ。


(……これも癖かなぁ? すぐ、周りが見えなくなっちゃうの……)


うなだれているが、世界は今が最も紅い色をしているので、その頬色までは表出していないだろう事が幸いだった。


「……はい、確かに。それにしてもそんな事では、せっかく王子がガラスの靴を持って来ても、気付きもせずに帰してしまうようなバカを見ますよ……シンデレラ」


高そうなデザイナー物の眼鏡を人差し指一本で直しながら、そんな事を言ってくる。なんてキザったらしい生徒会長だろうと、色を濃くしていく窓外を埋める建物の影に毒づいた。


(全く……あんなの、どこがいいのよ、綾は……)


となりの少女は、会長ばかり見ているが、彼が主として発言者であるので、遠い昔に与えられた訓示に従って、そちらを向いているだけかもしれない。


どちらにせよ、ほづみにとっては些細な事で、それよりも今は、自分のされた仕打ちの方が気にかかる。


(……ふんっ、何がシンデレラよ。ステージ発表の練習なら他に行ってやりなさいよ!)


ぷうっと頬を膨らませて、力任せにかわいらしいマスコットのついたシャーペンを引っ掴む。周りの人間にも容易にその様子が伝わる様に、わざとぷりぷりしながら、ほづみはわけのわからない例の落書きを始める。


(……何がシンデレラよ……何がシンデレラよ……何が……シンデレ……ラ)


繰り返し呪う様に、呟いていた言葉が詰まり、シャーペンを持つ手も止まる。


(……何? 何が引っ掛かっているの……)


何処かで聞いた、何処だっただろう、その言葉には特別な想いが込められて、自分に伝えられたはずだ。


「シンデレラ」


ある少女の声で再生されたそれが、頭に記憶のヴィジョンをもたらす。


月下、その縁を妖艶に色付ける人の影、暗く表情も見えない顔から吐かれた言葉、風にざわめく千の秋桜と鈍い痛み。


夕明かりに咲く赤に包まれ、音楽に似た言葉を残した唇、足を鳴らして消えて行く後姿、軽くなった後ろ髪は風を灯す事をしない。


一枚一枚めくれ上がるスライドを見る様に、ほづみは彼女の事を思い出していた。


「……端ヶ谷佳梨」


呟く名に、数学の問題を前にし閃いた瞬間、数式が道筋となってカーナビゲーションのごとく、答えまでを光軸で表すように、頭の中で記憶を元に気付きという目的地が完成した。


「……彼」


そして


「彼がそうなのね」


繋がった。


時間を費やし、人や感情と闘い、やっと見つけたそいつは、人の前に立って平然と話しを続け、笑い、あまつさえ自分にあんな事を吐いた。


(……しづるにどんな想いをさせたと思っているの……)


ギリと大きく音が、自分の耳元に届くほど奥歯を噛み締めると、手が勝手に震え出す。


握るシャーペンの中で、多すぎる芯とメカニズムが、幼い頃道ばたのナズナで作ったおもちゃの様に、小さくか弱い音を立てる。


ほづみは俯き、伸びてきた前髪を垂らして、表情を隠すと奥歯をがっちりと噛んだまま、ニヤリと口元を吊り上げて笑う。


笑うという行為で、安らぎや喜びを得られるというならば、彼女のそれは、見た者全てに完全なる否定を与えるかもしれない。いつぞや佳梨を見つけた時のそれとは、比べ物にならない。


(アハハ……アーッハハハハッハァッ!)


声成らずとも心底から何かをする、そういう笑みを浮かべ、ほづみは止めど無く溢れ出してくる負なる喜びに溺れる。


抱かれ、包まれれば包まれるほどに自分というものが充足していき、やがてそれは彼女を満たす。


「…………うっ!」


何かが耳元で鳴ったような気がした。大きくも小さくもない物なのに、爆竹が弾けたように奥の方がきん、とする。


「ううう……」


そして何かが、何処からか迫ってくる。


夢の中で異形の怪物が床を濡らし、ひたひたとやって来る幼い日の夢のようで、見えているはずの物たちが暗く黒く、塗り固められていく。


もはや、がちりと噛んでいた歯は解けて、大仰に鳴りだし、額、背中、胸元にまでも粘度の高い汗が、滑る事無く溜まるだけ溜まっていく。


頑強な錠に守られた、堅固なドアを何事もなくすり抜けて、忍んで来るイメージ。



――壊せ、壊せ壊せ、壊せ壊せ壊せ、壊せ壊せ壊せ壊せ、壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ、壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ、壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ――



「……こ……わ……せ……?」


言葉が幾重にもなり、イメージを植え付けていく。それから生まれた逃げたいという気持ちと、居たいという感覚が共存している。


夢とうつつの狭間を何度も旅したように疲れ切り、耐えかねて、そうある事を認めてしまった瞬間に、意識が黒に侵食されて、瞬きをする間ほどの時間、ふっと落とした灯りのように消える。


そして唇を押し開き、真実の言葉が漏れ出す。


「……そう、壊してしまえばいいのよ……」


額に張った汗も消え、空気が冷たく感じる心には、重いものが払われた開放感が広がり、身体まで軽くなる。


何もかもが、ひとつの意識の下で、どうでもいいと自棄に感じ始め、それなのに歪んで開いた唇の端から笑みがこぼれ続ける。


(……ふふ、軽い……軽いわ……)


甘い考えに捕らわれ、また意識が消えそうになるすんでに、ほづみは凍えた氷を直に心臓へ当てられたほど息を呑んだ。


「……しづる、大丈夫?」


白く細い指をして、力もなさそうな手が、弱くとも確実に自分の手を握ってくれている。


「う、うん……」


ほづみはレンズの下の眼を、丸くした。


「なら、いいけど……」


綾は重ねてあった手を剥がすと、また前へ向いて話しに耳を傾けた。


(……何だったの? 今のは……)


少し前、何をしていたのか考える。


佳梨の言う彼、探していた人物がはっきりした途端、意識が混濁して「壊せ」という直接的な感情を運んできた衝動が、全てを持ち去ろうとした。


(……ダメ、わからない。壊すなんて、それじゃ同じじゃない……第一、綾に何て言えばいいの? 私には無理よ……無理……)


よく考えれば、自分もしづるも、綾にそんな事を面と向かって、聞いた事がないはずなのだ。


彼というのが、綾にとってどれほど大切な人なのかと。


ただ、想像に足る程度の「恋」などというものとは違う予感はある。


(……聞かなきゃ、前には進めない)


そんな決着のつけ方をして、問題をねじ曲げた。


そうでもしないと、もう二度とアレから逃れられない気がした。もし、つかまってしまえば、こんな所でも自分がどうなるか見当もつかなかった。


怖かった。


実際、綾の手がなくなってから腕は小さく振動しはじめ、外気の涼しさ以上に身体が芯からの寒さを感じていた。


今すぐ両腕を絡めて肩を抱きたいという切望を思い止めるのに、ただ必死だった。


ほづみが必至に耐える中、委員会は幕を下ろした。




夕べの紅はとうに過ぎ、世界は黒や藍を濃く強くしている。


天から迫ってくる夜に対し、仄かな明るさの山端だけが、まだ色を灯していたいとあがいている様だ。


豪奢な正門を抜けた、この辺りを歩く人影はやはり少なく、その後姿を容易に見付ける事が出来た。


「綾っ!」


小さく音がこだまするくらいの力で、肩を叩いて呼ぶと、振り返る仕草でほどける黒髪からは、柔らかな香りが振り撒かれる。


「一緒に帰ろっ、駅まで送るよ」


遠回りになるからという言葉を、本屋に用があると、ほづみは半ば強引に着いて行く。


「……今日で委員会もラストだったね」


「本番までもう三日だしね」


そんな他愛のない話しを続け、古びた徒橋を過ぎた辺りで、ほづみはやっと意を固めて切り出した。


「そう言えばさ、綾と生徒会長って幼馴染だよね?」


唐突過ぎたかもしれないが、委員会の話しも絡めたし、自分の話術では、これでも上出来だと、内心せせら笑う。


「うん、そうだよ……にしてもいきなりねぇ、どうかしたの?」


「いやね……なぁんかさ、会議の時とか見ているとね、綾ってば好きなのかなぁとか」


通り過ぎる街灯のたもとで、綾は一瞬だけきょとんとして


「うん」


躊躇いもなく、屈託ない顔で瞬時にそう返してきた。


これにはほづみも面食らって、一時、次に用意しておいた言葉を、忘れてしまったほどだ。


「……そ、そうなんだ。やっぱりさ、幼馴染って特別なもの?」


「……どうかしらねぇ、人にもよると思うけど」


綾はさすがに自分以外の事には、考えが及ばないわと、顎先をさすっている。


「あっ! もしかして、しづるにもそういう人がいるとか?」


「あはは……無い無い、そんなの、しょぼ~んだよ……」


少し意地の悪い眼になって聞く綾に、諦めに似た感情を返す。


「だったら、どうして?」


「いやね……私の好きなアニメでさ、そういうのがあるのよ。昔の事だけを大切にしすぎて、大事な今から前に進めないで居る娘とか、それをわかっていても、止められないココロを持った娘とかさ……いまいちわかんないのよ、本当はどうなのかって。恋心とかいうの?」


まるで自分に関係無い事だと、言いたいばかりだった。それでも綾は、真剣にほづみの言葉が持つ意味を考えていてくれるようだ。


「うふふ、それ、あれでしょ? 夕方過ぎからやってるやつ。あの時間ってちょうど暇だから、私も見てるよ」


「へっ? そうなの」


「うん……まあ、そうね。アニメほど綺麗な感情じゃないかもしれないけど、確かに特別だとは思うよ。同じ記憶を共有していて、それは今からじゃ手に入らない。しかも同じ想いを持てていたら、なお素敵よねって、受け売りかしらこれ?」


夢を見ているように、綾は話しつづける。


「ただ……」


「ただ? もったいぶらないでよぉ」


「私はあの娘と違って、今も前に進んでいる。それだけは言えるかな」


綾は少し大きく一歩を出して、それを表すが、ほづみは動けずに立っているだけだった。


「んじゃ、付き合っているとか?」


空気が止まりそうなほどで、置き去りにされるのが怖くて、急におどけて見せた。だが、綾は少し垂れている大きな瞳を見開いた後、顔を伏せてしまった。


(……れれっ? 聞いちゃダメだったかな)


などと、いらぬ思案をしていたが、綾はただその単語が恥かしかっただけなのだと気づいた。


押し黙ったまま、動こうとしない綾に近づくと、ほづみは耳元に唇を寄せて吹き込む。


「じゃあ……さ、キスとか……それ以外も、色々しちゃってる?」


「! ……ノ、ノーコメントっ」


詰まりながらごまかすと、綾はさくさくと歩き始める。


ほづみはそのリアクションが、なぜか愛らしくて笑いをこぼすと、小さくなる彼女を追いかけた。


談笑の道を至り、暗くなった駅のホームに着く。


電車の時間にはまだ余裕があり、ほづみもホームへ上がっていた。そこにぽつんと設置されている二人掛けの小さなベンチも、女の子二人には余るほどの大きさだ。


夜風に髪を揺らされる少女を、ついと、ほづみは見る。


「……どうしたの?」


「さっきのさ……続きしていい?」


秋の虫が奏でる歌が包む沈黙の中、パンタグラフを従える送電線が風に溶けて作る低く唸る音が存在を主張している。


「……いいよ」


優しく柔らかな答えが、余計にほづみを苦しめる。どうせなら「ダメ」と、かわいらしく悪戯っぽい笑みを浮かべて欲しかった。ほづみは口内に溜まる、つばを飲み込んで、大きく息を吐いて唇を緩めた。


「……あのさ、綾にとって、どれだけ大切かってのはわかったつもり……」


もう一度息を飲み込み、言い辛い言葉を呼吸で押し出す。


「それはさ……この世界と同じくらいに……?」


数秒、実際にはそれほどの時間さえ刻む事無く、綾は顔を向けた。


「……うん。きっと失ってしまったら、私の世界は形を保てなくなる……」


肩からこぼれる髪は、風にも軽くたゆたう。静かで強い瞳の奥にあるものが、何かはわからなかった。


「そう」


 ほづみは力なく返す。


綾の凛々しき強さは、自身にそんな記憶も無く、そんな相手も無いほづみにとって、アニメーションという、自分とは違う世界に住む者達の事でしか感じ取れないものだった。



 電車の行き去った後、一人のホームを下って商店街に出た。


遠過ぎる想いの世界を前にして、ほづみは視界を曇らせていた。


(……やっぱりしづるは正しかったのよ)


眼を閉じれば、車窓から手をはためかせる綾の姿が、今もそこにある。


ほづみは、自分には見えない彼女の絶対的な強さに、臆していた。


(強すぎる想いは多分危険……でも、それを失ったら生きるという行為さえ、バカらしくなる事だってある。人なんて、心が入っていなければ、ただの肉だもの)


人の心には、自分の存在する意味さえも、かかっている。


それは私の事かと、しづるから託された心をとんと叩き、ほづみは鼻を鳴らす。


歩く度、道に散らばる小石が靴底に軋み、頭上には半分くらいの月が、ほづみのつむじを見下ろす様に輝いている。


錆びた徒橋を家路に向かって渡り終える頃、対岸に連れ立って歩く自分達を見た気がして、綾にとってはかなり重要だろう事を、話の端に聞かされていたのを思い出した。


「明日、家でバーベキューするから来てって……綾だって随分いきなりじゃない」


いつものように唇をむにりとすると、あやふやな月明かりだけが照らす家路へ身体を流した。




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