第16話 文化祭-beforeFestival02
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日差しと影がグラデーションを作るここは、どこかで起こるざわめきを遠くに置き、何か特異な空間であるようにさえ思える静けさと冷たさを持っている。
そんな陰鬱な校舎とは無縁と、ほづみは一つ飛ばしに階段を降る。本当は一遍に飛び降りたい気分だったが、さすがにそれはやり過ぎだと感じた。
「ただでさえ、今の私は人に注目してくださいって言っているようなもんだしねぇ……」
それにしてもこの服は、風をよく受けて形を変え、頭についているバウムクウヘン状のプリム風カチューシャから伸びるリボンは、風に軽くさらに様々な表情を見せてくれる。
短いスカートは、気にするのもバカらしく、激しく動けばどうせ見えている。
(まぁ、女子棟の中じゃあんまり気にする必要無いけどね)
そう言う間に、階段の最後の段が迫った。構造上、特に長いそれがようやく終わり、後は廊下を歩いて、教室に帰るだけだ。
午後の柔らかな光の中、特別のように校内を散策する事は、確かに気分がよく、何とも言えない高揚感さえ憶えた。
ほづみ自身、いくつか場所をまわる頃には、楽しいという感情が身体を支配していた。何せ人の傍を通る度、起こると思っていた嘲笑は無く、気にされない、あるいは感嘆の声が耳に入ってくるのだ。
「……悪い気はしないよねぇ……女の子としてはさ」
落としていた眼を上げた途端、リボンの片方が視界を塞いだ。
(うあっと)
心の中だけで焦りをあらわにし、テンポよく動いていた足を止めた。
軽快に走っていたのにと言う感じで「ちぇっ」と、舌を鳴らしたが、それは幸いだった。
「あら……あなた」
あのままのタイミングなら、おそらくぶつかっていただろう。
すぐ先の廊下の角から、人影がゆっくりと現れる。制服のジャケット越しにも、か細いとわかる両手を潰して、ダンボール箱を二つも抱えている。
「……あっ……」
ほづみはその姿に鈍く反応を返した。
無理もない、ほづみは彼女をずっと避けていたのだ。会わない様に、会話やそこに自分が居るという認識が生まれる事がないように。第一、向き合ったとして、何を話すと言うのだ。
(……特別だなんて少しでも思ったから、こんな事になったのかな?)
もう揚々としたものはどこかへ消え、ほづみは静かに俯くと、頭から垂れるリボンの端を握り締めた。そして、こんな事になってしまった理由を恨んだ。
「えっ……ちょっとなんでよぅ……」
また早くひけた授業を後にして、そそくさと文化祭の用意をしようと、席を立ったほづみはクラスメイトに囲まれていた。
(ちぇっ、今日はぼんやりしてないのに……)
と心で愚痴ってはいた。実際時間もないし、さぼるつもりなどなかった。
「まぁまぁ、こっち来て」
言われるまま、教室の後ろに連れてこられると、あの衣装を押し付けられる。
「はい、天住さんはそれね」
だが、意味がわからない。どうして自分はこの服を押し付けられているのかと、そんな顔をしていたら、愛奈がその真意をやっと伝えてくれた。
「ほら、やっぱり慣れってやつも必要でしょ? 宣伝にもなるじゃない」
「だよ。しづるのかわいさ振り撒いとけば、どこのクラスも怖気づくって……っていうか、小手先破綻者のあんたに、今は出来る事ないでしょ?」
いや、そういう問題じゃないし、他人のやる気を吸い取る必要もないだろうに……そんな事を考えて、唇をむにりとやっていると、綾まで言われた事のフォローもせずに、片目をかわいらしく瞑り、手を合わせるような仕草でいる。
「ああっ! わかったわよっ」
半ばやけに宣言すると、勢いよくジャケットの締まり切っていないジッパーを下ろす。
「ちょっ! し、しづるっこんなトコじゃダメぇ!」
叫ぶ綾を尻目に、ほづみはさくさくと皆がいる教室の隅で、着ている物を剥ぎ取っていく。
「はい綾、たたんどいてね」
あっさりと着替え終えたほづみは、仕上げのプリム風カチューシャを装うと、さっさと出て行こうとする。
ドアから一度姿を消し、顔だけを戻すと「べぇーっ」と舌を出して、今度は本当に行ってしまう。
「…………」
皆その態度に呆気に取られていたが、
「ぷっぷぷ……」
という綾の吹き出しをきっかけに、一斉に笑いが巻き起こった。その声はガタガタと騒がしく作業を進める中にあっても、一層大きかった。それに笑い声というのは、人をけなし、吼え合う言葉と同じく、よく通るものだ。
「……フンだ。何も笑う事ないじゃない」
廊下をゆっくり歩きながら、その声を背中で聞くほづみはごちる。足先にある紙くずを蹴飛ばすが、あまり解決にはなりそうになかった。
「まぁ、せっかく出て来たんだし、指令通り偵察と行きますか」
あまり見つめても性質が悪いので、通りがけざまにちらちらと覗く程度に止める。それでも教室を一つ変わるだけで、やっている事がまるで違う。
「ふーん」
ステージ発表の演劇を練習している所、展示の為にパネルを用意している所……何だかそれだけで、もう文化祭をまわっているような気分になれる。それはどうにも心地のいいもので、こういう時期の学校はそれだけで宝箱の中身で、大切な物が詰まっている気がするのだ。
窓から吹き込み、髪とリボンを揺らすだけの風にさえ、愛しさを感じ、ほづみは足を止めずに、その特殊な空間に身を投じる。耳には雑踏に混じっていつも聞こえてくるフォークギターの懐かしいコード進行と歌声が届く。曲名も知らない、もしかしたらオリジナルかもしれないが、そんな事はどうでもよかった。
「……っ……っ……」
聞き覚えたメロディに、口から息を吐くのと同じ程度で、ハミングをのせて楽しむ。口笛よりあやふやで、口ずさむ事は億劫。そんないい加減な気分の時には、こういう曲の方が合っているかもしれない。
「……けどね」
次第に物足りなくなって、ほづみは大好きなあの歌を口笛にのせる。何の遠慮も無く、精一杯の音量で作り上げると、壁に囲まれた廊下は反響がよく、行き先がわからないほど遠くまで、音を伝えている気がした。
ほづみはその綺麗だけど華奢な音の繋がりに乗って、偵察という本来の目的も忘れて次々と足を運び、ともすればスキップぐらい踏みそうな勢いで、この階段までやって来ていたのだ。
「ふぅーん、あなたも大変ね」
年寄りくさい掛け声が聞こえてきそうなくらい、緩やかにダンボールを床へ下ろすと、やっと少女の顔がはっきりする。
「あれ……髪が?」
ほづみは眼を丸くして、その様を見る。
「ああ……これね、なかなかユニークなカットでしょ?」
サイドには相変わらずピンクのピンで留めた、長くつるんとした髪が垂れているのだが、後ろ髪が大胆に軽くされていた。
「元々長くないと、こういうのは出来ないからね」
言いながら端ヶ谷佳梨は「ふぅ」と小さく息をついている。ダンボール箱二つが相当重かったのだろう、彼女の教室からはそれほどの距離もないのに、額には薄っすらと汗まではっているのがわかった。
(あんな事まで出来ていたこの娘が……)
ほづみは完全に佳梨の持っていたものが、封ぜられているのに安堵し、一方、私は何をしたのだろうとも考えていた。
(……そんな事ない、この娘はしづるを殺したのよ……そんな事、私が思うはずないじゃない)
改めて佳梨を見たが、特に何の感情も浮かび上がっては来ない。
不思議だった。しづるを奪い、その想いを掻き消した――憎くて憎くて堪らないはずなのに、たった一度の闘いで、それさえも消えていた。
ぼんやりと佳梨の姿を見てみてもやはり何も感じず、どちらかというと、森を歩いているような平静とした波長が葉を鳴らし渡ってくる風に乗って、寄せてくるのだ。
「どうしたの? ぼーっとして……あの時のあなたからは想像も出来ないわよ」
佳梨はあまりにも反応がないので、自分から口を開く。
「……それにしても凄い服ね」
尖った顎に指をはわせながら、佳梨は素直な感想を述べる。
「あはは……まぁ自分でもそうは思うんだけどね、笹峰さんの愛情もこもっているし……」
「あら、あの娘が作ったの?」
佳梨は一年生の時、同じクラスだった愛奈の事をよく憶えていると話した。
席が隣り合った事もあるし、授業中だというのに、ノートにはびっちりと落書きが詰め込まれていて「この娘はヘンなのかな」とよく思っていたとも。しかし、あの頃の自分もやはりヘンだったし、普通というには、おこがましい生活が、もはや始まっていたと続け、嘆息して見せた。
力を持ち、現実という怠惰なだけの束縛から開放された自分と、ノートに夢を詰め込む愛奈。佳梨はそんな変わり者という共通点で見て、彼女に親近感を覚えていたのかもしれない。
(夢……か)
ひとりはこうしてそれを形として現し、佳梨は夢を覚まされた。だが、見ていたものは愛奈のように愛しい物ではなく、血を欲した悪夢だったはずだ。
「また、夢を見せてくれるの?」
「えっ?」
佳梨の口からこぼれたものに、ほづみは明確な物を返すことができなかった。
彼女自身、自分の気持ちにあたふたしている最中で、とてもだが、佳梨の事にまで気を回していられないのだ。
「うふふ……まあいいわ。天住さん、そんな事してるんだったら今、暇よねぇ?」
佳梨は黒眼がちな瞳を細めて、唇を薄く開いて懇願を告げる。
「……そうとも……言うのかな?」
「じゃあさ、手伝ってよ。私の細腕じゃどうにもね」
くいくいと足元に鎮座するダンボール箱を、腕組みしたままのポーズで、佳梨は指してくる。
「あ……うん」
曖昧にしか答えられないし、断る理由も考えられなかったので、ほづみはダンボールを抱えて階段に足をかける。
足取りはしぶしぶという感情を雄弁していた。
佳梨に先導されたのはゴミ捨て場、お上品に言えば焼却場。
高い円筒を備えたダイオキシン値も低く抑える高級品の焼却炉は体育館の裏手にある。今のご時世なので、燃やせる物は再生不可能なものだけと限定されていた。
焼却炉のある場所として定番といえば定番の位置付けで、静けさという言葉を装うほど人気はない。かといって教師の目を盗んで煙草を燻らせている愚かな輩もいなければ、社会から逸脱しかけた様子の者もいない。
それはこの学園が、何よりも世間体に重きを置いている為か、それとも生徒自身、自らの立場や、ここで成すべき事を知っているためであろうか。
(……どちらにしたって、気味が悪いわよ……)
ほづみはダンボールを抱えたまま、心で毒づく。
そのような溜まり場になっていないだろう別の理由は、こんな所にまで、ご丁寧に通路が整備されて小綺麗になっているためだ。
上履きのまま気がね無しにやって来られると言っても、少しでも屋根つきコンクリートの通路から外れると、こんな場所にもかと、考えさせられる、安くはない色艶の良い玉砂利が敷き詰められている。
「これでよしっと」
「さすがね、息一つ切れてないわ」
佳梨はどこかバカにしたように言うが、あの時とは違い、どこにも悪意が含まれていない。友達のおろしたての靴をからかうような、言い難い感情を強く孕んでいる。
それを受け取り、どうして自分には黒い想いが浮かんでこないのだろうと、ほづみは動きを止める。
そして佳梨も……それは同じに見えた。
ほづみは外界を気に留めず、内にだけ眼を向ける。きっと、佳梨も同じく目を閉じているだろう。
(……私は佳梨を……どうして何も感じられないの? 確かにしづるには救ってと言われた。でも私は許せなかったはず……それなのに、いざとなれば私はああした)
ほづみは佳梨の可能性を器に戻しただけだ。それ以上でも、それ以下でもない。どうにも自分の感情が把握できないが、絶対的なもの、小さくても何より強固なそれが、一番奥のところで何かを守っている感じだけはわかっていた。
(どうして……)
胸の奥にある最後の砦たるそこから放たれる、柔らかな光が、温かさで自分を包み、揺り篭か安楽椅子に揺られる、あのまわる世界にいるように、ただただなめらかに心が溶けていく。
(そう……憎しみも衝動も……)
妬みも消え失せて、純粋に想う気持ちだけが、花を咲かせた様に輝き誇っていた。
(! ……花……許し合える心……)
思考から舞い戻り、ほづみは佳梨と顔を見合わせる。その心同士はシンクロしているかのように、同じ結論を告げた。
「そうか……これが……」
「……みたいね」
人と人、何かを乗り越えて許し合える心を育む。
これがしづるの本当のシードだったのだ。その課程に人の可能性を開花させる力があっただけだったのだ。
ほづみは手を、骨の音が耳に届くほど強く握り締める。しづるの力は彼女の想像を陵駕したものだった。
「……しづる、これがシード? この花を咲かせたかったのね……」
こぼれそうになる涙を噛み締めて、眉をひそめるだけに止めたが、しばらくの間はそうしているのが精一杯だった。
何も考えられず空っぽの心をして、白い雪に包まれた平原を前にしているような穏やかさに揺られるのみで、他には何も出来ず二人して佇んでいるだけでいた。
その前にある言葉を発する事のない焼却炉の、五メートルを越す銀の煙突からは、秋の空色に抱かれる頼りない灰の綿毛が、薄い雲になりたいとでも言う様に、ゆったりと昇天していく。
そんな物に力があるはずも無く、見守る程度で空から見下す二人は、未だ立ち尽くしているままだ。
夕晴れの中、風が髪を揺らし、草木の奏でる音が会話のない二人の間を抜けていく。
それはきっと穏やかな感情で、もうわだかまりというものさえ、薄れかけていた。
「でも消えない。この中にある彼への想いだけは……」
「彼……?」
ほづみに言われて、佳梨は表情を硬くするが、それは一瞬ですぐに元に戻る。
「そう、だからこれ以上のヒントは、どんな事があっても話せないわ」
「そう……」
ほづみは諦める事にする。結局自分のシードではそこまで迫りきれない。
「……もう行くわ……私の大切なものは、まだここにあるってわかったから」
佳梨は踵を返すとコンクリートの通路を外れ、玉砂利に足を鳴らして一歩、二歩、そして立ち止まる。
眼で追うとこちらを振り返っている。スカートの裾をなびかせるほどの風にあたり、長いまま垂れたサイドの髪を泳がせて、黒い瞳でほづみを見ている。
「……そうそう、言い忘れてた」
髪を白い指で掻き揚げ、隠されていた口元をあらわにする。
「その服、とても似合っている……かわいいわよ……シンデレラ」
発した唇は、夕色に変わりつつある中、やけに紅く印象的だった。
「……ありがとう……」
聞き終えると、佳梨は玉砂利を小気味よく鳴らしながら行ってしまった。
(ありがとう……か)
もう帰ろうと、コスチューム用に愛奈が用意してくれた、あまり実用的なデザインでない靴を帰路に向ける。いつまでも人気のないここにいるのは、正直いい気分ではなかった。ほづみはただ単に寂しいだけなのだが、なぜかそう思ってはいけないと感じているのだ。
「……彼、ね……」
佳梨の残した言葉とともに、指先で唇を拭うと、彼女の綺麗な朱色をした唇が感覚に蘇った。
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