第10話 トラウマの来訪
真之が自室に戻ると、やや遅れてから玄関のドアが開く音がした。
「やあ、お久しぶりですなあ。相変わらずお綺麗で」
馴れ馴れしい男の声が漏れ聞こえてくる。真之は、息を殺して自室のドアに耳を当てた。
玄関では、応対に出た紺が棘のある声を返す。
「世辞はどうでもよい。何の用じゃ」
「ええ、それをお話するためにも上がらせていただきますよ、っと」
男は紺の了解を得るよりも先に、靴を脱いだようだった。
「雰囲気のいい部屋ですわね。趣味のよろしいこと」
「お主らには関係がないじゃろう」
玄関にいるのは男と紺だけではなく、ねっとりとした女の気配もあった。その人物の見え透いた褒め言葉を、紺は冷たくあしらう。
来訪者の声は、どちらも真之にとっては聞き慣れたもの。幼い精神と肉体に刻みつけられた恐怖が、彼の肩を震わせる。思わず呼吸が荒くなり、必死に両手で口を押さえた。
(オジさんとオバさんだ!)
間違いない。真之の親戚の中年夫婦だ。真之の身体に消えない傷痕を与えた人物達でもある。真之にとって、誰よりも恐ろしい鬼のごとき存在だった。
大人三人が廊下を進み、リビングへと向かう中。ドア一枚隔てた先にいる真之は、気づかれないよう強く祈った。
やがて、リビングのドアが閉められる。おかげで、いくらか聞こえにくくなったが、紺達の声はどうにか拾えそうだ。
「……さっさと用件を話し、さっさと帰るがよい」
「いやはや、冷たいですなあ。私どもとしては、可愛い甥を預けたんですよ。もう赤の他人ではありますまい」
「ワシは、お主らと二度と会いたくなかったがな」
可愛い甥、などと見え透いた嘘を並べる親戚の男。対する紺の態度は、あくまでも素っ気ない。
「私どもとあなたは、血が繋がらなくとも親戚関係といってもよいかと」
「真之を引き取った際、あの子とお主らの縁は断ち切った。そのための手切れ金なら、既に渡したはずじゃが」
「手切れ金などと人聞きの悪い。あれは、これから親睦を深めるための納金でしょう。私どもは、あの子をできることなら手放したくなかったのです。ですが、あなたがあの子を気に入られたので、涙を堪えて差し出したのです」
親戚の男がぬけぬけと言い、紺は鼻を鳴らした。
「つまりは、もっと金を寄越せ、ということかえ?」
「話が早くて助かりますな。やはり、親戚同士助け合うべきではありませんか」
男は、『親戚』という単語を強調した。
(僕のせいで、紺さんが)
真之は、紺が強請られていることに、強い無力感と申し訳無さでたまらなくなる。無論、彼がその場に乗り込んでいったところで、状況が好転することなどありえない。
そこで、夫に会話のリードを任せていた妻が、タイミングを見計らったように、慇懃無礼な声を差し込んだ。
「話の途中で申し訳ございませんけれど、おトイレはどちらかしら?」
「廊下に出て左手じゃ」
紺は鼻白んだようだが、すぐに簡潔に説明した。
リビングのドアが閉められる音がした後、女の足音が廊下を鳴らす。ところが、女の気配は真之の自室の前で止まった。違和感を覚えた真之だが、ドア越しでは相手の様子を窺えない。
そうして、ゆっくりと自室のドアが向こうから開けられる。
「あらあら、そこにいたのね、真之」
「ひっ!」
ドアの隙間から覗く女の作り物めいた微笑に、真之は思わず恐れおののく。尻を床につけたまま、部屋の奥まで退いた。
「せっかく、私達が顔を見に来てあげたのに、挨拶の一つもしないなんて。礼儀知らずに育ったものね」
「あ、あぁ……」
「さあ、いらっしゃい」
手招きする女の目は獲物を前にした爬虫類のようで、全く笑っていない。真之は、自分の歯が小刻みに鳴る音を耳で聞きながら、何度も頷いて立ち上がった。逆らうことなどできるはずがない。かつてその身に受けた痛みが、彼を従順な奴隷に変えたのだ。
女に連れられて、真之は部屋を出る。リビングのドアを開けて中に入ると、紺が鋭利で美しい眼を見開いてこちらを見た。
「お主ら」
「悪く思わないでいただきたいですなあ。真之にも、この話に加わる義務があるでしょうから」
剣呑な眼差しを向ける紺に対し、親戚の男は冷笑を浮かべる。
「お主らがその子に与えた仕打ち、忘れたとは言わせんぞ」
「何のことやら、私どもにはさっぱり」
「とぼけるでない。その子の身体には、お主らから受けた虐待の痕がしっかりと残っておる」
紺の厳しい口調は、罪状を並べる検事を思わせた。しかし、親戚夫婦は柳のように受け流す。
「ああ、背中の痕を見たんですな。あれは、躾の一環ですよ。この子の悪戯があまりに酷いから、少しばかりキツめに叱ったに過ぎません。なあ、真之?」
話を振られた真之は、首を竦めて目をきつく閉じた。どんなに落ち着き払った声音であっても、その声を聞いただけで膝が震えてしまう。
「……はい」
「ほら。本人が認めているんです。これ以上私どもを疑うのは、この子の教育に悪影響を及ぼしますよ?」
意地の悪さがニヤケ顔からにじみ出る男に対し、紺は冷徹な言葉を返す。
「痣や火傷を負わせるのが人間の躾かや? 獣の方がまだ理性的じゃな」
「それは単なる事故ですよ。誰だって、子どもに傷を加えたくはありません。違いますか?」
いけしゃあしゃあと言う男。おそらく、彼らは紺が妖怪であることを知らないのだろう。知っていたら、丸腰でここへ来るはずがない。紺の力をもってすれば、死体を残すことなく殺すことは簡単なのだろうから。
紺は五秒ほど目を閉じ、黙考する。そうして再び開いたとき、切れ長の双眸は明確な意志を湛えていた。
「お主らが、そこまでして金を欲しがる理由は分かっておる。事業で大損をしたそうじゃな?」
「……どうしてそれを」
「それ以外にも、先月の巨人騒ぎで家を失った者、タイミング悪く会社が潰れた者、と親戚一同大変のようじゃな。手切れ金をワシから渡された当初は、真之を押し付けられる上に、金が手に入ると喜んでおったようじゃが。最近になって、もっと強く迫れば簡単に金を巻き上げられると踏んだんじゃろ。違うかえ?」
攻撃の手を変えた紺に、親戚夫婦は薄笑いを引っ込めて押し黙る。
「さらに付け加えるなら、お主は会社で横領までやっておるそうではないか。それを警察に嗅ぎつけられそうになって、焦っておる。さぞや大変であろう。まあ、ワシらには関係のない話じゃが」
紺は口調こそ冷静だったが、辛辣極まりない。そんな大人達の口論を、真之は固唾を呑んで見守るしかなかった。
「『そんな証拠はない』とでも言いたげじゃな? ワシの情報網を甘く見るでないぞ。こちらは、お主の年収から、会社の金庫の番号まで既に調べ上げておる。もちろん、横領に加わった者達の名前を挙げることもできるぞ。この情報を警察に流してもよい。警察が自力で突き止めるのも時間の問題じゃろうがな」
「……私どもを脅すおつもりですか?」
「先に喧嘩を売ってきたのは、そちらの方じゃろ。ワシは、ワシと真之を守るために身構えておるに過ぎん。もしも、そちらが一線を超えるなら、こちらも相応の返事をするまでのこと」
紺の細い身体が一回り大きくなったように、真之は感じた。身に纏う妖気がそう見せているのか、それとも長い年月を生きてきた経験の蓄積か。いずれにせよ、真之だけでなく、親戚夫婦も恐怖に呑まれているのは確かだ。
「さあ、分かったら、さっさと帰るがよい」
紺が細く形の良い顎をしゃくって、家から出ていくよう促す。
その見下した態度を見て我に返ったのか、親戚の女が一歩前に出た。
「金を寄越さないのなら――」
「待て。今日は帰るぞ」
実力行使に出ようとする妻を、夫が手で制する。妻は納得がいかないようで、夫を横目で睨みつけた。それでも、夫は頑として譲らない。妻の手を引きながら、リビングを出て行く。
「また来ますよ。可愛い甥の顔を見にね」
「何度来ても、答えはノーじゃがな」
紺は捨て台詞を撥ね退け、親戚夫婦を玄関から追い出す。
廊下に残された真之は自分の身体を抱き、臆病な兎のように震えていた。玄関の鍵を閉めた紺が、正面からそっと抱きしめる。
「すまぬ、苦しかったじゃろう?」
義母の謝罪の言葉は、真之の耳に入ったが、すぐに反対側の耳から抜けていく。過呼吸になるほどに息が荒くなる。手足の毛が逆立ち、恐怖に凍えた。
彼にとっての問題は去っていない。
親戚夫婦と再会したことで、己の不安定な立場と、ちっぽけな価値を再確認させられたのだ。
「……で下さい」
怯える感情に突き動かされ、真之は繰り返す。
「捨てないで下さい」
「真之……」
「お願いします、捨てないで下さい。何でもします、痛いのも我慢しますっ。だから!」
それは、物心つく前から大人達に忌み嫌われ、存在を否定され続けた子どもの叫びだった。
新たな保護者となった女妖怪の顔を見上げ、必死にすがりつく。
厄介事を持ち込んで、嫌われた。そうなれば、彼は行き場所を失う。
自分が無価値であることは受け入れている。いや、無価値なのだという強迫に囚われていた。
「ここまで追い込んでおったのか、あやつらは」
紺の凛とした美しい顔に、悲痛の色が現れた。真之の背中に回された腕に力を込められ、優しく囁く。
「大丈夫。血の繋がりがなくても、ワシとお主は親子じゃ。ずっとずっと一緒におる。じゃから、安心せよ」
そうして真之の心が落ち着くころには、ベランダの窓から差し込む夕闇が廊下にまで染み渡っていた。
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