第05話 モトインとはビジネスホテルのことではない

 先輩が言うには、モトインとはビジネスホテルではなく、元院生の略で、それだけ囲碁が強い人たちということらしかった。また院生が通うのが棋院で、棋院とはプロになる為に子供の頃から入る施設で、その施設に入る為にもそもそも強くないといけないということも教えてもらった。


 先程彼女が口にしていたアマチュア初段というのは、その院生にどれだけハンデをもらっても勝てない領域であるらしかった。


 聞けば聞くほど、自分は大丈夫なのかという疑念が湧いた。


 少なくともあと一歩でプロになれる人たちがこの部屋の向こう側にいる。溢れんばかりの才能の上に惜しみない努力を重ねに重ねて、それでもなお到達することが出来なかったプロという名の壁。その壁の高さは計り知れず、地面からではその頂を見ることすらかなわない。

 彼は若かりし頃その壁を乗り越えようとして、努力という名の石を置いたのだ。一個置いてはまた一個。どんどんとその石を積み上げていき、程無くして身の丈を超えていった。最初の方は調子よく積んで行けた。だからその頂、目指す方向しか見ていなかった。だがある日ふと気づく。なんだか最近景色が変わらない。全然頂に近づいていない気がする。石は積んでいるはずなのに。おかしいなあ、と手を見て驚く。初めて積み上げた時の石と今手に持っている石の大きさと形があまりにも違うことに。最初に積んだ石はとても大きくてずっしりしていて安定感のある立方体だった。だが今手に持っている石はとても小さく歪でその上ボロボロだ。指で石をなぞるとグスグスと表面が削れていく。石ではなくまるで発泡スチロール。果たしてこんなものを置いてその上に立つことができるのか。そんな疑問がよぎると同時に見えてくるのが今まで自分が積み上げてきた石の数々。グチャグチャのガタガタ。そんなものの上に今自分が居る。


 彼は咄嗟に蹲った。


 怖い。


 だってそうだ。石を積み上げるほどに地面との距離が開いていき、もはや今は地面を見ることすらかなわない。だがそれ以上に頂上は遥か彼方である。地面が見えなくなるほどに石を積み上げても一向にその片鱗すら見えない頂。こんなにも高くアンバランスな石の上にはもはや立つことすらできない。身動きがもう全く取れない。蹲ったまま。恐怖に支配される。涙を零すと、雫が石に当たり、ただその一滴ですらも石の表面を削いだ。きっとこのまま泣き続けたら涙で石の塔は瓦解するだろう。そうなれば地面へ真っ逆さまだ。ああ、もう泣くことすらできないのだ。悲しみと恐怖に首を絞められながら、苦しいと弱音を吐くことすらできない。絶望の天辺で蹲って嘆き続けるしかないのだ。どうせ届かないのなら石など積み上げるのではなかった。もっと別の壁なら乗り越えられたかもしれない。そもそも壁に拘らず平坦をただ歩き続ける道もあったのではないか。と。声を出さぬように、震えぬように。ただ嘆く。嘆くが、地面が遠すぎて地団駄も踏めない。

 そうして何億秒も無駄な時間を過ごしているうちに彼はふと誰かの気配を感じた。気配の先を見ると、壁に、それはそれは長い梯子が立てかけられているのだ。そしてそれを昇る人がいる。


 嘘だ。


 自分には石しかなかったじゃあないか。


 あんな梯子があったなんて聞いてない。


 梯子を上る人は彼には一瞥もくれずにただひたすら上り続ける。彼よりも何十倍何百倍もの速度でスイスイと。頂上に着くことを確信して登り続けていく。迷いも疑いもない。ただひたすらに辿り着く為の最善策を遂行しているだけだと言わんばかりに。もはやそれは努力というよりは行為であった。


 そうか。


 自分の石じゃあ到底この壁の頂上に辿り着くことはできなかったのだ。


 努力の石を積み上げた絶望の塔。


 このままこの塔の上で柔らかな月のような死が訪れるのを待つだけなのだ。


 もう絶望を超えて達観ともいえる心境になっていた。そんな時彼の耳に声が届いた。それは彼に向けられて放たれたものではなく、どうやら自分を鼓舞する為の声だったようだった。

 声の方を見ると人が壁に石を突き立ててロッククライミングさながら登っているのが見えた。その人の下方には自分と同じように石が積み上げられていた。


 なんと。


 自分と同じ思いをした人がいたのだ。


 その人は彼では思いつかなかった方法で打開策を打ち出した。

 石を積んでいけないのなら、石を突き立てて壁を登ればいい。


 その発想はなかった。


 ようし自分も。と石を壁に突き立てるが、ガリっと音を立てて石の先端が壊れた。

 壁には傷一つついていない。

 この壁はあまりにも固く、彼の石はあまりにも脆かった。


 ――自分の石では鋭さが足りない。


 その事実に直面したと同時に、手に持っていた石がボロボロとまるでクッキーのように砕けていくのを見た。


 もう無理だった。


 今まで堪えていた涙が一筋流れた。一度外れた箍が二度とは自動で戻らないように、その一筋を皮切りに一気に止めどなく涙が溢れて、声も抑えられなくて、彼は気付けば大声で泣いていた。

 石は涙によって破壊され彼の絶望の塔はバランスを失って瓦解した。

 バラバラと崩れゆく中でも彼は泣くのをやめなかった。恐怖の支配から解放された為だけではなかった。その絶望の塔は努力の塊でもあった。それを壊し自分を空中に放り出したのが他ならぬ自分の涙であることが堪らなく悔しかったのだ。

 ほんの数秒の出来事であったが、恐らく一生分の涙を放出し、彼は地面へと叩きつけられた。しかし彼は死ななかった。体中が軋んで痛いし、頭がクラクラしたが、それでも彼は一命を取り留めた。


 なぜ。


 起き上がろうと手をついた地面はとても柔らかかった。

 彼が今まで積み上げた石が粉々に砕けて、かつ彼の流した涙が地面をふやかし柔らかくして、石と地面でクッションを作っていたのだ。

 皮肉にも彼は、積み上げたことを後悔した石と瓦解の発端を作った涙に助けられ、距離を置いた地面に受け止められたのだった。

 そうして何とか助かった彼は石を積むのをやめ、もうこんな危ないことは二度としないと誓い、平坦な道を歩き続けることにしたのだ。怖い思いをしないように。痛い思いをしないように。


 ……だが、その彼が、事ここにおいて、恐怖と悲しみと痛みを知っておきながらなお、また石を積んでいるのだ。覚悟を胸に。この壁の向こうで。

 確かあの時はここに石を置いたはず。この壁が過去に目指した場所のはず、と。


 積み上げるほどに小さくなる石を尻目に、地面との距離を確かに感じながら、恐怖を従えて悲しみに打ちひしがれぬ様に。絶望など上等だと。いつでも襲ってこい。石の上でバランスを取りながらもう二度と蹲らぬ様にお前を何度だって捻じ伏せてやる!


 僕は今までにこんな勇敢な人を目の当たりにしたことがあっただろうか。テレビの向こう側で、ネットの向こう側でそんな人はたくさんいたのだろうけれども。


 そんな彼に比べて僕はなんと脆弱なことか。

 僕は一度だってそんな覚悟で挑んだことがあっただろうか。こんな僕が彼らと肩を並べていいのだろうか。同期はアマチュア初段で勘違いしていました、すいませんでしたと謝っていたが、であれば僕はいったいどうなってしまうのか。


 深く考え込んでいると、先輩が肩を叩いた。


「大丈夫? 具合でも悪いのかい?」

「あ、いえ」


 口籠る僕を不安げに覗き込んでくるので、先程の考え事を吐露した。


「なんだそんなことかい。大丈夫だよ。うちの面接官はすごく優秀だから。君が全くの無能で低レベルであれば、面接で即落とされているから。そこは気にしないで。むしろ、自分には元院の人たちと同じレベルの才能が眠っているのだと思うことだよ」


 言われて即納得してしまうほど僕は愚かではないが、先程同期の発言に対し苦言を呈した先輩である。もしも僕の事も低レベルな才能だと思っているのならば、確かにここに連れてくる道理はない。何より4週間という短い研修期間でプロにしなければならない。僕たちは正直なれなくても給料は貰えるし、自分の才能を試す良い機会ぐらいにしか考えないが、先輩たち教える側は全く違う考えのはずだ。なってくれればいいなという甘い考えなどないはずだし、もしプロにできなければ、先輩らの指導力が会社側から疑われることになる。それは減給や降格にも繋がるはずだし、であればそもそもプロになれないであろう人間を雇うはずがないのだ。


 先輩たちは僕たちが高い確率でプロになれる、いや自分たちがプロにさせるという強い意志を持って指導してくれている。


 元院の人たちのハイレベルさに気圧されて、勝手に不安がって、またどうせ無理だと逃げる道を作っていたのだ。元院の人たちの所為にして逃げようと、この脳みそはもうすでに考えていた。もはや本能レベルでうんざりするほどの負け犬根性。


 これではいけない。


 こんな自分を変えるんだと思って、そう思っていつもは踏み出さない一歩を踏み出してこの会社に来たのではないのか。

 不安に駆られて負けてもいい理由を作る暇があるのならば、その不安を消し去るほどの努力を今からするのだ。自分は。

 勝手に不安になって勝手に立ち直った僕を見て、先輩はにっこり微笑んだ。

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