(5)




 家に帰った。

 帰って、外が寒すぎるからまずマフラーを掴んで、その瞬間、何かわけが分からない衝動に駆られて、そのまま家を飛び出した。

 走った。

 目に見える形で示された現実から逃げられるわけでもないけど、走った。何をしたらいいか見当がつかなくて、走った。

 

 容易に飲み込めないことを言われたのは、何も今日ではない。

 おそらく五年ももたない。可能性としては、一年、いや、半年の可能性もある。現場から退いてもらい、生活は組織の建物内で送ってもらう。

 遠回しに言われたが、つまりは、私は死ぬまであの中にいなければならないということだった。


 数日で悟った未来。

 検査の毎日の未来。

 危険など無縁の未来。

 窮屈で、自由なんてなくて、管理される未来。

 こんな短期間でもう参っていたのだろうか。


 それはそうだ――ようやく、やっと、手を伸ばして。

 手離したくない日々がある。


 全力で走りすぎて、立ち止まった。息が切れて、空気を求める。空気が冷たい。

 仰いだ空は、快晴とはほど遠い曇り空だった。

 冷たい風が頬にあたり、一層冷たさを感じたから、頬が濡れていることに気がついた。


 いつから、泣いていたのだろうか。

 たった今だったろうか。

 自覚した涙は、止まることを知らないみたいに、次から次へと勢いを増してぼろぼろと零れてきはじめた。

 どうして泣いているのか。何に涙は流れているのか。知っていた。

 息がし辛い。

 喉の奥から込み上げてくる嗚咽が洩れそうで、手を押し付けて堪える。それでもどうにかなってしまいそうで、しゃがみこむ。


 息が詰まる。

 ぼた、と地面に雫が落ちて染みを作る。いくつも、いくつも。地面の一部分の色が濃く染まる。

 視界がぼやけて、それさえ見えなくなって、マフラーに顔を押しつける。

 鼻をすする。何度もすする。

 止まれ。泣くのは嫌いだ。

 前に泣いたのは、人狼事件の後か病室でレイジさんに我が儘をぶちまけたとき。その前は、二年前、レイジさんと離れたときだった。

 だから嫌いだ。

 だから。

 だから止まれ――


「ハル」


 待ち望んでいたのか、それとも今だけは聞きたくなかった声か、どちらか。

 つい、反応しないなんてことできなくて、私は弾かれたように顔を上げた。


「こんなとこにいやがったか……」

「……れ、イジさん」

「お前、何泣いてんだ」


 吐かれる息は白い。

 どこからともなく現れたレイジさんは、いつぞや見たスーツ姿だった。

 雪が降りそうな曇り空だからか、晴れていれば太陽が出ていてもおかしくない時間帯なのに、フードつきのコートもないし何も被ってない。


 それより、どうしてここにレイジさんがいるのだろう。

 泣きすぎてか、ぼうっとする頭で見上げたまま思うのは、それ。

 どこからともなく突然現れたひと。

 こっちに歩いてくるひと。とんでもなく背が高くて、見上げてると首が痛くなりそうなくらい背が高くて、それでも見ていたいひと。

 誰かに聞いて来たのかな。そうだとすれば、万が一にでもそうだとすれば、レイジさんが私に会いに来てくれたわけで、嬉しいことなのだ。

 そういうことなら大人しく待っていた方が良かったかな。こういうことがあるなら、私のあそこでの生活も、まあ捨てたものではなくなるかもしれない。

 このひとの姿ひとつで、こんなことを思うものだから、私という人間は単純だ。

 ぼんやりしているまま黙っていたら、前まできて、私を見下ろすレイジさんが言う。


「お前、俺に言うことねぇか」


 ぎくり、とする。

 思い当たることは限られていた。


「……えーと、何も思い当たらないんですけど」


 出した声が、思ったよりくぐもってて困った。

 笑えなくて、困った。嬉しいはずなのに、困った。

 驚きで止まっていた涙がじわりと湧いて来ようとしていることを感じて、熱くなる目に力を入れる。

 今は、駄目だ。自分の身体なのに懇願したくなって、


「馬鹿かお前は」


 耐えきれずに下を向こうとしたら、


「なんで泣いてやがるかって聞いてんだ」


 それより早くレイジさんが膝を折って、目を合わせてきた。


「俺が何も知らねぇとでも思ってんのか」


 思わない。

 じわ、と、今度こそ涙腺が再度崩壊してしまって、涙が頬を伝う。

 瞬間、目の前の光景が定かでなくなる。


「なんで泣いてる。言え」


 彼に似合わない、優しすぎる声に促される。

 息がしにくくて、一生懸命息を整える。ゆっくり空気を吸う。マフラーを握りしめる。


 言ってもいいのか。

 言っても。

 これを。私の我が儘を。

 このひとを困らせると分かっているのに。それなのに、


「言え」


 そのひとは、同じ言葉繰り返した。


 頬を伝うだけでは足りなくなった涙が、ぼたぼたと落ちる。

 流れるばかりの雫を、レイジさんの指がすくう。言葉と同時に促すみたいに、撫でる。


 私は息を、吸った。苦しくて仕方がない胸の内が弾ける。


「――し、死んでもいいと思ってた、けど、私、こんな死に方い、嫌だ。まだ、生きてたい……生きてたいけど、それはあそこでじゃなくて……っ」


 せっかくこのひとの近くにいれるようになったんだから。

 あそこにいれば、少しでも長く生きられる?

 きっとそれでは、意味がない。

 意味がない。

 レイジさんの近くがいい。


 けれど、何ヵ月か前に病室でぶちまけたときとは事情が違っていて、さすがにそれは言えなくて。耐えきれずに、分からなくて、もうどうすればいいのか分からなくて、名前だけ呼ぶ。


「レイジさん、」


 前から、両方の手が、伸びてきた。

 そしてその手は、私の顔の横を通りすぎて、頭の後ろに回る。髪の間に手が差し込まれたのが、分かった。それだけじゃなくて、私の頭を抱き寄せて、その胸に押しつける。


「ハル、吸血鬼になるか」


 耳朶を打つ声は、低く優しかった。


「それで俺と生きるか」

「……ど、いうこと」


 言われたことが欠片も理解できなくて、声を詰まらせながらも聞き返す。

 そうすると、顔が見えないままに腕に力がこもり声だけが聞こえる。いや、心臓の音も。


「特殊能力は人間のものだ。お前は今、その力に身体がそれについていってない。ならお前を人間でなくすりゃあいい。特殊能力持ちったって、細胞レベルからして吸血鬼の方が強いからな」

「人間が吸血鬼に、なれるの……?」

「なれる。お前が頷くなら俺はお前を吸血鬼にする」


 人間が、吸血鬼になれるという。

 そのこと自体は、重要ではない気がした。

 吸血鬼になれば特殊能力に押し潰されそうなこの身は――


「だが、特殊能力保持者を吸血鬼にしたなんていう例はない。死ぬかもしれねぇ。もし吸血鬼になれたとしても、学校には行けなくなる。それだけじゃなく今の生活が大分変わる」


 少し早口で、明かされたリスク。

 死ぬかもしれない。

 友人に、会えなくなるのだという選択肢。


「それでもそれに賭けて――俺の傍にだけいるか」


 でも、それは、とても幸せな選択肢に思えてならなかった。

 成功したときの、命のためではない。

 ただ、ただ、


「私、……レイジさんの傍にいれるの?」

「ああ」


 浮かんだのはそのこと。

 それなら。

 と、勢いよく顔を上げた。レイジさんにしがみついたまま、近くの顔を見上げる。

 彼は私を見ていて、見知った赤い瞳と、目が合う。


「もう一回言っとくが、死ぬかもしれねぇぞ」

「いい」


 念押しの言葉は、私の決心の障害にはならない。

 首を振る。

 このまま流れに身を任せ、死ぬより。


「このまま生きて、死ぬより、ずっといい」


 言い切ると、すぐ近くの赤い目が揺れて見えたのは気のせいだろうか。


「――なら、そうするか」


 そんな言葉がすぐに返って来て、


「うわっ」

「それで俺の傍にいろ」


 今では馴染んだ動作で抱き上げられ、次に見たときには見たことない感情を乗せた目になってたから、真相は分からず終いだ。

 けれど、今度のその目と言葉に、たまらず広い肩口に顔を押しつける。

 嗚呼、私は――


 たぶん、このひとがどうしようもなく好きになっていたんだと思う。


 ああ、友人。きみもこんな気持ちだったのかな。

 彼らと会えない選択を迷わずした私は、愚かなのだろうか。

 それでも、よかった。何よりも取り戻したくて手に入れたい日々が、あるのだ。


 他ならぬこのひとがそれを与えてくれるということは、どれだけの幸せか。


「絶対死なせねぇから任せてろ」

「――――」


 押さえがたい想いを感じるひとにしがみついた私は、身体に回った腕に引き寄せられて頭を撫でられ、耳に触れんばかりの距離で届けられた囁きにまた泣きそうになった。



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