第09話 露見
「ただいま帰りました」
自宅マンションに帰った真之は、廊下のドアを開けながら挨拶をした。
リビングでは、紺がソファに腰掛けながら、洗濯物を畳んでいる。彼女は気難しそうな目つきでテレビのワイドショーを見ていたが、真之の存在に気づくと途端に笑顔を咲かせた。
「おお、真之か。おかえり。……ん、何かあったのかえ?」
「え」
「今朝出かける前よりも、元気がないぞい。もしかして、学校で何かあったのかや」
鋭い観察眼に、真之の背筋に冷や汗が滲む。どうにか誤魔化そうと、視線を逸した。
「い、いいえ。ちょっと疲れただけです」
「むう、本当かえ?」
このまま問い詰められると、あっという間にボロが出そうだ。真之はどうにかして話題を変えられないかと焦り、テレビの画面を見やった。
『これは、例の巨人騒ぎのとき、志堂市の白鱗神社の上空を捉えた映像です』
映し出されたのは、森を覆うほどに巨大な一匹の龍だ。西洋のドラゴンのように翼があるわけではなく、どちらかといえば東洋に伝わる龍に似ている。純白の鱗を身に纏い、とぐろを巻きながら空を舞っていた。その姿は雄々しく、何よりも神秘を体現しているといってもよい。
驚愕する地上の人間を無視した龍は、その長い身体全体に柔らかな光を宿し、祈るように目を閉じている。大きな歯を食いしばる表情は、苦しそうな息遣いが今にも聞こえてきそうだ。
『この謎の龍についてですが、アミューズメントパークが行なった宣伝のホログラム映像であるとか、個人の悪戯によるものという見方が有力です。一方、一部の宗教専門家の話によれば、この地には古来より龍神の伝説があるとのことでして。その伝説によると昔、人間を殺戮していた巨大な怨霊がいて、それを封じ込めたのが龍神だそうですね。その怨霊が今回の巨人だったのではないか、という声もあります』
『さすがに、龍が実在するとは思えない、と言いたいところですが。なにせ、このタイミングです。甚大な被害を巻き起こした巨人について、科学的な説明ができていない以上、龍も本当にいるかもしれませんね。あるいは、この龍こそが巨人を動かした犯人なのかも。っと、これは少々行き過ぎた妄想ではありますが』
『いやいや、科学が発達した現代に、龍なんているはずがないじゃないですか。もし、いたとしても、何の役にも立たなかったということでしょう? そんな眉唾ものを信じるだけ無駄ですよ』
テレビ局のスタジオでは、司会者とコメンテーターが好き勝手な意見を言い合っている。龍の存在を信じる者も、認めようとしない者も、判断材料に乏しい現状では論ずるのが難しいようだ。
話題そらしのネタを見つけた真之は、テレビ画面を指差しながら紺に尋ねる。
「紺さん、この龍って本当にいるんですか」
紺は洗濯物のズボンを膝の上に置いて、深く頷く。
「うむ。実在するぞい。いや、実在しておった、とするのが正確な表現かの」
「え、それってどういう……」
「死んだんじゃよ。先月の怨霊の騒ぎで、この地を守るためにのう」
紺は、美しい声を哀しそうに沈ませた。「その話をするためには、少し説明が必要じゃな」と前置きする。
「生物の魂は、霊気と呼ばれる力の塊によって構成されておる。ワシら妖怪の場合は妖気と呼ぶが、まあ基本的には同じじゃ。霊気は、車でいうガソリンのように大事なものでの。存在を保つために使用するエネルギーと考えて良い。霊気が枯渇すれば魂は消滅し、肉体も死んでしまう。その力は地球の大地全体にも張り巡らされており、目に見えない莫大な霊気の流れを霊脈と呼ぶんじゃ。その霊脈には、山々などに重要なポイントが存在しておってな、特に霊気が集まっておる場所がある。それを霊穴という」
「霊脈と霊穴……ですか」
「この辺りの地域の霊脈を制御しておったのが、今の映像にあった龍神という名の神じゃ。あやつは一〇〇〇年前、霊脈の中にあの怨霊を封じ込めた。それ以来、ずっと監視し続けたが先月、何者かによって封印が破られてな。蘇った怨霊を再度封印するために、力の全てを使い尽くしたんじゃよ。ワシは、時間稼ぎをするために怨霊を相手取り、そこでお主と出会った」
紺の話に親しげな色が見え隠れしたので、真之は控えめに疑問を差し込んだ。
「もしかして、あの龍って紺さんと知り合いだったんですか」
「うむ。腐れ縁じゃ。あやつには借りが山のようにあった。今となっては、それを返すこともできんがな」
紺はベランダの窓を眺めながら、鋭い双眸を寂しげに細める。一〇〇〇年以上を生きるという紺が「腐れ縁」と表現するのだから、一〇年や二〇年の関係ではあるまい。
それを見た真之は、死者を軽々しく話の材料として使ったことを、今更ながら後悔した。他人の心に土足で上がり込んだ罪悪感が胸に染み渡り、奥歯を噛み締めながら立ち尽くす。
養子の内心を見抜いた様子の紺が、薄く微笑み頭を振る。
「お主が気に病む必要はない。あやつの判断であり、ワシもそれを尊重した。あやつにも守るべき家族がいたからのう」
家族。それは自分の命を投げ売ってでも、守りたいと思える存在なのだろうか。真之には理解できない。ただ、少し羨ましくはあった。
と。テーブルの上に置かれた紺の携帯電話が着信音を奏でた。
「む? 誰からじゃろうか」
紺は折りたたみ式の携帯電話を開き、電話に出る。
「もしもし……ああ、真之の担任の先生かや。息子が世話になって……」
担任教師がわざわざ電話をかけてきたということは、転入初日の真之の様子についての話だろうか。
真之は、代わりに洗濯物を丁寧な手つきで畳みながら、紺の横顔を盗み見る。彼女の満面の笑みが、次第に曇っていく。何かまずいことをしでかしただろうか、と真之が不安になりかけたところで、大事なことを思い出した。
(まさか、この背中についての話!?)
クラスメイトの誰かが、担任教師に報告したのだろうか。もし、そうだとすれば、まずいことになる。最悪の未来を察知した真之は洗濯物をその場に置いて、そそくさとリビングから立ち去ろうとした。ところが、リビングのドアノブをいくら捻っても、ドアが開いてくれない。
後ろを振り返ると、紺が厳しい眼差しを送ってくると共に、電話を持っていない方の手を掲げているのが見えた。どうやら、彼女が妖力でドアを閉めているらしい。
やがて、紺が通話を切り、携帯電話をテーブルに置いた。
「真之」
彼女の声は、悲しげにさえ聞こえるほどに、重い。
「こちらに座るがよい」
「……はい」
逃げ場はどこにもない。観念した真之は、紺の傍らの床に正座する。紺が彼の後ろに回り、着ているトレーナーをめくり上げた。
「これは……っ」
醜い背中を通して聞こえる紺の声は、沈痛な響きをもたらした。けっして責めてはいなかったが、真之はただ叱られるよりも心に突き刺さる痛みに襲われる。背中を埋め尽くす傷痕は、見る者に生理的な嫌悪感をもたらす代物なのだ。
「入院中、看護師の連中が同情の視線をお主に向けていたのは、これが原因の一つじゃったか」
「あの、紺さん。これは」
「誰がやったのじゃ」
真之は必死に言い訳しようとするが、紺の迫力に押されて口ごもる。
「お主が、自分でこんな傷を作れるはずがあるまい。どこの誰にやられた? いや、お主の親戚達が犯人か」
「……はい」
観念した真之は、頷いたまま項垂れる。紺の目を見るのが怖くてたまらなかった。
「なぜこうなるまでに、他の大人達に相談せんかったのじゃ」
「もし捨てられたら、他に行く場所がありません。僕は、大人に恵んでもらうおかげで、生きているだけですから」
真之はそう言い、自嘲を込めて唇の端を引きつらせた。紺に見られてしまったことで、ヤケクソ気味になった部分もある。
誰かのおこぼれをもらうことで生き長らえる。そんな浅ましく、下賤な生き物が自分だと彼は考えていた。親戚中の誰もが彼を毛嫌いし、石を投げる。それらの痛みを甘んじて受けなければ、生きていけない。
そんな意地汚い態度が気に食わなかったのだろう。親戚達の暴力は日増しに激しくなっていった。
「最初のころは、『僕の目つきが卑しいから』って顔を殴られていたんです。けど、そのうちにエスカレートして、ナイフで傷をつけられたり、ライターの火を当てられたりしました。次に僕を引き取ってくれたオジさんは、『この背中が汚いから』ってナイフで傷痕の皮を剥いで。次は――」
「それ以上はもう良いっ!」
真之の生々しい説明を、紺は嘆きにも似た大声で遮った。めくれたトレーナーをそっと元に戻しながら、真之の肩をそっと抱きしめる。
「すまぬ、辛いことを思い出させてしもうた」
「……いいえ、平気です」
「子どもにこのような仕打ちを与えるなどと、人間はこうも愚かなものか」
紺は口調に強い憎悪感を含んだ。それから、潤いを帯びた双眸と共に詫びる。
「ワシの妖力では、治癒力を一時的に活性化させることはできるが、傷痕そのものを消すことはできん。すまんが、ワシは何もしてやれん」
そこへ、今度は玄関のチャイムが二人の間に割り込んできた。
紺は無視しようとしたが、来客は何度も無遠慮に鳴らしてくる。彼女は仕方なくといった様子で立ち上がり、壁に立てかけられた受話器を手に取った。
「もしもし、どなたじゃ……お主らか」
接客用の一オクターブ高かった紺の声は、来客の正体を知るとすぐに日本刀じみた鋭い殺気が込められた。相手はかなりの招かれざる客であるらしい。
受話器を元に戻した彼女は、真之に静かな口調で命じる。
「真之よ。お主は部屋に戻っておれ。けっして出てきてはならんぞ」
「お客さんは誰なんですか」
真之が恐る恐る問うと、紺は受話器から腐敗臭を嗅いだように顔を歪める。
「噂をすれば何とやら、というやつか。お主の親戚達じゃよ」
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