第2話 Another side

アナザーサイド プロローグ



月が照っている。


薄墨を引いた夜空の遥か彼方から訪れる光は、地表に届く前、ここで口噤み佇む少女に影をつける。


校舎の屋上、さらにその上に乗る塔屋に、少女はだらりと腕を投げ出して見渡す。


「…………」


満ちかけている月歳と同じ年端の少女は、長い髪を秋の冷たい夜風に流し月光を受け、肌をライムライトに染めているが、表情は光のコントラストが強すぎて、どんな想いを灯しているのかはわからない。


少女には自分が少女であるというぐらいの認識しか浮かんでいなかった。産まれたばかりの存在は世界と同じ位、青に澱んでいるのだ。


靴も履いていない足には、夜気に染まったコンクリートはくすぐったいものだという感覚が芽生えた。


「…………」


見下ろすと、冷めた灰色の地面に、キスをするように倒れている女が、丸く大きな眼に入った。


「あ……う……」


話そうとするがうまく言葉にならない。


倒れている女は小さく弱々しい。


だが、肩が呼吸から小刻みに上下しているので、死んでいるわけではないのだろう。


そうわかると、なぜか胸の奥が穏やかになる。


白いワンピースの胸元を覗くと、小さな赤いあざのようなものが見える。


この穏やかさは、そのあざの奥にある心というものが深呼吸でもしているのだろう。下にいる女は変わらず肩を揺らしているが、それはリズムよく続くのではなく、不規則になっている。


――もしかして、泣いているの?――


出そうと思えば、無理ではなくなった声もひそめる。


今自分がこの人間に何かを伝えるべきではない、この人間に関ってはならないと、胸のあざがうずいたのだ。


少女は身を返して月に向く。踊るよう注ぐ光を両手に集めると、軽く地を蹴る。


身体はそんな小さな動きとは違い、少女を持ち上げる力を産み、宙へ舞い上がる。


そして暗く沈んだ校舎の影へ、その身を放る。


――私はここで何をするか……その意味はすでにこの中に芽生えた――


風に巻かれた長い黒髪が、身体にまとわりつくが、それを払う事もせず、引かれる力に逆らわず、黒と白の混じった繭となって下へ落ちて行く。


その時、不意に眼が合ってしまった。


――ねぇ、あなたは何をして泣いているの? 何に届かなかったの……――


身を伏せたままの女を、自分の上に見て何かが強く香る屋上を過ぎた。


眼には月や山や空が、ぐるぐると飛び込んでくる。等間隔で通過していく教室の窓という薄い鏡に、小さな姿を写しては消えていく少女。


やがて地表に到達すれば、合図があるはずだ。全てのものが落下という行動で奏でる音。


だが、少女は何かがつぶれたような、汚らわしい音を立てることなく、素足を茶色い地面につけた。


「私のしてきた事。私がこれからする事……それは種を蒔く事。枯れることのない力の種を蒔く事……この世界を埋め尽くすまで……」


乱れた髪を手で整え、薄く唇を開き、少女は笑みを浮かべる。


小さな背で見上げる校舎は、何よりも巨大で、それに囲まれたここは、井戸の底のようだった。


「こんな所でも光が届けば種は花をつける。日を受けて咲く、ありきたりの物だけじゃない。月の光にしか花を見せぬ気高きもののような力、それを世界は望んでいる」


緩やかに舞うごとく、虚空へ手を掲げる。


そして、もう一度微笑む。吹き付けてくる風にはためく服も、黒い糸を散らし流れる髪もそのままで、舞い上がっていく枯葉を見つめる。


それは眼を痛めることのない月光をまとい、鈍く光るジュラルミンの小片にも似ていた。


「そう……それが私のここにいる理由。あれから産まれたわけ……」


もう一度誰かに会う。そんなすてきな事など、彼女の認識の元には存在しない。ただ、誰かの都合のいいように産まれたのだ。


「人としてではない。可能性の残響としてここにいる……でも、どうして」


足は地に付き、この身体には血さえ通っているのだろう。だが明らかに何かを越えた力が備わっているのだ。それも何か意味があるというのか。


「……面白いね。本当に私という存在に別の意味があるのなら、それに出くわすまで、私は今ある使命を果たすだけ」


少女は歩き始める。足音はなく、水面が水滴で波紋を生む感覚に似たものが、滑るように過ぎて行くだけだ。


「ふっ……ふふふふふ……」


声を押し殺して響く笑いは、どこか不気味でいつまでもその場に残っているようだ。


それは少女に最も似つかわしくない。


だが、何よりも彼女という存在をあらわしている。


柔らかい月から伸びる光を避けて、少女は闇へと足を運ぶ。後に残るのは、揺れる花壇の秋桜だけ。


人など始めからここにはいなかったと、静寂が闇を支配する。


「私は種を蒔く。世界を愛するための種を……無限なる人の可能性を解放する種をこの手で……無くしてしまったものを、もう一度見つけるために……」



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