第17話 文化祭-beforeFestival03


雲が流れる、と言っても一目見るだけで、はっきりそうだとわかるのではなく、他の物に触れず、ただ一つに集中していて、やっと把握できる程度の速度だ。


「あぁあ……いいなぁ、雲はぷかぷかしてればいいんだもんなぁ……」


夕夜は教室の窓に肘をつき、なだらかなラインの顎を乗せる、いつものポーズでよく晴れた空を行くすじ雲を眺めている。


「……はぁふぅ……」


その後ろでクラスメイトが息つく暇もない程に、放課後を過ごしているのを、妬ましいように、夕夜は溜息交じりで振り返る。


文化祭実行委員と言う事もあって、極力、夕夜にはクラスの仕事が与えられないようになっていた。


それに例の三人がクラス出し物ではリーダー的存在だったので、余計そうなっていたのだろう。中学の頃までは感じていなかった空気に、夕夜はここにきてやっと気付いたのかもしれない。


「村八分な疎外感か……イジメ、だよね」


聞き覚えのない言葉は、どこから再生されるのだろう、こうして空を見ている自分は、何者より自由なはずなのに、地から離れていない足が重い枷になり、自分の翼を絡め取っているイメージさえした。


(それに私が出来る事なんて、結局の所ないしね)


クラスの出し物は、ステージでの演劇だ。夕夜は役者を出来る程の力もないし、かといって大道具小道具といった器用さも持っていなかった。


「そう、自慢できるのはゲームの腕ぐらいだもん。寂しいね、こういうのってさ」


もたれかかった窓からの風が、緩やかなウェイブのツインテイルを揺らす。それを見てかまた、元々か、あの三人が秘める声で夕夜を笑っている。


(……こういうのをくさくさするって言うのね)


祖母がたまにこぼしていた言葉の意味は、こんなものなのだろう。


(向こうも私に、くさくさしてるのかもね)


なぜだかそう思えた。


クラスの為に何も出来ない自分は、今こそお荷物でしかない。人と違う能力が自分に目醒めていても、こんな所では何の役にも立たず、それよりも自分の能力が、普通以下である事を際立たせているようで、余計に心苦しくなる。


「……本当、何も変わらない」


こんなに居心地が悪くても、離れられないのはこんな自分でも、もしかしたら何かの役に立てるかもしれない、誰か声を掛けてくれるかもしれないという、初冬に降り積もる事のない手のひらで命を散らす、淡い粉雪のような想いからだった。


だが、それは叶わない。待っているだけで手を差し伸べてくれる程、クラスメイト達に暇はなく、彼女らも自分でいる事に精一杯なのだから。


結局、夕夜は自分から踏み込んで行く事をしなかった為に、クラスの輪というどうでもよく見えるそれにさえはじかれた自分を、ひどく惨めに感じるしかなかった。


「……雲になりたい……か」


どこかの本にでもありそうな事を思っても、それこそ叶わない気がした。


「あはは、夢も希望も……んっ?」


夕夜は窓から見下ろせる、渡り廊下のベンチに、知る顔を見つける。短いスカートを気に留めるでなく、無頓着に長い足を投げ出して寝転がっている。果たして起きているのか眠っているのか、ここからではわからない。


だが、力のない髪に混じって、チャコールカラーのリボンが風に揺らいでいる。制服でない事は、はっきりしているが、どうなのか近くに行って、この大きなつり瞳で確かめたかった。


「うん」


どうせここにいたって、私の居場所はないし、出来る事だって何もない……という諦めが、言葉から滲み出ていた。


本当はあの柔らかい、それもどれも許して包んでくれる胸で、温かさを弄り、すがりたかった。


夕夜は彼女を逃げ場所にしたかったわけではないが、何も出来ない自分という現実は、そこへ足を赴かせる決定的な理由になっていた。


教室を飛び出して、殺伐とした廊下を走りぬける。ドアから出る時、クラスメイトの声が聞こえたかもしれないが、その時はもう遅すぎた。


「しづる先輩」


夕夜はそこに行けば何とかなる、自分にないピースが埋まる……そう考えていた。


ちょっとした悪戯心から、真実が生まれるその時までは……。





何も考えず、見えるものを見ている視界には、青というか軽めの水色、そして白っぽいグレーしかない。


ほづみは意識のままに瞼を被せる。暗闇でも眼球の奥が痛み、青い空が感じられる事が秋空という魔法か、あるいはただ疲れているだけなのかは、定かではない。


「……どっちかって言うと、後者かなぁ」


ほづみは最近の自分を振り返って思う。


放課後といえば、この格好で校内を回るのが日課で、いくらかわいい服でも、毎日となれば億劫にもなる。すでに同学年では噂になっているし、たまにはこんな所でサボリたくもなるのが人情だった。


大きく透明な空気を吸い、また大きく吐くと、それはもう眠りの一歩手前のものになる。


(こっちばっかり忙しくて、本業の方がさっぱりじゃない……)


思っていても、意識は快楽的なうたたねの世界へと落ちていき、もう抵抗するのもバカらしくなって、ほづみは全てを委ねる。時間を潰すにはもってこいだ。


ふわ、と優しく頭が浮かび上がり、温かく柔っこいものに包まれる感覚と同じに、ミルクのキャンディーを思う香りが広がっていく。


夢なのだろうとわかっていても、ほづみはそれにあらがう事をせず「どうせ夢なら楽しんであげるわ」ぐらいに考えている。


そうしているうちに、お気に入りのグラスに注がれたストレートティーが現れ、その上空でミルクのポーションが口を開け、一滴白い粒が落ちてくる。


それはクリアな紅茶の水面を崩し、波紋と濁った色を生み、その後はもう為すがままで、次々と訪れるミルクが、色を侵食していく。


(……不思議よねぇ、どうしてここからあんなものに繋がるの? つくづく夢ってのは……)


考えてもそれらは、全て彼女が引き起こしていて、結局は記憶を繋ぎ合わせたものでしかないのかもしれない。


(まぁ、例外はあるのだろうけどね……)


ほづみの意識の前では、すでに演劇の幕が上がっている。中学時代にやったそれ、ほづみとしづる主演の演劇であり、劇中では今まさに、感極まったほづみが涙を流そうとしている。


「……ミルクからこれに持っていくのか、私は……」


なんて安っぽい頭だと思った。ほづみは夢をイメージの連なりと解釈していたので、あながち的外れでもないが、恥しい記憶であるそれを、こうして見せられる事は、たまったものではない。


「まぁ夢なんだし、誰かに見られる訳でもないから……」


ほづみもいい加減、色々と考えたくなくなって来ていたし、自身でコントロールできるわけでもない。ならば放っておくというのが一番だ。



「どうして、どうしてあなたが行かなければならないの!」


一人の姫は言う。


「私が行けば、あなたは本当の愛を貫く事が出来る。ならば私は喜んで参りましょう」


もう一人の姫が言う。


「それでいいの? あなたはそれで幸せになれるの?」


「……はい。あなたは私、あなたの幸せもまた、私のもの」


「例え、あなたが彼を愛していても?」


「例え、私が彼を愛していても……」


「彼があなたを愛していても……」



大昔、双子は悪魔として忌み嫌われていたと言う。本の中だけの事かといえば、そうでもない。実際、双子に限らず飢饉に襲われる、年貢が払えないなど、そんな事に伴った口減らしというのは、悲しくも事実である。



「双子として生まれた王国の姫君、十四の歳まで密やかに、十五の歳には成人を、かくして一人は本物に、そして一人はニセモノに……」


劇中の語りを真似て、ほづみはそこにあったパイプイスに腰を下ろす。


「政略結婚と真実の愛……中学生がやるテーマかしら……」


それでも原作よりは遥かにましで、お互いを思いやるという、真摯な態度をテーマにしたこれは、大層受けが良かった。


「……だからって何なの? 私はどうしてあの時泣いたりしたのよ。身代わりになることが美徳とでも思ったの? 自分の恋心を偽ってまで、もうひとりの幸せを願うことに……」


改めて考えれば心苦しい。


二人成り代わる事で、互いに幸せと偽りを掴んだのは事実だが、今ほづみに浮かんでくるのは、彼女らの錯綜する裏側ばかり見える不細工な感情だけだ。


「誰かがいなくなる事で手に入る幸せ……そんなもの考えちゃいけないのよっ!」


叫んでほづみは気付く。自分の眼から止めど無く涙がほとばしっている事に……。




やばい、雨に降られたかと思って、ほづみは眼を覚ましたが、その大粒の雫は天からではなく、直上の少女から降り注がれていた。


眼鏡のレンズに溜まったそれは、視界を歪ませ、まだ夢の続きであるかに思わせるが、これは現実に他ならない。


温かい他人の体温が、言い逃れをさせてくれない。


無口のままで涙する様は、今しがた夢で見た自分自身のようだ。


「……夕夜ちゃん?」


ほづみの頭をフカフカした腿に置き、少女は答える術も知らぬと、眼を伏せている。


「……っわ、た……っこんな……」


ほづみは彼女の膝枕から起き上がり、そして声を失う。


自分の周りを小さなモニターのような物が巡っていて、コードで繋がれている訳でもないのに、一つ一つに別の映像が映っていて、しかも宙を漂っている。


そしてその中身は、今の夢の続きや幼い記憶、忘れえぬあの夏の日……。


「そ、そんな……まさか」


夕夜を見るが、涙で声は押し殺されているままだ。


(これは、夕夜ちゃんの……?)


彼女は目醒めていたのだ。


そしてすでに知ってしまっている。ここにいるのはしづるではない事も、何もかも、ほづみの持っている事は全て。


「夕夜ちゃん……あの……ね」


ゆらっと伸ばした手を、熱く濡れた手が包み返す。


見た顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだったが、唇を強く噛んで、何かを必死で伝えようとしている。言葉はなくとも、意志だけは流れてくる。指先が紡ぐそれは、明確に文字として、頭の中で形になっていく。


──ほづみ先輩──


それが夕夜の伝えてきた精一杯だったが、その短いセンテンスで、ほづみは身体いっぱいに想いを感じる事が出来た。


しゃくりあげる度、散っていく涙が腿に弾け、凍えるように震える小さな肩には、何の力もないように思える。


だが、彼女の中にある大きな想いは、ほづみを救ってくれたのだ。


高い秋空の下、少女達は真実を確かめ合ってなお、抱き合う事ができた。それは喜びであるに違いない。


少なくともほづみはそう思いたかった。


(ありがとう……夕夜ちゃん)


返したかった言葉も、とりあえず胸に収め、この優しい少女を今はただ、抱きしめていたかった。





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