第13話 温もり-pain03



 3


電車がレールの継ぎ目をこえる度に、小さな突き上げが、身体に感じられる。


車内は閑散としていて――いや人は居るのだが、皆ひとりで読書したり、音楽を聞いていたり、もちろん携帯電話をいじっている者もいる。


座席の背もたれに深く寄りかかりながら、声なく呟く綾は、他の人達と違って何もせず、ただそこに座っている。


額をガラスにくっつけて、鏡のような車窓の外に眼をやると、何もない暗い風景の中で、月だけがやけに大きく膨らんで見えた。


静寂に包まれて、人が生活しているのさえ疑わしいほどに、冷たく遠い御伽噺のような世界から、また車内の現実に戻る。


やはり人の気配もないように、独特な電車の走行音が、綾の耳に一定のリズムを音楽に作り変え刻むだけだ。


「…………」


俯くと肩からぱらぱらと、長い黒髪がこぼれる。ボリュウムは少ないけれど、風に軽く自分では気に入っていた。


「どこにでもあるような髪形だけど……真もこれが似合っているって言うし……」


ふとファブリックのシートを掴む、自分の手を見る。


「……真……」


本当に数え切れない程呼んだ名を口に出すと、さっきまでこの手にあった温もりを感じられる気がした。


(いつも僕を救ってくれたのは、綾だって言うけど、本当に助けられたのは、私なのにね……)


あの時の、あの男の顔は薄くなり、本当の意味で笑うという事を教えてくれたのは、真だと思っているし、それは真実に違いない。


「綾は僕が守る……か」


まともに言えば、とても恥ずかしいセリフだったが、彼女にとってそれほど大切なものは他に無く、それは真自身がくれた誓いなのだ。


(きっと通じている想い。私達は同じ、ひとつだものね……)


 声なき囁きは規則正しい走行音の隙間に溶けた。


「へぇー真君って言うんだ。私は綾、九重綾だよ」


綾はその声に電車のリズムに委ね、俯いていた顔を上げたが、言葉は出てこなかった。眼に映ったのは、幼い自分と幼い真が通路を挟んだ向こう側のボックス席で、話し込んでいる姿だった。


(なっ! 何これ?)


考える間もなく、自分は確かに座っていて、ここは電車の中であるはずなのに、眼にはいつも遊び場だった、真の家の庭が浮かんでいる。


綾はやがて、世界の中で自分という感覚が身体から抜け落ちて、風景の一部になっていく様子にぶつかり、どうにかしたくても石のような身体は、そのままそこでそうして居ろと、逆に命令してくるようだった。



「今日からね、お母さんがここで働くんだって。だから私も一緒に住むんだよ……あっちの離れにね」


そう言う綾の顔から笑みがこぼれ、それを見た途端に、真は息を止めたかのようにして、横を向いてしまう。


「どうしたの?」


「な、何でもないよ。じゃあ、あっちで遊ぼうよ」


手を取り合って二人は、黄色い水仙が乱れる庭園の小道へと駆けて行ってしまう。


それをどうにもできず、座席に張りついたままで、綾は見送った。


(ああ……私はどうしてあの時、あんな笑顔しかできなかったの? 笑う事で全てを騙していた醜い笑顔……私は真にさえ嘘をついていたんだ……)


初めて手を繋いだ楽しい記憶さえニセモノで、実感を伴わない冷たさを涌かせる。


綾はいつも笑っていた。


悲しい時も辛い時も、そうしていれば知らぬうちに事は過ぎていたし、母も笑っている自分を見ると、優しくしてくれた。


だから本当に笑えばいい時も、わからなくなってしまっていたのかもしれない。


(真だけじゃない。私は私も騙している)


暗い道に進んで行った少年と少女の背中に、何も出来ず、ただそこに居るだけの自分は、物欲しそうに道の先に光る何かを見つめるしかない。


やっとの事で伸ばした手さえ、空を掴むだけで精一杯だったが、それでも笑い声のするほうへ必死に想いを馳せる。


(……お……置いて行かないで……私をひとりにしないで……)


口から出そうとしても、胸の中で反響するだけで、誰に届く事もない。


前に見えていた光もぼんやりと、そこに在るかどうかも不確かな姿になり、やがて消えうせる。


真に暗闇というのは、こうなのだろうかと、綾は自分の手を眼の前にかざしても、形さえわからないここを思った。


「……これが心だとでも言うの? 私の、私の心は……」


意志とは別に声を作り出す喉が震え、ぼろぼろと果てる事無く頬を涙が行く。俯くと柔らかな顎先から、離れて舞う雫が、スカートから覗く腿に落ちて砕ける。


「……あつっ……」


それは熱湯とまごう程の温度だったが、改めて指ですくうと、真夏にホースから流れる水よりもぬるく既に冷たく、まるでどうでもいい物のようだった。


「……い……や……こんなの……いやっ!」


綾はかぶっていた頭を上げて、頬に張り付いていた黒髪の糸を、振り剥がして叫ぶ。


「助けてっ……助けてっ……」


夢中で何もない真っ暗な空間で、手をばたつかせる。だが、相変わらず足は言う事を聞いてくれずに、座席から腰が持ち上がらない。


「ああああっ……」


もどかしい。どんなにか機敏に動こうと頭でイメージしても、コマ送り世界の住人では、動作が制限される。


「いぃやぁぁ……」


より強く声を上げた。これ以後、声が出なくなる事もいとわず、喉を潰すほどに悲痛な願いを込めて綾は叫んだ。


「…………っ……へっ?」


伸ばしていた手に何かが触れた。


いや、触れただけではなく、それは力強く綾の細い指を、折れんばかりに握ってくれている。


あまりに強いので、痛いぐらいだったが、それが綾にとっては、暗闇で自分を確認できる術だった。


自分がこんな所でもひとりではないとわかり、綾も強く握り返すと、手の先にある顔は綻んで、口の形だけを変えて何かを伝えた。


「……うん、ありがとう……」


やっと出た声でそう返すと、闇が東雲のごとく光に侵食され始めて、手を繋ぐ人の輪郭もぼやけ、やがて溶けていく。


綾は、ほどけていくその指先を眺め、笑う。


「…………」


伝えるべき言葉もいらない純粋なる笑み、それが綾の本当の笑顔……


その顔を見て、光に溶け行く人影も笑い返してくれた気がした。



「……にっ、きゃあ!」


せっかく浸っていたのに、大きくがくんと身体が下へ沈み込む感覚で、それが壊れてしまった。


「へっ? へっ?」


言いながら辺りを見まわす綾に、周囲に点在する人の眼は、逆に驚いていたが、ややあって、それらは綾の方を見ずに、篭った笑いを浮かべ始める。


「あ……ああ……」


電車が停車した為、ブレーキの制動で眼が覚めたのだと、綾はやっと気付いた。


そう受け止めた途端に「うっ……」と息を飲み込み、顔も耳も染め上げて俯いた。顔から火が出るというのは、こう言う事ではないかと思えた。


何せ、居眠りしていて、電車の振動でいわゆる、ビクリとして起きたのだから、そんなものを見たら自分だって笑ってしまう。綾は必死に顔を伏せて、席に縮こまる。


「あっ! この駅っ。お、降ります」


誰に送るかも定かではない声を上げて、綾はぴょんと、兎になって身体を跳ね上げると、ホームへ消えるように逃げ出した。


(ああ……もう、皆笑ってるよぉ……)


ともすれば泣き出しそうなくらいの顔をして、戒めの為にもと唇を少し噛んだ。


 恥ずかし顔の綾を置いて、電車はドアを閉めて立ち去る。


行過ぎる風が髪を少し持ち上げる。空には変わらず、ぼんやりした大きさの月が立ち、それはまさに夜だという冷めた空気を鼻先に伝える。


「それにしても夢とはね……」


変な感覚に包まれたうたたねを思いながら、綾は薄暗い自転車置き場に向かうと、二、三本が陳腐な音を作るキーの束を取り出し、自分の自転車の錠を一つ一つ解いていく。面倒だがこうしていれば嫌がって盗難に遭うことも少なくなるという入れ知恵だ。


「ふう……」


黒いデイパックをしっかりと担ぎ直すと綾は月極の自転車置き場から、アスファルトの道へ漕ぎ出す。備え付けのLEDライトが丸く照らす道は、それなりに明るいのに心細く、この季節この時間の夜風も、身体には毒なんじゃないかと思わせるほど、肌を刺してくる。


駅の前を抜けると、学園の駅前通りがどんなにハイカラかと思い知らされる。


「……実際ここには何もないしね……」


綾は街灯がぽつぽつと淡く光る、人影のない寂しい家路に入る。


彼女の自転車はそのイメージと違い、ごつごつとしたタイヤを履き、フロント、リアにサスペンションを備えて、ブレーキさえミニバイクに使用されているような、ディスクブレーキを携えている。


「……本格的だし、速いからいいんだけどね」


これで綾は伯父の家へ帰る。


伯父夫婦は子どもがなく、綾を我が子のようにかわいがってくれている。このごつい自転車も、伯父が趣味から綾に与えたものだった。


「これがポリシーだ……か」


伯父の言葉を真似てみたが、その古臭さに吹き出しそうになった。


脚の回転を速くすると、風が身体に巻き込まれ黒髪が宙をそよぎ、眼には風景の中で最も暗い山上から、月光が強く妖艶に色を伝えてくる。


「……真……私、幸せだよね? 今は辛くないもん……伯父さん達もいる、友達もいっぱい出来た。それに真がいつも傍にいてくれる」


もしも、自分達が飼われた鳥だとしても、今の籠は心地いいのだ。だがそれは綾にとって真がいる事が大前提であり、彼が居なければやはりそこは暗く、出口のない座敷牢に過ぎない。


「……続くといいな。今がこれからも」


真の顔が浮かび、しづるや夕夜、クラスメイトの面々が、道脇にある丈の長い草の隙間に次々と現れ、綾の作り出すスピードに巻かれ消えて行く。


「うふふ……」


自然と笑みがこぼれる。それは引きつってもいないし、泣きたい時笑うよう、無理に作ったものとも違う。歪みのない電車の夢で出会ったあの笑顔だ。


誰の姿もなく、舗装だけはされている月や星だけの田舎道を、綾は軽やかに抜ける。漕ぐ事ばかりで、うつむいていた顔を上げて、月の優しい眩しさに瞼をつむる。


その緩やかな仕草の中で、髪は複雑な模様を風の力を借りて風景に作り上げる。その黒い格子の合間を、一筋の光る糸が通り抜けて行く。高級な銀糸よりも、遥かな輝きを持つそれは、綾の眼から頬を伝い紡がれていた。


「……何も泣く事は無いのにね……」


そうこぼすと拭いもせず、想いを掻き消すように、綾はグリップシフトでギアを変える。


(……ううん、小さい事だからこそ……)


ないがしろにしてはいけない。


本当の悲しみを知っている綾は、幸せを当たり前の事のように享受することはしない。こうして友達がいて、帰る家があり、想う人がいる。誰かにひけらかす程のことではないだろう、おそらくはごく普通の事。それでも綾の眼からは涙がこぼれる。


やがて緩やかな坂道に差し掛かり、そこを昇りきった所が、今の我が家だ。綾は息を大きく吸い直し、一気に坂を駆ける。


広い庭に乗り入れて、いつもの場所に駐輪してロックする。すでに身体に染みついているパターンをこなし、大きめのタイルをあしらったポーチを抜けると、茶色のドアが眼に入る。どんなにか張り詰めていた心も、緩やかに溶かす魔法のドアを前に、綾は顔を綻ばせる。


「ただいま……私のお家」



月と星が見ていた綾の想いは、何の混じり気も無く、ひどく純粋で尊い。


曇りの無い水晶が放つまばゆい光、その全ての根底には真があり、彼がいなければ何一つ成り立たない。あの時から二人は比翼の鳥なのだ。


ひとりでは飛べない、想いという籠にいるつがい。


狂気を誘う月光さえ、届かぬほどの想いが綾を作っている。だが、彼女はそうある事が自分、九重綾であることの証明だと思っている。


この想いがどんなにか危険であり、例え何かを裏切る事になったとしても、綾はこの想いを捨てはしない。




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