陰の思惑

第33話 親子喧嘩?

 幼いころの真之は、自分の価値をアピールすることに必死だった。

 彼を引き取った親戚達からは「穀潰し」と白い目を向けられ、家の中での居場所が与えられない。そのため、少しでも長くその家に置いてもらえるよう、少しでも嫌われないよう、幼いなりに努力を積み重ねていた。


 といっても、特に秀でた才能があるわけでもないので、主な努力といえば学校の成績だ。

 授業は常に集中して受けていたし、予習復習を怠ったことはなかった。おかげで、テストのほとんどが一〇〇点だ。彼はそれを無暗に誇る性格でもなく、テストの答案用紙を親戚に見せるのが怖くて仕方がなかった。親戚達は皆、「小学校のテストで一〇〇点など取れて当然」と言って、特に真之を褒めることがない。時折、九〇点台を取った日には、罵詈雑言の嵐だった。


 そのせいもあって、真之は大人の顔色を窺いながら生きてきたのだ。


 それは、紺のもとに引き取られて間もなかったころも同じだった。


「ほう。こないだのテストの結果かえ?」


 帰宅した真之は、リビングで真之の体操服に名前を刺繍していた紺に、答案用紙を差し出した。


「ふむ……ほう、満点ではないかっ」


 作業の手を止め、テストの結果に目を通す紺は、感心した様子で声を弾ませる。その間、真之は気が気でなかった。


 ……何かミスがあったら、この人にも捨てられるかもしれない。


 真之には、もう次の行き場所がない。紺に拾われた以上、彼女の機嫌を損ねないよう、細心の注意を払う必要があった。

 同世代の男子に比べて一回り大きな身体は、恐怖で縮こまっている。


 そんな彼の胸中など、紺の目には透けて見えていたのだろう。


「母のことは気にせんでよい」


 薄く微笑むと、新しい息子の頭を優しく撫でてきた。


「勉強とは、親に好かれるためにするものではない。自分が将来どうなりたいか、これからどうしていきたいかを理由にして勉強せよ。よいな?」


 紺の言葉は、真之にとって全く新しい価値観だった。

 勉強とは、大人に認めてもらうための手段であり、自分を守るための盾だったのだ。それを根本から崩された気がした。


 この人は、今まで真之を引き取った大人達とは違う。

 そうした実感と共に、真之は頷いた。


「は、はいっ」

「これ。敬語はやめよ、と言ぅておるじゃろ。そんな他人行儀な子には、こうじゃ」


 そう言うと紺は真之を無理やり抱き寄せ、豊かな胸に顔を埋めさせた。

母性の象徴である柔らかな二つの乳房と、紺の持つ甘い香りで包み込み、まるで赤子に戻ったかのように安らかな心地にさせてくれるのだった。




 ………………。

 …………。

 ……。




「――ん、くっ?」


 妙な息苦しさと共に、真之は夢から目覚めた。

 視界は真っ暗で、何も見えない。その代わりに、やたらと柔らかい感触が彼の頭を覆っている。その正体が何なのかと手で掴むと、大きな水風船を握ったような手触りが返ってきた。


「あ、んっ、意外と大胆じゃの」


 甘ったるい女の喘ぎ声が、彼の耳をとろけさせる。頭を押さえつけられているので、まともな言葉をしゃべることができない。


「ふがっ、ふががっ!」

「お、ようやく目が醒めたようじゃな」


 女の声が離れると、真之の視界は一気に広がった。

 自分が自室のベッドに寝ていること。自分に覆いかぶさっていた紺が、眼前でベッドから身を起こしていること。ベッドの隣にある机の上に置かれたデジタル時計が、午前五時四五分を表示していること。それらをすぐに把握した彼は、極悪人面を不機嫌そうにしかめる。


「おはよう、真之。良い夢は見れたかえ?」


 照れなど微塵も感じさせない態度で、紺は言う。

 その艶やかな美貌は、先程まで真之が見ていた夢に現れた姿と、少しも変わっていない。


 先程まで彼女のどこの部分に顔を埋めていたのか、真之は恥ずかしくて考えたくもなかった。この義母は、自分がどんなに女性としての魅力を持っているのか、よく理解した上で息子をからかってくるのだ。


「……どういうつもりだ、朝っぱらから」

「いや、朝食ができたから起こしに来たんじゃが、お主の寝顔があまりに可愛くての。つい、抱きしめてしまったんじゃ。すまん、すまん」


 全くもって悪びれない笑みを浮かべ、紺は自室から出ていく。

 その背中と、昔の記憶が見せた夢が重なって見え、真之の耳が朱色に染まる。紺の残り香が、彼の鼻孔をくすぐった。


 結局、二人の関係は一〇年前と何ら変わっていないのだ。当時と同じ子ども扱いを受けている。今年で二一歳になった成年男子は、もう少し大人として扱ってもらいたかった。


(いや、紺から見れば、人間なんていつまで経ってもガキか)


 彼女は、一〇〇〇年以上の長い時を生きる大妖怪である。真之の態度など、背伸びした子どもにしか見えまい。

 不機嫌を胸の内に押し込め、真之はベッドから起き上がる。自分が着ている黒のジャージの乱れを正し、部屋を出た。廊下を挟んで、リビングから繋がる台所へと入っていく。


「おお、来たか」


 紺は、台所に配置されたテーブルの前で真之を待っていた。彼が席に着くと、同時に正面の自分の席に座る。いつもと変わらない光景だ。


「さて、いただきます」

「いただきます」


 それから先も、いつもと同じ流れだった。


「ほれ、真之よ。あーんじゃ、あーん」


 紺が、目玉焼きを箸で掴み、真之の前に差し出してくる。


「ほれ、早う口を開けよ」


 その白く透き通った美貌に、男を虜にするフェロモンたっぷりの笑みを広げている。胸元は相変わらずはだけており、金色の長い髪から覗く首筋が何とも艶めかしかった。全身から醸し出される濃厚な色香を、まったく隠そうとしない。

 そんな魔性の美人である紺は、真之をただただ甘やかしてくれる。そのまま受け入れていけば、安らぎと共にどこまでも堕ちていきそうだった。


「紺。あーんはやめろ」

「なぬ、良いではないか。ほれほれ」


 真之がいくら注意しても、紺は改めようとしない。

 彼は紺との「親子としての生活」を愛しており、できれば彼女と一緒に長く歩んでいきたい。その一方で、相応の節度があるべきだとも考えていた。昨日の白鱗神社で、結衣達が見ている前でもベタ甘に接してきたときの記憶が脳裏を過ぎる。さすがにあれはまずいだろう。


 真之は箸をテーブルの上に置き、義母の顔を真っ直ぐに見つめた。


「紺。今後、それを禁止にしよう」

「……え? あーん、をかえ?」


 真之が話を切り出すと、紺はぽかんと口を開け、全身の動きを停止した。それからしばらくして、優美な顔を狼狽の色で染め上げる。


「じょ、冗談じゃろ?」

「本気だ」

「そんな、息子とのイチャイチャは、母の生きがいじゃぞ。何がいけないんじゃ」


 紺が、駄々をこねる子どものように両拳を作って、猛抗議をする。真之は長い溜息を吐き、冷静な口調で説明を並べていく。


「一緒に外へ買物なんかに行ったとき、あんたは何かあるとすぐに抱きついて来るよな」

「うむ。お主の身体は抱き心地が良いしの」

「ついでに、頬に口づけまでして来るときまであるよな」

「お主が可愛いから、ついやってしまうのじゃ」

「さらに、セクハラ質問までして来るよな」

「息子のオスとしての成長を確認するのは、母親の務めじゃからな」


 紺の素直な答えに、真之は朝から頭が重くなってきた。


 紺の過激なスキンシップは、真之の知り合いの前でも行われていた。知人の中には、彼女が妖怪であることを知らない者もおり、彼らからは「真之の恋人か愛人」と誤解されている。だからといって、外見年齢が二〇代の紺を、いつまでも母親と言い張るのは無理があるが。


「世間一般の母親は、息子にそういうことをしない」

「そうなのかえ? 人間の母親とは変わっておるのう」


 どこまでも紺は、自身のズレを自覚しない。

 このままでは、二人の今後のために良くない。そう判断した真之は、心を鬼にして宣言する。


「妥協案だ。家ではセーフとしても、せめて外でのボディタッチは禁止とする。特に、白鱗神社で会うときはな。時と場所を弁えろ」

「な――っ!」


 紺は席を立って真之の傍らに駆け寄ると、彼の腕にしがみついてきた。よほどショックが大きかったのだろうか、アイラインの引かれたキツネ目には涙が溜まっている。別れ話を拒否する恋人のような反応だった。


「真之っ、後生じゃから、許してたもれ!」


 紺の必死の嘆願に、真之は強い罪悪感に囚われた。一〇年も彼女の献身的な甘やかせを享受していたのだ。それを今更撥ね退けるのは、自分勝手で申し訳ないという想いも多分にある。

 それでも、ぐっと堪えて諭す。


「何も親子の縁を切るとか、あんたを嫌いになったというわけじゃない。俺ももう子どもじゃないんだ。家族として、次の一歩を踏み出すだけと考えてほしい」

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