第12話 温もり-pain02
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炭酸飲料の缶を開けた時によく似て軽いが、それよりもボリュウムの大きな音が、見送りの終わりを知らせる。
電車の薄っぺらい金属のドアが、高城真と九重綾を別つように、世界を二分する。綾はガラスの向こうで小さく手を振って、電車が走り出すのを惜しんでいるようだ。
「またすぐ会えるだろう?」
真の動く口を見てか、綾は微笑んで見せる。
「それでいいんだよ、綾……」
真は線路に連れられて、小さくなっていく鉄の箱の後姿を見てから、駅舎を出た。
駅前通りのすぐ脇に流れる河が運ぶ風は、もうかなり冷たく制服のシャツ一枚では、さすがに寒いという言葉を漏らさずにはいられない。
コンビニにレンタルショップにゲームセンター、わずかな玩具と本の複合店。この駅に対しては学園の為か、それなりに充実しているほうだろう。逆方向へ行けばスーパーやホームセンター、ドラッグストアもある。
「けれど、何か足りないってところか……」
まだ夜の七時を過ぎたばかりなので、どの店舗もシャッターは閉まっていない。
真は本でもと思っていたがこの寒さと頭上に光る月のせいで、気分をそがれてしまった。
やや明るかった小さな商店街を抜けて、学園への道に入ると、駅からこぼれる人工の光が一歩一歩と、後ろへ下がるに連れ、月と星が活き活きと身体に注いでくる。
「いい月だな……」
暗いアスファルトの歩道へ、もっと黒い自分の影が落ち、いつまでも追ってくる。両手をポケットに突っ込んで、真は河から来る風に逆らうことなく、道を流れるように歩き続けている。
「ほづみ……しづる……綾……」
ほづみが、何をしにやってきたのかは解っていた。
答えとしては単純で、彼女にとってしづるを失った事が、それほどだったという事なのだ。
「……わかるよ、その気持ちはね……」
自分が下した結果が、しづるの死だとわかっていても、そんな言葉が口から出る。
自分が同じように、綾を失っていたらと思うと吐き気さえする。
それほど真にとっては綾だけが大事でそれは世界と同じだった。
(ああ……だから死んでもらったんだよ。僕が……僕と綾が悲しまずにいられる世界が欲しいからね……)
いずれやって来るほづみに、どんな言葉を送ろうか考えていた。だから出てきてしまったのかもしれない……あの頃の記憶が。
どたどたと板張りの廊下を走る足音が、幾度となく通り過ぎる薄暗い物置部屋の隅、少年と少女が肩を寄せ合って震えている。
天井に近く高い場所にある、格子のはまった窓から差し込む光の筋に、埃が漂うのがはっきりと見える。
「……真……」
「しぃ、黙ってろ綾」
小さく肩を揺らし泣く少女。髪も短く容姿も幼い綾が、同じように幼さを残す真にしがみついている。
「真! 真っ、どこへいった!」
怒りがはっきりと伝わってくる声で、真の父親が叫んでいる。
「……でも、真……」
「いいんだ、綾……いいんだ」
真は自分の手にべったりと付いた血を、着ているTシャツに擦り付けながら、呪文のように続ける。
「……綾にあんな事しようとした、あいつがいけないんだ……綾を泣かせるような事をするから……」
真は自分の家に働く使用人のひとりを、果物ナイフで刺してしまったのだ。
「あいつが……あいつが……」
無理やり綾を犯そうとしたのだ。真はそれが許せなくて刺してしまった。
大きくつく息とともに、落ちてくるずっと止まらない汗は、蒸し暑さから来るものではない。自らの行為に恐怖して溢れ出る、背筋を凍らせる冷ややかなものだ。
「綾を泣かせる奴は僕が、僕が許さない。綾は僕が守る」
「……真……」
そう続ける真の手を握って、綾は眼を閉じた。
真はこの家に必要とされるべく、生まれて来なかったのかもしれない。真の母も生前ここで使用人として働いていた。
そして真が生まれた。
自分が愛の結晶か、欲望の欠片かなど知りたくもないし、その頃は父が誰なのかなど考えた事もなかった。幼い真は優しい母と一緒にいられれば、世界のどんな場所でも構わなかった。
だが、幸いかどうか知りはしないが、本妻が子を授からない身体だったために、真はこの家に必要な人間になってしまった。
そのせいで母とも引き離され、その死に際さえ知らなかった。
(僕はどうしてここにいるんだろう……)
いつもそんな事を考え、生きているのか死んでいるのか、何が大切で何がいらないのか、子どもだったのに、そんな困難な場所に立ってひとりの世界を見ていた。
そして、いくつ季節が過ぎたのかもどうでもよくなった頃、突然綾が家にやって来た。
同じような理由で綾を授かった母親が、住み込みの使用人として真の家へ入ったのだ。
そんな境遇にも関らず、綾は春風のように笑う少女だった。
真は素直に嬉しかった。いつもひとりだった世界に、同い年の友達がやって来たのだ。
二人はすぐに打ち解けた。それはただ、生きている理由が似ているというだけではなかったはずだ。
「僕たち、籠に飼われている鳥と同じだね」
何不自由なく暮らしていたはずなのに、もしかしたら、大きな邸宅の敷地に閉じ込められた心だけが、有限なる世界の不自由さに喘いでいたのかもしれない。
そんな事を綾に言った事があった。何時だったか、その時何をしていたのかさえ、憶えていない。
「……でも、ひとりじゃないから、いいよね私達。ねぇ知ってる? そういうの、つがいっていうんだよ……」
そう返してくれた綾の笑顔が大きすぎて、他の事は憶えていないのだ。
二人はそれぞれの事を、何よりも大切に想いはじめていた。自分だけを見て笑ってくれる。小さな籠の中でも、寄り添う小鳥たちのように。
「……だから許せなかった……」
真は何のためらいもなく、命の無い人形をいたぶるように、手にしたナイフを突き立てていた。
(いらない、こんな奴いらないんだ……優しい母さんさえ、生きられない世界に……優しく笑う綾さえ泣かなければならない世界に……こんな奴、こんな奴が生きている必要なんてない!)
血走った眼の男を前に、そんなものだけが心を包んで、綾の今まで見た事の無いような恐怖を孕んだ表情が、引き金を引いた。
自分をとかしてくれたあの笑顔を、歪ませた奴など、道端のゴミと同じだとさえ思った。
気が付いた時には、血に塗れた手で綾の腕を引いて、ここへ逃げていた。
追っ手を振り切る駆け落ちに似た感覚に包まれたそれは、真にとって幸せというものかもしれなかった。
「綾……綾……」
真は名を呼びながら、唇をガタガタと戦慄かせ震えている。
我に返った瞬間、犯した行為の恐怖が全身を襲っているのだ。
「……真、ありがとう……私、真がいなかったら……」
綾は小さく震え続ける手で、真の手をより力をこめて握るが、自身の恐怖も抜け落ちているはずが無かった。
ここにもう少し照明があれば、その唇がうっ血して、酷い色をしているのが、真にもわかっただろう。
四角く狭苦しく区切られた空を、線状に走る光の中で、小さな埃が、どこかへ渡る蝶の群れのように見えた。
「真! どこだっ真!」
すぐ傍を走り抜ける足音と声に、ビクリと大きく肩を跳ねさせ、真はさらにガチガチと奥歯を鳴らせる。
「……真……」
綾はそれを見て、胸先を針で撫でられたような感覚に包まれた。こんな真に何かしてあげたい。そう、恐怖の中で切実に思った。
綾は震えで頬を滑って行く真の涙を、顔を寄せて小さな舌で舐め取った。
「……綾……」
そのまま薄い唇を、真の微動し続ける唇に押し付けた。
綾の髪からするシャボンの香りが、真を安らぎと心地よさで包んでいく。
「……震え、止まったでしょ?」
真の眼を正面に据えて言う綾の眼は、絶対で、何者より強く、そして優しかった。
また涙がこぼれた。
それは恐怖からこぼれたものではない。
不安も恐怖も無い、空っぽでただ相手を想う純粋な涙を、二人同じように流し、埃っぽい板の床に黒い斑点を付けていく。
何時の間にか激しかった呼吸も、穏やかなものになり、スースーと寝息のような二人の息遣いだけが、そこへ響きはじめる。
明り取りの窓から入り込む、安っぽい光さえ、今の二人には雨上がり雲間から下るもののように、特別に思えていた。
「綺麗だね……」
「ああ……」
空気中の埃を際立たせているだけの光が、今は二人を見守っている。
静まっていく世界の中で、呼吸さえ止まってしまいそうだった。
本当にそうなればよかった。
そうすれば、今まであった悲しい事も忘れられる、全部なかった事に出来る……そう思いはしたが、二人は進む事を選んだ。
真も綾もあの空虚な時間へ、再び沈むのはもう嫌だった。
どちらからともなく顔を寄せ、あやふやな視界の中、真には綾の、綾には真の眼だけがはっきりと見えてくる。
真はより強い綾の香りに包まれたかと思うと、柔らかく熱いものが唇に触れるのを感じた。
今度は深く眠るようにゆっくりと重ねて、お互いの温もりを確かめ合うように、押し付けて弄った。
そうして離した唇を追うように、二人は暗い板へ身体を倒し、委ねた。
「綾、僕たちはひとつなんだ」
真は眼鏡を外して、頭上にある月を見ると、満月ではないのに、乱視の眼はそれを幾重にも折り重ね、一層の輝きをもたらす。
「この眼も、こうして月や星の光をより大切に思える為のものだとすれば、少しは気が楽になる」
歩を進めると、建設途中の巨大な橋のシルエットが、ぼうっと迫るように眼に入る。
「ちっ、目障りなだけだな……父さんの汚れきった力は」
今にして思えば、あの時の事は二人のための儀式だったのかもしれない。
どちらもが互いに自分を重ね、無くしてしまえば、自分がどこにいるかもわからなくなってしまう、まるで双子の夢のように。
「……だから父さんの権力を使ってまで綾と一緒にここへ来たんだ。僕たちの鳥かごを護る為、しづるさんさえ消した……」
せっかくできた綾の友人まで、自らの考えを受け入れないと答えたため、望んでこの世から消したのだ。
「……僕は嫉妬でもしていたのか?」
不意に真は足を止め、今まではそんな風に考えなかった事に気付く。大切な友人ができたというぐらいで、綾と自分の関係がどうにかなるはずも無いとわかっていた。
(……そういう意味では感謝しているんですよ、ほづみさん……君が来たから綾は泣かずにすんだ……)
歩きながら、もう一度暗みがかった濃い青の空へある、普段ならばここまで気になる存在ではない月へ手を掲げて、その輪郭を下からなぞる。
「……そうだな……」
そしてほづみへの言葉を思いついた。
「……君は月のようだ……とでも言ってあげよう。何かの力を借りなければ、そこに在ることも知らず、温かさと冷たさを持った月のシンデレラ……」
そこまで言うと、呆れたように「ふぅ」と息をついて、自分で笑いを含めると、自身が言うには、少しロマンティック過ぎたと反省する。
真は顔を戻して校門を抜け、今度はもう少し哲学的な事を言いまとめようと、また思考を巡らせながら、誰も待つ事の無い暗く殺風景な寮の自室へ帰った。
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