(5)



 ――たった一人、私を育ててくれた祖父がいる。


 同時に私のたった一人の家族であったおじいちゃんは、六年前に死んだ。

 私が十だか十一歳にならないかのときだった。

 最期の最期まで、穏やかに、おじいちゃんは当時の家で本当に眠るように息を引き取った。

 そのせいもあって、私は、おじいちゃんが起きると信じて疑わなくて、──なぜ目覚めないのかが分からなかった。



 世間を知らない子どもに埋葬が一人でできるはずもなく、私が何もせずともぼんやりしている内に葬式の日がやって来ていた。

 たくさんの人が、来ていた。人間だけでなく、それまで見たことがなかった他の種族の人も混ざっていた。

 おじいちゃんにこんなに知り合いがいっぱいいたのか、とどこか不思議な心地を覚えた。


 でもその間にも、いつも側にいてくれていたおじいちゃんがいなくて、長方形の箱の中で動かなくて冷たくて笑わなくて。

 わけが分からなくて、理解できなくて――涙が止まらなかった。


 きっと、頭のどこかでは、理解できていたのだ。

 おじいちゃんはもう私に話しかけてくれないし、それどころか目を開けることさえないのだと。一人に、なったのだと。

 だから涙が出てきていたのだろうから。


 涙が流れて、おじいちゃんがいなくてどうすればいいのか分からない中、たくさんの視線が嫌だった。

 立ち尽くす私に注がれる視線が。


 ――「サコンさんの……」

 ――「特殊能力は遺伝するのか」

 ――「組織は……」


 嫌だった。

 黒いスーツ、黒いネクタイ。

 視線を上げることなければ黒一色。

 後ろも前も横も。取り囲まれているような感覚に陥った。


 おじいちゃんどうすればいい。私はどうすればいいの。

 この人たち誰。どうして私を見るの。


 頭がひどくぐちゃぐちゃで、おじいちゃんにすがりたくて、でも、そもそもこうなっているのはおじいちゃんがいなくなったからで。


 どうしようもなかったことは覚えている。あまりのことで視界は定かでなく、終いにはしゃがみこんだのだったか。

 耳までも塞ごうとした。

 けれど、それより早く、「こんなところにいやがったか」と、誰よりも近くに誰かが立ち止まった。

 下を向いていた視界に、黒い靴が映った。


「お前、ハルだろ」


 おじいちゃんは、私のことをハルカ、と呼んでいたから聞き慣れない呼ばれ方だった。

 けれどそれは不思議とすぐに耳に馴染んで、私はゆるゆると顔をあげた。


 目の前に立っていたひとは、ずっと見ていたら首が痛くなりそうなくらい背が高い人で、逆光でろくに顔が見えなかった。

 みっともないくらいの涙で、視界が滲んでいたせいだったかもしれない。

 でも、その中できら、と何かが光った。


「……だれ?」


 それが、レイジさんだった。



 *






 おじいちゃんおじいちゃん、私の小さい頃に私の側にいてくれたおじいちゃん。私は下手をすれば、一度売られてしまうかもしれない。


 女の子をなだめること早三十分。

 奥のドアが開くたびに、賑やかな声が聞こえてきはじめ、目の前の通路を鎖で繋がれた人たちが通りはじめた。

 その度に重苦しい、鉄と鉄とがぶつかる音がした。


 これはまずいのではないだろうか。始まってしまっているのではないだろうか。何が、とは考えたくないものだ。


 心臓がうるさい。落ち着こうにも、不振な動きをすると女の子が怖がってしまうかもしれないので、深呼吸はできない。


 そこでなんと不意打ちにも見張りが鍵を持って、こちらへやって来た。

 さっきから鉄格子を開けている奴だ。もう順番が来たのか。

 何だか、ここにきて不思議と心がどこか落ち着いてくる部分があった。殺されかけるよりはましかな。などと、ここに来て楽観的思考も出てくる。


 いや、そんなマイナスな楽観的思考があるか。

 ……一人だけなら、何とかできるか。どうにかしたとして、ここから出るには鍵がいる。上手く倒れてくれるだろうか。

 とうとう鉄格子越しに前までやって来た見張りを見ながら、算段をつける。


 ひとまずやってみようか。しないよりした方がいいという言葉があったような気がしないでもない。

 隣の女の子の背を最後に一度撫でると、勇気に似たものが出てくる。

 そうして私が静かに立ったとき、通路の向こうのほうでドアが乱暴に開いた音がした。


「お、おいまずいぞ!」

「何が?」

「今会場に……」


 入ってきたのは、異なる場所の見張りか。

 随分と慌てた様子でやってきた。それによって鍵を開けかけていた見張りが手を止めてその様子に訝しげにする。


 私もそこで異変に気がつく。

 ドアの向こうからもれてくる音が賑やか、というより……叫び声? 悲鳴? そういった類のものが混ざっている。

 こんな風に騒がしいものなのか。それとも異なる何かが起こっている証拠なのか……?


「落ち着いて喋れよ」

「今、け……」


 前触れもなく、鉄格子の向こう側で話していた見張りが両方、音もなく倒れた。

 私は見張りが倒れた先を見ずに、その背後を見た。


「――レイジさん!」


 レイジさんが立っていた。

 昏倒させた見張りを、邪魔だとばかりに蹴って退けている。


「やっぱりいやがったか。あの短時間でさらわれるなんて、ある意味才能だな。報告書にその中の居心地も細かく書いたらどうだ」


 見張りの手から鍵の束を取り上げつつの、そんな皮肉が降ってきたが、どうだっていい。

 早くも私が入っているところの鍵を見つけたらしいレイジさんによってがちゃり、と鉄格子の出入り口が開けられた。

 途端に、何か解放感が満ちて深く息を吐く。


「助かった……」


 おじいちゃんおじいちゃん助かりました。

 余計な経験をせずに済んだ。もうすでにここにいる時点で余計な経験してる感は否めないが、何事も最悪の事態が避けられるのはいいことだ。


「何悠長に言ってんだ馬鹿野郎が」

「痛い!」


 ほっと安堵を感じていると、拳骨が頭に降ってきた。

 鉄格子の間から手を伸ばしてきての打撃だった。


 痛い。とても痛い。加減はされているだろうけれど、痛い。

 すぐに頭を押さえようとする前に、拳骨を落とした手が、そのまま私の髪をぐしゃりとかき混ぜ頭を撫でる。


「……レイジさん?」

「じっとしてろって言っただろうが」


 すぐにその手は離れてしまって、中途半端に宙に浮いていた自分の手で、改めて頭をさする。

 すると、がちゃ、と未だ手首に重く絡む鉄の塊がその存在を主張してきた。


「あ、これ忘れてた……」


 そうだ。いくら出口が開けられても、これを外さなければ出られない。鉄格子からは出られたとしても、本当に外には出られない。

 頭の痛みを瞬間的に忘れて、別の意味で頭を抱えたくなる。


「なんだそりゃあ……鍵探してると時間かかるな」


 鉄格子の向こうのレイジさんが、私の手元を見て、枷に鍵が必要なことを知るやいなや呟きながら、次に何かに目を移す。

 その視線は私から離れ、鎖を辿って暗い色の石の床に移り、鉄格子の外へ出て、倒れている見張りを通りすぎて横に滑り……。


 鉄格子から少し離されたところにある、鉄の棒に止まる。

 棒の一番上には、鎖を留めるための蓋のようなものがついている。


 そうか、それを外せば鎖は外せる。と、私は思ったのだけれど。


「これにも錠がついてるな……」


 レイジさんが、鉄の棒の先端を見ながら呟く。

 どうやら、万が一鉄格子の中から手が届いてしまってもいいように、簡単に鎖を取ることなんて出来ないように、錠がついているようだ。

 つまり、鎖をその棒から取るにも、鍵がいる。


 こうなれば枷の鍵は……見張りが持っているのか、それとも……。

 でも鍵が見つかったとしても、それこそレイジさんの言った通り、私の分の鍵を見つけるのにはさすがに時間がかかるだろう。


「レイジさん、私……え」


 「他の人と解放されるの待ちますよ、この場所判明したならもうすぐですよね?」……と言おうとしたのだ。

 レイジさんがここにいるということは、もう場所が割れているということだから、気長に待てばいい、と思って。

 私が急いでここから出る必要はないのだから、とレイジさんに改めて目を向けて言いかけていたら、だ。


 バキンッとすごい音が聞こえて、それと共に出来上がった光景に、呆けた声が出た。


「あ? 何か言ったか?」


 がちゃ、がちゃ、と、鎖が石の床に落ちて音を立てる。

 その音は、私がさっきまでここで聞いていた音となんら変わりはない。


 変わったというなら、その形状。

 レイジさんが無造作に手を離した鎖は、途中で切れていた。真っ二つに分かれたそれは、それぞれレイジさんの右手と左手にあった。手を離されるまでは。


 私は、再び鉄格子の前に戻ってきたレイジさんの全くもって平然とした姿を見上げる。

 千切られた鎖が視界の端に映る。


 このひと、鎖千切ったよ……。


 中々に重く太い鎖だったにも関わらず、外せる正規の手立てがないと知るや、鎖を手に取り左右に引っ張った。

 強制的に、鎖を鉄の棒から取るというか、離すことに成功した光景を見た。


「……いえ、何も言ってないです」


 そう返事すると、「枷は戻って取ってもらうか」と言いながら、このままでは鎖が長すぎると感じたのか、もう一度鎖をちぎるレイジさん。


 やっぱりすごい……。

 しみじみと口に出しそうになる。枷も取ろうと思えば取れるのだろうかと、聞きたくなったが自重した。


「とっととずらかるぞ」

「え、いいんですか」

「会場内と出入り口はもう捕り物になってんだよ。俺らはそこすり抜けて戻る。人員は足りてる。後はリュウイチにでも任せりゃいいんだ」

「ええぇ」

「さっさと出てこい」

「はい」


 自分から出る前に、枷がまだついた手を引っ張られ、鉄格子の外へ出される。例のごとく担がれ……と思ったら、腕に腰かけるように抱き上げられた。

 どうやら言葉通りにずらかるらしい。言い方が犯人側みたいだ。


「あ、」

「何だ」


 閉じ込められていた重苦しい場所を見ながらドアをくぐろうとすると、ぼんやりと鉄格子から出る小さな女の子と目が合った。


「家族がいるなら戻れるようにするだろうから問題ねぇ」

「そう、ですよね」


 ママに会えるといいね。

 ぎゅっと手元の布を掴む手に力を入れると、


「怖かったなら素直に言え」

「……別に怖くなんてなかったです」


 泣いている女の子を見ていたら、昔を思い出した。

 このひとがくれた、優しい日々を思い出した。

 だから、ちょっと悲しくなった。





 その日、地下で行われていた人身売買運営の関係者は、一網打尽にされた。

 現在、人を売ろうとして捕まえてくる者たちのルートの方も明らかにしていっている。

 もう少しで売られるところだった、すでにその日売られてしまっていた人たちも保護されたようだ。








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