第7話 接触-contact01
接触 ~コンタクト~
1
ほづみが妹のしづるとして学園に入り込んで、早くも二週間が経とうとしていた。
「って言うのに、なぁーんにも無しなんて……」
しづることほづみは、誰にも聞こえないようにこぼす。ついつい眠りたくなるふわふわした、午後特有の雰囲気に包まれた六限目の授業が終わり、クラスメイトたちは各々の行くべき場所へと姿を散らして行く。そんな忙しいなかで、ほづみは眼鏡を外して、机にぺったりと突っ伏し唸っていた。
端から見れば、ぐったりしているだけであろうし、ほづみ自身、今日は早く家に帰りたい気分だったが、そうもいかない。
「……文化祭実行委員……」
言葉にすればたったそれだけの簡単なものなのに、気持ちはといえば暗いままだ。
「どうしたのしづる? そんなデローっと溶けちゃって」
もうひとりの実行委員である綾が、うつ伏せの背中へ声を掛けてきた。
「……綾……何でもないって……」
そのまま顔だけを向けたが、綾の表情がほぐれないので、しかたなく身体を起こした。
「……もうっ、ちゃっきりしなきゃ。夏はもう行ってしまったのよ」
綾はドラマでもしないように、両手をその端整な顔の前で組んで、遠くどこかを見るようにする。
「はは……」
その様にあきれて、ほづみは頬をかいた。
「…………もっ、もしかして!」
しばらくそのまま止まっていた綾は、急に思い立ったかのように、髪が散るほどの勢いで向き直った。
「まだ、お姉さんのこと……」
その言葉に疼くはずのない胸が震える。ほづみはびくりとした表情を、表に出さないよう努める。
「……そんなんじゃないよ……ほら、今日は委員会あるでしょ? それでよ」
「本当に……?」
綾はそれが嘘である事を知っているように続けた。
「……そりゃ、考えてないって言ったら嘘かもだけどさ……」
ほづみは眼を伏せる。考えないようにと思っていても、ここで暮らしていたしづるの面影は、ただ友達に名を呼ばれるだけで容易にほづみへと迫ってきた。
(そんな事、覚悟している。私はしづるなんだ)
何度も、何度も、それこそ数を数える事がバカらしいぐらいに、言い聞かせた言葉を思う。そんな風だから、綾には余計に心配をかけている事に、ほづみは気が付かなかった。
綾は高校に入ってから、しづるにできた友達ではあるが、それなりにしづるとは時間を共有してきた。
それなのに夏休みに起きた悲しい出来事は、その距離をまた、遠く引き離したかのように、綾には冷たい風を感じさせた。
実際には――ここにいるのは綾と時間を紡ぎ始めたばかりのほづみなのだ。
「さ、もう委員会行こうよっ」
「そうね…………って、はぅあぁっん!」
ほづみは、いきなりすっとんきょな声を上げる。
ほづみはその突然の感覚に、困惑するしかなかった。何だと自分の胸を見ると、小さく白い指がふにふにと柔らかく動いている。
「にゃ……にゃ……にぎゃーっ」
自分がどんな状況にあるか飲み込めたほづみは、イスを床にぶっ倒して飛び上がり、さっと身を返すと両腕で胸を覆い、手の主に向かう。
「あはははっ、先輩ったら、にぎゃーだなんて、かわいいっ」
ツインテイルに結った髪を、ふるふると毛足が長く、毛並みのいい犬の尻尾のように揺らしながら、少女は肩を震わせて笑っている。
「それにしても先輩、ものすごくボリュウムアップしましたねぇ。うれしいですよ、これも夕夜の努力のおかげですねぇ」
ほづみの後ろに立つ一年生の沖崎夕夜は、うんうんと頷きながら、なぜか得意げに鼻をならしている。
「またっ夕夜ちゃんは!」
綾はそんな夕夜を見て呆れている。というのも彼女は会う度にこんな事をしづるにしてきていたからだ。
「そ、そうよ。こんな……」
ほづみは、肩をしっかりと抱いて夕夜に言う。だが、はっきりときつく言えないのは、ちょっと気持ちいいとか考えてしまったからだった。
(これが……いたずらってわけなのね)
赤い日記帳に書かれていた、ささやかなもの――彼女たちの挨拶と間柄を表すもの――というのは、この事だったらしいと、ほづみは輪の中にいながら俯瞰して思った。
「えへへ……まあ、いつものことですし、いいじゃないですか」
夕夜は小悪魔とか、天邪鬼という言葉がぴったりだろう。性格もだが、その仕草もどこか憎めなくて、とりあえず許そうと思わせてしまう。
「……にしてもね、その……あの……女の子が女の子のム、胸をね……その……」
綾は、はっきりと言おうとしても、何だか恥ずかしくて、もごもごと語尾を濁している。
ほづみは綾の意見に、うんうんと首肯で返した。
「もうっ綾先輩ったら、ヤキモチですか?」
ぺろりと上唇を舐めて、夕夜は眼をトロンとさせて一歩、綾に近づきはじめる。
「ちょっ……やっ夕夜ちゃん、手つきがいやらしいよぉ……」
綾は泣くような声で訴えているが、夕夜はさらに一歩近づく。その手は妖しくなまめかしく動いている。
「それっ」
言うと夕夜は飛びかかり、そのまま綾の胸を弄る。
「ああっちょっ……しづるー、助けてー」
言われたが、ほづみはそれがどこか微笑ましくて、もうちょっと見ていたい気分になっていた。
(いいなぁ、こういうのも……)
自分が一年と半年間、天住ほづみとして通った学校も、楽しくないわけじゃなかったけれど、こんなものはなかったように思う。
それはほづみだったからだろうかと、されるがままの綾を見ながら思っていた。しづるだから今、こんな生活が送れているのかと。
「……ほら、ほら、いいかげんにして。もう行きましょ」
やれやれという感じで、ほづみはやっと口を開く。
「そうですよ。私もお二人を呼びに来たんですから」
夕夜も手を止めて、二年生の教室に来た理由を告げてくる。やっと解放された綾は机に手をついて、ハァハァと乱れた呼吸を整え、妙に艶っぽい仕草で頬に張りついた長い髪をかきあげている。
「そ、んじゃ行きましょうか」
ほづみは二人を促して、委員会が行われる生徒会棟へ向かう事にした。
(あぁあ、やっぱり、だるいけどね……)
考えると足取りはとたんに重くなり、そのまま立ち止まってしまいたくなる。だが、夕夜に背中をぐいぐいと押されているので、それは叶わぬ願いだ。
*
「……あれがニセモノ……」
三人が教室を出て、廊下の端へ消える後姿を眼で追っている人陰がある。出っ張った柱の影から、ほづみたちを見ていた少女は身をひるがえして、反対側の端へと姿を溶けこませた。
「……ちっ、せっかく始末してあげたのに……また私の前に……」
午後の日差しに隠された表情は、見て取る事ができない。それが笑顔なのか、醜く引きつった顔なのか……。
*
学園祭は男子部、女子部共同で行われるため、双方の力の入れようは凄まじい。
会議室の席について、ほづみはなぜか、冷ややかに他の委員達を見ていた。夕夜は相変わらずで、眼があうとパチリとウィンクしたりする。それにあきれて、ほづみはむにりと唇を突き出すだけだ。
(以外なのは綾よね……)
いつもはおっとりとしているように見える彼女も、どこかそわそわしているようだ。
(そういえば生徒会長って、綾の幼馴染だったっけ?)
今も発言を続ける会長を見て、綾はそわそわしているのだ。
(もしかして……好きなのかな綾?)
ほづみもちらりと見てみる。
スクウェアを強調したデザインの眼鏡をかけて、短めに刈りこんだ髪、真面目さと清潔感。第一印象はそんなものだった。
(まあ、どこの学校にもひとりはいるタイプよね)
生徒会長の風体に、たいしたカリスマ性も見出せないほづみは、さっきから描いているぐるぐると、何だかよくわからない落書きの続きを始めた。
軽いタッチでシャープペンシルの芯を浪費して、配布されたわら半紙のプリントへ、文字を避けて描きこんでいく。
(ふっふーん、私の絵心もなかなかよね)
出来上がったそれは、昨日食べたラーメンに入っていたナルトだ。
突然視線を感じ、はっとして顔を上げたが、相変わらず会長が何か喋っているだけなので、また顔を下ろした。
(さてさて、もう一個描いちゃお)
ほづみはそのデキに満足して、またナルトらしきものをプリントに生み出し始める。
(……ぐーる、ぐーる……)
と、今ある全てのものを無視して、世界を閉じる。
耳に届くのは、安い紙とペンの作るかすれた音だけで、話を続けているだろう会長の声、隣にいる綾の戸惑い、その他いくつもが奏でる生きていることの音たちが、ほづみの中にある静寂へと収縮して消えていく。
(よーし、もう少しで……)
完成かと思った瞬間に、そのペンの先端から芯が弾けた。音もないような世界の中で折れた部分は、十六分割の連続写真のように、場面を追いほづみの方へ飛んでくる。
(ちぇっ)
そう思いゆっくりと顔をさけながら、通り過ぎて行く一ミリ、二ミリの物体を眼で追った。
「!」
続くかと思っていた自分の顔の動きと、視線が止まった。
廊下に面した不揃いに開けられたすりガラスの隙間に、吸い付けられるように眼が止まってしまった。
(……何、あの視線は……)
対面の遠い廊下に佇むその影は、じっと動かず、ほづみだけを見ているようだった。それは彼女が浸っている、自分だけの世界にひびを走らせる力を持っている。
(何だって言うの? どうして私を……!)
豪快な音を立ててパイプイスが転がる。
「ど、どうしたのしづる?」
突然の起立に困惑しながらも、綾が声をかけてきた。
「えっ? ……あっ……」
一息に自分の世界と、この世界が結び付けられていく。
「あ…………」
それに連れて恥ずかしさがこみ上げ、自分の行為が早急に現実味を帯びる。
「あの、何か発言ですか?」
会長が問いかけてくる。
ほづみはもじもじと赤くなった顔を伏せて、バカみたいに開けていた口をつむる。
「……いえ、何でもないです」
そう言ってストンと膝を折って、イスを戻すとそそくさと座り込んだ。ほづみは何だかもう恥ずかしくて、恥ずかしくて死にそうだった。
ややあって、皆が一斉に笑い出す。その笑い声に、ほづみはまた赤くなった。
だが、救われた気もしていた。
(……でも、あの娘は……いったい)
やっと落ち着いた胸を撫でる。
(あの娘の眼、なんて冷たかったんだろう)
テレビで見たロシアの凍土に、吹きすさぶ狂乱した雪を思い起こさせる。
表情や感情を消し飛ばした大きな瞳は生きているのか、死んでいるのかもわからず、わずかな記憶を広げてみると、この残暑でも身体がカタカタと震える。
(……氷の女王)
戦慄く唇の端と端を強く結び、眼鏡のレンズ端で歪む視界に眼を向け、二重に見える机の角を睨む。
(……それに笑っていた。私を、私だけを見て笑っていた)
その理由はよくわからない。
(ただの知り合い? でも日記には何もなかった……)
綾や夕夜については、ご丁寧にゲーセンのプリントシールや、スナップ写真まで挟み込んであったのだ。
だが、あの凍てついた瞳の少女については、一行だって見当たらなかった。
(天住しづるを見て笑った……それとも、私だから?)
言ってほづみは気付いた。少女の行動がただの笑みでなかった事に。
(そんなに優しいものじゃない。あれは何かを冷ややかでも、確実に憎むものだ……)
ほづみは一層、眼を斜に伏せる。
あの表情には自分も憶えがあった。
鏡で見たあの時の自分の顔は今でも忘れられない。どんなにか笑っていても、死んでいるようで冷たくて……この上なく醜くて、吐きたくなった。
それを見たのがいつ、どんな理由でだったかを都合よく忘れてしまうほどにだ。
(……悪意……)
それだけが静の中で溢れ出していた。
(もし、私を見て笑ったのなら……)
ほづみの中を確信めいたものが走る。長い間冷めていたものが蘇り、身体の芯から熱い感情がわきあがってくる。
(……見つけた。見つけたよ、しづる……)
ほづみは誰にもわからないように深く俯いて下卑た笑みを浮かべる。
(……どんなにか……)
自分が今、あの少女よりも醜く微笑んでいるとわかっていても……。
(……かまいはしない……)
唇の端を吊り上げて思うと、ほづみはまたシャープペンシルを取って落書きを始めた。
隣には大真面目に、会長からの連絡をプリントに書き取っている綾がいる。それさえも無視して、ほづみは書きつづける。
(……ふふ……ふふ……ふふ……)
何かにとりつかれ、ブツブツと含み笑いを浮かべながら、綺麗な顔を歪ませ、ほづみは近くにある雑踏さえ対岸の花と、脆弱なもののように思えていた。
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