第5話 男と女がであった。

 洞窟の中に光が差し込む頃には既にバードンは起き上がって、洞窟の手入れをしていた。


 魔獣を解体したときの余りは既に洞窟から少し離れた場所に捨て土を被せてあり、今は散らばった食べカスや細々としたゴミを纏めているところだ。


 それももう終わる。


 いよいよ今日ここをでて帰路に着く。その為に荷物は昨夜の内に纏めてあり、ルートも確認済みだ。


 問題があるとすればあの女だろう。どうにも体力があるようには見受けられず、遠周りになるがなるべく安全で平坦なルートを選択した。


 だが、どうにも予定が読めない。ともすれば安全のためルートを外れることもあるだろうし、まったく想定外の事態もあり得る。


 何しろこの領域に闘えないものを連れて入ることなど皆無なのだから。どこかの国のお偉いさんや学者が視察に訪れることもあったが、開拓村の周りを何人も護衛を付けて回るただけなのだ。中には奥に入りたいという連中たちもいる。護衛を自腹で雇ったり、開拓団に要請をしたり。だが命の保証はできなかった。いくら護衛を付けても本人が弱ければこの領域ではいつ命を失うか分からない。弱い人間では虫に刺されて死ぬことだってあるのだから。


 ただ、もしもバードンの懸念が正しいとすれば一刻も早く開拓村に戻る必要がある。この懸念が外れることを今は祈るしかない。


 荷物は極限まで減らした。行きに比べて増えたのは蜥蜴の皮と金瘤の瘤、それと女のみであり、軽い荷物は卵姫にも背負せている。金瘤は保存用の魔術のかかったシートで包み凍らせている。




 そもそもバードンのひらめきは卵を孵化させてそいつに荷物を背負わせこき使って帰るというものだ。生まれてすぐの魔獣に負けるとは思わなかったし、その目論見は上手くいったが、生まれた者がまるっきり普通の人間のようなのだ。てっきり生まれるのは人型の未知の魔獣だとばかり考えていた。人型の魔獣というのは聞いたことがないのだが、そのまま人が生まれるとは思ってもみなかった。


 そうなると必然的に女を守りながら進まなければ行けない訳で、どのようなことが起こるか分かったものじゃない。険しい帰路になるのを覚悟して、万全の状態で臨むため金瘤の肉で朝食を作る。




「卵姫、飯だ。」



 肉の焼ける香ばしい匂いで卵姫と呼ばれた女が目を覚ます。すると勢いよく起き上がり、眠る前と変わらぬ光景を目撃すると、感情を消したかのような無表情になる。しばらくそうした後自分を呼ぶ声に従い、身支度を整えることもなくバードンに近づいていく。



 朝食は相変わらず金瘤の肉とスープ、それに昨日森で見つけた赤い皮のフルーツである。勢いよくバードンが食事を始めると、女がそれを真似するように慌ただしく食事を始めた。その顔に昨日のような笑顔は無い。


 食事を終え、体をほぐすと出発するべく装備を整える。


 卵姫は一人では装備を付けられないため、昨日のようにバードンが入念に足や腕や体の部位に頑丈な皮や布を取り付けていく。今日は体に虫よけの薬やらも塗り、昨日よりもさらに機能的な仕上がりにすると、頭にターバンのように布を巻き、口元も隠す。最後にバードンが被っていた帽子を、その上に被せた。




 女はこの後のことを何となく見当をつけていた。この急ごしらえだが万全ともいうような恰好と、男が纏めた荷物が、嫌でも旅装束だと伝えてくる。


 あの森を歩かされるのだろうな。


 だが、その先は決して考えない。考えてはならない。今はただこの男に縋るしかない。それだけ分かれば、今はそれでいい。




 バードンの支度は既にほとんど済ませていたためすぐに終わると、もう洞窟を出る。洞窟を出たところで来た時のように木や草で入口に蓋をすると、感謝を捧げる様に一つ頭を下げた。



 さっそく出発すると、思いのほか旅は順調に進んだ。卵姫のギリギリついて来れるくらいのペースで、休憩を多めに挟んで進んでいるため時間はかかるが、危険な魔獣との遭遇はなく、トラブルもないまま今日の目的地に近づいてきた。日が傾き始めたがあと半刻もかからず着くだろうと、だいぶ疲れの見えてきた卵姫に目的地の近いことを身振りで示す。朝から、というよりも昨日森に出てから続くこの表情のない顔を見ると、バードンは何か良くないことが起こるのでないかという不安を覚える。



 道中見たどの木よりも大きい、緑の葉をふんだんにつけた大樹、その根元のうろが今日の目的地である。夕暮れ時に辿り着くことができて安堵したバードンは休むこともなく夜の準備にとりかかる。一方、その場にへたり込んだ女は大樹を見上げながら、表情のない顔にほんの僅かに絶望の色を滲ませていた。






 魔獣が出るとバードンが一瞬で鎚を振るい追い払う。もしくは殺す。女はそれも見ても眉一つ動かさない。


 2日目の旅路は魔獣との遭遇が何度もあった。空から落ちる様に迫るもの、地面から飛び出してくるもの、正面から挑んでくるもの、背後から襲ってくるもの、そのことごとくをバードンは返り討ちにした。卵姫の背後から襲い掛かるものも、辿り着く前に大鎚にぶつかる。


 女はとにかく歩くことに集中し、まるで周りなど見えていないかのように男の背だけを見つめ後に続く。




「止まれ。」


 バードンが声を出すと女は足を止める。昨日から何度か繰り返されたやり取り。


 この言葉の後には少し止まってまた歩き出すか、それとも、


「休憩だ。」


 その言葉で女は鞄を下ろす。だが、腰は下ろさない。一度座ってしまうと足が動かなくなるからだ。この短時間ではっきりと理解した。ただしこれは本能的なものだ。女は男が座れば座るし、立っているなら立ち続ける。そこにあまり感情的なものはない。この状況に適応するためバードンの動きを真似しているだけだ。鞄を下ろしたのも何度目かの休憩の時にバードンが見かねて下ろしてやったからだ。


 ただこの瞬間だけはいくらか体が安らぐ。ほんの僅かに期待を込めた目で木へ手を伸ばす男の姿を追っている。


「食え。」


 そう言ってサクランボのような果実を渡してくる。これが本当に美味しい。渡されるものは毎回違うが、体が生き返るような感覚を味わう。


 ただし、その美味しさを味わうのは心の奥底だけで、顔も体も何の感情を示さない。まるで牢に囚われてる囚人のようにその味を密かに味わった。




 短い休憩が終わるとまた歩き始める。さっき食べた果物のせいか妙に体が落ち着かなかった。男が行かないから私もトイレには行かなかった。



 足もさっそく豆が潰れたのか歩きずらくなった。でも痛みは感じなかったから、変わらずに歩き続けた。




 この日の拠点はまた、大樹のうろだ。バードンは昨日と同じように休むこともなく夜の準備にとりかかる。一方、昨日と同じようにその場にへたり込んだ卵姫は大樹を何の感情もない瞳で見つめていた。







 順調に行くかと思えた旅路に問題が起きたのは4日目の夜だった。


 この日の拠点はやや高台に位置するそびえるような岩場の陰を削ったところで、明らかに人の手によって広めの空間が確保されている。


食事を終え、もはや羞恥心を忘却の遥か彼方に追いやった卵姫は、日毎に悪化していく足の状態―豆が酷く、皮も剥けたため、靴を履くことは止め、靴下を重ね履き厚手の皮を被せて靴代わりにしている―を確認してもらうためバードンにむき出しの素足を晒している。日課となったこの作業の最後に待ち受けているのが、いやに染みる塗り薬だ。


 それが終わると倒れる様に寝入のだが、この日は大雨が降り始めた。幸いこの場所は雨の対策をされているため水が入り込むことは無いが、つんざくような雨の大音は人の心を不安に駆らせる。




 バードンが地図を広げ、ルートの再確認を始める。この大雨はいつ止むだろうか明日も降り続くとなれば、移動は厳しいだろう。だが、雨は魔獣の動きを抑える。小降り程度になるのなら一気に距離を稼ぐチャンスかもしれない。


 このペースで行けばあと2日程で次の山を越える。そうすれば、開拓村の勢力圏に入る。そこまで出れば何かあっても信号弾で救援を求めることもできる。


 と、残り少ない旅路を確認したところで卵姫が地図を覗いているのに気が付いた。


 せっかくなので、この過酷な旅路を泣き言一つ言わず―言ってもわからないが―懸命についてくる気丈な女に軽い雑談のつもりで、色々と教えてみる。


 まず、自分たちのいる地面を指さし、次に地図上で現在地を指さす。


 すると意図が伝わったのだろう、卵姫は自分たちがやってきた方向、岩場の外を指さし首を傾げる。


 なので今度は昨日止まったところ、一昨日泊まったところ、と最初の洞くつまで地図上を指さしていく。


 少し考えた卵姫が今度は自分たちがやってきた方向とは別の方向を指さし、何処かと問う。


 なので同じように明日泊まるとこ、明後日泊まるとこ、と目的地まで地図上で示してやる。


 最後に卵姫は自分を指さすと、何処に行くのかと問うてきた。






「――――――――――」


 雨の大音が降り注ぐ岩場の陰で、その音に負けるとも劣らずの大声で、卵姫は渾身の力を振り絞って泣き喚く。


 何も考えないように、ここまでひたすらについてきた。何かを考えてしまうと、きっと崩れてしまうから。


 幸にも何かを考えこむ余裕などないほどに、豆が潰れようが、皮が剥けようが、体が泥だらけになろうが、見たこともない虫に刺されようが、髪が千切れようが、トイレを漏らそうが、化け物が周りをうようよしていたって、ただ足を動かし続けたのだ。


 それもただ目の前にいる大男についていけばきっと大丈夫だと、そう自分に言い聞かせて。


 だけど、今まさにこの名前も知らない命の恩人に裏切られた思いで一杯になった。


 そうなるともう自分の感情はぐちゃぐちゃだ。


 お父さんとお母さんは何処にいるんだろう?


 弟は自分がいなくなって今頃必死に探してくれているんだろうか?


 会社帰りにたまに寄る喫茶店のカレーが食べたい。


 もう疲れた。


 無断欠勤で会社をクビになるなんてことはないだろうか?


 なんでこんな目に合わなきゃいけないんだ!


 ぐるぐると思考が浮かんでは消え、浮かんでは消え、やり場をなくした溜め込んだ感情が、意味のない言葉となって、または大粒の涙となって体外に放出される。


 それを止めることはもう誰にもできなくて、止んだのはただ疲れて眠ってしまったからだった。






 眠りについた卵姫をみて、失敗したとバードンは思った。


 卵姫が自分を指さしたとき、時間が止まったような気さえしたのだ。


 おそらく彼女は自分が何故ここにいるのかを知らないのだろう。


 言葉は通じないが彼女は頭が良く、経験豊富な大人の女性なのだと思う。


 思い出すのは初めて会った時の反応だ。あの時は叫びだされそうになるのを何とか抑えたのだ。なにしろ女の悲鳴は魔獣を引き付ける。今のように大雨が降っていれば話は別だが、そうなれば洞窟の結界など意味のないものになったかもしれない。


 と、あの時のことを思い出して笑みを浮かべる。傑作なのは、あれだけ抵抗したのに肉が焼けると迷わず寄ってきたことだ。肉を渡すと何とも美味そうに食うものだから、あれはまさに雛に餌をやる親鳥の心境なのだろうか。


 おそらくあの活発な人懐っこい姿が本来の彼女なのだろう。


 あの後外に連れて行ったとき表情が無くなったのは気を引き締めたからだと思ったが、そうではなかったようだ。




(あれは心を隠していたのか。)




 今になってようやくそこに思い至った。




 一度薪を足しお湯を沸かすと濃い茶をいれる。すっかり穏やかな寝息をたてる彼女をみると、ようやく分かった。


 彼女が素直についてくるのはここから抜け出すためだと思っていた。


 しかし違うのだろう。


 一番の理由は俺について来ているのだ。


 まさしく親鳥と雛鳥のように。


 ようは俺に縋っていたのだ。だから彼女は泣いたのだろう。


 もしかしたら帰る場所も無いのかも知れない。




 そう、卵姫が何処に行くのか俺には答えられなかったのだ。




 その何とも言えないばつの悪さを感じながら、これからのこと、開拓村に着いてからのことを考えて夜は更けていった。








 翌朝、雨はすっかり上がり晴れ間が広がっている。


 卵姫の表情は無表情が解け、代わりにはっきりとした絶望の色がこびりついている。


 それでも食事をとると支度を始める。そこに今までの慌ただしい様子はなく、ただ義務的に手だけを動かしているだけである。


 一度も顔を上げることは無く、唇を噛みしめて俯いて、その顔は今にも泣き出しそうで。


 そうやって支度を終えると二人とも無言で動き出す。


 卵姫の昨日までとはまるで違う、足元の定まらない歩調が、はっきりと不調なリズムを奏でている。


 それでも足を進めなければならない。ここが危険だと、歩け、歩けと昨日までの自分が追い立ててくる。


 もう、いくら感情を消そうとしても、氾濫した感情は消えそうには無かった。


 だから、我慢するように、無視するように、もっと強く唇を噛みしめた。


 男の背中は、もう見れなかった。








 出発して少し進んだところで男が声もかけずに立ちどまった。


 未だ俯いたままの女はその止まった足元だけを見つめて同じく立ち止まる。


 立ち止まった足はやがて女の方に向き直る。


 しばらくその足を見つめていた女は泣きはらした眼だけを上に向ける。




「バードン」


 男が声を上げる。


「バードン」


 さらに繰り返し声を出す。


「バードン」


 言いながら男は自身を指さし、次にその指を女に向ける。


「バードン」


 ついに女が顔を上げ男の目と視線を交わす。


「バードン」


 男は力強く自身を指さし、次にその指を女に向ける。




「ふじおか、ちか」


 女は震える声で返事をする。


「ふじおかちか」 


 女の声が段々と力強くなっていく。


「――――――」


 感情が揺さぶられ、呼吸が荒れ声が出ない。


 大きく息を吐き、大きく息を吸うと、しなやかな指を自身に向ける。


「藤岡千夏!!!!!!」


「千夏。千夏。千夏!」 


 何度も何度も自分を指さし、何度も何度も自分の名前を叫ぶように声に出した。






 これがようやく他人では無くなった二人の自己紹介。バードンはチカの名前を知って、千夏はバードンの名前を知った。二人にとってはこれで十分だった。



















読んで頂いてありがとうございます。

初めて小説を書きました。

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