第40話 紺、黒幕と相対す(前編)

 同時刻。

 建宮家にある自室のベッドで、紺は布団に包まっていた。日はとうに沈んでいるのに、部屋の灯りはつけられていない。


「……真之」


 愛する息子の名を、枯れた声で呟く。今日だけで何百回目になるか分からないほどに繰り返していた。


 今朝、真之に屋外でのスキンシップを禁止され、彼女は多大なショックを受けた。それをずっと引きずって、朝食だけでなく、昼食もろくに口にしていない。息子の突然の発言に、どう対応すればよいのか悩んでいる。


「これも親離れなのかのう」


 二本の尾を左右に振りながら、寂しさを顔に滲ませる。こういう日がいつかは来ると予想していたが、覚悟が足りなかったらしい。年頃の男子とは母親から距離を取ろうとしたがるものだ、と昔の知り合いの話や、テレビの子育て番組などで聞いたことがある。


 紺は、耳につけられたイヤリングを細指でなぞった。以前、息子から贈られた宝物だ。


 本来ならば、真之の心の成長を喜ぶべきところなのだろう。普段から、彼が一人前の男として認めてもらいたがっていたのは、紺とて知っている。そうして彼女のもとから巣立ち、新たな人生の第一歩を踏み出したのだ。しかし、息子に拒絶されたようで、心の整理ができなかった。世の母親とは皆、このような経験をしているのだろうか。


「母親、か」


 紺は、自分の腹をそっと撫でた。はるか昔、人間によって切り裂かれ、生まれる前の我が子を殺されたときの記憶が蘇る。名をつけることもできずに失った、愛しい子。もしも、何事もなく無事に出産していたら、あの子も真之と同じように成長し、一人で歩んでいくことを選択していただろうか。


 ――今でも、旦那を愛しているのか。


 昨晩、真之が遠慮がちに言った質問。

 あのときの返答に、紺は嘘偽りないと思っている。

 夫を今でも愛しているわけではないが、怨霊と化した夫を止めてやりたい。それが、伴侶となった自分の務めである、と信じていた。それを第一に考え、この一〇〇〇年を生きてきたのだ。


 人間は身勝手な生き物である。

 いつの世も彼らは勝手な言い分を振りかざし、神を利用する。神という生き物は、頼られると弱い性質の連中ばかりなので、つい甘い対応をしてしまう。その結果、人間は増長し、神を道具のように扱うようになった。

 結果、紺の親友である龍神の死までも、人間は利用するようになったのだ。親友は、紺の未練に付き合い、霊脈の管理を一〇〇〇年も続けてくれた。彼の忘れ形見として残された、結衣と大和。友情に報いるためにも、あの二人を人間の手から守る、と親友の墓前で誓った。


 それなのに、なぜ紺はあのとき真之を拾ったのか。

 最初は、寂しさで空いた心を埋めるためだったのかもしれない。夫の怨霊に殺されそうになっていた彼を見て、名も無き我が子と重ね見たからなのかもしれない。

 そうして、一緒に生活をするようになって、大人に怯えていた彼が少しずつ心を許してくれるようになっていくにつれ、紺の中で一つの感情が育っていくのを自覚できた。


 親として、真之を愛するという心。

 彼が成長していく姿を見守ることに、この上ない喜びを感じていた。母親らしいことを上手くしてやれているのか、自信はない。親としては落第生なのかもしれないが、彼を愛おしいと思う想いの強さだけは、誰にも負けていないと自負している。


 無論、これはあくまでも親子ごっこだ。そのことは紺も承知している。

 それでも、せめてあの子が伴侶を得て、新しい家庭を築くまでは傍にいてやりたい。


「それも、真之は重いと感じておるのかもしれんのう」


 そう不安を漏らしたところで、机上に置かれた携帯電話が着信音を奏でた。手に取って画面を見てみると、電話をかけてきたのは結衣だ。細首を傾げながら、通話に出る。


「もしもし。どうしたん――」

『紺さん、助けてっ!』


 結衣の必死そうな叫びが、紺の声を遮った。紺のつり上がった眼がすぐに真剣味を帯びる。


「何があったんじゃ?」

『変な人達がいきなりたくさん押しかけてきて、護衛官の人達が襲われているの。でも、向こうの人数が多すぎるんだよ。それに中には、人間とは思えないくらい強い人もいて、護衛官の人達が束になってもかなわないみたい。警察にも電話したんだけど、あんな怖い人に勝てるとは思えなくて』


 護衛官が束になっても勝てない?

 真之はその中に加わっているのだろうか。予定ならば、彼はそろそろ帰宅するはずだが。


「分かった、すぐにそちらに向かう。それまで待っておれ!」


 紺は電話を切ると同時に、ベッドを飛び出した。玄関の扉に鍵もかけずに外へ出ると、家の前にある廊下の手すりを飛び越える。地上八階の高さだが、そんなことは彼女にとって関係ない。妖力を一部開放し、翼を広げた猛禽類のように飛翔した。白いワンピースの裾が、華麗に舞う。

 白鱗神社を目指し、定めた方角を一直線に高速飛行する。

 分厚い雲の一部が欠け、月明かりが地上に現れた。迅速に夜空を駆ける紺の姿が、影を描く。

 時間にして一分弱。あっという間に目的地へとたどり着く。


「あそこかっ!」


 宗像家の前に、人集りができている様子が上空から確認できる。ざっと見た限りではその数、五〇人ほどであろうか。


「へっ、普段偉そうにしているくせに、大したことないんだな。護衛官や警察ってのは」

「なあ。ターゲットの二匹についてだが、ここで殺すんじゃなくて、このまま拉致るってのはどうだ?」

「なんでだよ。こいつらがいる限り、霊脈の鍵は開かないんだぜ?」

「いや、待て。殺すのはいつでもできるじゃないか。それまでに、できるだけ利用するってのはアリじゃないか」


 紺の頭に生えた獣の耳が、地上で交わされる声を全て拾う。どうやら、この連中は礼賛神徒のようだ。敵の存在を確認した紺は一気に急速下降し、地上へ降り立つ。そこは、ちょうど集団の中心だった。

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