第14話 温もり-pain04
4
「いっ……つつ……」
銀色の短い縫い針を持つ手が震え、そのせいでこの作業をはじめてから、すでに三回も自分の指を刺してしまっていた。
「……もう……いつもならこんな事ないのになぁ、これぐらいの事さ……胴着直すので慣れたモンなのに」
白い指先で、徐々にその径を大きくする赤い血の玉を、口に含みながら思う。
(あの力を使ったから? 想像以上に体力を消耗するみたいね……)
ほづみは夕食の後、リビングでソファーに掛けながら、破かれた制服の胸を直そうと裁縫をしていたが、眼の焦点がうまくあわずに、手まで震えている。
ほづみにとって、家庭科で行われる類のものは、唯一しづるに勝っていて、誇れるものだった。
(まぁ……あの娘の料理は破壊的な味だったけどね……)
思うとまた胸が切なくなる。今日、確かに終わらせたはずだったのに、清々しいというか、何かから解放された気さえしない。
(まだ……って事なのかな……)
佳梨の言葉が耳から消えない。
(あの人……ね)
気が別の所に行った瞬間、針の鋭い切っ先が、また指先を捉える。ほづみは無言でその指に吸い付きながら、買ったばかりのシャツを見る。安くはなく、二枚買えば一万円の大半が持って行かれるほどだが、学校指定の多くがそうであるように、無駄に高いのかと思えば、素材も着心地もそれに見合うものなので、何とも言い難いのだ。
目の前にかざすと、布の向こうに蛍光灯の丸い光が淡く、まるで雪が写すろうそくの炎のようだった。
「あら、しづるちゃんお裁縫?」
その光を遮るように母の声が現れる。
「うん……ちょっと破けちゃって」
「そう……でもそれじゃ、縫い目が表に出ちゃうわよ?」
言われてシャツを返すと、つぶつぶと糸が顔を覗けている。色の選択は上手くいっていたが、これではいささか格好が悪い。
「うーん、そうね……これだけ綺麗に破れているのなら……」
思案顔になった母はしばらくして、そうだと言いたげにリビングを出て、何だろうとほづみが思う前に帰ってきた。
その手にはアイロンと、見た事のない白っぽい布みたいな物が握られている。ぼーっと見ていると、自分の横のソファーが沈み込んで母が隣に座り、途端ふわりと香りが身体を包み込む感じが訪れる。
(……あ……)
しづるのものとも微妙に違い、懐かしく胸の奥が締め付けられるような香り。
(お母さんか……)
ほづみはぼんやりと、その横顔を眺める。特に好きというわけではなく、嫌ってもいない。だが少し憎んでいて、どこへ行っても宙ぶらりんでいい加減、それが母に対する想いだった。
「いいでしょ、これ? 通販で買ったのよ」
そんなほづみを置いて、母は子どものように笑いながら、破かれた所に合わせて、それを切り取り、はぎれを挟む。
「こういう破れには、こうしてこう……」
通販の口調をそのまま真似て、手際良く作業して行く。
「ぷっ……ぷぷ……」
ほづみはそれが妙におかしかった。母と一緒に居て、こんな風に感じたのは、本当に子どもだった頃以来かもしれない。
今はフローリングに座っている為、母の栗毛をした頭は、膝辺りで揺れている。
「はい、できたわよ」
「……うん、ありがとう」
受け取る時に、母の手と自分の手が触れた。
「…………」
瞬間ぴたりと動きを止めて、母は娘の手の感触を確かめるように、手を重ね合わせてきた。
「……温かい、手ねぇ……」
母の眼は潤んでいるように、ほづみには映った。そんな事を言われるのは初めてだったかもしれない。
「……そうかな……」
顔を赤くして、別に何てこともない言葉なのにと、手にあるシャツに眼を落とす。
(うん、とても綺麗)
表からは、まるで破れていた事がわからないぐらいで、これが母の愛情だとは到底思えないが、それでも嬉しかったのかもしれない。
ほづみはそれ以上その場にいる事が気恥ずかしくなって、足早に階段を蹴った。
部屋に入ると、ベッドにシャツを投げ出す。
「どうしてだろ……お母さんのことなんて、たいして考えた事なかったのにな」
それは小さなきっかけで浮かんでくる、母の優しさはしづるだから受けられるものではないかという疑問と、自分だったならそんな事はないだろうという、諦めに似た感情。
ほづみはしづるの部屋を出て、隣にある自室だった場所へ入る。しばらく人が立ち入っていないせいで、何だか埃っぽい。そこへ電気もつけず、重い遮光カーテンを開いて月光を闇に灯すと、フローリングの埃が光って、きらきらとガラスの粒をぶちまけたように見えた。
眼にはどんなに綺麗でも、それはゴミでしかなく、ニセモノの輝きが自分を床からじっと見ているようだった。
「ふぅ……」
窓を開け、夜の空へ顔を覗けると、風の冷たさや空気の感触は、しづるの部屋で触れるものと同じように思える。それなのに、ここから見える月だけが夜空に澱んでいて、はっきりとした姿をしていない。
「……私の部屋で見るからかな?」
少し痛みの残る脚を見ると、斜めに走る青いあざが、はっきりとこんな照明でもわかる。
「ハイソックスは持ってないし、思いきってニーソックスでも履いていこうかな」
足元だけは学校で指定がない。
しづるはニーソックスが気に入っていたらしく、色々な種類がタンスに入っている。
「しづる……」
私間違ってないよね、そう続けてみたかった。全てを偽り、真実に近づくことは容易でなく、様々なものが、ほづみのまわりを包み始めていた。
それが主として、ほづみであった自分から欠落しているもののようで……。
「悔しいのかな……」
それでも構わないと、あの時思ったはずなのに、今もほづみの中では、くすんだ色の河面に、綺麗とは言い難い感情が映っている。
窓のサッシを握る手に力が入り、ピキピキと小さな悲鳴を上げる。ほづみはそれを一層なぶりながら、奥歯を噛み締める。
(関係ない、関係ない、関係ない……)
唇だけを動かして声を作らずに唱え、眼を閉じて、眉間に力を入れて思いを込める。
(関係ないっ! 私は約束を果たすだけ……まだ終わってない、終わっていないんだ)
眼を開くと同時に、月を見上げる。
「……そうよね」
それは都合よくはっきりと見える事は無く、やはりどこかぼやけたままだ。
だが、それでいい。自分がしている事は誰の眼にも、正しく見えるものではないかもしれないのだ。
それでも、やらなければならない。
「それが今、私がここにいる意味だもの」
しづるである事にまつわる甘い記憶は、ほづみにとって耐えがたい痛みでしかない。決して報われる事のない深い痛み、母の笑みも綾の優しさも、夕夜のかわいらしい悪戯も……何一つ自分のものではないのだ。
ほづみは窓を閉めて部屋を出ると、明るい廊下から暗い室内を覗いてみる。そこは自分の心のように重く、その隅で幼子の自分が泣いていても、不思議ではない気さえする。
「……ふっ」
それを鼻先で笑うと、ほづみは今の自室へ戻る。明るくてかわいくて、女の子らしい整った部屋は、結局自分の物ではないけれど、落ち着く事は確かだ。
「これが求めていた物なのかな……」
ほづみはベッドに腰を下ろすと、またいつもの悪い癖で、堂堂巡りを始めてしまう。
「人はやっぱり考えて、考えて何かを意識する事で、生きているって感じられる。それをやめたら、止まっているのと同じ……か」
しづるもそう書いている事だしと、自分に言い聞かせたが、ほづみ自身全てに納得ができているわけではない。
(……前にも思った、私はしづるが妬ましい……幸せでそれを皆にも与えられる事ができる……なのに私には何もない)
天井にある蛍光テープの端を眺めながら、幸せではない事にまつわる物はと考えていた。
ほづみは今の状況に溺れ、忘れているのだ。祖父の家から通った学校、確かにそこでも嫌な事の方が多かった。何時も誰かに笑われている、何時も誰かに疎まれている、そして誰からも必要とされていない。そんな想いがつま先から徐々に自分を食い潰していくような日があった。だが、その祖父の家は決して冷たくはなかったはずだ。
「そうだとしても、しづるには敵わない……だから私はこうしている……?」
机まで歩き、置いてあるひびの入った眼鏡を見る。これもどうにかしなければと、思うとまた気が重い。
「もう……お金のかかることばっかりじゃない」
指先で軽く跳ねると、自分の汚い感情を消すような、透明な音が小さく生まれた。
一つの事がやっと終わり、だがそれは始まりに過ぎない事を認める。自分が幸せだか不幸だかも、よくまとまらないうちに、ほづみの長い一日が終わっていこうとしている。自分というものを、だんだんと消しながら歩くそれは、救いの無い道かもしれない。
いつか綾にも夕夜にも本当のことがばれてしまい、自分がニセモノだとわかる日に、彼女らはどんな顔をするのだろう。
ほづみは考えたくない自分の感情も、しづるへの嫉妬として内包することで、その場をやりすごそうとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます