(3)
冷たい手に導かれるまま、バシャンッ、と相当派手な音をさせて、海に飛び込んだ。
すぐに身を包む、冷たい液体。
冷たさを感じたときには、一気に服の中に水が侵入してきていた。冷たい。
視界は透き通ったガラス玉の中のようになり、そっと開けた目を細める。
エラがなく、肺呼吸生物の私は、息を吸うことが許されない身ならではの危険に、本能で手で口を覆う。
その間にも、どんどんどんどん下へ。正確に言うと斜め下へ。
顔にぶつかる水の勢いからして、それなりのスピードで手を引っ張る者は止まらない。
……引っ張られているのは、今や手だけではないと気がついた。腕、両腕?
顔は動かすことがままならないが、耳が何かの音を捉える。
笑い声だった。
子どものような笑い声だ。複数であると思われる。
どうやら、私を引っ張っているのは複数の人魚の子どもらしい。
そう、この中に引きずり込まれる直前に目にしたものがあった。女の子の腰から下に光を反射させる部分で──鱗で覆われた下半身だった。
要するに、彼女は噂の人魚だということ。
それより私はいつまで……、どこまで行かされるのだろう。
息は持つ方だとは思うが、もちろん海の中に暮らす彼らほどではない。彼らは、海面に出ていちいち空気を吸う必要がないだろうから。
ところが私は無理なわけで。今この時点ではまだ何秒の世界だろうけど……。
――引きずり込まれたと思われる人は翌朝死体になって打ち上げられていた。
この先の展開を懸念していたら、嫌な情報が頭を過った。
……この状況。まさか、底まで引きずり込んで、それから返すのか。
でもそれをする理由は、と考えても引きずられていくしかない状況でしかない。
少しでも気を抜けば、うっかり口を開けてしまって私は死ぬだろう。
この状況を打破したとしても、私はかなり引きずり込まれていると思われる。ここから海面まで辿り着けるのだろうか? そこが問題だ。
そもそも、掴んで引っ張る力は、子どもとは思えず振り払える気がしない。彼らの土俵だからか。
長期休暇突入一発目の仕事。
しかも、寒さが混じる季節での、青色が綺麗な海。そして私は、その海の中。
問題は、海水浴なんていう生ぬるいものではなく、あはは、と楽しそうに笑う綺麗な人魚な子どもに問答無用で引きずり込まれているということだろう。
子どもの無邪気さとは残酷だ。これが無邪気かどうかは、真剣に審議したいところだけど。
そのとき、笑い声が止まった。
突如、顔に押し寄せる水の流れがパタッと止んだことを感じた。さらに、引っ張る力もなくなっていることも。
気がつくと、ゆったりとした水の中にいた。さきほどまでのような、顔に当たる水の流れはない。
「お前たち、どこに行っていたの」
笑い声が止んだと入れ替わりに、不思議な声が聞こえた。
おそるおそる目を開けると、少し離れた前方に、下半身が魚な、つまり人魚を見つけた。
髪はその身長ほどに長く、水の中で揺れている。下半身の魚の部分の鱗は、鉄色。
そしてその形相は──私がさっき釣った懐かしの人面魚のような……ものではさすがになく、顔は整っているが、険しくなっている。
「持っているものは、まさか、また人間?」
声が不思議だと感じるのは、ここが水中だからかもしれない。
形容しようがないけれど、声の響き方が違う。
それよりお姉さん、「もの」って。
おそらく――私の周りの小さな人魚たちと比べてみると間違いないだろうが――大人である人魚の表情は険しくなるばかり。
今の私はそれよりも険しい表情をしていると思うけれど。もちろん、違う意味で。
「なんとかおっしゃい!」
鋭い声が、耳に突き刺さる。
周りがビクリと震えた気がして見ると、子どもの人魚たちは、いつの間にか、表情から笑顔を消していた。
私の手を引いていた子は、今や私の指先をちょいと掴んでいる程度。
他も同様、服の袖とか端を掴んでいる――摘まんでいる感じ。
どうやら、怯えているようだ。表情と目が、恐々といった風になり、大人の人魚を見ている。
「まったく……その人間はまだ生きているの?」
声を発さない子どもたちを前に、大人の人魚はため息を吐いたような雰囲気になった。
どうやら叱るのを止めたらしい。
仕方ない、というような声音に、周りの水が動く。
子どもたちが一気に縦に首を振ったからのようだ。それで周りの水がわずかに動いたとみる。
「それなら早く返して来なさい。人間はすぐに死んでしまうわよ、また死んでしまう前に、早く」
子どもたちがまた頷く。
「
大人の人魚に急かされて、早く、早くと周りから囁き声が聞こえる。子どもたちだ。
私の手が、再びぎゅっと握られた。
子どもたちが方向を変えて、また私を引っ張りはじめる。
これは……上か。何が何だかよく分からないけれど、返してくれるのか。
と、思っていたら。
「待ちなさい」
上に少しも進まない内に、異なる不思議な声が待ったをかけた。
子どもたちがさっきより俊敏に止まる。当たり前だが、私も。
「子どもたちは見つかったようだね」
「は、はい長。ですが……また人間を」
「なに?」
子どもたちが振り向くのと同じくして、私も同じ方を見ることになる。
思わず目を見開いてしまった。
人魚が増えている。一人二人、というだけではなく十人くらいに。
その先頭に、後ろの人魚を従えているかのように存在する人魚がいた。
鱗は銀色。他の人魚より遥かに美しい色合いをしている。
しかしその、他よりも歳を重ねていると分かる顔は、穏やかではない。
「またいたずらにならぬいたずらをしたか……。今日で五人目。しばらくは外に出ることも許さんことにしよう、その小さな頭が理解できるまでな」
美しいが、低い声が子どもに降りかかり、子どもは今度は震えはじめた。
その人魚の話を聞き齧り、さっきの人魚の話と合わせて、ようやく私の中でちょっと繋がることがあった。
防波堤で釣りをして待っていた理由、人魚、事件、そして、この状況。
今回の事件は、この子たちのいたずら、ということ。
私を目にして怒った人魚と、人間をという言葉を聞いて顔を険しくし、子どもを威圧した人魚。
五人目、という人数も当てはまることから推測する。
大人は注意しているが、子どもは理解できずに陸へ近づき、自分達とは違う生き物を引きずり込んだ。
水の中では呼吸できないことを理解出来ていないのだろうとは分かる。楽しそうに笑っていたから。
息の出来ない水の中に連れてこられて、意味不明だったけれど、子どもの様子のみを思い出すと──自分達の棲みかに連れていって遊ぼうとでもしたような。
「長、実はまだ人間は生きています」
「何? ――そのようだな。子どもたち……いやお前、返して参れ」
「承知いたしました、すぐに」
最初に子どもを止めた人魚が近づいてきて、子どもたちが私から手を離す。
この様子では、私はもうすぐ帰れる……おそらく。
大人の方は理解も話も早くて助かります。というか、これまでの事件から、とりあえず沈められて殺されるんじゃないかと思っていたから、そうじゃなくて良かった。
必死で離したくなりそうな手を口に押し付けながら少し安堵する。
まあ、子どものいたずらで、人魚たちに敵意などがあって行われたことでないと分かった分だけいいか。
人魚たちの教育が上手くいけば、事件はもう起こらなさそうだ。……というか、そうするしかなさそう。
何はともあれ、一刻も早く帰してもら──
「待て」
厳しい声が、なぜかまた響く。
私は驚きのあまり、こぽりとひとつ空気の泡を出す。
危ない。ここに来て溺れるとか嫌すぎる。
実は、苦しさのピークに達してきている。どれだけ意識を逸らそうとしても、もうそろそろやばい。
ゆえに、非難の意を込めて、止める言葉を発した銀色の人魚を見てしまう。が、目の険しさに、さっと目を逸らす。
さっきまで、その険しさを持つ目は、子どもたちに向けられていた。
だが、それは今確かに私に向けられている。加えて、厳しさは増している気がする。
……私、何かマナー違反しましたか?
もちろん私は心当たりが無さすぎて困る。
目をそっと戻すと、まだその目は私を見ていた。
「長? 早く陸に戻さなくては、死んでしまいます」
その通り。
すぐそこまで来ていた人魚はリーダーらしき人魚の言葉に一応止まってはいるものの、訝しげだ。なぜ止めるのか? と言いたげ。
私も同意見。溺れてしまう。
「それは、武器を持たぬ無害な人間ではない」
「え?」
すぐそこの人魚が、言われたことを理解出来ていない様子で聞き返した。
これまた私も同じく。
そんな中、いつのまにか背後に回っていた人魚がいたようで、尾をひらめかせながら声をあげた。
「後ろに武器を持っています」
「そうだったの!?」
マナー違反が発覚した。
……そういえば、仕事のときには身につける小型の銃が腰にありました。だけど、水中で役に立つ代物じゃないと思う。撃てる状況でもなく、撃とうとも思わないし。
「違う。そういう意味ではない」
再びの否定の声に、私の近くで魚の尾をゆらゆらさせている人魚が、銀色の人魚に向き直る。
「それは力を持っている」
「え?」
え? って言ったのは私じゃない。この中で一番言いたかったのは私だろうけど。
私も聞き返す言葉を出したかった。出しかけて、ごぽっと空気が漏れて、我に返って自粛せざるを得ない。
息が苦しい。腹が苦しい。胸が苦しい。
「得体のしれない力を感じる」
えたいの、しれない、力?
そんなもの、持っている自覚は……。
「──その者から流れているものは何だ…………何かが近づいてくる。皆隠れよ!」
注意換気の声がして、水が大きく揺れた。
一瞬後、見える範囲には人魚は一人もいなかった。
私はあっという間に一人、海の中。
人魚たちは、一体、どこに。なぜ、急に。
訳が分からなくて、息が苦しくて。
その中で、底知れない孤独が襲ってくる。それに恐怖。今までとは違う種類の恐怖だ。
敵はいないのに、私は死から逃れる術を持っていないに等しい。
泳げないわけではない。でも、今から泳ぎ始めたとしても、私の息が我慢できなくなるだろう。今堪えるだけで精一杯なのだから。
さっき見え始めた希望は、何だったんだろうというくらいの急降下だった。
ぼんやりとしはじめる意識で、さきほど言われたことの意味が何だか、分かった気がした。
得体の知れない力。
人魚は、海で、他と隔絶された生活を送っている。ゆえに、生体が不透明どころではないくらい分かっていない。
外部との接触がないことも表していて、私たちが人魚のことを知らないのと同じように、人魚もこちらのことは知らないはず。
現れて何十年の、人間の特殊能力のことも、耳に入っていないのではないか。組織の本拠地がある地からも、遠く離れた地でもある。
――「人魚は敏感だ」
部外者に、敏感である。
さらに悟く、賢く、警戒度が高い。と聞いた。
土地が遠いだけでなく、起こっている場所が場所である理由の他に、長引くかもしれないと言われた所以のひとつだ。
もしかすると、敏感な人魚は、私の内にある特殊能力の力を感じとり、知らないそれを「得体が知れない」と、警戒してしまったのかもしれない──。
ごぼっ
口に押し付けていた手のひらの間から、空気が洩れる。一度洩らしてしまうと、今度は止まらない。
手に力を入れようとするけど、ごぽごぽと空気は逃げていく。
苦しみは、最大にまで引き上げられていた。苦しい、辛い、苦しい、息がしたい。
閉ざされ始める視界の中、何か、見えた。大きな、黒い塊。
あれは──。
大きな魚と、目が合った。大きかった。近づいてくる魚は、今日釣った魚の何十倍もの大きさで、──ああ、あの凶悪犯面の魚の大きいバージョンだ。そう、思った。
巨大な体を持ち、大きな口には鋭い大きな牙を持つ魚はゆっくりとやって来た。
目つきの悪い目が、力なく漂う獲物を見つけ、ゆっくり、ゆっくりと口を開ける。
隙間なく生えた尖った歯はこれから入ってくる獲物を待ち構えている。
獲物は、私。
こんな魚に食べられるのと、溺れ死ぬの、どちらがいいか。
どちらも嫌だけど、とりあえず──その歯並びを目にして、食べられたくないとは思った。
反射的に、最後の意思で凶悪な目付きに集中し、気力を振り絞る。振り絞る。
巨大な魚が固まった。
どうやら、催眠が効いたようで、動きを止められた。本当に死にそうになると、火事場の馬鹿力的なものはでてくるものなんだな……。
しかし、火事場の馬鹿力の代償とばかりに、塩水のせいでない目の痛さと、頭痛が襲いかかってきた。
さらに、息苦しさも重なって、とうとう限界にまで達して、──それっきりだった。
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