(3)



「な、え……?」


 何で? え? と声を出そうとしたと思う。

 思うというのも、声は出すつもりはなかったからで、思わず溢れた声も、結局その言葉にならなかったからだ。

 けれども、思わず声を出してしまう光景がそこにあった。

 足を止めて、凝視してしまうほどのものが。


 はらり、と手にあった感触が消える。

 地図を落としたと頭で理解したが、目は紙切れを追うことはなかった。


「嘘だ……だって」


 間抜けな声を出して、「人狼は一件目の南にいるはず」そう続けようとした。

 街灯がない道に差し掛かり、月の光に照らされたその場には――グレーの毛に覆われた身体があった。


 人狼初見の私が想像していたよりも、かなり大きい。

 見えるのは少し斜めを向いた後ろ姿で、大きな尻尾と耳が二つ。

 後ろ足で立っていて、一応二足歩行だ。

 姿は完全に狼だけど、猫背気味で、腕か足かは分からないけど、少しだけ地面から浮いている前足はだらんとしている。

 心なしか苦しそうに見えるのは、前屈みだからだろうか。


 けれど待ってほしい。

 私から何十メートルか先にいるあの姿は『人狼』だろうか。

 もしかして、ただの大きな狼とかではないか。前の足は浮いていて二足歩行みたいだが。


 獣人ではない。

 なぜなら全身がどう見ても獣一色で、人は混じっていない。

 いや、何度も言うがたぶん二足歩行だけれど、そこだけでは獣人とは言わないだろう。

 それに、獣人の方は服を着ているが、目の前の獣は着ていない。

 何を言いたいのかいうと、私の中に残っている選択肢は二つ。しかしとにかく判断材料が少なすぎる。


 人狼か、ただの大きな狼か。


 目の前にしても、見分け方はさっぱり分からない。

 ただ、今分かることもある。

 問題の人狼は今、レイジさんとフェイさんが追っているはずだということ。


 では、私の目線の先にいるあれは何だ。

 全く関係のない他の人狼が、たまたま同じ時間に狼になって、同じエリアをうろついているというのか。

 可能性が低すぎる。

 じゃあ、ただの狼か。


「違う」


 前方の存在に気圧されたように、半ば無意識で、足を後ろに一歩下げる。


 細い道を通り抜けたっきり、立ち止まったまま目を離せなかった生き物は、大きな耳をぴくりと動かしたかと思うと、顔を動かした。


 ――私の方へ、だ。


 元々人通りが少なかった通りから、全く人通りのない通りに移ってきて、私以外に人影はない。

 私が見ていない後方に人がいないとすれば、光る目が捉えたのは、私だ。


 振り向いて見えた、裂けたように大きい口周りは、他の箇所の毛の色よりもかなり濃い色だった。

 ……いいや、あれは、何かがべっとりとついているからそう見えている。


 ぽたり。


 他と色が異なる毛から、何かが垂れて、地面に落ちる。

 刹那、私は弾かれたように走り出した。

 明らかに獣だった目から逃れるために、はじめっから全速力で走る。

 今や、私は、頭から爪先まで恐怖でいっぱいになっていた。

 恐怖で固まらなかったのは、これまでの経験様々だろう。


 足を前に出すことだけを考える。前だけを見る。暗くて、月が隠れてしまったのか、灯りの充実していない道の先。

 走っていることによって、風が顔に当たる。いやにひんやりするのは、きっと汗をかいているから。

 顔だけではなくて、身体中に生まれているそれは、間違いなく冷や汗。


 瞬時にパニックを通り越した頭の中で、あれこれと考える。考えられるだけ考える。あまり考えすぎると脚の回転がおろそかになって、絡まってしまうから。


 問題は一つ、後ろにいるのが人狼だということ。


 まだ捕まっていないことを考えると、すぐに追っては来なかったか、もしくはそもそも追ってきていないか。

 けれども追ってきているとすれば……。

 耳につけている機械がもしも落ちてしまえば私は終わるので、スイッチを入れる前に取るべく機械に手をやる。

 そうしながら、背後を確認するために視線を後ろにやったのが間違いだったかどうか、分からない。


「……え」


 さっき見たときよりも姿がはっきりと、そして大きく、手を伸ばせばすぐそこの距離にそれはいた。

 手を、伸ばせば。

 前足というより、もはや腕のそれが伸びてくる様が目に入る。私は息を詰めた。


 獣は、音もなく、もうそこにいたのだ。


「……ぐっ」


 毛に覆われ、鋭い爪の生えた手にぶっ飛ばされた。

 何とか理解したことは、軽く振られてきた手に思いもしなかったほどの衝撃をくらい、腹の底から声が押し出されて宙を飛んでいた、ということだ。


 しかし、どうやら高くは飛ばなかったからか、本当に短い間で私は地面に戻ってきた。


「……ったあ」


 背中から身体をしたたかに打ち付け、届く腰を押さえながら身を起こす。

 痛みにしかめた顔を上げると、吹っ飛ばされた影響で、人狼とは距離がまた離れていた。

 だが、安心出来る距離ではないことは明らか。


「通信機……」


 耳にない機械を探し、目を細めて周りを素早く見ながら立ち上がる。

 あれが無ければ私はおそらく死ぬ。今度こそ。だからといって、ここで通信機に執着して人狼に捕まるというのも間抜けな話だ。

 私の目があと数秒で通信機を見つけられなかったとき、また走り出すべきなのかどうか……。


「あっ、た」


 ラッキーだ。今日はついている。

 こんなことになっている時点でアンラッキーか。これが不幸中の幸いというものか。そんなこと、身を持って確認なんてしたくなかった。


 目を凝らせば見えるところに通信機は転がっていた。

 今の状況では究極とも言える二択で迷わずに済んだ私は、すぐさまそれに飛び付き走り出す。ついでに建物と建物の間の細い道を通り抜ける。


 大丈夫、ここを抜けても人通りがない通りだったはずだ。

 現場に向かうにあたって、いくつか通りすぎた通りを思い出す。

 他の人を巻き込むのは論外だ。


 手にしっかり握ったものを親指で探り、出っ張ったスイッチを探す。

 さっき通った道は、人狼には通れない細さ。諦めてくれればいいが。

 他の道を通るにしろ、少しは時間が稼げるだろう。


 カチッ、手応えがあってスイッチを見つけてついでに入れたことを知る。通信機を手でしっかり押さえて、耳にあてる。


『……も無惨だね。今回は獣人と来たね、本当に目標が絞られていない。補食目的ではないみたいだから好みとかいう問題もないっていうことかな。まあ捕まえて聞けば分かるだろうけど……』


 途端に、スイッチを入れっぱなしで早口で喋っているサディさんの声が聞こえる。


「すみませんハルカですもう一体人狼がいます!」


 息継ぎなしで一気に言い切って、大きく息を吸う。

 息が苦しいがそうは言っていられない。


『……え、ハルくん?』

『もう一体? いやそれは後で考えよう。それより、今まさか追いかけられているのか』


 それまで喋っていたサディさんが戸惑いの声を上げ、こちらも疑問符つきではあるが、冷静な声のリュウイチさんが素早くこちらの状況を予測し尋ねてくる。

 私の息が荒いから分かったのだろうか。


「今は、分からないですけど、さっきまで追い、かけられてて、一回吹っ飛ばされ……て、また逃げてます!」


 ああもう私の肺頑張れ! 

 喋るのは苦しいが、報告は大事だ。どれだけ緊急かを知らせられる。

 息切れし始めている私は、途切れ途切れに今の状況を報告した。

 吹っ飛ばされたくだりはいらなかったか。より苦しくなった息に、頭のどこかで反省。


 そういえば狼の鼻はいいのだろうか。私が狭い道を通って逃げて姿が見えなくなったとして、違う道を通らざるを得なくなったとして。私のことを追えるのかどうか。


 あ、耳もあったか。

 しかし残念、足音には配慮していなかった。逃げるのに必死だ、仕方ない。今からでもどこかに身を潜めて静かにするという選択肢は……ない。


『まずいな……。ハル、すぐにそっちにレイジをやるから、もうやっているだろうが逃げろ。一応聞くが、大体の場所は分かるか』


 それはもう必死に逃げている。それから走っている場所がどこかなんで分からない。

 しかし通信機を耳に押し付けている方とは別の腕を振り、足を動かしながら、思い出してみる。自分の命が懸かっている。


 私は現場がある南に向かっていた。

 その途中で人狼と思わしき、見た目完全狼に遭遇。方向は――東。

 私は反射的にその反対方向、西へ。

 そして記憶にあった人通りがない方へ……思ったが、あのとき南に行っておけば良かったのか、でも人がいたかもしれないし……とりあえずそこで少し北へ戻った。

 つまり、


「……とりあえ、ず西のほうへ行ってま、す!」


 走るにつれて荒くなる息の合間、どうにか伝えた情報は役に立つのか。

 方角が絞れるだけで大分変わるものだと思おう。


『分か……』


 リュウイチさんの返事が途切れた。


 訂正。私の手から通信機が離れた。


 原因は、突然脇の方からグレーの塊が現れたことによる。


「冗談、きつい」


 急遽止まるために重心を後ろへ、靴の裏が地面で擦られながらも足を止めた。


 やっぱりその獣は私を追いかけていた。狩猟本能かな。






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