(4)



 少女が完全に水に身を任せたその直後、巨大な魚が、大きく身体を歪めた。水中を吹っ飛び、少し離れたところにあった岩にぶつかる。

 脅威は瞬く間に去り、魚がさっきまでいた位置には誰かがいた。


 レイジだ。


 上半身裸なのは、海に飛び込むときに脱いだのか。

 どうやらハルカが落ちた派手な水音に気がついていたらしい。彼は陸でするように蹴り飛ばした魚を見送ることなく、見つけた少女の方を向く。

 薄く開いた瞳に、煌めき、散らばる色……すぐに瞼が震え、目は閉じられる。

 それと目が合ったレイジは、知らず知らずの内に止めていた身体を動かし、少女の身体に腕を回して人魚のような早さとはいかないが、人間では出来ない早さで上を目指す。

 


 *







 子守唄が、聞こえる。

 おじいちゃんが歌ってくれた、懐かしい唄。

 私が眠るときに限らず、おじいちゃんが歌ってくれたあれが、私はとてもとても好きだった。

 だから聞こえるのかもしれない、今も。おじいちゃんの声で。






 目を開けると同時に、はっと、即座に身を起した。


「……けほっ」


 勢いが良すぎてか、咳き込んでしまったが。


「いきなり起きたと思ったら、何してやがる」


 背を擦ってくれる手がある。

 咳き込んで自動的に涙が出てきた目で、小さく最後に咳きこみながら、手の主を見る。


「レ、イジさん」

「生還できて良かったな」


 咳きが止まって離れた手の持ち主は、あらびっくり、レイジさん。

 服装は軽くTシャツ姿で、胸元に、二枚の板のようなネックレスの銀色の輝きが重なっている。


「──なんて言うと思ったか馬鹿が」

「いたあっ」

「引き込まれやがって」


 呆けて見ていると、拳骨が落とされた。痛い!

 痛む頭を押さえると、頭は濡れていた。というか、全身濡れていて、服が身体にまとわりついている。冷たい……。

 その上に、乾いたコートが被せられていて、くるまれている。私のではない。大きすぎるし、デザインからして……レイジさんのだ。

 私のコートは、どこにいったのだろう。脱がされたのか。


 それよりも、状況を思い出した。

 そうだ、海に引きずり込まれて……。


「ふ、不可抗力です……」


 水を替えに行った先で、引きずり込まれたのだ。まさかと思うだろう。

 でも、見た感じレイジさんは怒ってるから、目をまっすぐ見られず、頭を抱えて小さく小さく言うに留める。


「まあまあレイジくん、ハルくんもずぶ濡れなこと以外はこうして無事に帰って来られたんだから、そんなに怒らない怒らない。ハルくん、お帰り」

「サディさん……」


 地面に座ったままの私。傍にしゃがみこんでるレイジさん。その後ろにいたサディさんが言ってくれる。

 けど、レイジさんはそのままでは終わらなかった。


「バケツ転がってたところを見ると水でも替えに行ったんだろうけどな、釣りは二の次に決まってんだろ」

「す、すみません」


 本気で、本当に、反省してます。


 身を縮める私が謝っていると、レイジさんの後ろで、サディさんがぎくりとした。

 ……サディさん、一番釣りを楽しんでたと思うから、思わぬところで図星をつかれたというものだろう。


 ところで、私はとっさに答えながらも、上手くこの状況を飲み込めない。人魚に手を引かれ、海の中にいた記憶だけはあるが、どうやってここに……。

 濡れてしまったからか寒いなんて感じながらも、レイジさんの言葉を吟味し、懸命に記憶を掘り出す。


 まず、私、生還できた。


 最後の記憶は水の中。身を包む、冷たい水。覚えている、息の出来ない苦しい、苦しい環境。

 怒られていたことで逸らしていた視線を上げて、疑問を口に出す。


「え、私……どうやって。あれ、もしかしてレイジさん、」


 レイジさんが濡れてると、気がついた。

 髪や、顔、腕と、剥き出しになった肌が濡れている。Tシャツが濡れてなかったから、気がつくのが遅れた。


 もしかして、レイジさん、潜ったの?


「ぼちゃんっなんて音がしてね、ハルくんがどこにもいないじゃない? レイジくんのあのときの顔ときたら本当に『は?』って感じ……ごめんごめん、ハルくん生還したから笑い話だけど。まあそれでハルくんがいないって分かると考えられることはひとつだから、すぐにレイジくんが飛び込んでいったっていうわけ」

「でも、海の中追いかけるって」

「サディに渡された袋あんだろ」

「え? ……あー、ありましたね」

「あれの中身は腐った血だ」


 渡された袋とは。中身が見えない、やけに薄っぺらくて、ちょっとした衝撃で破れそうだったけど、細工がしてあるから大丈夫って言われたやつ。

 私は、受け取ったはいいけど、詳しいことは語られなかったそれのことは、釣りをしている内に忘れていた。


 でも、それだけを言われても分からない。

 説明省きすぎてませんか。腐った、血?

 後ろのサディさんを顔だけで振り返ったレイジさんが、どんな顔をしたかは分からない。

 そのあとこっちに向き直って、あぐらをかいたレイジさんが、話してくれる。


「最悪の場合だが、誰かが連れ込まれてもいい算段だった。俺が連れ込まれれば一番よかったけどな」


 どうやら、ここから説明を始めてくださる様子。

 私の頭の中は疑問でいっぱいだ。

 ここだけ聞くと、つまり。

 今日は一日目だから、ひとまず人魚が出てくるのを待っていた。

 けれど、万が一誰かが引きずり込まれたとしても、その機会をそれだけにせずむしろ絶好の機会に変えるつもりだった。

 で、腐った血は?


「その場合でも理想なのは、人魚が出てきた瞬間に取っ捕まえることだった。俺はそうするつもりだった。が、お前よりにもよって下に降りるわいきなりすぎんだよ馬鹿か」


 あぐらをかいた膝に肘をつくレイジさんは、すこぶる不機嫌そうだ。


 どうも、私たちがいた防波堤から誰かを引き込む人魚が現れれば、捕まえられる予定だったらしい。

 水に引き込まれることなく、入ることなく。レイジさんなら、出来そうだ。


 ところがどっこい、計画の狂いが生じた。私が一人、水を換えにいったのだ。

 私からすると、狂いは釣りから始まる。

 まあ、そして、レイジさんの知らぬ内に、私は防波堤ではなく、ちょっと下に降りて水を汲んでいたら手を掴まれて海へ。

 派手な水音がして、全てが発覚。


 音がしたときには、すべては遅かった。

 人魚も私も海の中。

 人魚が泳ぎ出せば、追い付ける者はいない。陸ではかなりの身体能力を発揮して、足が超速のレイジさんであっても、だ。

 で、結局腐った血はというと、


「血の入った袋はそのときのための保険だった。もしも海に連れ込まれたら、すぐに追い付けるわけねぇからな。血は道しるべ代わりだったってわけだ」


 腐った血の臭いはキツい。

 もしもの際は、レイジさんが人魚を追うという保険があった。後で聞くと一か八かの作戦だったらしい。だよね。

 ともあれ、その保険が今回適用。

 レイジさんは、私のコートのポケットに入っていた袋が海のなかで仕組まれたように破れて、流れる血を追ってきたようだ。

 海の中。視覚と臭いで。

 視覚は分かるけど、臭いって。あなたは鮫か。


「なるほど……」


 少し前には釣りではしゃぎ、ちょっと前には釣りに飽きてぼんやりと、のんびりしていた私は急な命の危機に疲れきった。


 とりあえずレイジさんすごい。今日の感想これで終わり。


「レイジさん、ありがとうございました……」


 立てた膝に顔を埋めつつ、しみじみとお礼を言う。

 最近、レイジさんにかなり命救われてるんだけど。ただの命の恩人どころじゃないよ?


「お前のそれは最近聞き飽きた気がするな。明日は引きずり込まれねぇようにしろよ」


 やっぱり最近そうだよね。

 レイジさんもよく聞いている風だから、間違いない。言い聞かせるように言われた。同じ事やったら、お前分かってるんだろうな的な。


 そして、明日もかぁと気が重くなりながら、気を引き締めていて──思い出す。

 水中での、人魚たちの会話。


「明日、というか、もう必要ないかもしれないです」

「あ?」

「人間が引きずり込まれる事件、人魚の子どものいたずらだったみたいです」


 水中でのことを、思い出す限り言っていく。

 事件は、人魚の子どものいたずらによるもの。大人たちはそれを良しとは思っていない様子だったこと。そして、今回子どもたちは随分お灸を据えられそうなこと。


「――なら、来る必要なかったじゃねぇか」


 全てを伝え終えると、ぼそ、とレイジさんが言った。

 私も若干そう思う。だけどまあ、別件もあったわけではあるし、釣りも飽きるほど出来たから私はいいと思う。


 ……当分海はこりごりだけど。

 友人が立てている計画に未だに海があったら、私は断固反対する。


「来ること自体は必要だったでしょ。来なければその事実を知ることはなかったことだし。ハルくんの怪我の巧妙……怪我はしてないけど引き込まれたかいがあったね。ということは、リュウイチくんたちの方が片付いていたら明日帰りかな」


 おや、もしかするとこことはもうお別れかも、か。

 周りを見ると、なるほど陽は沈みそう。時間的に、もう今日は帰れない。


 海を見ると、ざざざと波が引いては寄せてを繰り返している。今日だけで嗅ぎなれた潮のにおいは、なお変わらず。

 海は、穏やかだ。


「引き上げるか」

「そうだね。いやあ、何はともあれ魚は大漁、じゃなくて、あとは街の方に報告するだけだ」

「はーい」


 レイジさんが立ち上がるのを見て、私も返事しながら立ち上がろうとする。

 足が地面を踏みしめる前に、ふわりと身体が浮いた。


「レイジさん? 私、どこも怪我してないんですけど、」

「ああ?」

「はいすみませんありがとうございます大人しくしています」


 コートにすっぽり包まれくるまれ、レイジさんき抱き上げられたのだ。

 なぜに、と腕一本で支えて運び歩きはじめるひとの顔を見上げるも、返ってきたのが柄の悪い一言で、条件反射で前言撤回する。


 風がちょっと吹いてるようだし、冷えた体を抱える身としては、この方が温かそうだ。じっとしていよう。


「……だよな」

「何がですか?」


 じっと身をできるだけ小さくしていると、濡れて張り付いている前髪を避けられて、目をしっかり合わせられたのだが、いかがしたのか。

 赤い目をしかと見ることになり、首を傾げるが、


「何でもねぇよ」


 と言われて、何かついていたのかと私は自分の額に触れたりする。


「夜になると寒くなってくるから、風邪引かないようにしないとね」


 サディさんの言葉に、くるまれている私は何気なくレイジさんに話しかける。


「レイジさん風邪引くんじゃないですか?」

「俺が? 引くわけねぇだろ」

「どこから来るんですかその自信」


 隙間から、風が入ってきた。全身濡れてしまっている私は震える。

 なのに、同じく海の中に入ったというレイジさんは半袖なのに全く寒そうじゃない。

 コートを着てたのはあれか、日差しを遮るためだけだったのか。確かにこの人が風邪引くところなんて想像できないけど。


「オールバック」

「人の髪で遊ぶな落とすぞ」

「似合いますよ落とさないでください」


 濡れてるよね、と髪に手を伸ばしたついでにレイジさんの手が塞がっているのをいいことに、オールバックにしていたら怒られた。


 結局寒いんで、と、かなり個人的な理由で、伸ばして露になっていた腕を引っ込め、レイジさんに身を寄せる。


「ったく」


 そう言いながらも、落とすどころか腕に力を入れてくれるレイジさんは優しいと思うんだ。

 急に引き込まれてごめんなさい。


 前を行くサディさんは、魚の入ったバケツを回収しに、意気揚々と防波堤に向かっている。

 結局、人面魚って食べられるものなのだろうか。


「レイジさん」

「今度は何だ」

「人魚って何食べてるんですかね。魚?」


 知らねぇよ、と心底興味なさげに言われた。




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