(5)
うまく息が出来ない状態に陥っていた。
「……う」
人狼に壁に押さえつけられている。
こんな状況にも関わらず、これは人狼だ、と自分なりに変なところで確信する。
私を押さえつけているのは足ではなく、手だとしか思えなかったからだ。
地面になら動物だって押さえつけられる。けれど壁だ。器用すぎる。
眼前には獰猛な光を宿す獣の目がある。
私の身体を押さえつけているのは毛で覆われている手。
かなり近い鼻面から少しだけ目線を下げると、赤黒いもので染められている口周りが見え、大きく鋭い牙がはみ出している。
鋭い爪の生えたその手を、爪を避けて両手で掴んでいるけど、全く意味がない。びくともしない。
重力で下に落ちそうになる隙がないくらいにその力は強く、何とかできている呼吸も浅いどころではない。その内、完全に呼吸の手だては失われるだろう。
こんな危険は、L班にきてから関わった事件の中でもぶっちぎりで一位だ。
けれどもここで思うのは、私はまだ生きていること。すぐには殺されていない。
……薄く開けた目で見るその獣の目が、どことなく虚ろだと感じるのは気のせいだろうか。
今ここ、――この人狼がどう思ってじっとしているかは分からないが――この手から逃れることが出来れば、時間を稼ぐことが出来るかもしれない。この手から逃れられれば。
今日も生き延びなくてはならない。
そのためにここから逃れる方法。方法。
どうやって。あるか。
「……あ」
ある、かも。
頭の中で、素早く簡単な計画を立てた。
もちろん、この人狼の手から逃れるための計画だ。
人狼の腕から手を片方外し、右手を身体の後ろに回す。壁との隙間のない腰をまさぐる。
見つけたのは壁ではなく、私の腰についた固いもの。あとはこれが引き抜ければいい。が、何せそんなに隙間がないから、簡単には引き抜けない。
けれどここでパニックになれば、先なんてある意味見えているから、擦るようにして徐々にそれをホルダーから抜いていく。
そのとき、目を離さなかった、離せなかった目の前の目の、焦点が合ったような感覚を覚えた。
それは間違いではなかったらしい。一気に私にかかる力が増える。
爪がコートを、そしてその下の衣服を貫く。
目の前の光景は、開かれた大きな口の中に並ぶ鋭い歯になり、いよいよ爪が、歯が私に襲い掛かる――。
そのときまでも、私は獣の目から目を離さなかった。
むしろチャンスは一瞬とばかりに、私は目を限界まで開いて、気合い一発、銃を引き抜く力と一緒に力を込める。
銃声が響く。
ウオーン
悲鳴のような鳴き声が上がった。
「っう……はっ」
地面に落ちていた。
手をついた横に、黒いものが固い音を立てて転がる。
間一髪、私が銃を抜いて、その目をめがけて撃つのが間に合った。それは当たったらしく、人狼は驚きからか私から手を離すと共に目を押さえたように見えた。
銃の存在を忘れてなくてよかった。
「げほっ……あー」
こっちも目が痛いなどと言っている場合ではない。火事場の馬鹿力なんてなかった、催眠はやっぱりいつも通りの強さで、人狼は倒れてくれたりはしなかった。
壁に背を預けながら立って目の前を見上げると、そんなにダメージはないはずなのに、目に当たったからなのか背を丸めている人狼がいる。
右手に拾って握り直した小型の銃を手で確認して、私はそろりと一歩目を踏み出して走り出す。
今度は東へ。
「痛いなあ……」
呟いている暇があるなら走りに専念した方がいいだろうが、呟かずにはいられなかった。
目も痛いが、何より押さえつけられていた胸の辺りが痛い。
目を高速で瞬きつつも走る。
嗚呼、今日は何回命の危機に遭っただろう。今も危機には違いはないのだが、本当にこの時点でもういい加減にして欲しい。
足は疲労で震えている。気を抜けば、力が抜けてその場に座り込んでしまうだろう。
息を懸命に吸って吐いてしている私は、──自分の荒い息の音以外の音を耳に捉えた。
荒い息、には代わりがないだろうが、自らのものではない。
それを認識した途端、息を潜める。
恐怖から来る反射的な確認作業を行わずにはいられなかった。しかし、その音を確認する間もなく、
「な、」
後ろからの重みに耐えきれず、地面に倒れることとなる。
倒れた先で、横っ面が地面に接触して擦れる。ついた両手も同様に。
「うえ……!?」
止まらされた。
一瞬の内に、地面にうつ伏せの状態になっていた。
また身体が圧迫されている。
今度は腹のあたり、つまり背中と腰のあたりに何かが乗せられている。
何が乗せられているかは、一挙に混乱に後戻りの頭でも大体予想がつく。分からないのは足か、手かだ。
地面から浮かせることが難しい中、どうにか顔を……というか、目を後ろに向ける。
「……う、っわ」
いつの間にか出てきた月の光にわずかに照らされた、爛々とした獣の目があった。
──人狼だ
私はいくらも逃げることを許されず、またも獣に捕まった。
さっきと同じ光景、変わったのは場所。
変わらないのは獲物とハンター。
──おじいちゃんおじいちゃん、私が子どものとき、傍で大抵のことは笑い飛ばして、何でもないように思わせることが上手だったおじいちゃん。
こんなときの心の支えのおじいちゃん、どうしてかというとおじいちゃんも同じように組織で働いていたらしいから。験担ぎみたいな。
でもさすがにちょっとこれは笑い飛ばせないし、何でもないって思えない。
決定、絶対ここ生き延びたら武器研究室行って装備強化してもらう。
こんな奴一発の……は難しいかもしれないけど一矢十分報いることができるくらいのやつ。
ぐるぐると色んなことが短時間で私の中を回る。動けないから仕方ない。その目を睨み返すのは、せめてもの抵抗だ。どこかでこの先を悟ってしまっていることを認めたくないからかもしれない。
背に乗せられた手が重みを増す。爪が食い込む。
その顔が近づき、血の生臭い臭いが直撃する。かぱりと開けられた口、赤い舌。鋭い歯。
さっきも見た。
だが、ここで違う点は、最早私の手には武器はないという点だ。倒された衝撃で、馬鹿な私が手を離したからだ。
その鼻面が私の顔につくのではないかというときに、顔を逸らす。地面に伏せる。
まずい。まずい。まずい、な。
直後、何かが何かを貫いた音がした。
貫いた、と分かったのは当たり前だ。その対象が誰であろう自分だから。
嫌な感触。皮膚が裂けた、と分かる。
「――ぁあああああぁああ!」
右肩から始まった痛みが、一瞬で全身に走る激痛に変わる。
目の前が真っ白になる。
肩が熱い。熱い。
指が、感じたことのない激痛で無意識に地面を掻く。目を限界まで見開く。目を瞑る。痛みは消えない。
その感覚の中で、肩に食い込んだ異物が無くなったのを感じる。
真っ白な目の前。のはずなのに、何かがフラッシュバックする。これまで見た犠牲者の姿だ。
身体中を爪で裂かれ、肉を食いちぎられ、ときにはパーツがどこかに転がっていた。例外なく、彼らは死んでいた。
死ぬ。
地面を掻きむしる指に何かが触れる。液体だ。
死ぬ。
頭のどこかから死は広がってきて、私は死を悟ることを……受け止める。
――馬鹿だな私。やっぱりこの仕事、向いてなかった。分かっていたことだし、止められもしたことだった。
でも、意気地無しで、それでも笑って危険なその場にしがみついてられた。しがみついた。
だって仕方ない。
仕方なかった。
私が素知らぬふりして、黙って傍にいられる方法はこれしかなかった。私はずるい。
だから、来るべくして来た危機なのかもしれない。
L班に入る直前、リュウイチさんに聞かれた。
――「死ぬ可能性が、君の場合だと九十パーセント以上はある。今出ている欠員の前任は、死にはしなかったが全身骨折臓器損傷であわや死ぬところだった。その覚悟はあるか」
私は――。
考えることを放棄した。
痛みで意識が飛び始める。
ウオオーン
どことなく切ないと感じる声が響いて、私は、意識が急激に薄れて、なくなったことだけは感じた。
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