第06話 居場所

 新たな自宅となったマンションへと戻った真之は、リビングで時間を潰すことにした。その間に隣のキッチンでは、スーツの上着を脱いだ白いブラウス姿の紺が、包丁やフライパン、鍋を振るっている。手伝いを申し出てもやんわりと断られたので、仕方なくテレビのリモコンを操作した。自由にテレビを見ること自体ほとんど経験したことがなく、どういう番組が放送されているのかも分からない。適当に夕方のニュース番組を流すことにした。


「おーい、できたぞい」


 一時間ほど経過したところで、紺からお呼びがかかった。キッチンのテーブルに並べられた皿の数々には、大根の煮付けやアジのフライ、ポテトサラダなどがそれぞれ盛り付けられている。


(凄い、どれも美味しそうだ)


 真之は空きっ腹に食欲を刺激され、思わず唾を飲みそうだ。紺に従い、木製の椅子に腰掛けた。テーブルを挟んだ正面の席には、紺が座る。


「では、いただきます」

「いただきます」


 手を合わせた後、まず碗を持って味噌汁をすする。温かくコクのある赤味噌。美味しいという以上に、何だか安心する味だった。


「口に合わないものがあったら、遠慮なく言うのじゃぞ。出来る限り改良していくからの。あ、もちろん、ただの食べ物の好き嫌いは許さんがな」

「いえ、美味しいです」

「そうか、それは良かった」


 真之の返事を聞いた紺は、艶たっぷりの唇を優しい形に笑みを作る。どこかほっとしたようにも見えた。誰かと夕食を共にすることが、疲れた心をほぐす。真之だけでなく、一人暮らしをしていた紺も同じ気持ちだったのかもしれない。


 しばらくして夕食を終えた真之は、紺に入浴を勧められた。さすがに家主よりも先に入るわけにはいかない、と彼は断ったのだが、強引に押し切られてしまった。仕方なく、買ったばかりの寝間着と下着を持って、脱衣所へと向かう。


「入ってこない、よね?」


 キッチンで後片付けをしている紺を警戒しつつ、恐る恐る服を脱ぐ。裸を見られるのは恥ずかしい以上に、『怖い』ことだった。もしそうなれば、今後の同居生活にも支障が起きかねない。


 幸い、入浴中に紺が顔を見せに来ることはなかった。やや熱めの湯に浸かり、冷えて固まった筋肉を和らげていく。しっかり温まった後、湯船から脱衣所へと移動する。バスタオルで身体を拭いていると、リビングの方から何やら話し声が漏れ聞こえてきた。


「……結衣と大和は……」

「…………霊脈の鍵の制御は……」

「しかし……龍神はもう……」


 電話をしているのだろうか。紺の声以外には聞こえてこなかった。

 大人の話の邪魔をするわけにもいかない、寝間着に着替えた真之は、足音を殺しながら廊下を通り、自室へと向かおうとする。

 その気配を気づかれたのか、リビングのドアが開かれた。


「おお、真之っ!」


 コスモス色の着物を着た紺が、顔に喜色満面の笑みを浮かべて現れる。真之は身構える隙も与えられず、彼女に思い切り抱きしめられた。


「会いたかったぞっ。ああ、この日をずっと待ち焦がれておった!」

「え、ちょ、紺さん、苦し……」


 紺は何やら興奮した様子で、真之の声が耳に入っていないらしい。はだけた胸元に彼の顔を埋めさせ、柔らかな温もりで圧迫させる。

 そのまま真之が窒息しそうになったところで、助け舟が出された。


「これ、そこまでにせんか。真之が困っておるではないか」


 もう一人の人物が紺と真之を両手で引き剥がす。紺は悪びれもせず、大きく笑った。


「すまぬすまぬ、真之。なにせ、半月ぶりに顔を見たものでな。つい興奮してしもうたわい。カッカッカ」


 半月ぶり? 真之は呼吸を落ち着けながら、顔を上げる。

 そこにいたのは、


「紺さんが、二人……?」


 まるで、鏡から出てきたかのように瓜二つの顔をした紺が、二人並んでいる。着物姿の方は、真之を抱きしめた張本人だ。隣に立つブラウス姿の紺は、こめかみを指で押さえながら、着物姿の紺を片手で制していた。


「うむ。こやつは、ワシの妖気で作った分身じゃ。半月前から用事で出かけさせておってな。その途中報告を聞くのと、消費した妖力の補充のために、こうして呼び寄せたんじゃよ」

「本体のワシよ、ずるいぞ。真之を独り占めしておったのじゃろ」

「ふん、本体の特権じゃ。当然じゃろ」


 子どもっぽく拳を二つ作って悔しがる分身の紺に対し、本体の紺が得意げに豊かな胸を張る。どうやら、分身といっても本体と意識と記憶を共有しているわけではなく、独自に思考し行動しているらしい。

 そこで、分身の紺が何やら思いついたようで、エメラルド色の瞳を輝かせる。


「そうじゃ、真之よ。今晩は添い寝をしてやろう」

「え、それはさすがに」

「なあなあ、いいじゃろ。頼むー」


 分身の紺は狐の耳と大きな尾を出し、真之の肩を揺らしてせがんでくる。グイグイと甘えるように押してくるのは、分身だからなのか、それともこちらが紺の地なのか。いずれにせよ、妙齢の美女に懇願されると、男という生き物は断りづらい。

 真之が根負けして頷きそうになったところで、本体の紺が強めの語気で分身を叱る。


「いい加減にせんか。真之も疲れておるんじゃぞ。それに、ワシだってもっとイちゃつきたいのを我慢しとるんじゃ! せっかく、『落ち着いた優しい母』を頑張って演じておるというのに、分身のお主に先を越されるわけにはいかん」


(あ、頑張って演じてたんだ……)


 ポロリと漏らした紺の本音に対し、真之は曖昧な表情を浮かべるしかない。


「ぬう……仕方ないのう」


 分身の紺は不満げに唇を尖らせる。本体の紺に尾を引っ張られ、リビングへと連行されていった。


 残された真之は自室に入り、低反発製のベッドに寝転がる。今日買った服や勉強道具などの入った紙袋の束が床に並んでいるが、今はそれらに手をつける気になれない。


「ふう」


 ぼうっと天井を見上げ、今日一日のことを思い返す。

 慣れない新生活に戸惑い、気疲れはした。しかし、けっして嫌ではない。

 親戚の家にいたころは、あれこれと世話を焼かれたことがなかった。煙たがられ、蔑視されるのをただ耐えていた。

 大人に優しくされることに慣れていない真之は、紺の思考が読めない。

 少なくとも、今は嫌われているわけではなさそうだ。それもいつまで続くか。紺に愛想を尽かされる日が来れば、いらなくなったペットのように捨てられるだろう。それを想像するだけで、たまらなく怖かった。


 確かな居場所がほしい。

 それが、大人達から忌み嫌われてきた少年の望みだった。

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