第32話 晩酌と紺の過去(後編)
紺は席を立つと、冷蔵庫から冷えた日本酒の瓶を取り出した。アルコールの助力が必要なのだろうか。真之は空のガラスコップを食器棚から持ってきて、酒を代わりに注いでやる。
紺は、中の酒がこぼれないよう慎重にコップを受取り、礼を言う。
「おっとと、すまんのう。さて、どう話せばよいかの。一〇〇〇年前、ワシは神としてこの地に住んでおった。何を隠そう、金運の神としてな」
「よりにもよって、金運か」
数十億円もの資産を持つ大株主として、優雅に暮らしているのも、神のなせる技なのだろう。
「うむ。人が生まれ、育ち、争い、死ぬ光景を何度となく見てきた。時には人に手を貸し、時には導くこともしたんじゃ。そうやってのんびりと暮らしていたところへ、新米の神としてあやつが移り住んできおった」
その神が後の怨霊であることは、真之にも読み取ることができた。
「神だったころのあやつは、大人しくて穏やかな気性の持ち主じゃった。最初はつまらんヤツじゃとワシは思い、相手にせんかったが。同じ神同士のよしみで、人間とのことについて相談を受けることがあっての。そのうちに酒を飲み交わすようになり、男と女の仲になった」
本来、母親の馴れ初め話を聞くのは背筋がむず痒くなるものだが、今の真之はそんな気分ではない。鋭い三白眼で真剣に紺の顔を見つめ、話を聞く。そこで、彼の胸の内に見えない針がまた一本突き刺さった。その針の正体が何なのか、もう少しのところまで分かりかけているのだが。
一方の紺は、コップに注がれた日本酒に口をつけた。
「その一年後、ワシはあやつの子を妊娠した。お主も知っての通り、神は妊娠と出産を一日で経験する。ワシの腹はみるみるうちに大きくなり、人間で言う臨月を迎えておった。そんなとき、人間が武器を構えて現れたんじゃ」
「なぜだ。人間はあんた達に導かれていたんだろう。恨まれるようなことをしたのか」
「それがのう。都にいたどこぞの馬鹿貴族が、一つの噂話を聞いたみたいなんじゃ。『神の肝を食べれば、不老不死になれる』とな。どこからそんな馬鹿げた話が流れたのかは知らんが、神からすればいい迷惑じゃよ。その馬鹿貴族は、山を覆わんばかりの数の兵をこの地に派兵してきた。勿論、目当てはワシらじゃ。田舎に住む神なら殺しても都にまで影響は及ばない、とでも考えたんじゃろう」
真之の問いに対して、紺は細い肩を竦めながら答える。
人間が神を平気で犠牲にしようとするのは、現代だけの話ではないということか。
「あやつは元々戦いを苦手とする神じゃったし、ワシは出産間近で力をほとんど出せん状態じゃった。おかげで、やられたい放題でな。人間に蹂躙されたワシは腹を割かれ……中にいた赤子を殺された」
そう説明する紺の声音が、わずかに湿りを帯びていることに、真之は耳ざとく気づいた。
生まれてもいない我が子を、惨たらしく殺されたのだ。どれだけ深く絶望し、激しく憎かったことか。青二才の真之には慰めの言葉など見つからないし、紺もそんなことを望んではいないだろう。
「瀕死のワシは、あやつが首を撥ねられるのを目の前で見た。そのまま家族全員、仲良くくたばるはずだったんじゃが……あやつは違った。神としての命を失い、怨霊として蘇ったんじゃ。兵どもは何事かと焦っておったが、すぐにあやつに全員殺された」
真之は、一〇年前に見た怨霊の姿を思い出す。あの巨人を相手にした場合、人間は逃げるしかできない。力が強大であるのは、元々が神であったことや、憎悪の激しさなどが影響しているのかもしれなかった。
「恨みを晴らして、そのまま成仏するのかと思いきや。あやつは、怨霊として現世に留まった。この地に住む、ワシとあやつが見守ってきた人間達を殺し始めたんじゃ。どうやら、人間そのものを憎んでしまったようでな。どうにか命を繋いだワシのもとへ、古い友人が現れた」
「友人?」
「お主も知っておる、龍神じゃよ。龍神は事態を把握すると、怨霊をこの地に封印することを提案した。それでは、『霊脈の鍵』を制御するために、龍神自身もこの地に縛られて生きることになる。ワシはそう反対したが、この地を守る方法は他になかった。結局、霊脈を使って怨霊を封印したんじゃ。とはいっても、ワシは封印に手を貸すことができなんだ。霊脈の制御については、昔から不得意での」
紺はそう言いながら、皿に乗った揚げ出し豆腐と昆布の煮物を箸でつかみ、口の中へと放り込む。彼女は何でもないフリをしているが、龍神の友情への感謝と申し訳無さで、胸がいっぱいであることは真之も理解できた。
一〇年前の霊災で龍神が死んだとき、紺は結衣と大和の後見人を買って出たという。それは、古き友への弔いを込めているのだろう。
「それからしばらくして、ワシは神の座を下りた。人間の醜さに嫌気が指したのもあるが、何よりも失った妖力の回復に専念する必要があったからじゃ。いつか封印が解けたとき、怨霊を止めることができるようにの。実際、五〇〇年前に一度、人間が悪戯で封石を破壊したせいで、封印が破れかけておる」
一〇年前の封石破壊について、警察は未だに犯人の正体が掴めていない。もしも悪戯目的であったならば、歴史は繰り返すということか。
「そうして今に至る、というわけじゃ。年寄りの昔話としては、少々長かったかのう」
紺は美しい顔を薄く綻ばせ、コップに残った酒を一気に飲み干した。悲しみや後悔ばかりの昔話だっただろうに、随分と軽い口調だ。既に過去のこととして、彼女の中である程度消化できているのだろうか。それとも、真之に語り聞かせるために、わざと明るく振る舞っているのかもしれない。
真之は酒瓶を手に取り、紺のコップにおかわりを注いでやる。チラリと義母の表情を見やりながら、さり気ない口調で尋ねた。
「今でも、旦那を愛しているのか」
「さてのう。なにせ夫婦の契りを交わしたのは、一〇〇〇年も昔の話じゃ。さすがにそこまで一途にはなれん。じゃが、憎悪に苦しむあやつを止めてやりたい、とは思う」
それが、この地に留まり続ける理由なのだろう。昔、愛した男の魂を救ってやりたいという、一人の女が真之の目の前にいた。そういった絆に、神も人も関係はない。
そう考えたところで真之は、先程から胸が痛む原因にようやく気がついた。
(ああ、どうしようもないな、俺は)
紺の話を聞いているうちに大きくなっていく、一つの感情。つまり彼は、そこまで紺に想ってもらえる怨霊に嫉妬していたのだ。だから、これまで紺の過去について聞く勇気を持てなかったのかもしれない。情けなくなるほどに子どもじみたヤキモチだった。
「ふふ。まったく可愛いのう、お主は」
紺がテーブルから身を乗り出し、真之の鉄塊じみた硬い頭を撫でてくる。胸中を紺に見抜かれてしまった、と彼が後悔しても時既に遅し。紺は、「こんなにも息子に愛されるとは、母は嬉しいぞい」などと頬をだらしなく緩ませている。真之としては腹が立つが、自業自得なので仕方がない。子ども扱いされるのも当然だった。
「さて。母の昔話も済んだことじゃし、次は酒に付き合ってもらおうかの」
「それは構わんが、明日も仕事だからな。そんなには呑めないぞ」
紺が酒瓶を構えたので、真之は食器棚から新しいガラスコップを取り出した。
***
一時間後。
「じゃあ、俺はもう寝る。あんたも程々にしておけよ」
何度も念を押す真之に、紺は「心配するな」とほろ酔いの笑みを返した。リビングを出て行く彼の背中に、軽く手を振って見送る。
一人残された台所で、日本酒の半分注がれたガラスコップを手に取って揺らす。白い濁りの混じった液体が、コップの中で軽い波を打った。
その様子を、ぼんやりと眺めながら、ポツリと漏らす。
「そうか、あれから一〇〇〇年も経ったのじゃな」
懐かしさを舌で転がし、脳のタンスに仕舞われていた思い出を再生させる。
……。
…………。
………………。
『ねえ、紺。人を見ていると退屈しないね』
それが、かつての夫の口癖だった。
人は弱い。弱いから群れる。群れの中から新しい発見が生まれる。
そうして、一歩ずつ皆で前へ進んでいるのだ――と。
『ふむ。生まれてくるこの子にも、早く見せてやりたいのう』
大きく張った腹を愛おしそうに撫で、紺は傍らの夫の肩に頭を預けた。
草の匂いが広がる丘の上に二人で腰掛け、そこから広がる村の田畑を見渡した。人が一生懸命に土を耕す光景。夫婦で、親子で、友人同士で助け合っている。それは、神である紺達からすれば、下手に触れれば壊れてしまいそうな、脆さを秘めていた。だからこそ、大切に見守るのだ。
『紺。生まれてくる子には、どんな風に育ってほしい?』
『そうじゃのう……お主に似て、とびきり不器用なやつに育つやもしれん』
『はは、そう言われると耳が痛いな』
『じゃが、それでもよい。自分の大切なものを見つけて、そのために一生懸命になれる。そんな男子に育ってくれればの』
『男子? まだ生まれていないのに、もう分かるのかい?』
『うむ。先程から元気に腹を蹴りおる。これは絶対に男子じゃよ』
『紺、逃げて……っ!』
都から遥々遠征してきたという兵士達に取り囲まれ、紺達には為す術もなかった。腕を切り落とされ、足を槍で貫かれ、身動きが取れなくなる。
さらに、紺が身重であることを知った兵士達は、顔を嗜虐の笑みで歪めた。
『何を……っ』
必死に抵抗しようとする紺だが、出産間近の身では力を発揮できない。兵士の一人が刀を彼女の腹に突き刺し、その奥から血塗れの胎児を引きずり出す。
そして、紺と夫の目の前で、小さな胎児を一刀両断した。
『あ、あ、あああああああああっ!』
夫の絶望の慟哭と、初めて見せる人間への憎悪を煮えたぎらせた表情。
紺の脳裏にその姿が焼き付いて離れることはなかった。
………………。
…………。
……。
それから、一〇〇〇年の年月を経た現代。
彼女は再び家庭を築いている。
「過去に縛られておる、とは思いたくないが」
コップに入った酒を呑み干し、甘い息を吐く。血生臭く苦い記憶が細い肩に伸し掛かってきて、小さく頭を振った。
「あのような悲劇を繰り返すわけにはいかん。結衣も、大和も、……そして、真之も。誰一人として人間の道具にはさせん。怨霊と成り果てたあやつや、生まれることさえも許されなかった我が子の二の舞いにならせてはいかんのじゃ」
暗い思考に陥りかけているのは、酔いが強く回ってきたせいなのか。ならば、晩酌はここまでにしておいた方が良さそうだ。何より、深酒は後で息子に叱られる。
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