第31話 晩酌と紺の過去(前編)

 結局、この日の料理教室は中止となった。結衣と大和の心が落ち着くまで、紺は傍にいたようだ。その間、真之は芹那と共に神社内を見回りに行った。今朝のような連中がいつ再び現れるか分からない。結衣と大和の周辺について、問題は山積みだった。真之にできるのは、二人がいつも通り安心して過ごせるよう、警戒を怠らないことである。


 やがて、秋の太陽が地平線の下に沈み、闇夜を照らす星々が姿を見せた。

 真之は夜勤の護衛官と交代し、退勤する。同じく宗像家を出た紺と合流すると、親子並んで電車に乗り、夜の道を歩いてマンションの自宅へと帰宅した。


「さて、夕食の準備をするかのう。風呂はあらかじめ予約タイマーで沸かしておいたから、お主は先に入ってくるとよい」

「いいのか、あんたも疲れているだろうに。下ごしらえくらいなら、俺も手伝えるぞ」

「何を言う。台所は母の戦場じゃ。お主は、大人しく仕事の疲れを落とすことじゃな」


 真之は紺に背中を押され、自室へと追いやられる。ここは彼女の言葉に甘えた方が良さそうだ。脱いだスーツとズボンをハンガーにかけ、替えの下着や普段着を持って脱衣所へと移動した。裸になって浴室に入ったところで、忘れかけていた右肩の傷を指でなぞる。傷口は完全に塞がっていた。


 念入りに身体を洗い、しっかりと湯に浸かって筋肉をほぐし。

 心身共に綺麗にして風呂から出ると、紺が脱衣所に顔を出してきた。


「ちょうどのタイミングじゃな。夕食ができたぞい」

「相変わらず早いな」

「なに、簡単な料理ばかりを作っただけじゃよ。米も家を出る前に、あらかじめ炊いておいたしの」


 真之が風呂に入っていたのは大体、一五分程度だ。その間に手早く済ませるとは、さすがは主婦といったところか。


「本当なら、可愛い息子の背中を洗ってやりたかったのじゃがな」

「全力で遠慮させてもらう」


 紺が半分本気を覗かせてからかってくる。いつも通りの彼女だ。先刻、国から来た使いを迫力で黙らせた大妖怪の一面は、完全に見えなくなっていた。


 真之は身体をさっさとバスタオルで拭き、持ってきたジャージに着替える。


 リビングを通って台所に行くと、紺が慈愛の微笑みを浮かべながら待っていた。

 テーブルに並んでいるのは、慎ましくも温かい料理だ。回鍋肉、昆布と揚げ出し豆腐の煮物、サラダに味噌汁。本当にあの短時間で作り上げたのか、と真之は疑いたくなった。


「ささ、早う座るがよい」


 真之はテーブルを挟んで紺と向かい合い、木製の椅子に腰掛ける。


「いただきます」

「うむ。いただきます」


 赤だしの味噌汁をすすりながら、真之は先刻の宗像家での一件を思い返した。

 目の前にいるこの女妖怪が、神だったという事実。怨霊の生前についても知っているようだった。

 なぜ、紺はこの地に留まって、怨霊を監視し続けているのか。

 怨霊と昔、どのような関係だったのか。

 気にならないと言えば嘘になる。一〇年も一緒に暮らしてきながら、真之は紺のことを何も知らないのだ。下手に過去を知ろうとすれば、この関係が壊れてしまいそうな気がした。


(我ながら、ヘタレだな)


 真之は、自分の意気地のなさに呆れてしまう。

 つまるところ、彼は紺のプライバシーを知ることを恐れているのだ。他人との距離を上手く測れない人間が、他人の大事な領域に踏み込めずにいる。


 ――と。


(……なんだ?)


 ふと彼は、分厚い胸の内を見えない針で刺されたような感覚を覚えた。


「どうした、真之。箸が進んでおらんぞ」

「ん、ああ、すまない。考え事をしていた」


 不思議そうに顔を覗き込んでくる紺に対し、真之は平静を装ってみせた。


「紺。家の中でくらい、そのイヤリングを外したらどうだ」

「これかえ? せっかくお主から贈られた物なのじゃ、使わなければ意味がなかろう」


 真之の指摘に対し、紺はだらしのない笑みで応える。

 彼女が身につけているイヤリングは、真之が社会人になって初の給料で購入し、プレゼントしたものだ。大富豪の紺からすればただの安物であろうが、息子からの贈り物に感激した彼女は、とても大切にしているようだった。


(まあ、大事に使ってくれているのなら、それでいいが)


 これは親子ごっこだ。

 血の繋がりのない妖怪と人が、偶然知り合って一緒に暮らすようになった。赤の他人同士が親と子を演じているに過ぎない。

 そんなぬるま湯で心が満たされる自分を、真之は自覚していた。


 一〇年前の霊災のとき、紺は言った。怨霊に殺されそうな真之を見て、つい助けた。その後、彼の身辺調査をしていくうちに、放っておけなくなったのだ、と。

 その説明が嘘だ、とは真之も思わない。わざわざ嘘を言う必要がないからだ。

 当時の紺の話によれば、彼女には昔、子どもがいたという。すぐに死んでしまったらしいが、そのことが彼女の中でずっと尾を引いているのかもしれない。だとするならば、真之はその傷を埋めるために拾われたのだろうか。


(それでもいい。このぬるま湯が続くのなら)


 無論、いつかは終わりが来る。そのときは、せめて互いに笑って別れたい。


「何も聞かんのじゃな」


 紺は、光を纏った白米入りの茶碗を持ちながら、薄日が差すような微笑みをこぼした。我に返った真之には、どういう意味なのか分からない。


「その臆病にも似た優しさが、お主の長所でもあるんじゃが。女子を落とすなら、もう少し積極的になった方がよいぞ。母としては、それが心配じゃな」

「何を言っているんだか」

「いや、何。孫の顔が見たいと思っただけのことじゃよ」


 からかう調子で言う紺は、ニヤリと唇を釣り上げて真之の顔を指差す。


「ほれ、お主の顔には『知りたい、知りたい』と書いてある。先刻だけではない、ずっと前からワシの過去を知りたがっておるのは、ワシも気づいておった」

「……いいのか、聞いても」

「何を言う。ワシの息子なんじゃ。お主には知る権利がある。ワシもいつ話すべきか、この一〇年間ずっと悩んでおったが、お主が神柱護衛官になった今がそのときじゃろうな」

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