第6話 潜入-dive03

  3



私は二階の自室に上がり、もらったお金を置くと、すぐに降りてきた。下駄箱の上に眼鏡を置き、玄関に座って通学でも使っているスニーカーを履いていると、運悪く母が私の後ろに立った。


「どこに行くのしづるちゃん?」


「えつ……ちょっとランニングにで……」


「やめてっ!」


言い終わる前に、母は私に誓願してきた。


「どうして……ちょっとその辺まわってくるだけだよ?」


「やめてっ、お願いだからっ! あなたまでいなくなったら、私はどうすればいいのっ」


言われてみてから、母は私まで通り魔に殺されるのではないかと、気をもんでいるのだと気づいた。


「……大丈夫だから、心配しないで?」


そもそも、そんなものは居ないので、襲われる事などないのだ。それに私ならば、拳銃でも持っていなければ、そういう輩程度、軽くあしらえるだろう。だから、母の危惧など忘れてしまっていたのだ。


「でもっ」


「大丈夫だって!」


言って私は、それ以上相手にしてられないと、強引にドアから出た。


「もう……イライラするんだって……」


門を出てから、家のほうを睨んで、私はそうこぼした。こんなやりとりもこれが初めてというわけじゃなかったけれど、ここのところご無沙汰だったので、気を回していなかったのだ。


「本当にそんな風に思っているの? お母さん……」


歩きながら全身を少しずつほぐす。


私が誰かさえわかってないのに、そんな事だけ思うなんて身勝手だと、道ばたの小石にあたりながら至る。


本当はわかって欲しかったのかもしれない。だから私は食事が済んでも、すぐに自室に行かず、リビングでゆっくりしているのかもしれない。


そんな考えが浮かんだけれど、しだいに上げたピッチにつれ、流れていく景色と一緒に頬に当たる風で、どこかへ消えて行った。



トップスピードにあげて一気にここまで来ると、息が少々荒くなる。


ここと言うのはただの公園で、家からも2キロと離れていない。けれど続くは山道で、公園自体も山の中腹にある。はっきり言って、どんな目的でこんな場所に作られたのか謎の代物だ。


「でも、このほうが好都合なのよね」


なんの遊具もなく、ただ広場の中央に大きな桜の木がある。そのごつごつとした木肌に触れながら、私は呼吸を整えた。


「ふぅー……」


今までは道場で、人相手のトレーニングができたが、こっちに移ってきてからは、実戦的な事が何もできない。基本的に私の使う技は相手があってこそなのだ。型というものはとくに存在しない超実戦を根に置いてあるためだが、もちろんこれを教えにするのは私一人。


この格闘術は、いわゆる一子相伝なのだ。


「ッシ、ハッ!」


私は何もない空間へ、次々と打撃を放っていく。ボクシングのシャドウと同じで相手は私の想像力だ。打撃に関してはこれでいいのだが、投げ技や関節技については何も訓練できないので、勘が鈍る事が、少々心配だった。


「ハッ、ハッ、ハッ!」


それこそ考えても仕方ないので、私はシャドウを続ける。二十分くらい動き続けて、身体も十分に温まったのでストレッチに移った。


基本的な柔軟は体に染みついてできているので、後はいかにこれを伸ばし、維持するかが重要なのだ。私は座り込むと、もう暗くなっている地面に、ショーツから覗くふとももを押し付ける。


「……冷たくていい気持ち」


今度は思いきり開脚して前屈、息を吐きながら、顔が地面に触れるまで伸ばす。その後に自分で片方の踵を持って、薄暗い空から土の地面を繰り返し眼で追うように横転する。


「ふぅぅ……」


こうすると、ひとりでも身体がよく伸びるのでかなり気持ちよくなってしまう。端から見れば、I字開脚して地面をごろごろ転がっているだけなので、その様は異様だろう。


「よしっと」


十二分にゴロゴロしたので、私は満足して立ちあがる。それに連れて、全身についた砂粒や小石がはがれていく。自然に落ちきらない分を手で払って、私は切り立った崖にあるフェンスの方へ向かう。


手にペンキのはがれかけた鉄の冷たさを感じ取ると、遠くまで見渡せるその場所から、視線を泳がせた。


「ふぅー……」


大きく息をついて、私は汗で湿った髪をかきあげる。そのしぐさと同じくして、背後から風が通り抜けていった。


秋の夕べというにふさわしく、辺りはもう暗い。遠い山の空だけが、わずかに赤いだけだった。


「ここから見える風景は、ほとんど変わってないのにね……近くに行って見れば、そのひとつひとつが、いろんな顔をして変わっていっている……」


私は詩人にでもなったつもりで、言葉を連ねてみる。けれどそのどれもが不揃いで、いまいち心情にはひたれない。それでも振り返り、眼に入る桜を想うと、心には遠い風景が思い浮かんできた。


「しづる……」


初めてここへ来たのはいつだったろうか?


「小学生……四年ぐらいだったかな……」


それまでは怖くて、遠くて、とてもここまで近づけなかった。私はその日も全く乗り気じゃなかったけれど、あの娘に手をひかれて、えっちらおっちら、息を荒く吐きながらそこの坂道を登った。



「ほづみ、しっかりしてよ。もうすぐだから」


「えー……もう疲れたよ。それにこんな何もない所、楽しくないって……」


春になったばかりだったけど、風がとても暖かくて、シャツの下が薄っすら汗ばんでいた。


道にはタンポポやオオイヌノフグリなど、小さな花々が散りばめられていた。そんな事ばかり憶えているのも、私は疲れていて、下ばかり向いていたからだけど……。


「だーかーら、ちゃんと顔上げてみなってば!」


「えぇー?」


私は言われて、汗の粒が頬を伝って土に黒い染みをつけるのを見届けてから、顔を上げた。


「…………」


瞬間、風の後について、何かが私の眼前を通り抜けて行く。振り返り、それが小さく小さく空へ溶けこんで行く頃、欠片が何だったのか、やっとわかった。


「桜……」


眼を戻すと、いつのまにか私を置いて行ってしまっていたあの娘だけが、ピンク色をした大樹の下にいた。


「ああっひどい。自分だけ先に!」


私は急いで桜の下に行こうと、地面を蹴った。


広場の所々に、風に散らされた淡い花びらが吹き溜まり、あちこちに大きく小さく薄桃色の水溜りとして口を開けていた。いつもならその中に足を突っ込んでしまいたい好奇心が生まれるのだけれど、なぜかその時、それは、それだけは自分の足で踏み作る波紋で、乱してはいけないような、絶対的な美しさを持っていたように思えた。


「もー何やってるの? 早くおいでってば!」


また立ち尽くしていた私を、あの娘はせっつく。


「わかってるって……」


言葉を返してみると、その姿は太くて立派な枝の上にあった。


「……また、そんなとこにのぼって……パンツ丸見えじゃん」


「いいでしょ、二人きりなんだから」


買ってもらったばかりの赤いスカートを風にはためかせて、どこか遠くを見ていた。


私は気になって、何が見えるのと聞いてみたけれど、それはここから見えるものとたいして変わらないようにも思えた。


「……そうね、ちょびっとだけ特別って感じがするかなぁ?」



あの時は何もわからなかったし、気にもならなかった。


私は木の下で、あの娘と同じ方向を見ていただけで、特に何でもない。頭の上では赤い布のはためく音がしていて、私の腰でも同じデザインで色違いのスカートが、パタパタと春の風を感じているだけだった。風も色も音も、何の変哲もない日常のはずだった。


それが今、たまらなく愛しい。


「……そんな事をしないと、私達の見分けがつかなかったのかなぁ……」


思えば子どもの頃の服は、同じデザインで違う色というパターンばかりだった。


「別に嫌だったわけじゃないけどね……」


こんな風に考えを巡らせていると、この場所では私の鼻には必ず甘い香りが蘇ってくる。


「桜なんて、そんなに匂うわけじゃないし、どうしてだろ?」


もしかしたらそれは、あの娘の香りだったのかもしれない。場所と記憶が重なったときにだけ再生される勝手なものに、私は少し腹が立った。


同時にこれこそが、認めたくないのに、あの娘がもう記憶にしかとどまっていない、この世界にいない事を知らしめているようで怖かった。


「そうね……もういない……んだよね……」


広がる町並みから視線をはずすと、風とともに一枚の枯葉が頬をかすめ、暗くなり始めた世界へ引き込まれて行った。それはあの日、甘く大切な記憶の中の花びらと違って、ひどくもの哀しい。


「ふー……」


私は一息ついてフェンスから身をはがし、山道を下り始めた。


それ以上そこで考えていると、自分の心も風に運ばれて、どこか暗いところへ行ってしまいそうだったからだ。



「……ただいま」


 すでに暗い藍に染められた道を山から伝う送電線をたどって帰りつき、私は誰にも聞こえない声で言葉を残し、そそくさとお風呂へ向かった。


汗で少し重くなった服を、洗濯機へぽいぽい投げ入れていく。


「……そうね、これも共通点かな……」


別に身体の同じ所に、今もハートっぽい形のアザやほくろがあるっていうような、ファンタジックな事じゃない。下着の趣味が同じなのだ。スポーツタイプのそれのおかげで、サイズが違っても何とかやり過ごせていた。


あの娘の場合、乙女を体現する服の好みと下着の好みが真逆で面白い。


「……はは、きついのは確かなんだけどね……こっそり自分のと変えちゃおうっと……ただ高校生にもなって、かわいい下着も持ってない事は、問題なのかなぁ……」


ひとりでぶつぶつこぼしながら洗面器に湯船から湯をすくう。


「あつっ」


ちょっと温度が高い気もしたけれど、私は頭からかぶった。


ザバンと大きな音で、私の全身を水分が通り抜けてホーローの床で水滴がはじけるのが下を向いているとよくわかった。それからいつも通り、私は髪を洗い、身体を洗って、洗顔する。


「これが短くなって良かったこともあるわね」


まあ、洗うのが楽っていうぐらいだけど。


少し置いておいたヘアパックを流すと、まだ髪が長かった頃が懐かしくなった。シャンプーはたくさん使うし、洗い流すのも乾かすのも面倒、そのくせ稽古で毎日たくさん汗をかく……今思えばどうしてあんな髪だったのだろう。


「合理的じゃないよね」


息を吐きながら、私はたっぷりと張ってあるお湯の中へ身体を溶けこませる。長方形というのか、人の形にいいように作られた浴槽の壁に、背中をぴったりとくっつけて天井を眺めた。


「……っていうか、お風呂の中とかトイレとか……そんなところって」


狭っ苦しく、ひとりになれる場所では気付かないうちに、いつも答えの出そうにないことに、考えをめぐらせる自分がいる。


「これって癖かなぁ」


膝を引き寄せて、その上にあごを乗せる。


お湯で温まったそれは、頬で感じられるほどで、まるで他人のもののようだった。


「そんな事ないか、誰にでもあるよね」


そう呟いて、唇をむにりと突き出す。その表情が鏡に映って、私の眼にはねかえってくる。


「我ながらやっぱりそっくりね」


でも、それは表面だけだ。


私はあの娘のように楽しく、かわいらしく笑った事などない。


いつも何かに不満で。


それをいつも、誰かのせいにしていた気がする。


「だから私には、いまでも目醒めがやってこないのかなぁ」


湯の中で手を開いたり閉じたり、湯を掴むように握る。その感覚は奇妙で、続けることで変に研ぎ澄まされてくる。


「……ああっ!」


 私は縮こまっていた身体を伸ばして、眠るように沈める。


口元まで湯につかり、十数えて思いきり立ちあがった。重力に引かれた液体を無理にひきはがされ、それに従えなかった水滴は、ほんのりと赤い肌を滑り散っていく。


「考えても仕方ない。私がやることはひとつ……この力が私のものじゃなくてもいい。私は私のできる事をする……それでいいんだよね、しづる……」


みずみずしい足を鳴らして私はお風呂から上がった。



ひらひらと闇夜から入りこんでくる風に、カーテンが揺れている。私はいい月が出ているので、部屋の明かりを落として、ベッドで横になっていた。


時計はもう、日付を今日から明日へ変えようとしている。静寂の中にあるのは、窓から来る虫の声と、丸い掛け時計の秒を刻む音。


天井には蛍光の安っぽい作り物の星空。


そんなささやかなものたちでも、私の気を紛らわせるには十分だったはずだ。


「ふぅ……お風呂であんな決意をしたばっかりだって言うのに……私は……」


また答えの出ない考えに陥って、私はぐるぐるとまわっていた。


私は色んなことに迷っていたのかもしれない。手をかざして、天井の小さな蛍光を眼から消す。ふとした瞬間に再生される記憶と同じように、決意と揺らぎのせめぎあいが、私を不安にする。


「もう決めた事なのに……何に未練があるっていうの?」


言って私は、はっとした。


未練――私が私であることを大切に思うほど、私は自分という人間が好きではなかったはずだ。


「嫉妬……?」


そうなのかもしれない。


私は妬ましかったんだ。同じ顔をしていても、あの娘の笑顔は、私にさえ特別を感じさせるものだった。


安らかになっていく心と、そのどこかで信じられないほど、憎んでいた心があったのかもしれない。


「だから、私はこの家を出たのかな?」


それも、親のせいだと思っていた。私をちっとも見てくれない、あの人たちのせいだと……。


「……死……か」


それは人にたくさんのモノを与えるんだと私は思った。それ自体は無くなり、どこにも居られなくなる虚無でしかないのに……と。


「複雑ね……確かにさ」


私だってこの手に、あの娘の最後を抱く事がなかったら、こんなには考えなかっただろう。まして、思い出の中から私の汚いものまで見つける事はなかったに違いない。


薄いタオルケットの中で、あっちこっちに身体の向きを変えながら唸る。


あの娘は私に力を与えただけじゃなかった。こうして不細工だけど、成長を与えてくれた。それは小さくもあの娘がシードとして、この世に咲かせたかった想いかもしれない。


「ふふ、ほんの少しだけど、お願いが叶ったかもね」


決して幸せではないけれど、心は温かくなった気もした。自分を自分で認めるっていうことは、どんな事にしたって難しい事なんだ。


私は薄く唇を結ぶと、本格的に眼を閉じた。鼻から息を吸い込むと、もう何回も洗濯しているはずなのに、あの娘の甘い香りがした気がした。


私はそのまま、窓を閉めることも忘れて眠ってしまい、なんて無用心なと、朝起きて自分で驚いてしまった。幸い風邪はひかなかったけれど、この日見た夢は、それさえも消してしまうほど、安らかで綺麗な紅に染まった記憶だった。


幼い私達と今、少女の私達。


あの桜の木の下で、花びらにまみれながら二人は口付けを交わす。


唇が触れた瞬間、あの娘は消えてしまう。それはまるで私とひとつに、何もかも混ざり合って行くような不思議だとしか言いようのないもの。あの娘の姿がないとわかると、私の頬を勝手に溢れた涙が伝い、それが唇に触れたところで眼が覚めた。


薄いピンクの唇の感触だけがリアルに残っていた。


その時、私は感じた。あの娘は今も私の中にいる、そのカタチはもうないけれど、私がいる限り。


そして私が私でいる限り。


「そうよね。私があの娘のためにできること……」


指で自分の唇をそっと拭うと、きゅっと強く結んだ。


――あいつを救う――


今はそれだけ。


そのために……。



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