第8話 接触-contact02
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「急いては事を仕損じる……か、昔の人はうまく言ったもんねぇ」
ほづみは朝の通学路を歩きながら思う。空にある雲は緩やかな風にまかれて、それこそゆっくりと旅をしている。
「止まっているかのような優しい時の中で、どんなにか生き急いでも、それには逆らえない……か」
それはしづるの日記帳の所々に走り書きされている詩とも、思想とも言えない文章のひとつだった。
(優しくはないかもだけどね……)
完成時期もわからない巨大な橋を通りすぎて、古い徒橋を渡る。ほづみはそのちょうど中央で足を止めて、ペンキの色があせ、錆とまだらになった手すりに肘を乗せて、河に眼をやった。
河面をささくれ立たせる風が、自分の顔で流れを複雑にして、髪を揺らしながら背後へ消えていく。
「焦っても仕方ないのよね」
ほづみをこんな気持ちにさせたのは昨夜、読み返した日記帳と、わざわざ駅前まで出て、と言っても綾を送ったついでだが、レンタルCDショップで買った、あのアニメーションの主題歌のせいだった。よく歌を聞いただけで泣くと言うが、それもあながち嘘ではないと思えるほど、あの曲には力があった。
(おかげって思えないのが、私らしいかな……)
皮肉を言ってみて、クスリと笑う。
実際、かりかりしていてもいい事なんてない。
――しづるどうしたの、さっきから変だよ?――
なんて綾にまで言われる始末だ。生徒会長を見てそわそわしていただけじゃなく、彼女はちゃんとほづみにも気を配っていたのだ。
また、ほづみの頬を風がなで、そして消えていく。
(表に出しちゃいけない。出来る限り平静であらゆるものへ姿を変えられる水のように……)
自分の持つ格闘術の極意を思い、自身を落ち着かせる。
空はまさに秋のそれで、無数の細かな雲を掲げ淡く青を灯し、ほづみの小さな身体を抱いてくれている。足の下を流れる河は澱んでいて、どんなに綺麗という言葉からかけ離れていても、自分という「生」を強調してくれるようだった。
それは、空と大地の狭間に立っているような、フワフワした足が地にない感覚へ目醒めさせてくれるものでもあった。
「ふぅ……」
ほづみは小さく薄く朝の空気を吸い込むと、次に渡ってくる風にあわせて、唇にメロディを乗せる。覚えたての主旋律はたどたどしくて、どこか自信がない。しかし、朝に溶ける口笛の儚い音は雰囲気にぴったりで、ほづみは気分がよくなってしまった。
そのままリピート演奏で足を動かして、門をくぐり教室まで行くと、今日は先に来ていた綾にクスリと笑われてしまった。
*
(よかった……しづる、今日はいつも通りだ)
というより、口笛まで吹きながら教室に入って来た顔は、上機嫌だと綾には思えていた。何しろホームルーム前で、ざわざわと騒がしい中でも、その上品な旋律がしっかりと耳に入ってくるほどだったのだ。
(本当によかった……)
綾は黒髪を揺らしながら前へ向き直ると、ほっと胸を撫で下ろした。昨日の委員会のときに起きた小さな事件……と言うほどでもない失敗の後、彼女の身体はずっと小刻みに震えていた。
はじめはそんなに恥ずかしかったのかなと思っていたが、その顔を覗きこんで見て、そんな考えはどこかへ吹き飛んでしまった。
今まで見たことのないような笑みを浮かべていた。それはまるで別人のようだったからだ。
会が終了してから、クラスで発表しなければならない事を聞いてみたが、まるで知らない事のような顔をする。
「ねぇ今日は駅まで送ってよ」
だから昨日は、心配でそんなおねだりをしてしまった。彼女もCDショップに用があるとかで賛同してくれたが、その道すがらも問いかけへの反応は鈍く、いやおうなしに不安が募っていった。
電車まで時間があったので、一緒にショップに入ったのだが、言葉を交わすこともなくひとりは商品を漁っていたのでそのままに、綾は腕時計を確認して店を出てしまった。
何かあったのなら、少しぐらい、話を聞かせてくれてもいいじゃないか――そう思っていたが、どうやら大丈夫のようだ。今、自分の横で教卓に立って発言している姿は毅然としている。
(うん、うん、いつものしづるだ)
綾は使い終わったホワイトボードペンのキャップを締め付けながらひとり頷いた。
*
「ですから、模擬店は全学年で合計六店ということになります。なので、当然抽選なわけで……この抽選に参加するかどうかも自由なのですが……」
ほづみは綾に渡されたメモとプリントに書いてある文章を、軽く自分風にアレンジを加えて話す。朝のショートホームルームでこれだけは聞いておかなければ、放課後にある委員会に間に合わないのだ。
「何いってんのしづる!」「そんなの決まってんじゃん」「そう、そう」
と、教室のあちこちから簡単な意見が返ってきた。
(まあ、そうよね……)
やれやれと思いながら、ほづみは笑みを唇に含める。
綾の方を見るとまた、うんうんと頷いている。
「んじゃ、今日の放課後は気合入れて引いてくるので、ばっちり祈っていてください」
パッと手を上げて見せる。
「おおっ、がんばれしづる!」「はずれても怒んないから、当てなさいよっ」
(はは、どういう意味よ……全く)
返すに困惑する声に、いつものように唇をむにりとやって、ほづみは手を戻した。
それを見てか、綾は安心したように笑っている。
教室前方から喝采を割って、ほづみが一番後ろにある自分の席に戻ったところで、一時限目の予鈴が響いた。
(ふぅーやっと終わった……)
落ち着いたところで、ほづみは昨日のシーンを思い出した。こうしてぼんやりとしていて、刺さるような視線を受けた事を、だ。
意識を傾け、没入していくに従い、室内の雑踏が耳から遠ざかっていく。
(……で、あの娘を見た。私を笑っていた冷たい眼……)
思うと、背には冷ややかなものが走り、針のむしろにつま先で立つ感覚が蘇る。
あの時はそれに耐えきれなくて、いきなり立ち上がってしまったのだ。
それを恥じると今朝反省したばかりなのに、急がなければならないという気持ちだけが先へ先へ行こうとする。
「そうよ……静かに、でも何よりも急いで……」
ほづみは静まり返った世界で声に出して、自分に言い聞かせる。
「そうよしづる。何よりも急がなきゃ!」
「うあっと」
綾の声にイスから転げ落ちそうになった。
「ぼーっとしてないで、早くしないと遅刻よっ」
「えっ何で?」
見まわすと教室には、自分と綾しか残っていない。何てことはない、自分で作っていたと思っていた空虚な世界は、実際に人の気配が消えていただけなのだ。
「にぎゃっ! そういえば一時限目って……」
「体育!」
二人、声を上げて顔を見合わせる。
その様がほづみにはおかしかったが、笑う暇もなく教室を飛び出す。これからどんなに急いで体操着にとっかえても、本鈴には間に合わないだろう。ほづみはたらんと肩から力を抜く。
「ほらっダメでも急ぐのっ!」
綾にバンと強く背中を叩かれて、しかたなく廊下を滑るように走った。
その甲斐もなく、結局二人だけ遅刻してしまった。二クラス合同で行われる体育の授業は時間が何よりも大切だというのに。
(それでも少しですんだのは、綾のおかげよね)
ぴっちりとして、身体のラインがはっきりと出る体操着を整えながら、ほづみは横でランニングをしている、かわいい少女にお礼した。
*
「体育もさ、こんなサーキットトレーニングなんかなかったら、それなりに楽しいのにねぇ」「ホントっに……」
苦しそうに息を吐きながら話す、クラスメイト。その足取りは砂状路に入り、余計に重くなっている。
その後ろを黙々と少女は走っている。
腰辺りまである長い髪を、風にはためかせて一歩一歩、砂粒を踏みしめ、しっかりと足跡を残して前へ進む。そうしないと少女は自分の軽い体重では、たいした跡を付けられないことを知っていた。身体の動きに連れ、揺れる前髪の間から瞳がこぼれる。
(……ニセモノのくせに本物より目立っているじゃない……)
「ふぅ」と薄く開いた唇から、漏れる息とともに想いを吐き出す。
(そんなだから私に気付きもしない……確かに、あの時とは髪型も違うけれど……)
二、三組前を行く二人連れ――ほづみと綾の姿を見て、また毒づく。
(どんなにか同じ姿や顔をしていても、全く違う……なのに誰もわからない、気付かない……それだけどうでもいい存在って事なのかしら?)
砂のサクサクという感触を終えて、硬い土に足を下ろす。見るとほづみは、男子でも躊躇しそうな高さの馬跳びを軽々とこなしている。
高いジャンプでほぐれる短い髪の黒が、空の青と混じる。実際に混ぜ合わせれば、それは色として言い難いものになる。だが、ほづみの持つ黒は青の背景にさえ生き生きとした躍動を与えている。
(気持ち悪いっ吐き気がするのよっ!)
たいがいの人間が選ぶ高さの馬跳びを越えながら、想いを震わせる。しかし、その顔の表層は感情を微塵も悟らせないよう、涼やかなものを浮かべている。
舞いあがった時に少し広がった髪が、着地したと同時に垂れる。ボリュウムのないつるつるとした黒髪はとても美しい。
だが、その眼はあの時と同じ、氷よりも冷たさを抱える。
校庭の端にあるフェンスを乗り越えて風が吹き込み、少女の髪を空中に舞わせ、色を辺りに散りばめる。
「…………ちっ」
小さく舌を鳴らして、手首にしていたゴムでそれをひとつにまとめる。そうしてから足早にクラスメイトが集まって、ストレッチを始めている場所へ急いだ。そこには綾とペアになって座っているほづみもいる。
「……今のうちだけよ……せいぜい楽しむのね」
「どうしたの端ヶ谷さん、何か言った?」
「う、ううん。何でもないよ」
口に出してしまったので、となりにいたクラスメイトが声を掛けてきたのだ。
「おーい、佳梨! 早くおいでよぉー」
ストレッチのペアが呼んでいる。
「うんっ」
作り決まった返答をして駆けていく。自分の場所へ行くとき、ほづみの横を通りすぎる瞬間、影とその姿が重なる。
長く垂れた前髪の隙間から、伏せた眼でしまった肢体を見る。
(……あなたには、その黒い影がお似合いよ……)
唇を歪ませながら佳梨は、胸の中で言葉だけを渦巻かせる。その顔は平静としていても仮面を取れば、醜さで埋め尽されているのだ。
「ちょっとしづる、痛いってば……」
「いいのいいの、これぐらいで」
ほづみは綾の背中を、ぐいぐいと力任せに押さえつけている。
佳梨は土の上に座ると、一八〇度近くに開脚し合図すると、ほどなく背中に力が加わって顔が地面に近づき、リズム良く鼻先を土の匂いがかすめていく。
「ひ、ひぎぃーっ。もうかんべんしてってばぁーっ」
綾が耐えかねて声を上げている。
佳梨は顔に迫る本当に小さな石粒が転がる地面から視界を閉じる。
何もない暗い世界で、綾の悲鳴や自分の吐息、ほんの近くにあるものだけが感じられる。
(……また私が壊してあげるわ……あなたも、二度目の天住しづるも……)
佳梨は眼をゆっくりと開けて、世界の光をとり込む。空は嫌味なぐらい晴れていて雲は見えず、朝方薄く煙のようにかかっていたそれも、どこかへ消えてしまったようだ。佳梨は首だけを動かして、もう一度ほづみたちを見ると立ち上がり、お尻についた石粒を払った。
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