DUAL SEED ~Moonlit flower~
藤和工場
第1話 ZERO
想い ~ビフォア ザ ストーリー~
私から――私の体から空中に紅い鮮血の橋がかかる。
蒸し暑いだけの世界にあって、その赤は私にさえ綺麗だという感情を運ぶ。
「ぐう、ふぅぅうう!」
次の瞬間、呼吸を遮って、口内へ血が逆流してきた。生暖かく粘度の高い血液は、結んだ唇を割って口端から垂れていく。
「きゃはははは! 綺麗な顔もそんなんじゃ台無しねぇ! 百年の恋も冷めるってやつよ」
「くううう、端ヶ谷さん……なぜこんな……ぐう……事を?」
私は痛みから片目を閉じて、それでもこの疑問を解きたくて、眼鏡の向こうに佇む彼女に尋ねる。
「なぜかって? 決まってるじゃない。あなたが、私の世界に不要だからよ……この邪魔者が……」
切れ長で美しいのに、とても冷たい目が私を刺す。彼女が長い腕を縦に振ると、ナイフから剥がれた血が、ひび割れたコンクリートの壁や、コケむしたガードレールにピチャピチャと降り注いだ。
「!」
私は驚愕する。たった一振りでナイフについていた血が、綺麗さっぱりとなくなっていたのだ。それは新品のように輝いて、夏の太陽と青空を映す。
「な、そんな事……あるはずない……」
思いながら、私は気がついた。
「まさか、そのナイフ……」
「んふふ……いいでしょ? これはね、ナイフの外面全てが、空気でコーティングされてるの。だから指紋はおろか、ルミノール反応だっけ? それも出やしないのよ。あなたがシードなんて洒落て、呼んでる力のおかげでね」
彼女は得意げにナイフの切っ先を、指先でなぞる。
「く……いったい誰の……私はそんな力を……そんな種を蒔いた覚えなんてない」
歯をかみ合わせると、エナメル質の上で、血液に含まれた鉄分がキシキシと不快な音を立て、鼓膜をつつく。
「くぅ、ははは、ははっ! ……思い上がるなぁ!」
怒号とともに、二度目の激痛が襲う。
「ぐうう……」
引き結ぶ唇を割って、血が滝と滴る。
「あなた、どんなに傲慢なの? まさか自分だけが、人の可能性を解放できる力を持ってるなんて、思ってるんじゃないでしょうね!」
ぎりぎりと深く、ナイフが私に進入してくる。こんな時にどうしてと思ったが、破瓜とはこんな風なのかもしれないと思った。
そんな事を考えてしまうほど、私は危険だったのだろう。脳が痛みを回避するために、現状とかけ離れた夢を見せているのだ。
でも私は、彼女の行動の欠点を見つけて、僅かに唇を緩めた。
「……い、いいの? そんなに深く差し込んだら、大量の返り血を浴びる事になるわよ」
私は、これで何らかの証拠が残せると思った。
「んふふ……勉強は出来るんじゃなかったの、特待生さん? 一度目も結構深くまでねじ込んであげたでしょ? 私の制服に紅い染みでもついてるかしら?」
言われるが、私は確認する事が出来ない。彼女が不意にナイフをねじったのだ。その激痛が意識を遮る。
「残念でした、おバカさん。私の体も空気でコーティングしてくれてるのよ」
「……してくれている? それはあなたのシードじゃないという事?」
「ふふ、正解よ……」
「じゃあ誰が……」
言いかけて私はあいつの顔を思い出した。こんな風に自分のシードを使える奴がいるとしたら、あいつしかいない。
私を自分の仲間に誘ったあいつだ……あいつが言ったのは、こういう事だったんだ。
あいつの危険な考えを拒んだ私は、あいつの世界にはいらないものとして、処理されたんだ。
「どうやら察しはついてるみたいね……じゃあ、こんなのもあげるわ……私のシードも……ね」
「ぐうううぅあ!」
彼女の言葉が終る瞬間、私の体がびくんと、大きく跳ねた。
「な……に……を……?」
崩れる私を足蹴に、体からナイフを抜いた彼女が微笑む。
紅い鮮血が宙を舞い、ぼたぼたと地面に降り注ぐ。私は出そうとした足を、自分の血にとられて、無様に転んだ。
「そのままでも死んじゃうでしょうけど、確実性ってやつをプレゼントしたのよ。もう動けないでしょ。私の可能性で、このナイフを電極にしたのよ……まぁ、粘膜直結のスタンガンでも食らったと思ってね」
にやにやと笑いながら、彼女はナイフから血を払うと、踵を返した。
「くっ、待って……あなたはいいの? せっかく芽吹いた力をこんな風に……」
「負け犬の遠吠えにしちゃあ、遠慮がちねぇ……」
彼女の冷たい目が私を見下ろす。
「あなたに、そんな事を言う必要はないわ……だってもうすぐ、あなたはいなくなるんですもの……あは……あははは! お休みなさい、悪い魔法使いさん! せいぜい悪夢にうなされるといいわ」
そう言うと、彼女は私の視界から消えて行った。
「くうう、うう……」
体が言う事をきかない。遠くにあったセミたちの声が、やけに耳元で聞こえる気がする。しかも、こんな時間に鳴くはずのない、ヒグラシの声ばかりが鮮明になる。
「随分さみしいお迎え、だ……だ、め……このままじゃ……このままじゃいけない……」
私は言葉で自分を奮い立たせ、私の血で固まった砂粒を握り締める。
「ぐうううう! こんな事になるなら、もっとちゃんと、おじいちゃんに武術を習っとくんだった……」
全身に込められるだけの力を込め、手を延ばした先にあったガードレールを掴んで立ち上がった。手を剥がすと、白いガードレールに私の紅い手形が表れた。
「伝え……なきゃ……あいつを止めてって……ごめん……ね」
私はそのままガードレールに手をつき伝い、体を預けながら歩き出す。
「はは……まだ、歩けるじゃない……」
悔しさを跳ね飛ばすように軽口を叩くが、こういうのを負け惜しみというのだろう。
そして、こうして歩いているのが、私にとって、最後の奇跡だろう。
「…………伝えなきゃ……私が頼れるのは、あの娘だけ……私の……」
いつだったかも、こんな風に暑い夏の下を一緒に歩いた。カーブミラーに差し掛かる度に、二人で姿を映した。ほら、ここの角にあるものでも。
「……ああ、そっか……ここのは、この前の工事で無くなっちゃたんだ……」
それは希望に似たものだったのか、喪失感が猛烈な喉の渇きになって返ってきた。
「……ああ、のどが渇いたなぁ……水が飲みたいよ……でも、家に……家に帰るまでは……飲めない。だって今、水を飲んだら私はそのまま……」
あの娘が今日、帰ってきていることは知っている。多分、気だるい顔で帰りの遅い私に、ぶつぶつと文句を言っているだろう。
「ふふ……かわいいんだか、何だか……」
微笑んだ瞬間に、血が喉に逆流してきた。
「ぐうう、ごほっ……」
咳き込んだ拍子に、地面に真新しい血の跡がつく。それを見て、私は田んぼのアゼに咲き狂う、彼岸花を思い出した。
「はは、何だか前衛芸術みたいね……」
そんなもの、私にはわからないと、あの娘はふてくされるだろう。実際、中学の遠足で行った美術館で、そんな事を言っていた。
何だか私は、昔の事ばかりを思い出している。いや、きっとこれが走馬灯というものなんだ。人は死の淵になって、やっと色々な事に気付き出すのかもしれない。
他人が自分に優しかった事、本当に楽しかった事、いつも傍らにあっても、何よりも大切な事……きっと、それを人が死の淵に思い出すのは、遅すぎるんだ。
「……でもまだ、家に帰って、この力をあの娘に渡して……それで」
それでどうするのだろう……あの娘の可能性を解放して、私の力を託して、あの娘に残り全てを重荷と知りながら預けてしまう。
そんな後悔を考える。それでも、私の中の声が、あいつをひとりにしておいては駄目だと囁く。
「ごめん、本当に……でも、でも……」
私は乾いた血で、かさかさになった唇を噛んで、その場に崩れそうになる足を、必死で前に出した。
「もう、これが最後の帰宅なんだから……」
口に出した事実は、受け入れ難い現実だった。
それでも私は足を動かす事をやめない。
もしかしたら、ここで助けを待てば、助かるかもしれない。
「ふふ……そんなの嘘ね……そんな奇跡はもう起こらない……だって、あれからこっち、誰にも会わなかったじゃない……」
もうそんな、わけのわからない愚痴でも言わないと、痛みと喉の渇きに全ての意識が吸い取られ、一息に死へと誘われそうだった。
「ああ、あああああっ!」
まどろむ意識を奮い立たせる為、声を上げ、私は前へ進む。
前へ進むしかない。
だって、私は力を渡す事、全てを託す事よりも、きっとあの娘にもう一度会いたいから……。
どうせなら、あの娘の腕で眠りたいから……夏でも仄かに温かな、あの腕の中で……。
ねぇ、ほづみ……きっと、その時になったら恥かしくて言えないと思うから……。
今言うね……。
私のかわいい、おねぇちゃん…………。
…………大好きだよ…………。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます