第3話 near prologue

あの日、私は私、天住ほづみを殺した。



その日はまさに夏を体現した天気だった。家路への道すがら太陽は容赦無く肌を焼きつけてきた。


私は高校へ通うため離れていた実家へと、久し振りに帰ってきていた。夏休みの帰郷というやつだ。


「変わらないよね……」


玄関のドアを開けた空間の匂いはたやすく変わるものじゃない。


どうやら誰もいないらしいのは施錠されていたことでわかっていた。それでも、誰かが迎えてくれるかもしれないという淡い気持ちがあったのも事実だ。


ここを出て以来、見ていない居間も何も変わっていなかった。別にちょくちょく帰ってこられない距離ではなかったけれど、何だかそれさえ面倒で、高校入学以来一年半、私は敷居をまたがなかった。


それでも、この家にいる私の半身ともいえる妹のしづるとだけは連絡を取っていた。


「……お父さんやお母さんに話すことはないけどね」


乾燥した笑いを含めて、私はクーラーで冷えてきたふかふかとした革のソファーに身を埋めた。そうして手を垂らすと床に置いてある雑誌に指先が触れたので、何の気なしに拾い上げてめくった。たぶんしづるが読むのだろうけど、ティーン向けのファッション雑誌、ちかちかする配色の服飾メーカー特集が適当に開けたページに広がっていた。


「しづる、まだこういうの着るんだ……」


あの娘の好みを知らないわけではなかったけれど、今も変わらないと改めて確認すると、何だか妙に懐かしかった。


「……まだ帰って来ないなんて、何しているんだろ?」


ぱらぱらとページを弄びながら木目の壁に掛かった時計を見ると、午後二時ちかくになっている。私が帰郷してからもう一時間は経ったことになる。これ以上だとあまりやる事もないから、庭に出て身体でも動かそうかとも思っていた。


「……でも、汗かくの嫌だしな」


赤と白に切り替えられたラグランのTシャツをぱたぱたやって、私は汗まみれを想像してみた。


「うー、やっぱ、やめ、やめ。今日ぐらいはね」


私は高校に入って、祖父の家から通うようになってから毎日、なんたらという格闘技を叩きこまれてきた。


『ほづみ、上段への攻撃は最も注意すべきものだぞ。見栄えが派手な分、フェイントにもつかえるし、当たれば威力も大きい』


眼を閉じるとすぐに祖父の声が再生できてしまう。幼いころから遊び程度だった格闘技を本気でやるつもりなんてなかった。ただ、ダイエットや護身には丁度いいかなと思って始めた程度で動機としてはかなり不純なものだろう。でも、祖父はそうでもなかったらしい。近所の子ども達のために開いた道場だと言っていたくせに、私が始めるといったら


『よし、わしの全てをお前に伝える。それにお前みたいにかわいらしい子はいざという時、自分で身を守れなければならん』


とすごい意気込みで、その時になって私はしまったなと後悔した。その日から何かにつけて修行という理で、色々なことをやらされてしまった。


『ほづみには元々、才があったのだろう』


そんな言葉通りか、私のいらない努力のおかげか、この短期間で私は祖父の全てを吸収してしまった。そのせいで、この身体はかなり危険なものになってしまっている。何せ、その格闘術はもとを辿れば闇に舞う暗殺拳とかで幕府に仕えていたとも言うのだ。


実は一族、ニンジャの末裔だったのか。


その技は打撃、投げ、関節技と多岐にわたり、そのどれもがとんでもない威力を秘めている。すなわち、人をいかにして殺めるかを突き詰めた結果だ。


決して、ケンカに手加減でも使っていいものではない。


「私も暗殺者にでもなっちゃうの?」


 と馬鹿げた想像さえ実現しかねないので、唇の端を吊り上げるしかなかった。


「んっ? 帰ったのかな、しづる」


私がその奇妙な物音に気付いたのは二冊目の雑誌をめくり終える頃だった。ソファーから身体をはがし、自分の形にへこんだ革の上に雑誌を放り出した。


「はい、はいっと……」


ペタペタと素足を廊下に鳴らして私は玄関へ向かう。


私を動かした物音がドアの所でまたせがむ。


「……しづる? しづるなの?」


問いかけにアルミ製のドアが少しだけ開き、その薄い隙間から白い指が見えた。


「どうしたの? しづるでしょ、久しぶりだからってそんな意地悪しなくてもいいじゃない」


ちょっとすねて見せる。


「ほ、づ……み」


そうすると、やっと開かれたドアから長く見ることの無かったしづるの身体が入ってきた。というよりもなだれ込んできた。


しづるはお腹をおさえて、はぁはぁと大きく肩で息をついている。


「どうしたの? 私に会いたいからって、走って帰ってきたとか……」


そこまで言って、私の思考は全て止まった。


しづるのお腹からはその手の隙間を縫って赤いものがだらだらと糸をはわせていた。


それは下向きに咲く彼岸花のようで放射線状に鮮やかな紅を描いている。その花びらの先端から腕を伝って玄関のタイルに赤い飛沫が散っていく。


「よかった……やっぱり、ほづみがいてくれて……」


しづるはスローモーションで玄関の上りかまちへすがるように膝を折った。その拍子にしづるのかけていた眼鏡が板の廊下を滑っていく。


「し、しづるっ!」


私は我に返って駆けよる。思わず足が滑りそうになったけれど、しっかりと胸に身体を抱いた。


「ふふ……あったかい」


しづるはそんなことをいう。きっと言葉が違うだろうことは、その額や頬を覆う汗が物語っている。


久々に再会した双子の妹はその生を終焉させる表情を描いてなお、優しく微笑んでいた。


「ど、どうしたっていうの! これは、この傷はいったい?」


私は自分の手についたこの液体が何かなんて信じたくなかった。それでもそれは生暖かくて、生臭くて、よく知っているものでねちゃねちゃとまとわりついて、口の中を切ったときのあの味が脳裏にはっきりと浮かんでくる。


「……ちょっと、ね……」


とても短い言葉でもしづるは苦しそうに吐く。


「は、早く何とかしなきゃ……そ、そうだ救急車!」


激しい呼吸で揺れる身体を抱いたまま、どうしたらいいのかわからずに、頭を必死に動かしていると私の頬に指が触れた。それはかすかに温もりを持っていて、血で真っ赤に染まっている。


「……少し痩せた? でも胸だけはこんなになって……ちょっと悔しい」


しづるは私の胸に顔を埋めて大きな息をつきながら途切れ途切れで話す。


「そんな事どうでもいいでしょ? 今は早く!」


「いいの……いいから聞いて、ほづみ」


しづるは頬にあった手をずるずると下ろして私の手を強く握る。真正面にある姿鏡で見た私の顔には、人差し指、中指、薬指、その三本の赤い路がはっきりと通っていた。


「……この世界には……うまくいかない事が多いね」


私には何を言っているのかよくわからなかった。そのしづるの様子だけを見て、私の奥歯はカチカチと音を立てていて、視界は自分の奥から込み上げてくる涙でぼやけ始めていた。


「本当……私もそのうまくいかないパーツのひとつだったのかもしれない」


しづるは続ける。私がした瞬きで溢れた涙がしづるの頬で跳ねる。


「……ふふ、うれしいね。私がいなくなる事で泣いてくれる人がいるっていうのは……生きてた事が無駄じゃないって思えるよ」


「そ、そんな事!」


私はしづるの発した言葉に耳を疑った。


今、今なんて言ったのだろうと。


「でも、今はお話聞いてね。私は世界を愛するために産まれてきたんだって思っていた。だって、こんな力を持っていたんだもの。けど、それは私のおごりだったのかもね……結局、負けちゃったし……」


しづるは言葉とともに私の手を離して、その赤いもみじの手で何かを――そこに雲や月でもあるようにふらふらと頼りなく空中にはわせる。そして、眼に見えない何かを握ると私の胸に押し当てた。


「えっ……」


私は急に自分の身体が熱くなるのを感じて戸惑った。どこからか押し寄せてくる波は強弱をつけて思考を揺さぶり、燃えるような火照りが身体の末端まで突き抜けていく。私は額に汗しながらもしづるの顔をみると、なぜか優しそうに笑っている。それは一夜で命を散らす花のように美しく、そして哀しい。


「ごめんね……こんな事……でもね、ほづみにしか頼めないの。ううん……ほづみにだから頼める。私の学校に私と同じような力を持ったやつがいるの……あいつは、あいつはこの世界の愛し方を間違っている……」


私は身体の変化に驚きながらもしづるの話だけは聞き逃さまいと踏ん張っていた。


「私はまだ幸せね……こうして最愛に包まれて逝けるんだから……」


呼吸はあまりに激しいくせに今にも止まりそうな儚さを抱いていた。


「お願い、ほづみ……あいつを、この世界を救って。私の力とあなたのまだ見ぬ可能性で……ほづみにしか頼めないの……私の…………私の………………」


 言葉は途切れ、穏やかな呼吸ひとつ消える頃、赤い紅葉が冷たい廊下に散華した。





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