第16話 ただいま

 今日は小説の投稿をするためにバイト先にある印刷機を借りるだけの作業だ。それが終わればまたネタ出しをする。しかし今のこの僕に、新たなネタが浮かぶだろうか。ただでさえ書き終わった直後はだらけてしまって、書いたことへの満足感で何もできなくなってしまう。その上最近の僕は満たされていて、日々の不満や、世間に対する疑念を考える隙間がなかった。それはとても幸せな事であるが、それでは小説を書けない。天才であれば、自分の置かれた状況に左右されることなく、月に何作品も仕上げるのだろう。だが、僕にはそれができない。なぜなら凡人だから。凡人が皆そうだとは言い切れないが、僕は不幸でないと小説を書けないと思う。満たされていない現状、空虚、虚無、穴ぼこだらけの感情。そういったものに蓋をする、所謂いわゆる詰め物のようなものが小説であると考える。

 例えば音楽の世界でのUKロックだってそうだ。圧政への反骨心。そこから紡ぎだされる世の中へ向けたメッセージ、圧政を跳ね除けるほどの激しい曲調。この反骨心。屈しない心は、そもそも満たされない日常が存在しなければ存在しえない感情だ。その荒ぶる感情をビートに乗せて外へ外へと発信していくから、音楽は完成していくのだ。

 これを宗教にする人もいるだろう。救いを求めるのだ。自分の不幸を世界の所為にして、この世界に居てもただただ不幸になるだけだから。不幸な世界では善人として務め上げて、死の先で幸せになろう。この世にはもう二度と戻らない様に。


 人によっては慰めにもならない言葉でも、本当に心を痛めている人には救いにもなるかもしれない。その点は音楽と同じかもしれない。


 後は、世間が作り上げた幸せの定義に従う人もいるだろう。世間からの圧迫も中に入り込んで自分も世間の一因になってしまえば苦しくはなくなる。

 日本人のほとんどがこれなのではないだろうか。

 定義付けされた幸せ。世間のかくあらなければならないというルール染みたマナー。


 あくまで強制ではない。世間の側に入らなくても罰せられることはない。一応世間は言う。幸せは人それぞれだと。だがしかし、はみ出し者のマイノリティ、定義付された幸せを求めない者は例外なく世間からの圧迫を受ける。


「これは別にルールではないし、守らなくてもいいのだけれどもね。でもね。でもね。でもでもでもね。わかるよね。みんなやっているんだよ。幸せになる為に。勉強。受験。就職。昇進。恋愛。結婚。挙式。披露宴。子作り。教育。墓石。葬式。これをやらないと立派な大人とは言えないし人間ではないよね。人ならざる者だよね。ああ、勘違いしないでね。義務じゃあない。権利権利。権利。これは権利。皆が行使できる権利。義務だなんて僕らマジョリティは一言も言っていない。強制はしていない。でも一端いっぱしの人間ならこの権利を使うよね? よね? ね? ね? ね?」


 これに逆らい続けることは非常に困難で、仕事先でも、友達との会話の中でも、果ては自分の家のテレビの中からさえも権利の行使を求める声が聞こえてくるのだ。

 そうして何度も幸せの定義を聞いているうちに、僕には彼らの声がこうも聞こえるようになる。


「俺たちは幸せになる為に権利を行使して夢を捨て不自由で不幸になったのになぜお前は俺たちの作り出した幸せには見向きもせず、夢をかなえようと、自由で幸せになろうとするのだ! 不公平だ! 不幸になれ! 今すぐ見積もりを立てろ! 不幸になる為の見積もり! その見積書を提出するんだ! そうすれば今すぐにでも幸せになれるぞ!」


 そうだ。

 世間の仕来しきたりに抗わず、なるべく定義通りの幸せな人生を歩んだとしても行き着く先で不幸になる。だってどこまで歩いて行ったって、そこにあるのはこの世界なのだから。嫌で嫌で仕方なくなって、逃げ出したくなって走り出しても、どこにも端っこがない。一周して不幸にただいま。だから皆声に棘を添えて心臓に突き刺さるように喚き立てるのだ。どうせ不幸なら、皆一緒になろう。皆不幸なら不幸の味は薄れるよ。皆で世間になれば、不幸な世間も愛せるよ。皆不幸になったこの世の中が一番幸せ。


 僕は音楽で伝えることもできないし、死の先の未来に思いを馳せることもできない。そして所謂いわゆる世間一般の幸せを手にすることで自分にまやかしを見せることもできない。だから小説を書ける。書き始めたきっかけは違うけれども、原動力となるのはいつもそういうものだ。不幸と不満を原動力に書いて書きつめて、自分を満たす。


 だがしかし、今の僕はと言うと、まるで違う生き物みたいに、幸せに満たされてしまっている。

 子頼さんの笑顔を思い出すだけで、もう満ち満ちてしまうのだ。

 こんなに充足感に溢れてしまっていては、小説を書けない。書きたくもない。いや、書く必要がもはやない。

 当然満ち足りた今でもプロになるという志はそのままで、諦める気はない。

 だがそれでもこう思ってしまう。

 この端のない世界の中でさえ、さようなら不幸。と告げてしまう。


 バイト先の部屋に着き、瓦来かわらいさんに会釈をしてパソコンを立ち上げる。


「印刷機を借りますね」


 自分の小説のデータを立ち上げ、印刷機へ転送する。


 あれ?


「そういえば、吾忍辺さんは遅刻ですか?」

「ああ……」


 瓦来さんは大きく間を空けて、ため息交じりに吐き出した。


「彼女なら辞めてもらったよ」


 印刷機から放たれる用紙が、ガシャーンガシャーンと無機質な音を立てて部屋中にこだました。



 ただいま不幸。

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