第39話 その声は甘く
午後七時。
夜勤の護衛官や警察官達と交代する形で、真之は白鱗神社を出た。今夜の空は、昼間から変わらず分厚い雲で覆われており、月も星も隠れて見えない。
帰宅したら紺とどう話せばいいだろうか、と頭を悩ませていたところへ。
「悪人面なのにしかめっ面をしてると、余計に怖いからやめた方がいいわよ」
後ろから現れた芹那に、肩を叩かれた。彼女も真之同様、退勤組である。
「ねえ、真之君。この後、時間あるかしら?」
「ええ、少しなら」
「飲みに誘ってるわけじゃないわよ。ある意味、酒よりもストレス解消になる場所ね」
芹那が目を細めて微笑むと、両眼の下のほくろが強調されて、色っぽさを増した。彼女自身も、自分がどういう表情をすれば魅力的になるのか、自覚しているようだ。若い男なら一発で心を射止められそうな誘いだった。
時刻は夜。酒よりもストレス解消になる場所。男と女。
芹那に案内され、最寄りの駅近くにあるその店にたどり着く。
「バッティングセンター、ですか」
「そ。あら、それとも違う場所を想像していた?」
そう言って芹那は、意地悪く笑う。真之の方は、この先輩護衛官との関係発展を妄想していたわけではないので、特に残念がることはない。それ以前に、何となくこの展開は予想していたのだ。
『三谷バッティングセンター』という看板が掲げられたその店は、年季の入った外観を持っていた。外壁のペンキがところどころ剥がれており、全体的にボロさを感じさせる。二人で中に入ってみると、入り口のカウンターでいびきをかいて眠る老人と出くわした。おそらく、彼が店主であろう。それ以外に店員らしき人間はいない。
「昨日、仕事帰りに寄ってみたんだけどね。意外と当たりよ、ここ」
芹那の後ろに続く形で、真之は店の奥へと向かう。店内には、二人の他に客が誰もいないようだった。そもそも、店の経営が上手くいっているのかも怪しい。
「あれを見て」
芹那が指差したのは、強化ガラスで仕切られた向こう側に設置されたピッチングマシンだ。
「プロの球団が練習で使っている高性能マシンよ。球速がかなりのものが出る、っていうのもいいけど、何よりも重要なのはコントロールね。ストライクが入らないマシンなんて、お店に出す機械としては失格でしょ? かといって、同じコースばかりにしか投げられないマシンじゃ、遊びにならないわ。あのマシンは、それらの問題を見事にクリアしている。お店の人のメンテナンスが行き届いている証拠ってこと」
「なるほど」
芹那は鼻歌交じりで強化ガラスのドアを開け、中に入っていく。ドアには、「一四〇キロ」という札が貼られていた。ヘルメットを被り、金属バットを構えるその姿は、独特の風格さえ感じさせる。
「さーて、打つわよ。あ、真之君は野球経験なかったわよね? あっちのやつなら、球速も抑えめよ」
そう言っている最中に、ピッチングマシンから初球が投げ放たれる。風を切りながら一直線で向かってくる豪速球を、左バッターボックスに立つ芹那は、鋭いスイングで迎え撃った。高い金属音が室内に鳴り響き、打球が弾丸ライナーとなって真正面を飛んでいく。
「よーし、まず一球っと。やっぱり仕事のストレスは、これで発散するに限るわね!」
軽々と打ち返した芹那は、水を得た魚のようにイキイキしていた。
以前、真之が聞いた話によれば、芹那は中高生時代にソフトボール部で四番を任されていたのだそうだ。高校三年生のときには、全国大会でベスト八まで上り詰めた実績がある。高校を卒業し警察官となってからも、仕事帰りにこうしてバッティングセンターに足繁く通っているらしい。
一方の真之はバットを握ったことなど、高校時代に体育の授業でソフトボールをやったとき程度だった。つまり、完全な素人である。大人しく球速一〇〇キロのマシンに挑戦しようと、芹那が構えている場所から、一〇メートル近く離れた地点のバッターボックスに立った。岩の塊のような頭には、ヘルメットのサイズが合っていないらしく、無理やり押し込んで被る。一〇〇円玉を機械に投入して、ゲームスタートだ。
しかし。
「くっ」
不格好な構えから繰り出される、ぎこちないスイングは虚しく空を切る。三振の山がどんどん築かれていき、あっけなくゲームが終了した。バッターボックスの後ろには、空振りの証としてボールが大量に転がっている。
芹那の方を見やると、彼女はいとも簡単にヒットを量産していた。これが経験値の差なのか、と真之は自分の未熟さを不甲斐なく思った。芹那がさらに一〇〇円を追加投入するのを見て、彼もスーツの裏ポケットから財布を取り出す。
そこへ、芹那がのほほんとした口調で声をかけてきた。
「そういえば、真之君。私の過去について軽く話したことあったわよね?」
「過去、とはどれくらい昔の話ですか?」
「んーと、一〇年前の霊災の話」
出会って間もないころ、うっすらと聞いたことがある。確か、紺が実の母親ではない、という話になったときだったか。あまり楽しい話題ではないので、詳しく尋ねるのをこれまで遠慮していたのだ。
「小学生のときに被災して、一緒にいた母親を亡くしたの。元々、母子家庭だったから、親戚に引き取られて育ったわ。あの霊災で、何もかも失って、人生が一変した。そこで、君にも出会えたんだから、悪いことばかりではなかったわね」
何気ない調子で語る芹那だが、話の内容は真剣そのものだった。
人生が一変する。あの霊災を経験した者の多くが口にする言葉だ。家族や家を失い、友を失い、恋人を失う。そんな人間を大量に産んでしまった。被災した者の中には、「このような危険のある街にはいられない」と遠方へ引っ越した者も大勢いる。かつて地方都市に匹敵するほどに発展していた志堂市は、急激な人口の減少によって、あっという間に寂れた田舎街へと変貌してしまった。
「それにね、おかげで気づけたこともたくさんあったのよ」
芹那がまた一つ、派手な打撃音を奏でた。その音と彼女の話を聞きながら、真之はピッチングマシンを真っ直ぐに見据える。
ゆえに、このときの芹那の顔を見ることができなかった。
「――人間の人生が、神にメチャクチャにされるのを見るのが、すっごく気持ちいいってことにね」
先程までとは打って変わって、底冷えさせる酷薄な声。
真之は一瞬、聞き間違えかと疑い、マシンから視線を外そうとする。
それも、遅かった。
次の瞬間、乾いた発砲音が連続して、バッティングセンター内に響き渡る。
「……え」
胸と腹が焼けるように熱い。急激に力が抜けていくのを感じ、真之はその場に膝をつく。遅れて、自分が銃撃を受けたのだとようやく気づいた。
犯人の姿を探すべく周辺を見渡そうとし、正面に立つ人物が拳銃を構えているのを発見する。あれは誰だ、と答えが分かっているはずなのに、犯人の顔を見た。
そこには、悪魔じみた冷笑を浮かべる芹那がいた。
「せん、ぱい……?」
真之が思わず漏らした声に、さらなる銃声が重なった。
計一〇発。
その全弾が、真之の胸と腹に命中していた。
「ふふ。悪く思わないでね、真之君。こうでもしないと、あなたは隙を見せてくれないでしょう? ホテルに誘って風呂場で殺す、っていう案も考えたけれど、かえって身構えられそうだし」
拳銃を裏ポケットに仕舞いながら、芹那は雑談のネタでも振るような軽い口調で言った。
「ここ二日間を見た結果、神柱護衛官の中であなたは特に障害になるって判断したわ。喜んでね? それだけあなたの戦闘能力を高く評価しているのよ。こちらの計画のリスクを、できるだけ減らしたいの。恥ずかしい話だけれど、穴だらけの計画でね」
真之は血を吐き出し、力なく倒れ伏す。身体から溢れ出す鮮血で、バッターボックスは血溜まりを描いていった。
「芹那、終ワッタ?」
そこへ、彼にも聞き覚えのある声が現れる。どうにか顔を上げると、強化ガラスの向こう側に、白いフードを被った子どもの姿を発見した。間違いない。今朝、白鱗神社を襲撃した、あの人外の子どもだ。その長い手の爪は、今朝と同じく血らしき液体で汚れていた。
芹那がドアを優雅に開け、外へ出ていく。子どもが嬉しそうに傍らに寄り添い、彼女はその頭を優しく撫でた。
「ええ、あなたもちゃんと殺れた?」
「寝テル人間ヲ殺スダケデ、簡単ダッタ」
「そう。じゃあ、次は白鱗神社へ行きましょうか」
まるで、今日の晩御飯の献立について話す親子のような、あたたかい雰囲気の会話。その内容から、子どもがカウンターの老人を手に掛けたのだ、と真之は察した。
次第に彼の意識が遠のいていく中、芹那の毒林檎を思わせる甘い声が脳に反響する。
「さようなら、真之君。あの世で好きなだけ、クロスワードパズルでもしていなさい」
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