第6話 男と女がわらった。

 バードンは昨日よりも少し余計に後ろを気にかけ、千夏は昨日よりも意思の籠った目で前を向く。

 二人は互いを知ろうと少しの歩み寄りを望んだが、この過酷な環境はそれを許さない。

 黙々と前進を続ける二人に、異変をもたらしたのは千夏であった。

 昨日までの道のりと、今日の心境が千夏の思考を呼び覚ます。



 バードンは今私を助けてくれているけど、多分私のことは何も知らない。

 だから、昨日みた地図の建物の絵が描いてあった場所に私を連れて行こうとしている。

 でもその後のことは分からない。おそらく、彼にもわかってない。

 昨日の夜、つい自分はどうすればいいのか彼に聞いてしまった。

 あの時の凍り付いたような表情がそれを物語っていた。

 そもそもここは間違いなく地球ではない。

 あんな化け物たちはどこにもいないし、それを人間が倒せる訳がない。

 透明な壁のようなものをバードンは空中にだすし、そんなことは誰にもできない。


 右も左も分からない状況とはまさしく今なのだろう。

 だけど、不思議と何とかなりそうな気がするのだ。心が軽い。昨日までの自分が嘘みたいに、とてもすっきりとしている。


 今までの人生で感じたことがないような感覚。

 先行きが全く分からなくて、今だって凄く苦しい。

 体がどうやって動いているのか、それすら分からない。自分の心と体が別々のものになったみたいに、体だけは勝手に動いているような状態。

 疲れてはいる。でも体は不思議なほどよく動いている。

 体が先に動いて、私が追いかけている。そんな状態。


 それでも、辛くない。


 胸の中をあんなに渦巻いていた不安や恐怖という感情がぽっかりと無くなって、代わりによく分からないものが入ってきた。

 分からないことだらけなのに、怖くない。

 むしろ今の自分の置かれている状況を笑えるのだ。


(おかしくなっちゃったのかな?)


 そう考えた千夏はたった一つの希望に目を向ける。


 今はただ、バードンを信じてついていくしかない。昨日はつい取り乱してしまったけど、取り乱すのはこれで二度目だ。

 それに確かなことは、初めて会った時から、今この瞬間も、ちょうど私の方に飛んできた兎を手に持っている大きな鎚で止めてくれた。彼は私を守ってくれている。

 それが何とも頼もしい。

 信じてはいけない。それは分かっている。

 でも信じずにはいられない。

 彼が今日も変わらず、いや、少し優しく接してくれていることが妙に嬉しかった。


 その暖かな感情が、この魔境では油断に変わる。



 この旅で千夏が覚えた言葉はいくつかある。その中でもよく使うのが”ご飯”、”トイレ”、”止まれ”、”進め”、そして、”危ない”。


 千夏は”危ない”の声を聞き逃し昨日の雨で塗れた道から足を滑らした。



 幸にも、転んだだけだ。

 怪我は、たいしたことは無かった。だが今の状況では致命的な、右足首のねん挫であった。

 木の枝を杖に何とか近くの拠点にたどり着くと、既に日は暮れかかっていた。

 だが、それほど悲観的な状況でもない。

 なぜなら旅路は順調に消化しており、この山さえ抜ければどうとでもなるのだから。



 怪我の手当てを再びして、食事を終えると静寂が訪れる。

 焚き木を囲うように二人は腰を下ろし、千夏はねん挫した右足を伸ばしている。

 その左前側にバードンがいて、薪をくべお湯を沸かしている。

 すると千夏が申し訳なさそうに話しかける。もちろんバードンには何を言っているのか分からないが、まかせておけ、心配するなと、胸をドンドンと叩く。


 こうしたやり取りは今までは無かった。


 森を進むときはもちろんそんな余裕はないし、朝は支度で忙しい。

 時間が取れるのは夜だけだが、千夏は心を隠していて、自分から話しかけることは無かったし、食事が終わると直ぐに眠りに入っていた。

 バードンもどう接していいのか分からず、必要なこと以外を伝えようとはしなかった。


 まるでその時間を上書きするかのように二人は言葉の通じない会話を繰り返す。



 千夏がバードンの大鎚を指さす。

 千夏からしてみれば、こんな変なかたちの物は見たことは無かったし、バードンが振り回しているが、何故それを持っているのか不思議だったのだ。

 バードンはニヤリと笑うと鎚を手に取り千夏の前に柄を向けて置く。

 さぁ持ち上げて見せろと両手を上下に動かすと、千夏は恐る恐るそれに触り、自分の身長より長い柄を握りしめ持ち上げようとするがビクともしない。

 次に左足にも力を入れ持ち上げるのではなく、引っ張ってみるがまたもビクともしない。

 するとバードンが右手のみでひょいと持ち上げると、千夏の目の前で柄の端をふらふらとさせる。

 千夏はそれを掴めと言われているような気がして掴んでみると、どんどんと柄が持ち上がり千夏の腕が上に伸びきる。そこで嫌な予感がした千夏がバードンを見ると彼は悪戯を楽しんでいるように笑っていて、千夏は意を決して両手を絡めて指の力を強め、足の力を抜く。

 ついには千夏まで持ち上がり、卵の中にいたときのように膝と体を曲げてぶら下がった。上下左右に動かされた後ゆっくりとお尻から着地すると、早くなった心臓の鼓動を無視してバードンになじるような視線を送る。


 バードンは素知らぬ顔でお茶を差し出した。



 千夏はお茶を一口飲むと、はたと思いついたようにポケットを弄り、今日の休憩の時につまんだサクランボのような木の実を取り出す。

 これは丁度酸味の弱い甘めのレモンのような味で、手で絞って入れてみる。すると口当たりが良くなり好みの味に近くなる。ついつい笑みがこぼれた。

 それを見たバードンが自分もやってみようとポケットや鞄の中をガサゴソ探すが、その木の実は入っていなかった。

 羨ましそうな視線を千夏に送ると、何のことか分からないようで困惑していた。

 その困惑がどういうように結論に達したのか、千夏はあせって熱いお茶を一気に口の中に入れると、あまりの熱さに飲み込めず、顔を上にあげて口を開きパクパク、ハフハフと開閉させ口に溜め込んだお茶を冷ます。


 その魚のような様を見つめていたバードンが大笑いすると、ようやく口を空にした千夏がつられて笑った。


 どれくらい笑いあっていたのか、丁度良い倦怠感と少しの気恥ずかしさを感じ取った千夏が就寝に入る。

 その様子を視界の端に収めながらバードンは薪をくべた。



 ここにきて初めて心安らかに眠りにつくと、千夏の体は今までの緊張をほぐすように深い深い休息に入る。

 無抵抗に、体を差し出すように。

 まるでその時を待っていたかのように体の奥底から何かが染み出してきた。



 深夜、バードンは千夏の異常に気が付いた。体から汗が噴き出し高熱を発している。すぐさま水を飲ませたり、汗を拭いたりと処置をするが、次第に呻き声をあげるようになっていき、収まる気配はない。



 バードンはこの症状を知っている。

 この発症を危惧してできる限り急いできたのだ。

 これは俗に「魔の洗礼」と呼ばれる、この領域に初めて訪れた者に必ずと言っていいほど襲い掛かる、いわゆる風土病だ。

 治すことは簡単である。

 闘えるものならば、自らの力のみでこれに打ち勝つことが戦士の試金石になっている。自らの体内のバランスを整え、自らの魔力を操作すれば、苦も無く抑えられる。

 また、闘えないものは、薬によってこれを克服する。もしくはこの領域から離れるだけでいい。

 対策は完璧に立てられているが、もしも、闘う術を知らないものが、薬を飲まず、この領域から離れることも出来なければ、3日かからず命を奪われる。


 それも魔境の奥で発症するほど時間は短いという。



 最悪の想像というものはどうしてこうも当たるのかと、バードンは嘆く。

 やはり千夏はこの領域を初めて訪れたのだ。

 いろいろ疑問も湧く。だがそれどころではない。

 とにかく薬だ。薬を用意しなければならない。

 だが、薬は開拓村まで戻らなければ無い。

 救援を呼んだところでこの薬を持ち歩いているものはいるだろうか?

 いやいないだろう。

 これは一度しかかからない類のものだし、そもそもこれを克服できないものは前線には出ない。



 バードンは自分の荷物に目を向けると、金瘤の瘤をとりだす。

 このどんな病気でもたちまち治すという瘤をナイフで一切れ抉り軽く炙って千夏の口に運ぶと、無理矢理に飲み込ませる。

 だがいくら待っても千夏の容態に変わりは無かった。


 それもそのはずで瘤はただ食べるのではなくて絞らなければならない。


 バードンはその食べ方を知らなかった。



 千夏が苦しそうに呻き声を上げる。



 猶予は、ない。

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