第11話 温もり-pain01



温もり ~ペイン~


  1


見ている世界が、さっきから不規則に揺れている。


まだ、そんな時間ではないはずなのだ。


何しろ三時限目であるし、昨夜も何時の間にか眠っていたくらいで、睡眠時間はたっぷりと取ったはずだし、朝食もそれなりの量で抑えた。


(……色々考えたい事、あったのになぁ)


また、うつらうつらと眠気が波のようにやってきて、気を少しでも抜けば、バタンと小さな机に倒れてしまいそうだ。


「うっ、うんっ!」


ホワイトボードの前に居たはずの女性数学教師が、いつの間にか目の前で、自分を見下していた。


「沖崎さん? まだ、おねむには早いんじゃないかしら?」


口調は優しげだが、顔が引きつっている。


「……すいません……」


夕夜は言ってノートに眼を戻すと、ちゃんと取っていたはずなのに、字はくにくにと踊っていた。


チラと見上げると、まだ教師が傍に立っていた。


(ちぇっ、そんなに睨まないでよ)


こうしていると、ラブレターに関数の問題を作って渡したという、ロマンチストには到底見えない。


(なぁにが、問題を解くと、グラフがハートの形になるよ……べーっだ)


と、口に出しては言えないので、心の中で舌を出した。


「……またよ……もういい加減にして欲しいよね……」


小さいが確実に耳へ入るように、誰かが囁いている。


夕夜は教師の叱咤より、そのクラスメイトの囁きの方がずっと気になっていた。


(あの娘たちもしつこいよね……ねぇ、しづる先輩)


夕夜は昨日の事を思い出すが、ある一部分がどうしても頭に浮かんで来ず、あやふやでどこか、夢を渡っているようで、うつらうつらとしてしまうのだった。


(先輩の温もりは、あの時からずっと同じなのに……)


部屋まで送ってくれたその姿は、どう見ても何かあったと考えられたのだが、その事に触れようとすると、自分でも意識していないのに言葉が口から出てこなくなった。


「おやすみ……か」


そう言った唇が、やけに紅く見えて、それだけ鮮烈に憶えている。


夕夜はやっと終わった、数学の授業から抜け出して廊下に出た。


「……いい風」


窓を開けて、そこへ肘をつくと、ふわふわしたツインテイルがそよぎ、その優しさは人が溢れる廊下に風を伝える。


「……ふん、何よあれ……」


「お姫様にでもなってるつもりかしら?」


またさっきの連中が、通りすぎざまに囁きかけてきたので、綺麗な景色から眼を戻したが、そこに彼女らの姿はなかった。


「本っ当にしつこいよね……」


夕夜は彼女らの仕打ちを、目の当たりにする度、初めてしづるに会った時のことを思う。


それは学園生活では、ドラマよりドラマティックであって、でもどこか、使いまわされたシーンのように、ありふれたシチュエーションだった。



夕夜は中学まで、生まれ育った地元で暮らしていた。そこでは本当にクラスメイトが言う、お姫様のような生活を送っていたのかもしれない。


その土地で沖崎といえば、知らぬ者のないような有力有産な家だ。そこに生まれた夕夜は、あらゆる所でどんなわがままも許されていたのだろうが、夕夜自身にはそんな事をしているつもりはなかった。


家でも外でも同じように振舞う、言えば表裏のない正直な少女だった。


だがその実、皆が表だって不自由なく自分のいい様にしていてくれただけなのだ。


夕夜自身、自分が特別な扱いを受けている事にすら気付いていないのだから、どこかへ行ったとして、何かが変わるという感覚さえなかった。今までの日常がそこにもあるはずだった。


(……だと、思っていたのになぁ……)


ぼんやりと河向こうにある山の木々がざわめく姿を眺め、窓から顔を出すだけで、騒がしい廊下からまるで別の世界に行けた気になる。風を伝ってどこからか甘い花のような香りが夕夜を包んでいく。


「ほんの半年位前なのに……」


どこかそれは遠い。


悲しいことだったから? 今が多分幸せだから……自問に答えはない。入学した当初、今もだろうが、夕夜は何も変わっていない。性格も振舞いも、それは彼女の容姿も手伝ってか、そのほとんどが誰もに許されるものだった。


だが、ある人達にとっては、心に走る黒い感覚を生み出すためのものだった。



「何よ、こんな所に連れてきて……」


稀に見る美しい紅になった夕陽が綺麗でしかたなかった午後でさえ、生活棟の裏手には人影など全くない。そこはそれに加え、何の緑もない、土の色だけがやけに強い所だった。


フェンスの張られた向こう、校外の道には葉の色が強くなった桜が、時折の風に少ない落ち花という命を乗せて季節が逝くのを待っていた。


「何よ、だって?」


「あはは、まだ自分の置かれている立場がわかってないみたいよ……」


「やっぱりバカよねぇ……」


クラスメイトの三人は、夕夜を前にしてもひそひそと囁くように話す。わざと届けまいとする声に、夕夜は苛立つ。それが耳元を飛ぶ蚊の羽音のようだからだ。


「言いたい事があるなら、はっきりすればどうなの!」


叫ぶ夕夜をひとりが睨みつけ、直後一歩詰め寄り、思いきり虫をはたく様に突き飛ばした。


「きゃっ」


夕夜はよろめき、お尻からふかふかと耕された土の上に転んだ。


「何する……ぐうぅっ!」


言い返す前に、もうひとりの少女のつま先が、履いている下着の色とともに夕夜の薄い胸に刺さる。


(青レースなんて、あんたに似合わないって……)


苦しそうに咳き込む夕夜を置いて、少女たちはさらに睨みをきかせ続ける。


「調子に乗るなって、言っているの」


「そうそう」


「地元じゃどうだったか知らないけど、ここじゃそんなもの空気と同じなのよ」


そんなものとはどんなものだろう……夕夜は、泥で汚れた制服を払いながら思う。胸をさするとずきりと痛んだ。


「もちろん知っているわよね? ここにいる生徒のほとんどが、あんたと同じように、ある程度の力を持ってるって事」


リーダー格の少女は、倒れた夕夜の正面に立ち、吐き捨てるように言葉を打ち付けるが、当の夕夜の反応は、何を言っているの? と言う風だった。


「……だからムカツクって言っているのよ! 自分のいる場所も立場もわからずにいて、ヘラヘラしてるんじゃないのよっ!」


「あんたは何も特別じゃないのよっ」


「そうよっ、そんな髪して、アイドルかあんたはっ!」


もうこの少女たちにとっては、夕夜の髪形さえ心を波立たせ、どす黒く塗りかえるだけのものになってしまっていた。


「キャッ! 何するのよっ」


夕夜はぐいっと右のテイルだけを掴まれて頭を引っ張られる。しなやかでふわふわした尻尾は、思いきり握り絞められ、その指の隙間からこぼれるラインも悲鳴のように四方へ散っている。


「丁度いいわ。らしい髪形にしてあげましょう」


「……いいわね」


髪を掴まれている夕夜は、痛いばかりで彼女らの歪んでしまった唇は見えていない。


「……これで綺麗にしてあげましょうねぇ」


 聞き覚えのない冷たい音が、夕夜の耳に入り、綺麗すぎる夕陽を紅く輝かせる白刃が姿を現す。


それが何なのか、やっと理解した夕夜の背中を、氷の衝撃が突き抜けていく。


何もわからない。自分がどうしてこんな目にあっているのかさえ、推し量る事もできていないのに。


小さな身体に、びしびしという音をたてて、足先から恐怖だけが満たされていく。


「や……め……」


声に出したいのに、喉から水分が消えて、言葉を繋がりのない発音の羅列に変えていく。


「また伸ばせばいいだけでしょ?」


「まぁ、伸びたらまた切ってあげるわよ……美容院いらず♪」


「アハハハッ、いいわねっ!」


正気という文字、理性という感覚、夕夜はそれがあるから、ヒトはヒトだと思っていた。


だが、眼の前で手にナイフを光らせ、自分の髪を掴んで、笑っている少女達に、それは見つける事が出来ない。興奮してトランスでもしているかのようでただ、瞳の奥がぼぅっとあやふやな光を、灯しているだけだ。


「あ……ああ……」


鼓動がひとりでに早くなり、薄い胸を伝って、音が外に漏れているのかと思うほど奥歯までカチカチと、まるでマンガのように鳴り出す。


(……こ、れが……怖いっていう事なの……)


じわじわと視界はぼやけ、前に立つ少女の姿も歪んで、何人いるのか、そんな簡単な事さえ忘れて行くようなのに、桜の緑だけがやけにはっきりしていて、いつまでも消えなかった。


(……あの時と同じ……)


それは寂しさだったはずだが、今、恐怖を前にしてもあの感覚が蘇った。


(……お……かあさん……)


優しかった母。誰よりも自分を見てくれた母。甘い夕焼けのような声と、心をくすぐるいい匂い……。


大切だった人は、夕夜の知らない間に、忽然と消えていた。


父に聞いても、祖母に尋ねても、何も教えてくれなかった。むしろ始めからそんな人間はいなかったように、みな口をつぐんでいた。


何も出来ないもどかしさに、ひとり薄暗い部屋で、わけのわからない模様をした襖に囲まれて泣いた。


母に抱かれたあの時、あの暖かさ……砂糖をたっぷり入れたホットミルクを飲んでるような時間……それだけを小さく細い肩を抱いて必死に思い出していた。


(……誰も助けてくれなかった。どんなに泣いたって……誰も……)


夕夜の眼から色が、世界が消えかける。もういい、どうなっても――そんな諦めが身体を包み始めていた。


「あなたたちっ! 何をしているの!」


ナイフが夕夜の髪を浅くえぐった瞬間、その声が飛び込んで来た。


ふかふかした土の上に、緩やかにウェイブがかった髪が少しだけ舞う。


(……誰……?)


夕夜は声のほうに眼だけを向ける。


「あんたこそ何よっ!」


「何って? 言う必要なんてないわ。けれどあなたたちがしている事が間違いだって事だけはわかるつもり……」


言う間に声の主は身体を運び、夕夜の前にやって来る。まるで最初からそこへ居たように、風が吹いただけというように、髪にあった手を払い、間に立った。


「そんなものまで抜いて……わかっているの? ナイフがどういう物か!」


その華麗な身の扱いに、少女達もたじろぐ。


「ふ、ふんっ! その娘が自分の立場をわきまえないからよ。大体、ナイフが何だって言うのよ」


少女が言い終わる前に、夕夜の救世主、天住しづるは、ナイフに自分の白い腕を擦りつける。


「……ほら、こうなるものよ。ナイフはその小さな刃に、生と死を乗せているの。正しい使い方をすれば、万物から愛を育み、間違えれば全てから死を抽出する……生かすも殺すも、使う者次第」


しづるの言う事は難解で、しかも抽象的過ぎて、身近には感じられない。


「何言っているのかわかんないのよっ!」


「こういう事よっ」


しづるは血が滴る腕を、滑らかなモーションで振る。


「きゃっ!」


ナイフを持つ少女のクリーム色をした制服のシャツに、血の斑点が浮かぶ。


「せっかく植えた秋桜が台無しでしょ? ここは園芸部が、学校を花で満たすために耕した畑なのよ」


しづるはフレームレスの楕円形眼鏡をくいと中指で直しながら、少女らに諭す。


「それにあなたたちだって、これが表に出ると困るでしょ?」


むにりと唇を突き出しながら、血の跡がはっきりとついている、腕を見せつける。


「……くっ……」


小さく漏らし、少女は踵を返した。


「ちょっとぉ、待ってよ」


後の二人もそれに続いた。


夕夜が何も理解できぬ間に、事件は終わっていた。ただ少し悲しい記憶だけを置き土産にして。


「あなたっ、大丈夫だった?」


呆けている夕夜の前に、どさりと膝をつき、顔が現れる。


「え……ええと……先輩。はい、何ともありません……」


夕夜はチョコレート色をした襟につけられている、二本の白いラインを見て、震える喉を押さえて何とか答えを返す。


「よかった……でも……綺麗な髪だったのに、ごめんね……あっそうだ。私、天住しづるっていうの。あなたは?」


「沖崎夕夜です……私より先輩こそ早く手当てしないと」


夕夜はしづるの腕に広がる血の跡に臆していた。何しろ画用紙の上に、絵の具をストローで吹き流したくらい、派手に散っているのだ。


「ああ、これ? 大丈夫よ。薄皮ぐらいで、大げさに見えるけど、たいしたことないから」


そう言われてみると、確かにもう止血している。


「……これぐらいなら、私にでも出来るって事よ」


そうこぼしたしづるの眼は、寂しそうに見えた。


「うん、うん。何にしてもよかったわ、大事にならなくて」


しづるが何の気なしに抱きしめてくれた。強すぎずまた儚くもなく、包み込むように優しく。


「あっ……」


夕夜の鼻を短い髪がくすぐる。


(温かい……それに)


ちょうど今、どこからか香ってくる春という匂いと同じく、何もなくても、それだけで身体を軽くさせてくれる、甘い香りが自分を満たしていく。


(似ている……あの匂いと……)


知らないけれど知っている、そんな唄を口ずさみながら揺れる揺り篭。


(お母さん……)


夕夜は不思議な感覚に溺れながら、それに身を委ねる。


「……にきゃぁ! ちょ、ちょっと夕夜ちゃん?」


「はれ? どうしたんですか先輩?」


とろんとした眼でしづるを見上げる。


「む、胸を……」


「あ……すいません……でも」


手は止まらない。


その上に、どこからか落ちてきた雫が弾ける。つるつるした夕夜の肌を滑っては、涙が土に消える。


「夕夜ちゃん……べつにいいよ……」


より優しく肩を包まれた。


しづるの顔を見上げると、夕夜は安心して鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を伏せた。


「あり……がとう、ございます」




「ふぅ……」


想い出というまどろみに揺られていた授業を全て終えて、夕夜は寮の自室に帰っていた。


床に足をつけたまま、ベッドに座って上身を投げ出して寝転がり、眼を閉じる。


眠りとは別の闇に身を置いて、しづるとの出会いを思い返すと、必ず母との事が蘇ってくる。


何時の間にか無くしてしまった大切なものが。


暗い世界の中で手を掲げる。


夕夜にとって女性の胸は、母の象徴であり、だからついついあんな事をしてしまう。実際、フカフカして気持ちいいのだ。


そんな楽しい気分とは別に、身体は波に揺られる小船の上で、意識がはっきりとしない。


(何だろ……すごく気持ち悪い……)


それ以上は我慢出来そうになくなって、ゆっくりと目を開け、窓から淡桃色のカーテンを超えて入ってくる夕茜をとり込む。


「なっ! 何これっ」


夕夜は一瞬のうちに、意識がはっきりとして眼を見開く。


そこにはSFもののアニメやゲームでよく見る、通信モニターのような小さな画面がプカプカと無数に重なり合いながら浮かんでいて、自分の周りを巡っていたのだ。


そのどれもに、夕夜が大切にしている想い出が、いつも見る夢のようではなく、はっきりとした色つきの映像で映し出されている。


「あれっ」


夕夜はその不思議な出来事の中で、ひとつ冷静になり、もっと理解できない事実を見つける。


再生されているのは、確かに自分の記憶のはずなのに、その時置かれていて、体験した自分の視界ではないのだ。どこか他の所からまるで傍観して空撮しているようなアングルで映像は進んでいる。


「どうして? こんな…………」


その一つに、自分が母に抱かれている物を見つける。母の細い腕の中で自分でも見た事のないような、安らかな顔でいる幼い自分。


「お母さん……」


こんな事ができるのは、自分の秘めたる可能性が開花した為である事など知らず、夕夜はしづるに抱かれた時と同じように、耐えられなくなった。


綺麗な黒い瞳から涙が、せきを切ってこぼれ、柔らかい頬のラインを滑って、ブルーのシーツにいくつもの染みを作る。


(きっとこれは、神様か何かがくれたものなんだ……)


そんなもの信じた事もないくせに、夕夜はそう片付ける事にしたかった。今はその理由を考えるよりもただ浸っていたい。


(誰にも言えない……でも、いつでもお母さんに会える。あの時の……あの日の、腕の中へ……)


それでよかった、どんなものもそれで受け止められると思った。


だから夕夜は気にしなかったのだ。鮮明なモニターの中、昨夜の秋桜畑で起こった事件は映し出されていなかった事も、そのせいで一日中、モヤの中を歩いていたような思いをした事さえ忘れ、母との想い出に埋もれていた。しづるやほづみと刻んだ新しく大切なものに抱かれながら。


夕夜はこの力のために、自分が何かの歯車に加わってしまったこともわからぬままで、ただ、甘い甘い時間に全てを溶け込ませていく。


それが棘である事も知らず、大切な想いのモニターに触れる度、自分の心が軽くなっていく快感に溺れる。


それは甘い棘の記憶を弄るものにして、夕夜の可能性。


ヒトの大切な記憶を呼び出すことの出来る力。使い方を誤れば、どんなものも失いかねない……しづるの言うナイフのように危険な可能性の種。


スウィートペイン――優しい痛み。




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