第9話 接触-contact03
3
放課後になると、ほづみが席を立つ前に教室の後部ドアから、夕夜が顔をのぞけた。
「先輩っ、お迎えに上がりましたよ」
言いながら、そろそろとほづみの背後へまわり込んでいる。
(ああ……またこの娘は)
ほづみはそれに気付いているし、これから行われる事も今となっては、容易に避けられる。だが、
(まあ、いいか……別にどうってことないし)
と、その程度なので好きにさせている。
「それっ!」
言葉にやや遅れて、夕夜の手がほづみの胸を掴む。
「いやぁ、今日もまたいいですねぇ」
一日で何かが劇的に変わるはずなどない。
(特にこういうのはねぇ……)
我ながら呆れて、ほづみは頬をかいた。
(……でも、どうしてだろ? 何となく温かい……これが他人の温もりなのかな……しづるの時とは別の、もっと悲しみを含んでいない何か……)
浸りながら考えていると、満足したのか夕夜の手が離れていく。
「もうっ夕夜ちゃん、それだって痴漢よチカン!」
「えーっいいじゃないですか。減るモンじゃないし……」
綾の問い詰めに、夕夜はぷうっとかわいらしくほっぺたを膨らませている。
「あはは……」
ほづみは笑いながら、そのやり取りを過ぎて、ドアへ向かう。
「あっ先輩、待ってください」
夕夜が慌てて、後を追ってくる。
午後の色がこぼれる廊下は、きらきらしていて、ほづみはこの眩しさが好きだった。一日がもう終わりに近づいているのに、何か楽しい事が起こるんじゃないかと、思わせてくれる。けれど、これから向かう委員会には気が重く、文化祭自体あまり乗り気じゃないということもあるが、それよりも――
(また、あの娘が来るかもしれない)
その期待感がほづみから、楽しみだという心地と落ち着きを奪っていた。
ほづみの教室がある女子部B棟と、渡り廊下でつながる生徒生活棟は、男子部と女子部のちょうど中間に立っている。ここは男女の棟を繋ぐ場所でもあるが、一階の職員室や保健室など以外は、限られた用途でしか使用されないため、人影の少ない寂しい場所だった。ほづみは委員会が始まって、プリントを眼の前にしても、何を書いてあるのかと知ろうとする気力も起きず、何度手にしたシャープペンを机の上に落としたかわからない。
「ちょっと、しづる。くじ引きの番だよ……しづる?」
「……あっ……うん、ごめん綾、代わりに引いてきて……」
「そりゃいいけど……どうしたの、また変だよ?」
訝しみを置きながら綾は、パイプイスを引いてくじのため生徒会長の元へ行った。
ほづみはその背中を見送ってから、視線を廊下へ向ける。杏の甘いお菓子の色をした世界に、今はあの少女はいない。
(今日は来ないの……)
指先が震える。
それは恐怖からではなく、いわば喜びだろう。またあの少女を見れば、それだけ自分の追う真実に近づけそうなのだ。
(……なのに、何なのっ! この身体の端々を蝕む倦怠感はっ)
奥歯をぐっと噛み合わせ、白い爪の跡が残るほどに拳を握り込むが、指の震えは止まるどころか、より激しくほづみの心だけを、昂ぶらせていった。
「やった! やったよしづる。当たりっ!」
前の方が騒がしい。ほづみは震えを隠すように両手を組み合わせてから顔を上げたが、終わる前に綾が視界に飛び込んできた。
「模擬店当たったよ。しづる、やったね!」
「う、うん」
その勢いに押されて、ほづみはつまりながらも、嬉しいことだけは伝えた。
この日の事件というのはこれぐらいで、あの少女を見ることは結局できなかった。
その帰り、夕夜に呼び止められた事を除けばだが。
「……あの先輩、今日ちょっといいですか? 相談したい事があって……帰りに夕夜のお部屋来て欲しいんですけど……」
夕夜はくねくねと、恥ずかしそうにいう。お部屋というのは夕夜の寮室のことで、九割の生徒と同じく、彼女もここの寮で、ひとり暮しをしている。相談といったがその実、遊んで欲しいのだろう。ほづみにしてもそんな後輩の頼みをむげにする事はできない。それは自分のためにもしづるのためにもだ。
「ええ、いいわよ。今日は別に何もないし」
「そうですか! じゃあ、かばん持ってきますからエントランスホールで待っていてください」
夕夜は、ぱあっと表情を弾けさせて、階段へ消えていった。この棟は夕夜の生活している女子部A棟からは離れているが、そんなに急いでも、たいした時間の短縮にはならないのにと、ほづみはため息で背中を見送った。
「さて、私も……綾!」
呼んでみたが返事はなく、人の数が消えていくなかで、やっとその姿を見つけた。
「はは……そういう事か……お邪魔しちゃ悪いし、先に行くね……」
生徒会長と楽しそうに話している綾を置いて、ほづみはもう真っ赤になった廊下へ出た。
渡り廊下を行く人が自分しかいないので、その中央よりはずれた所に足を止めた。校庭の全景が一望できるそこは、隠れた名スポットかもしれない。
「……人が消えていく……」
校庭の高いフェンスの、長く黒い帯が人影を飲み込んでいく。もう部活も引き上げる時間で、眺めているうちに程なくそこへ人はいなくなり、これから山の端から迫る影たちだけが、広い校庭の住人になっていく。
「こういうのもノスタルジックっていうのかしら……」
知っている言葉では、それが一番適当に思えた。「ふぅ」と一つ息をついて、ほづみは来る時すでに持ってきていたバッグを背負いなおすと、夕夜との待ち合わせ場所へ急いだ。
すれ違う人もなく、リノリウムの張られた廊下には、ほづみの足音だけが気味悪く、戦を呼ぶ唄のように鈍く響いていた。
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